2016年3月24日木曜日

【ふまじめな考察】ヨッシーの卵のナゾ

ゲーム『スーパーマリオワールド』には、ヨッシーの卵というものが存在する。


この卵、実にカラフルな柄をしている。
白地に鮮やかなグリーンの斑点。
遠目に見ても、ヨッシーの卵だということがすぐわかる。
はたして、これは何のためだろうか?

卵が派手であることは、どう考えても、生存競争をする上で不利である。

卵というものは自走ができないため外敵に対して無防備であり、かつ栄養豊富であるため外敵からは狙われやすい。
卵が危険にさらされることは、すなわち種族の繁栄の危機である。

そのため、通常は卵が外敵から目立たない方向に進化圧がはたらく。

目立たない卵は生存に有利であり、逆に目につきやすい卵を産む個体は淘汰されて遺伝子を残すことができない。
結果として目立たない卵ばかりになる……はずだ。

なぜヨッシーは派手な卵を産むのか。


仮説1)
進化圧となるような外敵が存在しないのではないか。
外敵がまったく存在しない環境であれば卵はどんなに派手でも問題はない。

→ 反証)
『スーパーマリオワールド』の舞台となった「恐竜ランド」には、あたりかまわず攻撃をしかけてくる凶暴な生物が多い。


仮説2)
親が卵をつきっきりで保護するので柄は問題ないのではないか。
ワニのように、十分に強い親が卵を守るのであれば、仮に卵が外敵から目をつけられたとしても手出しはされない。

→ 反証)
プレイしたことのある人ならわかるが、卵が出現する場所の付近にヨッシーがいることなどない。
ヨッシーはたいていの爬虫類と同じく、子育てをしない。


仮説3)
卵を大量に産むので、少々の犠牲は問題ないのではないか。
マンボウは一度に数億個の卵を産むが、そのうち成魚になるのは数匹だけである。この数打ちゃ当たるシステムを採用しているのではないか。

→ 反証)
たしかにヨッシーは数多く卵を産むようだ。恐竜ランドのいたるところにヨッシーの卵が産みつけられている。
この仮説はなかなか有力そうだが、問題は、卵から孵ったばかりのヨッシーが成獣の半分くらいのサイズだということだ。
自身の十分の一以下のサイズの赤ちゃんを産むのでも、人間のお母さんはあれだけ苦労しているのだ。いくらヨッシーが大食いだとはいえ、成獣の半分サイズの卵を産むのには非常に大きなコストとリスクが伴うはずだ。
数打ちゃ当たる戦法は通用しない。


仮説4)
卵が外敵に食べられやすくなるというデメリットを上回るほどのメリットが存在するのではないか。

→ アブラムシは、甘い汁を分泌し、アリを集める。
アリはアブラムシから汁を吸わせてもらう代わりに、アブラムシの天敵であるテントウムシを追い払う。

同じようにヨッシーも、あえて目立つ卵を産むことで他の生物、すなわちマリオを惹きつけようとしているのではないか。

先ほども説明したとおり、ヨッシーは子育てをしない。また、恐竜ランドには危険な外敵が多数生息している。
この過酷な環境で生存するために、ヨッシーはマリオという生物種を利用する道を選んだのではないか。

ヨッシーはマリオの足となり、代わりにマリオは外敵からヨッシーを守る。
このような共生関係を保つためには、遠目からでもマリオの目につきやすいデザインの卵は都合がよかったのだろう。

遺伝子を残すために他の生物の習性(姫を助けに行きがち、という習性)を利用する。
たくましくもしたたかな生物としての戦略が、ここにはある。

2016年3月23日水曜日

【読書感想文】堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』

内容(「BOOK」データベースより)

1995年から2011年。まさに「失われた20年」と呼ばれる時期に、『週刊文春』誌上で連載されていた伝説のコラム「ホリイのずんずん調査」。どうでもよさそうなことから意味ありげなことまで、他に誰もできない(というか、やらない)調査の積み重ねから100の「謎」をセレクトした集大成。飲み屋の小ネタによさげに見えて、実は日本の20年までもが浮かび上がってくる―(かも)。ネットでは検索できない秘密がここにある。

