2017年9月26日火曜日

国家元首になる日のために読んでおこう/武田 知弘 『ワケありな国境』【読書感想】


武田 知弘 『ワケありな国境』

内容(e-honより)
西アフリカにある国境空白地帯とは…?中国がチベットを手放さない本当の理由とは…?世界の奇妙な国境線、その秘密を解き明かす。

コンビニに置いてあるうさんくさいムックみたいなタイトルだったので期待せずに読んだのだが、意外と内容は教科書的でまともだった。
「タックスヘイブン(租税回避地)はなぜ旧イギリス領が多いのか」みたいな国境関係ない話も多かったけど。


日本人として生きていると、国境を意識することはほとんどない。
川端 康成 『雪国』の書き出しは
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
だけど、この「国境」は「こっきょう」ではない。日本に鉄道で越えられる国境(こっきょう)はないからね。
これは「こっきょう」ではなく「くにざかい」。越後国(今の新潟県)と上野国(今の群馬県)の境だと言われている。



国境を意識することはないが、いろんな「境」は気になる。
小学校のとき、隣の席のやつの筆箱が1センチ自分の机にはみだしてくるだけでものすごく気になった。
新幹線に乗ると、席と席の間にある肘かけはどちらの領土なのかが気になる。
電車で7人がけの座席の「端から2番目あたり」と「端から3番目あたり」にまたがるように座っているやつに対しては「どっちかに寄れよ」と思う。

かように、ちょっとした境でも侵害されると過敏に反応してしまう。
いわんや国境をや。
世界の国境ではいたるところで争いがくりひろげられている。争いのない国境のほうがめずらしい。
ふだんニュースを見ていると「〇〇国はここは自分のとこの領土と主張していて強欲だなあ」と思うけど、どの国も等しく強欲だよねえ。主張できるだけの力を持っているかどうかだけで、みんな隙あらば言いたいはず。ぼくだってできることなら満員電車で7人掛けの座席を独占したい。



不法移民向けガイドブック

国境で起こるトラブルは国境線をめぐる争いだけではない。
メキシコでは、アメリカへ不法入国する途中で死ぬ人が多いためメキシコ政府が異例の対策をとったそうだ。

 警備が厳重になれば、それをかいくぐらなければならないので、不法移民たちは必然的に危険な道を選ばざるを得なくなる。砂漠で道に迷う者、トラックや船のコンテナの中で窒息死する者、さらには極寒の海中で溺死する者など大勢の犠牲者が出ている。
 メキシコ政府は、そうした国境越えの死亡者を減らすために、「安全にアメリカに入国するため」のガイドブックを発行し、国境付近などで150万部も配った。
 32ページの小冊子で、そのなかでは国境越えのコツやアメリカで勾留されたときの法的権利などが詳しく説明されている。

政府制作のガイドブックってメキシコ総領事館の連絡先とかホテルの住所みたいな『地球の歩き方 アメリカ不法入国編』的なことが書いてあるのかと思ったら、そうじゃないんやね。
「砂漠地帯では水を飲むと脱水症状を防げる」なんて『マスターキートン』みたい。政府が配布する冊子の内容とは思えない。

なんて優しい国なんだ。優しいというか甘っちょろいというか。
亡命するために逃げようとする国民を殺す国とは大違いだけど、どっちのほうが政府として正しいのかよくわからんなあ。



南極の領有権

中学校の社会の授業で「南極はどこの国の領土でもありません」と教わった。
そうか、この争いの絶えない世の中で南極だけは平和であふれている場所なんだね、と思ってた。

ところが、どうもそうではないらしい。
イギリス、アルゼンチン、チリ、ニュージーランド、オーストラリア、ノルウェー、フランスの7国が南極の領有権を主張しているのだそうだ。アルゼンチンとかオーストラリアとかは南極に接しているからまだわかるけど、イギリスやノルウェーなんて北の端じゃねえか(イギリスやフランスは植民地が近くにあるのかな?)。
分割して自分たちのものにしようとしている7か国。そうはさせじとアメリカやソ連などは南極の軍事利用の禁止などをうたった南極条約を結んだ。
ところが、チリが実効支配を主張するために南極での出産を奨励したり、アルゼンチンが南極に小学校をつくったり、イギリスが南極周辺の海底を自国の大陸棚として国連に届け出たり、領有権争いは収まる様子がない。
南極もまた、利権をめぐって各国がしのぎを削っている場所なのだ。

