2017年4月17日月曜日

書店が衰退しない可能性もあった

とある本に「人は、自分が通ってきた道に厳しい」という言葉があった。
妊婦や子育て世代に対していちばん厳しいのは、少し前にそれを経験した40代女性なのだとか。

ぼくは本屋で働いていたので、本屋には厳しい。出版業界に厳しい。
「このままじゃAmazonにやられて町の本屋がつぶれる!」なんて声を耳にすると「つぶれるのもしょうがないよね」と思う。
  • 目当ての本があるかどうかわからない
  • 注文してもいつ入荷するのかわからない
  • 傷んでいることが多い
こういう欠点があると、本好きな人ほどリアル書店を離れてAmazonに行きたくなる。

リアル店舗のメリットしては「立ち読みできる」ぐらいだけど、たいていの書店では漫画は立ち読みできないし、今ではオンラインである程度内容が確認できることが多い。


こうした問題が改善されることはないだろうし、Amazonはどんどん進化していくだろうから、リアル書店がつぶれていくのは避けられない。

それ自体は誰が悪いわけでもない。
どんな商売だっていつかは新しいものにとって代わられる。
Amazonが存在しなかったとしても、別の何かが書店を衰退させただけだろう。

ただ、ぼくは思う。
衰退するにしても、もう少しうまくやれなかったのか、と。

アマゾンと斜陽




とことんダメだった取次システム


今、本屋の抱える問題の多くは、取次というシステムに起因するものだ。

ご存じの方もいるだろうが、通常、出版社から書店に直接本が送られてくることはない。
取次と呼ばれる会社(日販とかトーハンとか聞いたことがあるかもしれない)が必ず間に入る。
出版社は取次に本を送り、取次が書店に本を送る。お金の流れはこの逆だ。

数万の出版社が数十万の書店にそれぞれ本を送っていたら、どう考えたって効率が悪い。
中継点を挟んだほうがうまくいく。だから取次システム自体には何の問題もない。

ただ、この取次が「おまえら仕事する気あんのか?」と言いたくなるような雑な仕事をしていた。そこに大きな問題がある。

※ ぼくは書店員として某取次1社としか取引をしていなかったので、たまたまその会社がひどかっただけかもしれない。またぼくが書店にいたのは5年くらい前までなので、今は状況が変わっているかもしれない。


まずわかりやすいところでいうと、本の輸送状態がひどかった。
取次から書店には段ボールやビニールに入って本が送られてくるのだが、本がぐんにゃり曲がっているなんてのはざらで、ひどいときはカバーが大きく破れたりしていた。
もちろんトラックで揺られながら運ぶのだから多少の破損が出るのはいたしかたない。だが、段ボールの中で本を縦に詰められてその上に別の本が乗せられていたりするのだ。誰が見たって本が破損するってわかるだろうに。
野菜なんかとちがって、本はみんな同じ形をしている。判型の違いこそあれ、ふつうに考えて箱詰めすればそうそう破損することはない。
なのによほど時間がないのか、縦横斜めに本が詰められて運ばれてくるのだ(本を斜めに箱詰めするなんて頭おかしいとしか思えなくない?)。

お客さんから「今度発売の〇〇っていう本を予約したいんだけど」と言われ「あ、ちょうど1冊入荷します!」と答えたのに、その1冊が入荷時に破損していた、なんてこともあった。
楽しみに本を買いに来たお客さんに対して「すみません、すぐに取り寄せますので……」と頭を下げたものの、「だったら他の店で探すのでいいです」と言われて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。ぼくがあのお客さんの立場だったら「もうこの店は利用しない」と思うだろう。

本なんて、立ち読みをされたってそうそう傷まない。
破損は、取次から書店に入ってくる段階での発生が圧倒的に多かった。



それから、他の業界の人からはびっくりされるのだけれど、
「新刊本が発売日に何冊入ってくるかは書店側では決められず、取次が一方的に決める」
「しかもそれがわかるのが2~3日前」
というルールもあった。
これは取次が悪いわけじゃなくて出版社がギリギリまで部数を決めないせいらしいんだけど。

