2017年9月5日火曜日

むずかしいものが読みたい!/小林 秀雄・岡 潔 『人間の建設』【読書感想】

『人間の建設』

小林 秀雄・岡 潔

内容(e-honより)
有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才に雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性…主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。

日本最高の天才数学者と呼ばれる数学者の岡潔氏と、日本有数の思想家・批評家である小林秀雄氏による対談(発表は1965年)。
まったく専門分野の異なるトップランナー同士の対談ってわくわくするね。お互い噛み砕いてわかりやすく語ってるんだろうけど、難解すぎてさっぱりわかんねえ。50年以上前の対話だから、ってのもあるんだろうけど。

そうはいっても、今の時代にも通ずる話も多い。
「なるほど、そういうものですか」と素直に拝聴できる。すごい人が語っているという先入観がそうさせるのかもしれない。

 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。
小林 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。たとえば野球の選手がだんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。選手には、勝つことが面白いだろうが、それもまず、野球自体が面白くなっているからでしょう。その意味で、野球選手はたしかにみな学問しているのですよ。ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですな。

ぼくがこの『人間の建設』を手に取ったのも、まさにときどき難しい本を読みたくなるから。本を選んでいるとしばしば、「これはぼくには十分に理解できねえだろうな」と思う本を読みたくなる。
それは己の成長のためとか高尚な動機があるからじゃなくて、シンプルに「むずかしいものが読みたい!」って欲求に応えているだけだ。

言われてみれば、学校って「勉強が嫌いな生徒に勉強をさせる」ためのシステムで動いてるよなあ。進学校はどうだか知らないけど、ぼくが通っていた公立学校はそうだった。
程度の差こそあれみんなそれぞれ「勉強したい」「むずかしいことに挑戦したい」という欲求を持っているはずなのに、それを伸ばすようなやり方はとられていない。
「勉強ってつまんねえだろ。でもやらなきゃいけねえんだよ、やれオラ」ってやり方をやってるから勉強嫌い養成機関になってしまうのだろう。
大勢をいっぺんに教えようと思ったらそういうやり方をとるしかないのだろうか。もう少し「勉強好きな子向け」のやり方に変えられないものだろうか。


ぼくには4歳の娘がいるけど、勉強を「やりなさい」と言わないように気を付けている。数字やカナのドリルを買い与えて「これやってもいいよ」と言うと、娘は嬉々としてドリルをやっている。あっという間に1冊終わらせて、またドリルやりたいと言ってくる。
これが自然な姿なのだろう。わからなかったことがわかるようになる、できなかったことができるようになる。おもしろいに決まっている。
もし「必ずドリルは1日3ページやらなきゃいけません!」ってなノルマを課したら、子どもはすぐに勉強嫌いになるだろう。

ぼく自身、母親からは「この本読んでいいよ」と言われ、父親からは「これおもしろいんじゃない?」と算数や論理学のパズルを与えられたので、読書も算数も好きになった。
だから娘に対しても勉強のおもしろさを忘れないでほしいと願っているのだけれど、どこかで勉強を強制される日が来るわけで、いつか勉強のおもしろさを忘れてしまわないかと不安でしかたがない。




数学の世界というとガッチガチの論理の世界で一分のゆらぎも許されないようなイメージがあるけれども、意外とそうでもないという岡潔さんの話。

 矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです。人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。
小林 近ごろの数学はそこまできたのですか。
 ええ。ここでほんとうに腕を組んで、数学とは何か、そしていかにあるべきか、つまり数学の意義、あるいは数学を研究することの意味について、もう一度考えなおさなければならぬわけです。そこまできているのです。

数学にも感情が必要なんてほんまかいな。感情からいちばん遠いところにある学問のような気がするが。
とはいえ、今の時代に教育を受けた人の中にも地動説や進化論を否定している人がいるわけで、論理や知性というものには限界があるという話はわからんでもないような。
ぼくは数字を扱う仕事をしているけど、専門家同士の話でない場合は数字を出さないほうが納得してくれるケースも多いしなあ。「これやったらアクセスが増えるんスよ。コストも下がりますし。結果、良くなることが多いスね」みたいな適当なトークのほうが、詳細な表やグラフを持っていくより効果的だったりする。

数学だって最終的には人が納得しないことには公理として通用しないわけだから、意外と感情に訴えかける必要があるのかも。
数学者の知性を上回る感情的説得ってどんな手段なのか、さっぱり見当もつかないけど。