今は宇宙条約があって宇宙空間の領有が禁止されているけど、この調子だと、月から貴重な資源が見つかった途端に各国が「月はうちの領地だ!」と主張しだすんだろうね。




シーランド公国

いちばんおもしろかったのはシーランド公国の話。
シーランド公国という国家をご存じだろうか。
イギリスが第二次大戦中に築いた海上要塞を、ロイ・ベーツという元軍人が勝手に領土として主張してできた要塞国家だそうだ。

人口は4人(ロイ・ベーツの家族)。
面積は200平方メートルというから、14メートル四方ぐらいの広さ。坪数にすると60坪ぐらい。ちょっと大きい一軒家ぐらいの領土だ。

シーランド公国を独立国として認めている国はひとつもない。
だが、イギリス政府がロイ・ベーツを訴えたものの裁判所が訴えを退けたという経緯があるため、イギリス政府は手出しをできない(というよりどうでもいいから放置している、のほうが近いかもしれない)。
というわけで他国から認められていないが、領土を奪われたりする心配もないというなんとも宙ぶらりんな状態になっている。それがシーランド公国。

 シーランド公国では、財務大臣としてドイツ人投資家を雇っていたが、1978年、商談のもつれからその財相がクーデーターを起こしロイ・ベーツの息子である、シーランド公国の王子を誘拐。政権譲渡を要求するクーデーターが起こった。ロイ・ベーツは、イギリスで傭兵を雇い、ヘリで急襲。たちまち鎮圧し財相を国外追放した。
 その後、そのドイツ人投資家はシーランド公国亡命政府を樹立。いまでも公国の正当権を争っている。

なんだこれ。めちゃくちゃおもしろいじゃないか。
これが200平方メートルの中で起こっている出来事だからね。

このシーランド公国、爵位を売ったり外国人にパスポートを発行したりして財政を立てているが、2012年に大公が死去して現在は息子が継いでいるらしい。


わくわくするような話だね。
星新一のショート・ショートに『マイ国家』という作品がある。ある男が突然自分の家を日本から独立させると主張しだす話だ。
また井上ひさしの小説『吉里吉里人』でも、東北地方の寒村が日本からの独立を宣言する。
しかし事実は小説よりも奇なりで、まさか実行に移す人物がいて、しかもその国内で誘拐事件やらクーデターやら亡命政府誕生やらが起こるとは、星新一も井上ひさしも想像しなかっただろう。

ちなみにこのシーランド公国、約150億円で売りに出されているらしいので、国家元首になってみたい大金持ちの方は購入を検討されてみては?



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2017年9月25日月曜日

「品がいい」スパイ小説/柳 広司『ダブル・ジョーカー』【読書感想】

『ダブル・ジョーカー』

柳 広司

内容(e-honより)
結城中佐率いる異能のスパイ組織“D機関”の暗躍の陰で、もう一つの諜報組織“風機関”が設立された。その戒律は「躊躇なく殺せ。潔く死ね」。D機関の追い落としを謀る風機関に対し、結城中佐が放った驚愕の一手とは?表題作「ダブル・ジョーカー」ほか、“魔術師”のコードネームで伝説となったスパイ時代の結城を描く「柩」など5篇に加え、単行本未収録作「眠る男」を特別収録。超話題「ジョーカー・ゲーム」シリーズ第2弾。

『ジョーカー・ゲーム』に続く"D機関"シリーズ2作目。

シリーズものの小説ってたいてい「だんだん質が落ちてくる」か「同じようなパターンで飽きてくる」のどっちかなんだよね。
夢枕獏『陰陽師』シリーズなんか、はじめはおもしろかったけど毎度毎度同じパターンだったのでげんなりした。

ところがこの"D機関"シリーズは、どの短篇も高いレベルで安定しているし、さらにすべてが個性的で飽きさせない。
10篇ほど読んだが、「またこのパターンか」と思う作品はひとつとしてなかった。