週刊文春で連載していた「ホリイのずんずん調査」はおもしろい連載だった。もう終わっちゃったけど。

どうでもいいことを調べるためにとんでもない量のデータを集めていた。
「どうやって調べているのだろう」 と思っていたけど、連載をまとめた(というか厳選した)この本を読んで謎がとけた。
なんのことはない。足と労力と時間とお金を使って調べつくしているのだ。

と、かんたんに書いてしまったが、これはとんでもない調査だ。 「金のエンゼルの出現率を調べるため」にチョコボールを2,000個買ったり、 みんなが銀行の4桁の暗証番号をどうやって決めているか調べるために、 知人に「どうやって数字を決めたの」と訊いてまわったり (かなり不審がられたらしい。あたりまえだ)、日本三景(松島、宮島、天橋立)を一日でまわったり(強行日程のため宮島まで行ったのに厳島神社を見られない……!)、テレビ局全局の1週間の番組をすべてチェックして、 どのアナウンサーが映ってる時間がいちばん長いかを調べたり(24時間×7日×6局=1,008時間らしい)。

いや、すごい。
ぜひ堀井憲一郎氏に国の研究機関から金を出してあげてほしい。
1,000年後には貴重な史料になるはずだから。
(1,000年経てばどんな本でも貴重な史料になるはずだというツッコミはなしだ)



いやでもほんと、「えーそうなんだ!」とおどろく調査結果も多い。
たとえばこんな調査結果。

寿司を「一貫、二貫」と数えるようになったのは1990年代で、それまでは「一個、二個」と数えていた。

これは、1990年前後の雑誌を丹念に調べてわかった事実だそうだ。
知ってました? ぼくは「一貫、二貫」は江戸時代からある数え方だと思ってた。悪名高い「江戸しぐさ」みたいなもんなんだね。

1980年頃まで、クリスマスは子どもだけのものだった。カップルが一緒に過ごす日になったのはバブルの頃。

花粉症も1980年頃。もちろん症状はそれ以前からあったが、ほとんど認知されていなかった。

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』以前は、坂本龍馬は明治維新において脇役扱いだった。
(というか実際に脇役だった)

1980年代生まれのぼくからすると、カップルのためのクリスマスも、花粉症も、龍馬を中心と歴史観も、あたりまえの話。 でもちょっと上の世代にとってはそんなことないんだね。
日本の「常識」って、けっこう最近つくられてるんだなー。
龍馬と自分を重ね合わせている人間はぼくも大嫌いなのだが、堀井氏もこう書いている。 
(国の制度作りに携わっていない)龍馬が幕末の人物のトップであると本気で言ってるのなら、国の運営はどうでもいいといってるようなものだ。
 だから現役政治家で「龍馬を目標の政治家としてる」と公言して憚らない連中はチェックしておいたほうがいい。



あと大阪生まれ、兵庫育ちのぼくにとっておどろきだったのはこんな話。

エスカレーターでの立つ位置。右に立つのは大阪、兵庫、奈良、和歌山ぐらい。

「大阪は右だけど東京は左らしいよ」 そんな話は聞いたことがあったので、 「そうか、右に立つのは西日本だけなのか」  と思っていた。
ちがうんだね。 中国も四国も九州も左。 圧倒的少数派だったとは……。



週間天気予報はまったく当たってないという調査もおもしろかった。
週間天気予報127日分を調査。 そのうち雨は31日あったが、7日前に「7日後は雨です」と的中させていたのは1回だけ。 なんと的中率3.2%!
そんなにあたらないのか……。 冗談でもなんでもなく、下駄を転がしたほうがまだ当たるだろな……。
3日前でも38.7% 2日前で58.1% 前日でやっと77.4%
こんな的中率なのに、週間天気予報ってやる意味あるのかね。
週末に出かけるときは月曜日ぐらいから予報をチェックしてたけど、こんなにいいかげんなんじゃ、なんの参考にもならないね。


いいかげんといえば相撲の仕切り時間。 4分以内に立ちあわないと決まっている。 ところが堀井さんが実際に計ってみたら、5分を超える取り組みはざらで、6分を超えるものもあったとか。
相撲好きのぼくも、おかしいと思ってたんだよなー。 相撲って競技時間は決まってないのに、いっつも夕方6時ちょうどに全取り組みが終わるもんなー。 すごく早く終わる日や、時間がないので横綱取り組みは放映できません、みたいな日があってもいいのに(相撲ファンとしてはよくないけど)。 

