2017年3月17日金曜日

やさしさが服を着て歩いている教頭

「鷹揚に構えている校長と、権力の座を狙って立ち回る小ずるい教頭」
という学園モノで定番の図式があるけど、あれにまったく共感できない。

なぜなら、ぼくが通っていた中学校の教頭がとんでもない人格者だったから。
いや、人格者というより"お人好し"といったほうがいいかもしれない。
足立教頭という50歳くらいの丸顔のおじさん。
彼はやさしさが服を着て歩いているような人だった。



やさしいことは、ときに罪になる。

授業中、足立教頭がAくんを指名して質問をする。Aくんは答えられない。
しかし足立教頭はあきらめない。ヒントを与えてヒントを与えて、なんとかAくんに答えさせようとする。ふつうの先生なら、ある程度の時間がたったらあきらめて答えを自分で言ったり、次の人を指名したりする。しかし足立教頭はAくんが答えるまで待つ。

当然ながら、授業は遅れた。


授業中に寝ている生徒がいると、足立教頭はにこにこしながら「〇〇くんは野球部やから朝練で疲れてんのかなあ」と言っていた。
そのやさしさに努力で応える気概のある中学生なんてほとんどいない。
足立教頭の授業では、起きている生徒のほうが少なかった。
委員長や風紀委員のような優等生ですら、彼の授業では寝ていた(授業がつまらなかったこともある)。


ぼくもまた、足立教頭をなめきっていた。
「この人なら、何をやっても怒られない」と思っていた。

だが、そんなぼくが冷や水をぶっかけられる事件が起こった。

その日、ぼくらは校長室の掃除当番だった。
校長は不在。
誰もいない校長室に、男子中学生。
遊ばないわけがない。
中に入るやいなや、「第1回全国中学校ふとももしばき選手権大会」が始まった。
ぼくらがキャッキャ言いながら遊んでいると、足立教頭が校長室に入ってきた。
ぼくは思った「あ、やべえ」。でも同時に「足立教頭でよかった」とも思った。

ふつうの教師なら怒鳴りつけるところだろう。
だが足立教頭は言った。
「おいおい、掃除しようぜ!」
そして。
ぼくにほうきを手渡し、自分は雑巾を手に取ると、しゃがんで床の雑巾がけを始めた。

「中学生に掃き掃除をさせ、自分が拭き掃除をする」
こんな教師がどれだけいるだろう。
生徒の足下ではいつくばって雑巾がけをできる教頭が何人いるだろう。

この人は何をやっているんだ。ぼくはこわくなった。
生意気な中学生だったぼくでも、さすがに教頭が雑巾がけをしている横で悠然としているわけにはいかない。
「いやいや教頭先生、ぼくが雑巾かけますよ」
と、雑巾をとりあげてまじめに掃除をはじめた。



ぼくは足立教頭から「人を動かす方法」を教わった。
それは恫喝や報酬ではない。恐怖だ。



2017年3月16日木曜日

【読書感想文】 伊坂 幸太郎 『ジャイロスコープ』


伊坂 幸太郎 『ジャイロスコープ』

内容(「BOOK」データベースより)
助言あります。スーパーの駐車場にて“相談屋”を営む稲垣さんの下で働くことになった浜田青年。人々のささいな相談事が、驚愕の結末に繋がる「浜田青年ホントスカ」。バスジャック事件の“もし、あの時…”を描く「if」。謎の生物が暴れる野心作「ギア」。洒脱な会話、軽快な文体、そして独特のユーモアが詰まった七つの伊坂ワールド。書下ろし短編「後ろの声がうるさい」収録。

発表した時期も、発表された媒体もばらばらの短篇を集めた寄せ集め作品集。

久しぶりに手に取った伊坂幸太郎作品だったけど、まあ寄せ集めだけあって、正直、そんなにおもしろくなかったね。

初期の『陽気なギャングが地球を回す』『ラッシュライフ』『アヒルと鴨のコインロッカー』『重力ピエロ』あたりの作品は、現実感はない話なのにやたらと構成は緻密、っていうギャップがおもしろくてすごく好きだった。
でも『死神の精度』『ゴールデンスランバー』ぐらいから、思い切った仕掛けがなくなり、読まなくなってしまった。浮世離れした設定そのものはそんなに好きじゃないんだよなあ。
『ゴールデンスランバー』なんか、ストーリーの"緊迫感"と、文章の浮遊感とがまったくのミスマッチで、「大どんでん返しがあると思って我慢して読んでたら何もないってそれがいちばんのどんでん返しだわ!」と本を路上に投げ捨てたのを覚えています(本はリサイクルへ)。