たとえば村上春樹の新作小説が発売される、ということになる。
発売前に、お客さんから「予約したいんです」と言われる。
わざわざ予約してくれるなんて、本屋からするとすごくありがたいお客さんだ。こういうお客さんを大事にしたい。
でも。
断らざるをえない。「すみません、予約は受けられないんです……」。
なぜなら何冊入荷するかわからないから。
「発売日に入荷しない可能性もありますけど、それでもよろしければ……」
「だったらいいです」
あたりまえだ。確実に手に入らなくて、何のための予約だ。


新刊本だけじゃない。
取次はまったく在庫の管理ができていなかった。
取次にどの本が何冊あるか、誰も把握していないのだ。倉庫に見にいって「あー1冊だけあるねー」、みたいな感じなのだ(ぼくは取次倉庫に行ってじっさいにそういう現場を見た)。
出版社から何冊入荷して、各書店に何冊納品して、何冊返品されて、何冊廃棄処理されて、というデータはすべて存在するはずなのだから、あとはそれをデータベース化して、各書店員が確認できるようにすればいいだけなのに、それをしていなかった。
昭和時代の話じゃないよ、2010年頃の話だよ。小学生でもパソコン使ってる時代の話だよ。
今はシステム化されてるのかもしれないけどね(ぼくの勘では今もないと思う)。


そのデータベースがないから、本の注文は「とりあえず注文してみる」だった。
お客さんから「〇〇という本を取り寄せてほしいんだけど」と言われる。
出版社に電話をする(わあ、アナログ!)。
「〇〇という本を取り寄せたいんですけど」「承知しました。では取次経由で送ります」
そして出版社から取次経由で書店へ入荷。この間、約10日。Amazonなら? 即日配送、翌日到着。

それでもまだ、ある場合はいい。でも出版社に在庫がない場合もある。
でもひょっとしたら取次にはあるかもしれない → データベースがないからとりあえず注文する → 数日後「ありませんでした」という返事が来る → お客さんに謝罪の電話 → お怒りの言葉「何日も待たせて、結局ありませんってどういうことだよ。はじめからAmazonで買えばよかった!」
ごもっとも。書店員のぼくもそう思ってました。


こんなことは一書店員の愚痴レベルで、書店が滅びゆく原因の一部でしかない。
だけど、何かが終わるときはその要因はひとつじゃない。こうしたことの積み重ねが、書店をつぶすのだと思う。




本は消えない。文化も衰退しない。


取次の悪口ばかり書いたけど、もちろん書店もダメだった。何も変えようとせず、旧来のシステムに必死にしがみついていた。
ぼくが働いていた書店はぼくが辞めた1年後につぶれた。責任はぼくにもある。

「このやり方、今の時代にあわないから変えたほうがいいよね」
と、たぶんみんなが思っていた。
同時に「でもどうせ変えられないだろうけど」とも。

でも、Amazonは変えた。
在庫を管理してユーザーにもリアルタイムで確認できるようにし、適正な仕入れをおこない、送品方法も改善した(10年前はAmazonから送られてくる本は傷んだり曲がったりしていることが多かった。今はまずない)。

取次と書店が経営努力不足により、Amazonに負けた。ただそれだけ。
「町の本屋がなくなると文化が衰退する」なんて声もあるが、そんなことはない。レコード屋はなくなってMDもなくなったけど音楽文化は衰退していない。
新聞は衰退しているが、人々がニュースサイトやアプリでニュースを目にする機会は昔より増えた。

書店が消えゆくのは、必然だ。
でも、Amazonに負けない方法はあったと思う。

たとえば、すべての出版社と取次が共同でAmazonみたいなWEBサイトを作っていたら。
書店員がPOPを書く時間を、そのサイトの改善に費やしていたら。
そこで注文したら自宅近くの書店に翌日届くシステムを作っていたら。
返品リスクがないわけだから再販制度を捨ててもっと安く売っていたら。
個別配送しなくていい分、Amazonよりも安く売っていたら――。