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2017年9月4日月曜日

VBAで魔法呪文のマクロを組んでみた


魔法使いは呪文を唱えることが多い。「チンカラホイ!」とか(『のび太の魔界大冒険』より)。
なぜ唱えるのだろうか。ぼくは魔法を使ったことがないのでよくわからない。

わざわざ呪文を口にすることにはデメリットがいくつかある。
まず、発動までに時間がかかる。
スポーツ漫画だと「トルネードアロースカイウイングシュート!」と言いながらシュートを打ったりするが(『キャプテン翼』より)、どう考えても時間の無駄だ。「トルネードアロースカイウイングシュート!」と叫ぶためには相当長い”溜め”をつくることが必要で、PKのときならともかく、ゴール前でそんなことを叫んでいたらあっという間にボールを取られてしまうだろう。

また、相手に察知されるというマイナス面もある。野球でピッチャーが「スライダー!」と叫びながら球を投げたら、打たれる可能性はまちがいなく高まる(ときどき嘘を混ぜれば効果的かもしれないが)。



かようなデメリットがあるにもかかわらず魔法使いが呪文を唱えるのは、そうしなければならない理由があるからだろう。

それはつまり、魔法というものは魔法使いの内なる力ではないということを意味する。
内なる力の発動であれば心の中で思うだけで十分だ。ピッチャーが黙ってスライダーを投げるように。
わざわざ言語化するのは他者に対して指示を与えているからだ。
たぶん精霊みたいなものが近くにいて、そいつに対して「こういう魔法を使いたいからよろしく!」というメッセージを発する、それが呪文なのだ。

構造としては、コンピュータを操作するときにコマンドを打ちこむことで望むとおりの動作をさせるのと同じだ。
つまり、魔法使いとは精霊を思い通りに動作させるプログラマーであり、呪文はプログラミング言語にあたるわけだ。



魔法は科学と対極にあるものとして語られることが多いが(『のび太の魔界大冒険』でも魔法が使える世の中では科学が迷信扱いされていた)、はたしてそうなのだろうか。

魔法を使いこなすためには、同一の条件下で同一の呪文を唱えたときは同一の動作が確認されなければならない。あるときは火が出て、あるときは氷が出て、あるときは相手を回復させるような呪文は使い物にならない。ドラクエシリーズには「パルプンテ」という何が起こるかわからない呪文があるが、これを常用するユーザーはまずいないだろう。
少なくとも呪文を唱えることによって何が起きたかという結果が確認できて、さらに「この呪文を唱えれば10回中8回以上は××という効果が生じる」といった傾向が把握できないと役には立たない。

すなわち魔法を有用なものとして使うためには検証可能性や再現性、測定可能性が求められるわけで、これはまさしく科学のアプローチそのものである。
魔法とは科学なのだ。



呪文が精霊に対するコマンドである以上、命令の内容は客観的・普遍的なものでなければならない。
たとえばドラクエシリーズにおける呪文”メラ”は「敵に対して小さな火球をぶつける」といった説明がなされているが、これはゲームユーザーに対する簡略化された説明であって、実際はこんな指示では魔法は発動できないはずだ。

まず”敵”のような漠然とした概念では場所を特定できないから、座標を用いて火球をぶつけるオブジェクト(対象)を指定してやる必要がある。
「呪文詠唱者を起点として真北から方位角132度の方向6.1メートルの位置」といった一点に定まる座標の指示を与えなければならない。
方位角や距離を正確に把握するためには三角法に対する正しい知識と素早い計算能力が必要になるから、魔法使いは相当数学に強くないとやっていけない。


さらに”小さな火球”といった曖昧な表現では精霊はうまく対応できないから、サイズ、温度、継続時間といった指標を設定する必要がある。
ただし”敵”は毎回変わるのに対して”小さな火球”は毎回同じものでもかまわないから、マクロのようなものを組んで毎回の発動を簡素化することができる。
一般にはそのマクロの名前が呪文と呼ばれるのだろう。
(ドラゴンボールに出てきた「タッカラプト ポッポルンガ プピリットパロ」のように極端に長い呪文はマクロではなくコードをそのまま読みあげているものだと予想する。神龍の召喚のように数年に一回しか使わないコマンドはマクロとして登録する必要性があまりない。)


ということで、VBAでメラのマクロを組んでみた。



2017年9月3日日曜日

【CD感想】星新一のショートショートを落語化 / 古今亭志ん朝・柳家小三治『星寄席』

『星寄席』

星新一(原作), 古今亭志ん朝 , 柳家小三治 (演) 