なるほど、NHKの相撲中継にあわせて仕切り時間を長くしたり短くしたりして調整してるんだなあ。 けっこうせこい。 なんでも調べないとわからないもんだね。



笑ったのが次のふたつの調査。

・選挙で当選したときに、応援者がバンザイするのにつられて自分もバンザイしちゃうマヌケな議員は誰なのか。
・サッカーW杯におけるフリーキックの調査。ディフェンダーが前で手をあわせて股間を守る率が高い国はどこなのか。逆に、股間を守らない男らしい(?)国はどこなのか。

気になる答えは、この本で調べてください。 気にならないですか。そうですか。



ところで堀井憲一郎、データ収集の情熱もすごいけど、文章もうまいなあ。コラムニストのお手本のような読みやすい文章を書く。
落語が好きだというだけあって、軽妙で洒脱な言い回しが光る。
重たいデータなのにそうは見えなくてとっつきやすいのは、この文章によるところが大きいはず。

「調べる」楽しさを教えてくれる一冊。
 新大学生に読んでほしいな。


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2016年3月18日金曜日

【エッセイ】かわいそうなおじさん


年を重ねると、いろんな角度からものを見られるようになる。


『かわいそうなぞう』の話を小学生の頃に読んだときは、あの手この手で殺されるなんて、ゾウたちがかわいそうだと思った。

しかし今読むと、ゾウに対してはあまりかわいそうだという感情が浮かんでこない。
その代わり、動物園の職員に対して「やりたくもないのに殺さないといけないなんて、つらかっただろう」という同情の気持ちが浮かぶ。
『かわいそうなぞう』ではなく『かわいそうなおじさん』だと思うようになった。


『つるのおんがえし』も大人になって見方が変わった。

子どもの頃は「言いつけを破ったのだから逃げられてもしかたないよね」と思った。
今は「一回のぞいちゃったぐらいで厳しすぎるよ。命の恩人に対してその対応はないんじゃない?」と思う。



『こぶとりじいさん』もだ。

隣のよくばりじいさんは、ただ、顔のこぶをとってもらいたかっただけなのに、踊りが下手だったからというだけでこぶを増やされて不憫でならない。
そもそも顔面の腫瘍がなくなってほしいと願うことは欲深いことじゃないだろ!


……と、ここまで書いて気がついたのだが、いろんな角度から見るようになったわけじゃなく、全体的におじさんやおじいさんに肩入れした見方をするようになった気がする。

年を重ねることで視野が広がったんじゃなくて、自分がおじさんになったから中高年男性に対して感情移入するようになっただけだったわ……。

2016年3月16日水曜日

【読書感想文】オリヴァー・サックス 『妻を帽子とまちがえた男』

 内容(「BOOK」データベースより)
病気について語ること、それは人間について語ることだ―。妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする男。日々青春のただなかに生きる90歳のおばあさん。記憶が25年まえにぴたりと止まった船乗り。頭がオルゴールになった女性…。脳神経に障害をもち、不思議な症状があらわれる患者たち。正常な機能をこわされても、かれらは人間としてのアイデンティティをとりもどそうと生きている。心の質は少しも損なわれることがない。24人の患者たち一人一人の豊かな世界に深くふみこみ、世界の読書界に大きな衝撃をあたえた優れたメディカル・エッセイ。