本屋は衰退するどころか成長していたんじゃないだろうか。
もちろんこんな案は完全に後出しジャンケンだし、歴史が100回くりかえしたとしても起こりえないだろう。
だけど、取次や本屋がAmazonに勝つチャンスはゼロではなかった。だけど、そのチャンスをものにできなくて負けた。
それだけは言っておきたい。



2017年4月14日金曜日

読書とスーパーマリオブラザーズ3の共通点

本を読む習慣がない人から「なんか読書って敷居が高いよね」と言われた。

まあねえ、慣れてない人にはそうかもねえ、ってそのときは思ったんだけど。

いや待て。
読書って敷居が高いのか?
むしろ、趣味としては相当間口が広いんじゃないのか?

というわけで読書、その中でも小説を読むことの "敷居" について考えてみた。

ハードルを乗り越えた先がいい場所とはかぎらない


もちろん 文字を読めない人にとっては、読書は敷居が高い。とんでもなく高い。
今、たどたどしく一文字ずつ「の、ち、ん、ぽ、が、ら、な、い」と読んでいるうちの3歳児を見ていると、こいつがあと10年もすればたいがいの文章をすらすら読めるようになるとはとても信じられない(3歳児に『夫のちんぽが入らない』を読ますな)。

でも、かなと常用漢字を読める人であれば、読書って十分に楽しめるものだと思う。
古典や翻訳ものはべつにして、軽い小説やエッセイであれば特に前提知識を必要としない。


かたや 他の趣味を考えてみよう。

たとえばプロ野球観戦。
読書でいうところの「文字が読めること」に相当するのが、「野球のルールを知っている」だ。
じゃあ野球の基本的なルールを理解していればプロ野球の試合を観て100%その魅力を味わえるかというと、そんなことはないと思う。たぶん50%ぐらいじゃないだろうか。
両チームが現在何位で、昨年の成績は何位で、ピッチャーは何年目でここまで何勝を挙げていて、バッターはドラフト何位の選手で打率や本塁打数はどれぐらいで、ランナーはどこの高校を出ていてケガをしたのはいつで、センターを守っている選手の肩の強さはどれぐらいで年俸はいくらで昨年までどの球団にいたのか……。

そういうことを把握していたほうが、ぜったいにプロ野球観戦は楽しい。
毎日のようにプロ野球の結果を確認して、選手名鑑を読みこんで、ドラフトや契約更改の情報をチェックして、キャンプ情報なんかも見て、そういうことを何年も何十年も続けたうえで試合を見たほうが楽しめる。

野球を楽しむためには、これぐらいのデータを頭にたたきこんでおく必要はある


こないだ稀勢の里が優勝決定戦で勝利して大きな話題になったけど、あれもあの一番を見ただけではそのすごさがわからない。
貴乃花を最後にずっと日本人横綱が不在で、朝青龍の時代に横綱の品格が問題になって、その後白鵬を筆頭にしたモンゴル勢の時代が続いて、稀勢の里は将来を嘱望されながらなかなか大関に昇進できなくて、師匠が亡くなって、先場所やっと横綱昇進を果たして、場所の途中で怪我を負って出場が危ぶまれていて、対戦相手の照ノ富士はモンゴル出身力士で……という背景を知っているのと知らないのでは、あの一番の重みはぜんぜん違う。

つまりスポーツ観戦を十分に楽しもうと思ったら、少なくとも10年は見続けないといけないと思う。
もちろん初心者でもそれなりに楽しめるけど、10年見続けている人とは理解の度合いに大きな差が生じてしまう。
これを「敷居が高い」と言わずしてなんといおう。