安定感はともすれば退屈につながりがちなのに、安定と変化の両方を維持できているのはすごいよね。


飽きさせない工夫のひとつは、作品ごとに登場人物が変わること。
"魔王"こと結城中佐以外は、全員が非凡な能力を持ちながらまったくの無個性(であろうとしている)。スパイは目立っちゃいけないからね。
個性がないから飽きない。スパイとして生きるために名前も経歴もころころ変わるから、シリーズものでありながらまったくべつの小説になる。

視点や舞台が作品ごとに異なるのも楽しい。
『ダブル・ジョーカー』に収録された作品の主人公はそれぞれ、

  • 日本陸軍内に設置された諜報組織のボス
  • 中国でソ連のスパイをつとめる陸軍軍医
  • フランス領インドシナに勤務する無線通信士
  • かつて日本人に逃げられた逃げられた経験を持つナチスドイツのスパイ組織幹部
  • 開戦前夜のアメリカに潜入している一流スパイ

D機関に対する立場も違うし、目的も違う。
はじめは誰が"D機関"のスパイかわからないから、誰がスパイなのか? と推理するミステリの味わいも楽しめる。

ほんと、スパイ養成機関という装置がうまく機能している。
柳広司はいい発明をしたよなあ。


ほどよい含蓄があり、スリルと驚きがあり、最後は鮮やかな着地が決まる。
エンタテインメント小説として完璧といっていいぐらいの作品集だよね。
一言でいうなら……「品がいい小説」。

全方位的に完成度が高くて逆になんか物足りないと少しだけ感じてしまう……のは欲張りすぎかな。



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2017年9月23日土曜日

汚くておもしろいスポーツ


少し前にTwitterに書いた投稿。

Twitterでは文字数制限があって不正確になってしまった点もあるので、補足。

まず「スポーツ」とひとくくりにしてしまったけど、スポーツにもいろいろある。
たとえば剣道なんかは、いくら相手に鮮やかに打ち込んだとしても「打ち込んだ後に気を抜かずに相手を意識していないと一本にならない」「相手への敬意を欠いていると一本にならない」といった決まりがある。
これはスポーツのルールとしてはすごくあいまいだ。「気を抜いていたかどうか」なんて他人が判断できることではない。
しかしこういうあいまいなルールは、あいまいであるがゆえにどんなシチュエーションにも対応できる。

法律に詳しくない人は「法律って杓子定規で人間味がないんでしょ」なんてイメージを持っていることが多いが、じっさいは逆だ。
法律というのは最低限のことだけ決めておいて、あとはあいまいなまま残しておく。懲罰ひとつとっても「無期または3年以上の懲役」「1000万円以下の罰金」などかなりざっくりとしか決められていない。「1000万円以下の罰金」の刑で罰金1万円、ということだってありうる。
1人殺したら15年、2人殺したら無期、3人で死刑みたいな刑罰表があるわけではない。判例はあるけれど、最終的には裁判官のさじ加減で刑は決まる。

不公平なようにも思えるが、おかげで「長年の介護生活の末にこれ以上息子を苦しめまいよう自分を殺してくれと頼んだ老母を泣きながら手にかけたケース」と快楽殺人の刑罰に差をつけることができる。
社会や倫理観は変化するが、ルールがあいまいであれば「とりあえず今の時点ではベスト」な判断ができる。



しかし野球のルールはそうではない。
野球のルールブックを見たことがあるだろうか?
数百ページあり、シチュエーションごとの詳細な規則が記されている。
ルールの数は数千ともいわれている。もしかするとプロ野球において一度も適用されたことのないルールもあるかもしれない。
だが野球のルールは細かすぎるがゆえにすべての局面に対応することができない。

たとえば1992年の高校野球選手権大会で、明徳義塾高校が強打者だった星稜高校の松井秀喜を5打席連続敬遠したことが話題になった。
社会現象にもなるぐらい賛否両論を巻き起こし、そのほとんどが否定的な意見だったが、野球のルールでは5打席連続敬遠を罰することはできなかった(今もできない)。数百ページにわたるルールブックのどこにも「敬遠四球は4打席連続まで」なんて書かれていないからだ。仮に書いたとしても、ピッチャーが「この四球はわざとじゃない」と主張すれば規定には引っかからないからザル法となる。
だから今後同じ作戦を弄するチームが現れたとしても、少なくともルール上はそれを罰することはできない。