で、それから10年。
当時は、ふだん本なんか読まないやつが面接で「どんな本を読みますか?」と訊かれたときに名前を挙げる筆頭だった伊坂幸太郎。
彼は今はどんな本を書いてるんだろう。

で、『ジャイロスコープ』なんだけど、最初の短篇である『浜田青年ホントスカ』を読んで、「おおっ、伊坂幸太郎っぽい!」。
ユーモアあり、非日常感あり、どんでん返しありで、(かつての)伊坂幸太郎らしさが存分に出ている。
ちょっと後味は悪いけど、でもこれはこれで嫌いじゃないよ。
いいねいいね。
すごくおもしろいわけじゃないけど短編集の一作目としては十分に及第点。この後が楽しみ。

と期待しながら次の『ギア』を読んだんだけど、あれおもしろくねえな……。
出会い系のスパムメールをそのまま掲載しているところはおもしろかったけど、あとはあんまり。
というかこの手のSFブラック・コメディって、筒井康隆が何十年も前に書いていたもので、しかも筒井康隆のほうが疾走感もイカれ具合もずっとまさってる。


他の作品もそんな感じで、どこかで読んだことのあるような設定が多いし、読者をだましてくれるトリックもないし、テクニックで魅せてくれるかというとそんなこともなくて「これだったら別の作家が書いたほうがおもしろくなっただろうな」って短篇が多い。

特に書き下ろしの『後ろの声がうるさい』は、むりやり他の短篇の登場人物を出したりして、小手先で書かれたように思える。
一言でいうと「昔の作品に比べて丁寧さがなくなっちゃった」って印象。
書き下ろしや連載じゃないから、手を抜いてるのかなあ。だったら本にしないほうがよかったのでは。


伊坂幸太郎作品は全部読んどきたい! っていうファン以外にはあんまりおすすめできない作品集かな。



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2017年3月15日水曜日

シャキーン!

『シャキーン!』を知っているでしょうか。
Eテレで朝の7:00からやっている子ども向け番組です。

この番組、ほんとイカれてる。
子ども向け番組だということを隠れみのにして、やりたい放題やっている。


こないだは、3人の西洋人に中世の貴族みたいな格好をさせて、

「さあ、どの貴族が一番早く段ボールの箱を組み立てられるでしょうか?」

というクイズをやっていた。
内容を聞いても意味わかんないでしょ?

実際に観ていたぼくでも、意味わかりませんでした。



また別の日は、

「空から、ナスとミイラが降ってくる映像が流れます。右手でナス、左手でミイラを数えよう!」

というゲームコーナーをやっていた。


完全にイカれてる。


朝の7時といえば、まっとうな大人はニュースを観ている時間。
ひまつぶしにテレビをつけるような時間帯でもない。
Eテレだから、視聴率もスポンサーも気にしなくていい。

と、「好き勝手やってもいい」条件がそろったスポット。
それが朝7時のEテレ。

きっと、『シャキーン!』を作っている人たちは、再生回数を気にしなくちゃいけないユーチューバーよりも自由に企画を出しているんだと思う。
だって「みなさまから徴収した受信料を使ってミイラとナスの数を同時に数えるゲームをやろう!」なんて、ふつうの人には思いつかないでしょう。マリファナでもやらないかぎりは。


満月や新月の晩は凶悪犯罪が増えるように、朝7時のEテレではクレイジーな企画が増えるので、要注目です。


【読書感想エッセイ】 山際 鈴子『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』

山際 鈴子『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』

内容(「BOOK」データベースより)
子どもが本来持っている感性をたよりに、書きたい「もの」をみつけて書き始める。書くためには、書きたい「もの」を見つめ続けなければならない。詩を書くことによって、ものの見方が変わり子ども自身まで変わっていく。作品とともに子どもが変わり、子どもとともに作品が変わっていく。この本はそんな願いをこめて展開した授業の記録である。開かれた子どもの心に出会い、近づきたいと思いながら、詩の指導方法をどのようにみつけ出していったか、その様子を書いたものである。