他の趣味でも同じこと。
昨日カメラや自転車や将棋や古銭集めや陶芸をはじめた人が、20年間それを趣味にしている人よりも深淵を味わうことはできないだろう。


だけど 読書については、「これまで教科書以外で小説を1冊も読んだことのない人」と「過去に1万冊読んできた人」が同じ本を手に取ったとき、初心者のほうが深い部分に達することが十分にありうるのではないだろうか。

もちろん、読書にも「前提知識があったほうが楽しめる」部分は存在する(続編とかはおいといて)。
たとえば村上春樹の新作を読んだとき、『ノルウェイの森』を読んだことのある人は「これは『ノルウェイの森』のあの部分と共通するな」といった楽しみ方ができる。
でもそれで増える楽しみって、せいぜい2%ぐらいじゃない?

本というメディアは基本的にその1冊の中ですべての情報が提示されているので、毎回まっさらな状態で接することができる。そこに初心者と熟練者を隔てる大きな壁は存在しない。
だから敷居が低い、とぼくは思う。
(映画も近いかもしれないけど、映画は俳優の過去の出演作品やプライベートな情報が多少乗っかるので、完全にまっさらではないと思う)


逆に 言うと、たくさん読んだからって読書スキルが積みあげられるわけではない。
多少読むのが速くなるぐらいだし、速ければいいというものでもない。

読書は、毎回一からのスタートだ。

スポーツ観戦やギターや蒐集の趣味がオートセーブ型のロールプレイングゲームだとしたら、読書は初代ファミコン版の「スーパーマリオブラザーズ3」。どれだけがんばっても、セーブができないから次回はまた一から。

べつにどっちがいいとかじゃなくて、積みあげていくのも楽しいし、毎回新しい気持ちで取り組める趣味も楽しい。

ただ「読書は敷居が高い」という点だけは否定しておきたいと思う。

1冊読むコストはすごく安いしね。



2017年4月13日木曜日

【読書感想エッセイ】 岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』

岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』

内容(「BOOK」データベースより)
戦前社会が「ただまっ暗だったというのは間違いでなければうそである」(山本夏彦)。戦争が間近に迫っていても、庶民はその日その日をやりくりして生活する。サラリーマンの月給、家賃の相場、学歴と出世の関係、さらには女性の服装と社会的ステータスの関係まで―。豊富な資料と具体的なイメージを通して、戦前日本の「普通の人」の生活感覚を明らかにする。

講談社現代新書で2006年に出版されたものの絶版になっていたのを、ちくま文庫から再刊されたもの。
いやあ、いい本。再刊してくれてよかった。筑摩さん、ありがとう。



戦前は意外と今と近い


昭和十年頃(日中戦争、太平洋戦争が始まるちょっと前)の都市生活者の暮らしを、「お金」という切り口で描いた本。

「戦前の生活」というのは江戸時代の暮らしと同じくらい遠い時代のイメージだったんだけど、この本を読むと、サラリーマンはスーツを着て会社に行き、学生は勉強そっちのけでビリヤードに精を出したりしていたらしい。なーんだ、今と似たような生活を送っていたんじゃないか(少なくとも男性は)。
「玉音放送で価値観がガラッと変わった」なんて話をよく聞くけど、大きな断絶があるのは「戦中から戦後になったとき」であって、「戦前の平和な時代と戦後の復興後」はけっこう近い生活をしていたんだとか。

 戦後に人々が復興しようとしたのは、当然のことだが「平和の戦前」であり、復興のスローガンは、戦前で最も経済が安定していたとされる「昭和八年に帰ろう」だった、という。実際、昭和ヒトケタから昭和三十年代なかごろまでの日本人の基本的ライフスタイルはほぼ同じだったといってよい。つまり、戸建ての日本家屋に住み、主に和室で生活し、ふだんの買い物は八百屋や魚屋といった個人商店ですませ、日常の足は公共交通機関に頼るという生活だ。ここに、昭和八年と昭和二十六年の雑誌小説の挿絵を並べてみるが、戦争をはさんで十八年の時差があるにもかかわらず驚くほどスタイルが変わっていないのがわかる。