剣道方式なら話はかんたんだ。
「相手への敬意を欠いたプレーをおこなったチームは負けとする」の1行で済む。
審判の判断で、明らかにコントロールの悪いピッチャーなら5打席連続四球を与えても見逃すし、状況的に敬遠と判断されても仕方のないケースであれば3打席連続であっても負けになる。

前代未聞のプレーが起こったとしても、審判の内なる「相手への敬意を欠いたプレーかどうか」の基準に照らし合わせればすべて判断可能だ。



あいまいなルールは、プレイヤーからするとすごくやりにくい。
どこまでがセーフでどこからがアウトかわからないのだから。
だからこそ厳密にルールを守る。「ここまではぜったいに大丈夫」と自信を持って言える範囲を超えることはない。
「これは規定がないけどフェアじゃないかもしれないな」という作戦は実行しにくいし、仮に試してみて見逃されとしても次の試合の審判が見逃してくれるとはかぎらない。実力者であるほどアンフェアなプレーを試せない。

野球のような事例を列挙していくパターンだと、安心してギリギリを攻められる。「ルールに書かれていない」=「やってもいい」のだから。
わざとデッドボールを当ててもランナーを1人許すだけ。危険なタックルして相手の野手を怪我させても守備妨害でアウトが1つとられるだけ。チームが即負けになることはない。
卑怯と罵られるかもしれないが、少なくともグラウンド上ではたいした罰は受けない。
基本的に「反則スレスレの行為をしたほうが得をする」構造になっているのだ。



……と、まるでぼくが野球を憎んでいるかのようなネガティブなことを書いてしまったが、そんなことはない。毎年甲子園に高校野球を観にいくぐらい野球は好きだ。
相手をだますプレー(隠し球、スクイズ、1塁走者が気を惹いている隙に3塁走者が本塁を陥れる重盗、ランナーを誘いだす牽制……)があるからこそ野球はおもしろいと思っている(逆に剣道を観戦したことはない)。

野球以外でも、人気のあるスポーツは反則すれすれの汚い手が横行しているのがふつうだ。
相手を怪我させかねない危険なスライディング、審判の見えないところでおこなわれる暴力を伴う激しいポジション取り、敵が反則をしたことを印象付けるための大げさなアピール。状況によってはわざと反則をしたほうが有利になることもある。
そうした駆け引きがあるからこそ観客は熱狂する。
だから反則すれすれのプレーをやめろという気はないし、これからもどんどんやってほしい。
犯罪や騙しあいを描いた小説や映画がおもしろいのと同じだ。

ただ、さんざん汚い手を使う競技をやらせておきながら「スポーツは若者の心身の健全な育成に役立つ」とかしゃあしゃあとのたまうのは気に食わない。

「世の中は汚いことだらけだから、その予行演習として汚い振る舞いかたを覚えさせるためにスポーツは役立つよ」と言うのならわかるけどさ。

2017年9月22日金曜日

読み返したくないぐらいイヤな小説(褒め言葉)/沼田 まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』【読書感想】

『彼女がその名を知らない鳥たち』

沼田 まほかる

内容(e-honより)
八年前に別れた黒崎を忘れられない十和子は、淋しさから十五歳上の男・陣治と暮らし始める。下品で、貧相で、地位もお金もない陣治。彼を激しく嫌悪しながらも離れられない十和子。そんな二人の暮らしを刑事の訪問が脅かす。「黒崎が行方不明だ」と知らされた十和子は、陣治が黒崎を殺したのではないかと疑い始めるが…。衝撃の長編ミステリ。

イヤな気持ちになる小説だった。
精神的に安定しているときに読まないと死にたくなるような小説だ。
個人的にはイヤな気持ちになる小説は好きだから楽しめたけど。

 玄関のドアを開くと、十和子の脱いだスリッパの横に、幅広の偏平足に踏みひろげられた薄茶色のスリッパが並んでいるのが目に飛び込んでくる。それはスリッパというより陣治の足そのもののようにそこにある。水虫でめくれた足の皮を、胡坐をかいてちびちび向いている姿が頭をよぎる。靴を脱ぎ、自分のスリッパをつっかけた足先で、薄汚れたスリッパを壁際に蹴り飛ばす。