ショートショートの神様・星新一の作品を落語家が演じたもの。
『戸棚の男』を古今亭志ん朝が、『ネチラタ事件』『四で割って』を柳家小三治が落語化。
もともとは1978年にレコードで発売されたものだが、なぜか2015年にCDで再発売されたらしい。

星新一に関連するものなら全集から評伝まですべて揃えずにはいられないぼくとしては見逃せないということで購入。上方落語を聴いて育ったので江戸落語は肌に合わないんだけどね。

星新一作品と落語って相性がいいね。
まず落語は古典でもSFの噺が多い。『犬の目』『一眼国』『地獄八景亡者戯』など。あたりまえのように幽霊や死後の世界が出てくる。
また『蛇含草』『天狗裁き』のようなあっと驚くオチ(サゲ)で落とす噺もあり、そのへんもショートショートに似ている。

星新一自身、江戸落語が好きだったようで、『いいわけ幸兵衛』のように落語(『小言幸兵衛』)を基にした作品も書いている。本CDに収録されている『ネチラタ事件』も、古典落語の『たらちね』を下敷きにしている。 また『うらめしや』のように落語原作も書いている。
描写を必要最小限にしていること、登場人物に特徴が少なく記号的であること、時事性が強くないことなども落語的だね。



というわけで『星寄席』だけど、話のチョイスが絶妙だった。
  • 絶世の美女を妻にしたら声帯模写の達人、ルパンの孫、キューピッド、フランケンシュタインたちが間男としてやってくるようになった『戸棚の男』
  • 世の中の人々の言葉遣いが突然乱暴になる病原菌が広まった世界を描く『ネチラタ事件』
  • 賭け事が好きすぎて命を賭けたギャンブルに挑戦した男たちが地獄に行く『四で割って』
いずれもSFらしい奇抜な設定と落語らしいばかばかしい展開がうまく融合されていた。
とはいえそれは原作が良かったからこその出来であって、落語として聴いたら、正直おもしろくなかった。

まずひとつには原作を忠実に言葉にしていたこと。
落語の噺というのは著作権フリーであり、噺の改編も自由にしていいことになっている。
大筋は残しつつも、時代にあったわかりやすいオチに変更したり、節々にギャグを交えたりすることは当たり前におこなわれている。ところがこの『星寄席』に関しては、そういった”あそび”がまったく存在しない。ただの朗読劇になっており、落語としては笑いどころがほとんどない。

そしていちばん残念だったのが、スタジオ録音だということ。タイトルに「寄席」と入っているにもかかわらず高座でかけられたものではないのだ。
したがって客席の笑い声も皆無なわけで、他の客の笑い声も一体となってひとつの話を形作る落語と呼べるものではない。
これではただの朗読劇で、落語家が演じる必要性が感じられなかったなあ。
ついでにいうと、柳家小三治の『ネチラタ事件』は上品すぎた。

高座ウケするようにアレンジして客の前で演じたらずっとおもしろいものになっただろうに。
40年前の音声でもまったく古びない星新一のショートショート。ぜひ落語に取り入れて、今後もしゃべりついでもらいたいものだ。


2017年9月2日土曜日

子どもを野党に入れるには




以前Twitterにこんなことを書いた。
そっちを覚えんのかい!


親として娘に望むことはいろいろあって、その中のひとつが「素直に謝れる人になってほしい」だ。
たいていの場合、早めに謝ったほうがトクをする。意地を張っていいことなんかない。
だから娘がぼくの足を踏んだときとか、寝ているときにおなかに飛び乗ってきたには(想像してほしい。睡眠中に17kgの塊が腹部に落ちてくるのを)、「痛かったよ。ごめんは?」と厳しく注意している。

で、昨日保育園の先生から聞いたのだけれど、娘は失敗をした園児に対してとても厳しいらしい。
少しぶつかられただけで「痛かった! ごめんは!?」と強い口調でまくしたてるのだという。

そっちを覚えんのかい!
素直に謝ることではなく、相手に謝らせる方法を学んでしまったらしい。

以前「子どもは親に言われたことはしない。親がすることをする」と聞いたことがあるが、まったくそのとおりだ。

他人の失敗を厳しく糾弾するのは、とても感じが悪いのでやめてもらいたい。
野党の議員には向いている資質かもしれないけど。


2017年9月1日金曜日

ツイートまとめ 2017年8月



罵声

賛否両論
刺青


尋問

暗転

怪魚

複製人間

路上床屋

生活保護

両立

先端恐怖症

寄居虫

国際競争力

太陽系

不健康

婉曲