脳神経科医による医学エッセイ。
いやあ、おもしろい本だった。

さまざまな脳神経に障害をもった患者が紹介されている。

なんといっても衝撃的なのが、タイトルにもなっている患者Pの話。
目が見えないわけでもないのに、自分の足をさわりながら「これはわたしの靴ですか」と言ったり、帽子をかぶろうとして妻をつかんでかぶろうとしてしまう。
彼に手袋を渡してみたときの反応は……。
「手にとってみていいですか?」彼はそう言うと私の手から手袋をとり、あたかも幾何学の図形をしらべるときのような調子で、子細に検討しはじめた。
 しばらくして、彼は口をひらいた。「表面は切れめなく一様につづいていて、全体がすっぽりと袋のようになっていますね。先が五つにわかれていて、そのひとつひとつがまた小さな袋ですね。袋と言っていいか自信はないけれど」
「その通り」私は慎重に口をきいた。「あなたがおっしゃること、まちがっていません。では、それは何でしょう?」
「なにかを入れるものですね」
「そうです。何を入れるものでしょう?」
「中身を入れるんですよね」そういってPは笑った。「いろいろ可能性があるなあ。たとえば小銭はどうかな。大きさがちがう五種類のコイン。さもなければ……」
なぜそこまでわかるのに手袋だとわからないの!?
もうふざけてるとしか思えない(実際、周囲の人からは冗談だと受けとめられてなかなか病気だと気づかれなかったそうだ)。

高い知性はある。知覚に異常はないので認識はできる。論理的な推測もできる。
ただ、「判断」だけができない。

だから手袋を見て特徴を説明することはできるけど、それが手袋だという判断ができない。
ふしぎ……。

驚くのはこれだけではない。この患者Pさんは、入院もせずに仕事もしているんだとか。
音楽学校で教師を務め、家に帰れば妻がいる。(ときおり妻と帽子をまちがえたりすることをのぞけば)ごくごくふつうの教師なんだという。

人って自分の足がわからなくなっても意外と生活できるものなのか……。
妻と帽子の区別がつかなくても大丈夫なのか……。
ぼくなんか妻が怒っているかどうかの区別がつかなくて困惑ばかりしているのに!



他にもいろんな珍しい症状を抱えた患者がこの本には登場するが、べつに「どや!珍しい症例やろ!」と見世物的に患者を紹介してるわけではない。

さっき引用した文章もそうだが、著者の視点はあくまでフラット。
患者をばかにするわけでもなく、過剰に同情するわけでもなく、ひたすら冷静に対象を観察して、原因を分析し、治療を試みている。徹頭徹尾、科学者・医師の視点。

これが読んでいて心地いい。
自分までがカウンセリングを受けているような気にさせてくれる文章。



この本には、脳機能に異状をきたしたことが、かえって患者にとってプラスになったケースが多く紹介されている。

たとえば、ファントム(幻影肢)という現象。
事故で脚を切断した患者が、存在しないはずの足の指にかゆみを感じる、という現象。
これも脳神経の障害だ。

だが、このファントム、義足を動かすためには必要不可欠なものなんだとか。
ファントムの脚(実際には存在しない脚のイメージ)と、現実に存在する義足の位置とがぴったりあうことで、もともとあった脚のように義足を動かすことができるらしい。
ファントムは障害なんだけど、それがあるからこそ義足が動かせる。

それから、あるチック症の男。
落ち着きがなく、怒りっぽく、ひとところにじっとしていられないという性質の持ち主。
その反面、反応と反射が異常に速く、スポーツやゲームにめっぽう強いという利点もあるんだとか。
彼に投薬をすることでチックを抑えたところ、落ち着いた行動をするようになったものの、身のこなしがおそくなり、ぼんやりと過ごすようになったそうだ。欠点と同時に、美点も失われてしまったわけだ。

彼の言葉。
「チック症を治すことができたとしても、あとに何が残るっていうんですか? ぼくはチックでできているんだから、なんにも残らなくなってしまうでしょう」
結局、本人の希望で週末は投薬をやめることになり、当人は大いに満足したそうだ。

一般にはマイナスとされることでも、うまくつきあっていける人にとっては武器であり、アイデンティティになるんだね。

ぼくはまったく音程のとれないド音痴だ。これもきっと脳のエラーなんだろう。
だから人前では歌わない。カラオケなんかもってのほか。
でも。
音痴だってうまく使えば武器になる。カラオケにいって堂々と歌えば、確実に笑いはとれる。そこそこうまい人よりよっぽど印象に残るだろう。

だけどぼくには恥ずかしくてできない。そんな小心者のぼくとしては、弱点を武器に変えられる人がうらやましくてしかたがない。



その他、知的障害者の青年がコンピュータも紙も使わずに十桁以上の素数を次々に見つけたりと、さまざまな「障害がプラスにはたらいたケース」が紹介されている。

天才と呼ばれたモーツァルトやアインシュタインやエジソンも、奇人としてのエピソードが残っている。
彼らもまた、もしかすると脳神経を調べると何かしらの異状を持っていたのかもしれないね。