著者は大阪の小学校教諭で、長年児童詩の教育に携わってきた人。

みんな知っていると思うけど、子どもの詩はおもしろい。


 ぼくは ようちゅうを なめました。

 あんまり かわいいから なめました。

 えびの てんぷらの あじが しました。

 ようちゅうは にこにこ わらいました。

 そして、

 こしょばい こしょばいと いいました。


たとえば上の詩は、小学1年生の詩。
これを書いた子は虫が大好きで、本当になめてみたらしい。
みずみずしい体験と豊かな感性に基づいて、感じたことをそのまま言葉にした子どもらしい素直な詩だ……ってそんなわけあるかい!

すごくうまいよね。
おもいきった導入、視点の切り替わり、そして作者と幼虫の両方の感情がつたわってくるような大胆な比喩表現。
テクニカル!

数々の指導と手直しがないと、たぶんこの作品は完成しなかったんじゃないかなあ。
「指導って大事!」って思うね。子どもに感じたことをそのまま書かせても詩にならない。


この本では、子どもの書いた詩を載せ、その詩を書かせるためにはどんな指導をしたのか、どこに注目して書かせたのか、どうやって発想を得させたのかが書いてある。

 「ある動作の途中で動きを止めて、その状態を書いてみよう」

 「『まだ』と『もう』の対比を使って書いてみよう」

 「自分をPRする詩を書いてみよう」

 「『もしも……だったら』というテーマで考えたことを書こう」

といった調子。
指導する学年にあわせて、興味のあるテーマを与えてやり、出てきた発想の中から独自性のあるものをすくいとり、技法を教えてやりながら一篇の詩になるように導いてやる。

大人が目にするのは詩の完成品だけだけど、そこにいたるまでに試行錯誤があったんだろうねえ。



ぼくは、「子どもの豊かな感性を素直に表現した作品」といった言葉には賛同できない。

たしかにそういうものはある。
うちの3歳の娘も、ときどき大人がはっとするようなことを言う。
でもそんなのって1万回しゃべったうちの数回あるぐらい。
1キロの鉄の中に1グラムの金が埋まっていても全体としてみればただの鉄塊なのと同じで、表現も精錬してやらねば作品にはなりえない。

技巧をこらしすぎてもおもしろくないが、かといって書いたものをそのまま見せても作品として読めたものじゃない。
そのちょうどいいところに持っていくのは、教師の仕事。
適度に味付けをさせて、でも決して自分では手を出さず、「うますぎずへたすぎず」の詩を作りあげる。

だから「子どもの詩」って書いてあるけど、もうほとんど「教師の詩」といってもいい。題材を提供したのは子どもだけど、詩にしたのは教師の力だと思う。



でも。

この本を読んでたら、ちょっと気持ち悪さも感じるんだよなあ。
「子どもたちがこんなにすごい詩を書いたんですよ」って言いながら、でもじつは「これを書かせたわたしすごいでしょ」って言ってるように思える。
こういう詩を書かせることって教師の自己満足なんじゃないのかなとも思う。


小学生の詩として発表されるものって、しょせんは「子どもの詩」なんだよねえ。
1年生ぐらいならそれでもいいけど、6年生になったら大人っぽい詩も書けると思うのに、「子どもらしさ」ばかりが評価される。
いつまでも「子どもらしい詩」を書かせていたら、その先がなくなると思うんだよねえ。じっさい、ほとんどの人は中学生以降で発表するための詩を書くことってないし(人に見られたら恥ずかしいポエムは書くけど)。

いつまでも「子どもらしいみずみずしい感性」なんて褒めたたえてたら詩の文化を殺すことになるんじゃないかな。
絵の世界だったら、「子どもらしいのびのびした感性」が評価されるのってせいぜい幼稚園くらいまでで、そこから後は技法を凝らしたうまさが求められるようになる。
絵の好きな子どもは、絵のうまい大人にあこがれて一生懸命絵を練習する。
かけっこだって歌だって「子どもらしさ」は早急に捨てたほうがいい。
詩だってやっぱり「大人の上手な詩」を書かせるように導いてやるべきなのでは?