どうも、江戸時代よりはずっと近いようだ。
といってもこれは都市生活者の暮らしの話で、農村部と都心部の暮らしの差は今よりもずっと大きかったのだろう。
ぼくの父は昭和30年生まれだけど雪国の農家で育ったので、幼少の頃は「牛を飼っていて、冬になると家の中に入れて一緒に生活していた」そうだ。日本昔ばなしみたいな話だけど、昭和40年くらいでもまだそんなところはあったんだねえ(もしかしたら今でもあるのかも)。
母は同世代だけど都会育ちなので、母がテレビで『鉄腕アトム』を観ていたころに、父は「村で唯一電話があるのが自慢だった」という。ずいぶんと差がある。





戦前の金銭感覚について


物価についてはいろいろと説があるようだが、だいたい2,000倍して考えるとだいたい今の価値に近くなる、とこの本には書いている。
外食で30~50銭ぐらい出せばそこそこの食事ができたらしいから、今の価値だと600~1,000円。まあそんなもんだろう(東京だと600円で食事できるところはファーストフードしかないだろうけど)。

この本のタイトルにもなっているように、「月給100円」というのが戦前サラリーマンにとってひとつのボーダーだったようだ。100円稼いでいればそこそこいい暮らしができる、という認識だったみたい。
しかし月に100円ということは、今の価値だと20万円。しかもボーナスを入れての金額なので、毎月支給されるのは10万円をちょっと超えるぐらい。10万円ちょっとで「そこそこいい暮らし」ができたのだから、いい時代だ。

今は30代の平均年収が400万円くらいらしいので(賞与含む)、月収ベースにすると30万とちょっと。
物価は2,000倍で所得は3,000倍以上になっているから、それだけ今の暮らしは楽になっていることになる……。単純に考えるとそうなんだけど、じっさいはそうでもないよね。

 家賃は2,000倍どころでなく上がってるし、昔はなかった家電や携帯電話に使うお金もあるし……。
「平均的な暮らし」をするためのコストで考えると、昔も今もたいして変わらないんじゃないかなあ。



そうしてサラリーマンは戦争へ駆り出された


特に興味深かったのは、最終章の「暗黙の戦争支持」。
日本が勝ち目のない戦争に突き進んだ責任の一端はサラリーマンたちにもあると著者は指摘する。

 当時のホワイトカラーも、極端な貧富の格差の存在や政財界の腐敗には内心怒りを感じてはいた。だが、多くのサラリーマンはただじっとしていた。文春のアンケートで資本主義は行き詰まっていると訴えた二十九歳のサラリーマンは「自分の生活のためと、プチブル・インテリの本能的卑怯のために現代社会生活の不合理と矛盾を最もよく知りながらも之が改革運動の実際に参与出来ない」と言い、それが「一番の不満です」と述べている。

さまざまな問題を知りながら、「自分の生活のため」に目をつぶっていたサラリーマンたち。
民衆の不満はくすぶっていた。その不満を解消する手段として選ばれたのが、戦争だった。
戦争に勝てば景気は沸き、贅沢もできないから格差は縮まり、軍人は大きな顔をできる(戦前の軍人は安月給で扱いも低かったらしい。彼らの鬱屈した思いが戦争を招いたとも言えるかもしれない)。

かくして「今の良くない状況を打開してくれるもの」として戦争支持者は歓声を上げ、日本は後には引けない戦争へと足を踏み入れる。

 満州事変以降、生活の苦しいブルーカラー(つまり当時の日本の圧倒的多数)や就職に苦しむ学生は、「大陸雄飛」や「満州国」に突破口を見つけたような気分になり、軍部のやり放題も国家主義も積極的に受け入れていった。しかし、すでに会社に入っていた「恵まれた」ホワイトカラーはますますおとなしくなっていったように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の支持を与えたのだ。
 彼らもやがて召集され、シベリアの収容所やフィリピンの山中で「こんなはずじゃなかった」と思っただろう。学生時代に銀座で酔っ払って暴れたり、給料日に新橋の「エロバー」まではしごで豪遊したり、三越でネクタイを選んでいられた頃に心底戻りたかっただろう。でも、気がついたときはもう遅かったのだ。