 ドアが開く前から真っ先に聞こえるのは陣治の咳だ。誰のものでもない陣治の咳。しないでもすませられるのに、咳き込んでみては悦に入っているような、高らかな、それでいてからんだ痰のせいで濁った咳。続いてカッとその痰を吐く音。お定まりのワンセット。

こういう不愉快な描写がひたすら続く。読者をイヤな気持ちにさせる描写がうまいねえ。

何がイヤって、事件が起こらないんだよね。
ただイヤな女がイヤな男とイヤな感情をぶつけあいながら暮らしていて、イヤな男に利用されて捨てられたことを回想し、イヤな姉からイヤな説教をされて、新たにイヤな男と出会って騙されながら不倫をする様が延々と描写されている。
事件らしきものといえば、「昔の恋人が行方不明になったらしい」という話を耳にするだけ。
いつまでも打破される兆しのない不快感。長雨のような陰鬱な気分になってくる。


『彼女がその名を知らない鳥たち』の登場人物はすべてがクズだ。

とはいえ「後でややこしくなるとわかっててもその場しのぎの適当なことを言う」とか「自分ができていないことでも年下の人には偉そうに言いたい」なんてのはぼくの中にもある気質だから、「こいつらほんとサイテーだな」という言葉がふっと気づくと自分にも返ってきてしまい、自分の吐いた唾で顔を濡らすことになる。
自分にもあるイヤな部分を目にして、さらにイヤな気持ちになる。

話の9割が進んだあたりから急速に過去の謎が明らかになり、多少救いのあるエンディングが用意されているのだが、「よかったね」1割、「それはそれできつい真実だな」9割で、最後までイヤな気持ちにさせてくれる。



”イヤミス” と呼ばれるジャンルがある。イヤな気持ちになるミステリ、読後感の悪いミステリだ。

まあミステリ小説には犯罪がつきものだから(中には犯罪が起こらない「日常の謎」系ミステリもあるけど)、罪のない人が殺されたり、性悪でない人がなんらかの事情で殺人を起こさざるを得なかったりと、ある程度は後味がよくないのがふつうだ。スカッとさわやか! な読後感のミステリ小説のほうがむしろめずらしい。
その中でも特に嫌な気持ちになるミステリ。たいてい、謎解き以外の部分でイヤな気持ちにさせる。登場人物の造形とか。

湊かなえ・真梨幸子・沼田まほかるの3人が「イヤミスの女王」と呼ばれているらしい。

ぼくは湊かなえに関しては『告白』含めて3冊ほど読んだけどそこまで不愉快には思わなかった。これぐらいは不快な描写も書いたほうがミステリとして説得力があるよね、という許容範囲内だった。

真梨幸子は『殺人鬼フジコの衝動』『インタビュー・イン・セル 殺人鬼フジコの真実』を読んだけど、これはすごくイヤな気持ちになった。
とはいえ人間描写が嫌だっただけで、シンプルにミステリ小説として見るならむしろ出来は良くなかった。
ミステリ小説にこだわらずにただイヤな女のイヤな一生を描けばいいのに。桐野夏生『グロテスク』のように。
『グロテスク』も殺人事件を扱っているけど、事件はあくまで悪意を描くための手段でしかなかった。ひたすら悪意を描くことに軸足が置かれていて、あれはとことん不愉快な小説だったなあ(褒め言葉ね)。

沼田まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』に関しては、息苦しくなるような不快感があるし、かつその不快さもミステリ小説として必然性がある(××が徹底的に不愉快な人間として描かれているからこそ、真相が明らかになったときにそのギャップで「すげー愛情!」と思える)。

イヤさとミステリの両方が必然性を持っていて、これぞイヤミス! と思える小説だった。

某所のレビューで「真相が明らかになった後もう一度読み返しました!」ってなことが書かれていたけど、ぼくはもう読み返したくない! それぐらいイヤなミステリだった。



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2017年9月21日木曜日

ニュートンやダーウィンと並べてもいい人/『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』【読書感想】