この本のタイトルは『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』だけど、そうじゃなくて、子どもを大人の世界に近づけることが教育なんじゃねえのかって思うよ。



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2017年3月14日火曜日

【読書感想エッセイ】 ユウキロック 『芸人迷子』

ユウキロック 『芸人迷子』

内容(「BOOK」データベースより)
島田紳助、松本人志、千原ジュニア、中川家、ケンドーコバヤシ、ブラックマヨネーズ…笑いの傑物たちとの邂逅、そして、己の漫才を追求し続けたゆえの煩悶の日々。「ハリガネロック」解散までを赤裸々に綴った迷走録。
第1回M-1グランプリで2位、ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞、上方漫才大賞新人賞など華々しい道を歩みながら、2014年に解散した漫才コンビ「ハリガネロック」のユウキロックさんによる回想録。

決してうまい文章ではない。でも、だからこそものすごい熱が伝わってくる。

もがき苦しみ、周囲をまきこみながらのたうちまわり、そして今でも答えは出ていない苦悩がびんびんと伝わって。



ぼくは中学生のとき、『すんげー!Best10』という深夜番組が大好きで、毎週欠かさず観ていた。
今はなくなった大阪の2丁目劇場に所属していた芸人たちが出てきて、漫才やコントを披露し、お客さんの投票でランキングするという番組。コンビの垣根を越えたユニットでのネタも披露されるのが特徴だった。
『オンエアバトル』の放送がまだ始まっていない時代の、ほとんど唯一といっていいネタ番組だった(関西ローカルだったけど)。


そこに、あるときから急に出てきたのがハリガネロックというコンビ。
ハリガネロックの印象は鮮烈だった。
急に出てきたと思ったら、並みいる人気芸人をおさえて1位を連発。
鋭い舌鋒とテンポのよいネタ運びであっというまに客をつかみ、しばらくは「ハリガネロックが出たら1位」という状態が続いていた。
その番組だけでなく、関西の有名な漫才の大会でも次々に優勝。賞レースでハリガネロックが負けるのを見たことがなかった。
2001年にはじまったMー1グランプリでも当然のように決勝進出して、同期の中川家に敗れて2位。
敗れはしたものの十分なインパクトを残し、当然ながら「来年こそはハリガネロックが……」と期待されていた。


ところがそのあたりから風向きが変わる。
M-1グランプリがそれまでの漫才の大会と一線を引いていたのは「積極的に新しいものを評価しにいった」ことだった。

それまでの大会や番組は「いちばんウケているものがいちばん」だった。審査員は、一線を退いた大御所漫才師だったり、新聞社やテレビ局のおじいちゃんだったり(今も変わってないけど)。審査員も結局、客席の女子高生やおばちゃんがいちばん笑ったコンビに投票する、という感じだった。

ところがM-1グランプリは、現役最前線で活躍中の芸人や、一時代を築いた漫才師が審査員。第1回にはあった客席審査員制度が第2回からなくなったことからもわかるように、「客のウケ」よりも「プロから観ておもしろいか」に審査の重きが置かれていた。
初期の大会は、当時まだ無名だった麒麟、笑い飯、千鳥、POISON GIRL BAND、南海キャンディーズを決勝に上げるなど、「ベタな笑いをテクニックで見せる」漫才よりも「技術はつたなくても未知の発想をとりいれた」漫才が高く評価されていた。

そして、そのあおりをもろに喰らったのがハリガネロックだったように思う(あとルート33も)。


ハリガネロックは、笑いはとれるけれどこれといって新しいものは持っていなかった。
テンポのよいしゃべりも、周囲に毒づいてゆくスタイルも、一見アウトローなビジュアルも、コンビで息を合わせたツッコミも、とっくに確立されていた手法だった。
今にして思えば「新しいものがなくても笑いがとれる」というのはすごいことなんだけど、当時はそれが認められる風潮じゃなかった。
(その流れを引き戻したのが、新しい武器を持たずにM-1グランプリを制したブラックマヨネーズだった。それ以降は「ウケの量」=「点数」の傾向が強くなる。ブラックマヨネーズの漫才を見てからハリガネロックが迷走した、というのは皮肉な話だ)