この描写にぞっとした。
そうだったのか。出兵していた兵士たちって、元サラリーマンもいたのか。想像したこともなかった。



今ぼくらが耳にする戦争体験って、昭和生まれの人の話が多い。だって大正生まれはもう90歳を超えているのだから。
戦中育ちの人の戦争体験は、どこか遠い世界の話だった。
でも、サラリーマンも戦争に行っていたというのは、現在サラリーマンであるぼくにとってはかなりショッキングだった。

今の日本も、格差は広がり、ほとんどの若者が豊かな生活を送れていない。今後高齢化は進む一方だから将来的な展望も暗い。
『「月給100円サラリーマン」の時代』を読むと、昭和十年頃の空気はもしかしたら今と同じように閉塞的な雰囲気が漂っていたのかもしれないなと思う。

今、裕福でない家庭に生まれて高い技能を持たない若者にとっては、状況を打開する手段はもはや宝くじで一発当てるか、戦争が起こることぐらいしか残されていない。

だからってすぐに日本が戦争を始めるとは思わないけど、しないとも言い切れない。「防衛のための戦争」という大義名分があれば今の憲法でもできるしね。ちょうど東アジアの情勢が不安定になっていることもあるし。
戦争をしたい人は少ないだろうけど、「戦争をするといわれても積極的に反対はしない」という人も少なくないんじゃなかろうか。


ぼくは思う、日本が戦争をすることは、ない話じゃないと。
そしてこうも思う。いざその道に進みかけたときに、ほとんどの人は何もしないんじゃないかと。



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2017年4月12日水曜日

いちばんセンスのないあだ名


4月
といえば、あだ名をつけられる季節。
きっと今頃、いろんな学校やサークルや会社で新しいあだ名がつけられていることでしょう。

あだ名には、つけた人間のセンスが如実に表れる。
世の中にはセンスのいいあだ名をつける人がいる。

ぼくが知っている中で、いちばんセンスを感じたあだ名は「貯金」だ。
大学のサークルに入ってきた新入生を見て、先輩が「おまえ貯金してそうやな」という理由でつけたものだ。
たしかに、その名をつけられた貯金氏はがんばって小金を貯めてそうな顔をしていた(金持ちっぽかったわけではない。本当に「貯金」をしてそうな見た目だった。預金じゃなくて、豚の貯金箱にお金を入れてそうだった)。
しかも「ちょきん」という音の響きは呼びやすいし親しみもある。
「資産家」とか「リッチ」だったら若干の悪い響きも含まれているが「貯金」にはそれもなく、付けられた当人も「貯金ってあだ名としておかしいやろ~」と言いながらもまんざらでもなさそうだった。

  • つけられた経緯がエピソードとして印象に残る
  • 当人のキャラクターにしっくりくる
  • 呼びやすい
  • 言葉に悪いイメージがない
  • オリジナリティがある

と、五拍子そろった秀逸なあだ名だった(しかし五拍子ってリズム悪いな)。



では逆に センスのないあだ名とはどんなものだろうか。

ぱっと思いつくところでは、「名前をもじっただけのあだ名」というものがある。
すなわち「よっしー」「さかもっちゃん」「ナベさん」「はるちん」「ミカピー」みたいなやつ。あだ名を聞いただけで、名前がある程度推測されるやつ。
これはお世辞にも「センスのある」あだ名とは言えない。
ただ、これがワーストかというと、それも違う気がする。だってつけた人は何も考えていないのだから。

こうしたあだ名をつける人は、「狙って」いない。
あだ名をつけることで己のユーモアを示してやろうとか、気の利いた比喩表現を見せてやろうとか、そういった意図がない。
「他人のあだ名という土俵を借りて自分の才覚で相撲をとってやろう」という勝負心がないので、そもそも「センスがあるかないか」という勝負の舞台にすら立っていない。