『奇跡のリンゴ
「絶対不可能」を覆した農家
木村秋則の記録』

石川拓治 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班

内容(e-honより)
リンゴ栽培には農薬が不可欠。誰もが信じて疑わないその「真実」に挑んだ男がいた。農家、木村秋則。「死ぬくらいなら、バカになればいい」そう言って、醤油、牛乳、酢など、農薬に代わる「何か」を探して手を尽くす。やがて収入はなくなり、どん底生活に突入。壮絶な孤独と絶望を乗り越え、ようやく木村が辿り着いたもうひとつの「真実」とは。

2013年に刊行され、農業について書かれた本としては異例の数十万部のヒットを飛ばした『奇跡のリンゴ』。
今さら読んでみたのだが、これはすごい本だ。いや、この木村秋則さんというのはすごい人だ。
科学の歴史を変えたニュートン、ダーウィン、アインシュタインといった人たちと並べても遜色ないぐらいじゃないだろうか?

農薬を使わずにリンゴを育てる。
農業の知識がまったくないぼくにしたら「ふーん、たいへんなんだろうね。でもまあ無農薬野菜なんてのもあるから、効率はよくないけど手間ひまかければできるもんなんでしょ?」ぐらいの認識だった。

ところがそうかんたんな話ではないらしい。
今われわれが食べているリンゴというのは、ひたすら甘く大きい実ができることだけを追求して品種改良を重ねた果実だ。肥料や農薬に頼ることを前提に品種改良しているから、虫や病気にはめっぽう弱い。
エデンの園になっていたリンゴとはまったく別の植物といってもいい。そのリンゴを肥料も農薬も使わずに育てるというのは「チワワの赤ちゃんをジャングルの中で放し飼いで育てる」ぐらい無謀なことなのだろう。


木村秋則さんも、当初は「むずかしいけどやってやれないことはないだろう」と考えていたらしい。コメや野菜を無農薬で作って経験があったから、リンゴも同じようにできると考えた。
そして酢や焼酎やワサビなど殺菌作用のあるさまざまな食品をリンゴの樹に塗布して病気を防ごうとした。
ところが病気は広がるばかり。リンゴは実をつけないどころか、花も咲かず、葉も樹も枯れていく一方だった。

 木村が経験したことは、すでに一〇〇年前の先人達が経験していたことでもあった。
 はっきり言ってしまえば、焼酎やワサビを散布したくらいで対処出来るなら、誰も苦労はしない。明治二〇年代から約三〇年間にわたって、全国の何千人というリンゴ農家や農業技術者が木村と同じ問題に直面し、同じような工夫を重ね続けていた。何十年という苦労の末に、ようやく辿り着いた解決方法が農薬だったのだ。
 木村はその結論を、たった一人で覆そうとした。
 自分の能力を過信していたのかもしれない。
「地獄への道を駆け足した」という木村の言葉は、誇張でも何でもない。まさしく木村はその時、最悪のシナリオを突き進んでいた。
 日本のリンゴ栽培の歴史を逆回しにして、破滅への道を突き進んでいたのだ。

何年もリンゴの収穫ゼロの年が続き、家族を食わせていくこともできなくなる。打つ手がなくなり、リンゴの樹に向かって「実をならせてくれ」と懇願するぐらい追いつめられる木村さん。
ついには死ぬことも考えた彼が、死に場所を探しているときに目にした光景が、リンゴを無農薬無肥料で栽培するヒントを与えてくれる――。

ちょっとこのへんは話ができすぎなので、木村さんか筆者が話を盛っているんじゃないかなあ。野暮なこと言うけど。

できすぎと思うぐらい、ノンフィクションなのにストーリーも起伏に富んでいておもしろい。ときおり挟まれる挿話(宇宙人に会った話!)や木村さんの人間的魅力の描写などで飽きさせず、エンタテインメントとしても一級品だ。木村さんの並々ならぬ苦労がようやく実を結ぶ(リンゴだけに)シーンは、報われてほんとに良かったなあと胸が熱くなった。