未知の発想が評価される時代においてハリガネロックの漫才は認められず(といってもM-1グランプリ以外では認められていたんだけど)、彼らは迷走してゆく。
 何かを変えなければならない。いや、そんな生易しいことではない。すべてを捨てて、また新たに作り上げる。そこまでやらなければならないと思ったが、俺には簡単にできることではなかった。新しい漫才のスタイルを作るためには、必ず客前で試さなければならない。スベれない。スベることはすべてを失うこと。どんな人気者がいようと舞台では一番ウケる。これこそ「ハリガネロック」唯一の存在価値だと信じて生きてきた。これまでの10年間で培ってきたこと。あの「狂気の10年」で刷り込まれたことだった。

「誰よりも客にウケること」を誇りにして走ってきたコンビにとって、「ぜったいにウケる」という看板をはずすことは許されなかった。

べつに看板をはずす必要はなかったのに、と部外者としては思う。
漫才師が「プロの審査員に評価されること」よりも「客を笑わせること」に重きをおくことは、むしろマトモなことなんだから。
でも当時はそのマトモなことが許されない雰囲気があったんだよねえ。


ハリガネロックは、M-1グランプリで評価されるスタイルを求めて迷走する。
以前、なにかの記事で「ハリガネロックがボケとツッコミの役割を入れ替えた」と読んで驚いた。芸歴10年を超えるようなコンビが、それも今までのスタイルで数多くの実績を残してきたコンビが役割を変えるなんてことは他に聞いたことがない(コントではめずらしくないんだけど、本来のキャラと地続きでやる必要のある漫才ではまずありえない)。
びっくりしたのと同時に「絵にかいたような迷走をしてるな」と思ったこともおぼえている。

結局その試みはうまくいかずにまたボケとツッコミを元に戻し、数年後、ハリガネロックは解散した。



それにしても、相方だった大上さんはかわいそうだ。
ユウキロックさんはずっと「相方はぜんぜん自分から動こうとしなかった」と愚痴っぽく書いている。それが事実だったとして、自分から動かない人が相手だったからこそハリガネロックは20年やってこれたんだと思うよ。
「おれはこれがおもしろいと思う! おまえの考え方には納得できない!」って人だったら、ずっと早くに解散してたよ。

よく社員に「経営者意識を持て!」と怒っている社長がいるけど(ぼくの前職の社長もそうだった)、そういう社長は部下から「それは経営的にまちがってますよ」と言われたら、ぜったいに怒る人だ。
ユウキロックさんの「自分から方向性を示せよ!」って怒りには、それと同じものを感じる。



なんかね、相方に対する思いもそうだし、読んでいて「なんて不器用な人なんだ!」ともどかしく感じたね。

「万人受け」と「通好み」が両立しないことは誰だって知っている。
だからみんなその間のどこかに着地点を見いだすのに、ユウキロックさんはその両方を手に入れようとした。
そしてとうとう「通好み」を手に入れることはできず、もともと持っていた「万人受け」を自ら捨て去って、舞台を降りてしまった。

「目の前のお客さんを笑わせられる」というすごい武器を持っていたのに。

たぶん、現状維持を目標にすれば、ベテラン漫才師としてずっと食っていくことができたはず。
しかし、過去の成功体験にとらわれずにチャレンジしつづけてきたからこそ結果を出してきた人が、「貪欲に攻める姿勢を捨てて今のポジションをキープできるようにしよう」なんて考え方をできるようにはならないんだろうね。


客観的に見ていると「もっとうまくやる方法がいろいろあっただろうに……」と思うんだけど、でも人の関係が壊れるときってだいたいこんなもんだよなあ。

暑苦しくて切なくてもどかしくて、もう40歳すぎたおっさんがこんなに青春してるってすごいなあって感じる本でした。



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