「坂本くんと呼ぶよりはもうちょっと踏み込んだ関係をあなたと築きたい」という意志表示としての「さかもっちゃん」なので、ある意味これはこれですごく正しい。あだ名って元来そういうものだし。
みんながみんなこういう「狙って」いないあだ名をつける世の中になれば、きっと世界は平和になると思う。それはすごくつまんない世の中だろうけど



じゃあ センスがないあだ名、すなわち己の持てる感性を誇示してやろうと「狙って」つけたにもかかわらず愚かにもその企図が失敗しているあだ名とは何なのか。


ずいぶん前置きが長くなってしまったが、ぼくが思う「いちばんセンスのないあだ名」は

同じ苗字の有名人の名前をつける あだ名だ。

たとえば夏目さんに対して「漱石」とつけるようなやつ。
野口に対して「英世」とか「五郎」とか「みずき」とかつけるようなやつ。

元祖・英世

このタイプのあだ名、誰しも一度は聞いたことがあるだろう。つけられたことのある人もいるだろう。そしてうっすらと嫌な思いをしただろう(わざわざ抗議するほど嫌でもないのが余計にタチが悪い)。

  • 笑えない
  • 当人のキャラクターと何の関連もない
  • オリジナリティがない
  • 呼ばれる側を不快にさせる
  • つけられた経緯が安易に想像できて周囲の人間も不愉快になる

と、悪いところが五つそろった逆ロイヤルストレートフラッシュなあだ名だ。



この手の センスのなさが前面に出たあだ名がつけられる時季は、圧倒的に4月が多い。
こういうあだ名をつけるやつは、ふだんは周囲から相手にされていない分、入学直後とかの新しい環境でまだ嫌われていないときは1年でいちばんイキイキとしていて、
「おまえ速水っていうの? じゃあ "もこみち" って呼ぶわー。もこみちー!」
なんてうすら寒いことを言いだす。

言われたほうも、他の季節なら「冷ややかな顔で小さくため息をついてから無言で目をそらす」ぐらいのリアクションをとるのだけれど、なにぶん4月は周囲から浮かないように気を付けている時期。「ハハッ」とミッキーマウスのような乾いた愛想笑いをして甘んじて受け入れてしまう。


このような悲劇はもうくりかえされてはいけない。
だから新学期になったら真っ先に担任教師から
「同じ苗字の有名人のあだ名をつけないように。
 あと雑巾2枚持ってくるように」
と伝えることを忘れないようにしていただきたい。


【読書感想エッセイ】 高山 トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』

高山 トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』

内容(「BOOK」データベースより)
「絶対一番なるんじゃ」。かつての野球少年達が選んだ芸人への道。焼け付くような焦りの中を頂点目指してもがき、ついに売れると確信した時、相方を劇症肝炎が襲う。人生を託した相方である友の再起を願い、周囲に隠し続ける苦悩の日々…。今なお、芸人に語り継がれる若手天才漫才師の突然の死と、短くも熱いむき出しの青春が心に刺さる感動作。

ときに「ベイブルース」という漫才コンビをご存じだろうか。
大阪で漫才の賞を総ナメにし、「ダウンタウン以来」とも言われるほどの快進撃を続けながら、人気絶頂の1994年にメンバーの河本栄得の急逝により活動休止したコンビ。

ぼくがお笑いにはまってテレビで漫才番組を欠かさずチェックするようになったのは1995年からなので、ベイブルースのことは「名前だけはちらっと聞いたことがある」という程度だった。
この本を読んで気になったので、YouTubeを検索して、ベイブルースの漫才映像を観てみた。
おもしろかった。20年以上たつのに、その発想は色あせていない(構成は「昔の漫才だなあ」と思うけど)。