それにしても木村さんの家族はよく耐えたよね。妻や子どももそうだけど、なによりリンゴ農家だった義父(妻の父)がすごい。無収入になっても無農薬栽培を追い求める婿につきあってくれるなんて。いいお義父さんだったんだなあ。
しかしこれ、結果的に成功したから「みんなで支えてくれていい家族だなあ」と思えるけど、なんの根拠もなく「無農薬でリンゴを育てる!」と突き進む木村さんを止めようとしなかったのは、はたして優しさだったんだろうかと思う。
常識的に考えれば止めるほうが優しさだろう。まあその常識を無視したからこそ「奇跡のリンゴ」が生まれたわけだけど。



農家だったぼくのおじいちゃんは、機械や科学に対して全幅の信頼を置いていた。「これは新しい機械だからいい」「あの病院は薬をいっぱい出してくれるから信用できる」とよく口にしていた。
以前『現代農業』という雑誌を単純な興味から読んでみたことがあったが、やはり機械や化学肥料の話が多かった。
現代農業と科学は切っても切り離せないのだ。

科学に対するカウンターとして「自然に還ろう」なんてのんきなことを言えるのはスーパーに並んでいる食べ物を買って食べている人だけだ。常に自然と対峙して生きている人はその恐ろしさを知っているから、「いきすぎた科学文明はいつか人間の身を滅ぼす」なんて悠長なことは言わない。
クマ射殺のニュースを見て「クマがかわいそう」と言えるのは、ぜったいに自分がクマに襲われることがないと思っている人だけなのだ。

だからこそ、農家として常に自然に向き合いながら、それでも自然を屈服させようとせずにリンゴを収穫させた木村さんの業績は偉大だ。
木村さんが発見した「リンゴを無農薬で育てるための理念」は、すごくシンプルなものだ。ぼくの言葉にするとうすっぺらくなりそうだからあえてここには書かないけど。
木村さんの理念は、ぼくのような素人が読んでも「なるほど。言われてみればそのとおりだ」とうなずけるぐらい、理にかなっている。

とはいえ理念がかんたんだからって現実もかんたんかというとそんなことはない。理念を現実のリンゴの木に適用させることは想像もできないぐらいの苦難があるはずで、そのへんの苦労はこの本ではごくわずかしか触れられていないけど、おそらく本何冊分にもなるぐらいの試行錯誤があったのだろう。
世界中のあらゆる品種の農家が教えを乞いにくる、というのもなるほどと思う。


またこの人がすごいのは、無農薬でリンゴをつくって満足するのではなく、それを普及させようとしているところだ。

 木村が本気だなと思うのは、米にしても野菜にしても、無農薬無肥料の栽培で収穫が安定してくると、次は出来るだけ価格を下げるようにとアドバイスしていることだ。
 木村のつくったリンゴも、その美味しさと稀少価値を考えれば今の値段の五倍にしても売れるに決まっているのに、木村はぜったいにそうしようとはしない。出来ることなら日本中の人に、自分のリンゴを食べて貰いたいくらいなのだ。
 少なくとも、誰にでも買える値段でなければいけないと木村は思っている。
 値段が高くても、買ってくれるというお客さんはもちろんいるだろう。
 無農薬無肥料で農作物を栽培するのは手間もかかるし、農薬や肥料を使う農業に比べればどうしても収穫量が少なくなる。出来るだけ高い値段で売りたいというのが、生産者としての当然の気持ちなのもよくわかる。
 けれど、それでは無農薬栽培の作物はいつまで経っても、ある種の贅沢品のままだと木村は言う。無農薬作物が裕福な人のための贅沢品である限り、無農薬無肥料の栽培は特殊な栽培という段階を超えられないのだ。
 現状では難しいとしても、いつかは自分たちのやり方で作った作物を、農薬や肥料を与えて作った農作物と競争出来るくらいの安い価格で出荷出来るようにする。
 それが、木村の夢だ。

そうなんだよね。無農薬野菜とかオーガニック料理のお店とかってたいてい値段が高い。
そうするとよほど余裕のある人以外は日常的に食べることができない。


木村秋則というたった一人の農家の偉業が、世界中の農業の姿を変える日がくるかもしれないな。
わりと本気でそう思う。

農業に関わる人にもそうでない人にも読んでほしい良書。
大げさでなく、世界観が変わるんじゃないかな。ぼくはちょっと視界が開けた気がしたよ。


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