そんなベイブルースの「残されたほう」である高山トモヒロの私小説。



なにが 恥ずかしいって、こういう「親しい人が死ぬとわかっている小説」で泣くことほど恥ずかしいことないよね。
なんかすっごくダサい感じがする。作者の狙い通りというか。

まあ、ぼくは泣いちゃったんですけど。しかも電車の中で。


ぜんぜんうまくないんだよ、小説として。へたくそといっていいぐらい。
文章も稚拙だし、芸人が書いてるのに笑えないし、思い出したままに書いているから時系列もめちゃくちゃだし、小学生の作文みたい。
だからこそ、相方が脳死宣告を受けるくだりなんか、ド直球で感情をぶつけられるように感じた。小説を読んでいるというより友人の語りを聞いているような気分。そりゃ泣くぜ。こんなので泣くかいと思ってたのに泣かされてしまった言い訳だけど。

でもこんなの小説として認めないからな!(涙ぐみながら)



ところで ベイブルースというコンビのバランスについて思ったこと。

河本は相方に対して、一字一句間違えず、間の取り方まで寸分の狂いもない「精密機械であること」を要求し、相方もまた「精密機械でいよう」とその期待に応えようとした。

「これからは相方として絶対に絶対に力になるから」
 今さらその考えを変える必要はない。この男について行けばいいだけだ。間違いない。河本の才能があったからこそ、僕も一緒にここまでこれた。僕1人の才能では到底無理だった。
「精密機械になれ」
 その通りにしたら、ここまでこれた。僕のペースにも少しは合わせてほしい……これは少しでも楽をしたいという、僕自身の甘っちょろい考えだ。プロはそんな生ぬるいことなんて言わない。少しでも河本が僕のペースに合わせたら、ごく普通の芸人人生で終わるかもしれない。河本が抱いている大きな夢には届かない。好きにしてくれ、自分が思った通りに突き進んでくれ。それが時にどんなイバラの道に迷い込んでしまおうと、僕はついて行くから。

すごい信頼関係だと思う。でも同時に、怖い、とも感じる。

相方が死んで思い出が美化されて書いているだけかもしれない。
でも元気に活動しているうちから「こいつは天才だから、その才能を輝かせるために俺は自分を殺してすべてを捧げよう」って姿勢でいたとしたら、怖い。
それってどういう気持ちなんだろう。

献身性って怖くない?
ぼくは、高校野球のマネージャーも怖いんだよね。何が楽しくて他人のためにあそこまでできるんだろうって思う(応援団とかチアリーダーは応援じゃなくて自己満足でやってるように見えるからべつに怖くない)。
いや、マネージャーも自己満足なんだと思う。「みんなのために尽くしてる一生懸命なアタシ」が好きなんだと思う。それはわかる。わかるんだけど、なぜその献身の対象が赤の他人なんだろう。
尽くす対象が「大好きな恋人」とか「愛する我が子」とか「おれのかっこいいバイク」とかなら理解できるんだけど。それは自分の所有物(と思っているもの)だから。
「がんばってる君が好き」よりも「南を甲子園に連れてって」のほうがまだ健全な気がする。

「がんばってる君が好き」という感情って、ほんのちょっと方向性がずれたら、攻撃性に変わっちゃいそう。「がんばってない君は存在しちゃいけない」と表裏一体というか。



この本を読んだ後は「もし河本が生きていたらどうなっていただろう?」と考えずにはいられない。
ベイブルースはどんなコンビになっていたのだろう?
「才能のあるこいつのために俺は精密機械になる」という強い意志は、いつか壁にぶつかって「こいつの才能は枯渇したのかもしれない」となったときに、同じような関係を続けることができたのだろうか?

コンビとしてはどうだっただろう。
ひょっとしたら今でも第一線を走っていたのかもしれないし、生きていたとしてももう活動していないかもしれない。早逝したから実際以上に評価されているだけで、凡百なコンビだったのかもしれない。

こうやってあれこれ想像してしまうのは、ベイブルースというコンビがそれだけ魅力的だったからなんだろうね。



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