天才とキチガイは紙一重というけど、紙一重どころか同じ紙の表と裏なのかもしれないね。
頭が良すぎるのも「異常」にはちがいないし。



最後に、もっとも印象に残ったエピソードをご紹介。

病院で患者たちがテレビを観ていると、どっと笑い声が上がった。笑ったのは失語症の患者たち。彼らは言葉が理解できないはずなのに。
何かおもしろい番組でもやっているのかと作者がテレビを見ると、大統領が大まじめに演説をしているだけ。
いったい彼らはなぜ笑ったのか?

じつは、言葉の意味が理解できない失語症患者でも、話しかけられたことの大半は理解できるんだそうだ。
どういうことかというと、単語の意味が理解できなくなっている分、彼らは言外の意味を読むことに長けていることが多いんだとか。
話し手の表情や、声調、テンポ、抑揚、イントネーションなどの微妙な変化を聞き分け、語りかけられた内容を理解するそうだ。

で、声の微妙な変化を感じとれるから、失語症患者には嘘が通用しない。
嘘をすぐに見破ることができる。

だから、オーバーな身ぶりやもっともらしい表情なのに話している言葉は嘘ばかりの大統領がおかしくて笑っていた、ということなんだそうだ。

言葉の意味がわからないのに嘘がすべて見抜ける……。
すごい、人間嘘発見器だ。伊坂幸太郎『陽気なギャング』シリーズに出てくる成瀬氏ももしかするとこの病気なのかな。

ぼくみたいに嘘ばかりついている人間からすると、おそろしすぎる。
妻が失語症になって、嘘を見抜く能力を手にしないことを願うばかり……。


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2016年3月14日月曜日

【エッセイ】ホワイトツナ缶

寿司屋のカウンターで呑んでいると、隣からこんな会話が漏れ聞こえてきた。
「男どもってどうしてホワイトデーのお返しにお菓子ばっかくれるんやろか」

声のした方を見ると、三十代半ばであろう女性ふたりが語らっている。
女同士で寿司屋で呑むだけあって、なかなかやさぐれた感じの女だ。
黄緑に塗った爪で、イクラの軍艦をつかんで口に放り込んでいた。
「お菓子あげときゃ喜ぶと思ってんのかね、やつらは」

えっ……。ちがうの!?
ぼくも、今の今までお菓子あげときゃ喜んでもらえると思っていた。
ていうかホワイトデーの定義って、男がお菓子あげて喜ばせる日なんじゃないの!?

彼女たちの話は続いた。
「みんな芸もなくお菓子ばっかり。お菓子じゃなかったのはひとりだけやったわ」
 「誰?」
「カシワバラさん」
 「何くれたの?」
「珍しいツナ缶」
 「おー。さすがカシワバラさんやなあ。ステキやわあ」

珍しいツナ缶……!!

隣で聞いていたぼくも、わあステキと思う。
なんて自然体なチョイスなんだろう。
ツナ缶がステキなのではない。
カシワバラさんの、失敗をおそれない姿勢が気持ちいいのだ。

ぼくだったら、ホワイトデーのお返しを選ぶときは「まちがいのなさ」で選ぶ。
デパートの、みんなが並んでいる店で、そこそこの値のするお菓子を選んでおけば
「まあまちがいないだろう」
という気持ちで選んでいる。

その点、カシワバラさんは違う。
彼は間違いをおそれてはいない。
彼は自分だけの正解を探す。
自分の感性に真剣に耳を傾け、何を贈りたいかを自問する。
そしてその結果、ツナ缶以外にはないという結論に達した。
「ツナ缶あげときゃ問題ないだろ」なんて気持ちはカシワバラさんの心には微塵もない。
「これおいしいから食べてもらいたい!」
きっとその気持ちだけで、彼はホワイトデーのお返しにツナ缶を選んだに違いない。

多くの男たちが空振りを避けようとして“とりあえず”デパートのお菓子を贈った。
やさぐれ女は、その姿勢を見抜いていた。
人まねのファッションをしている人がどんなに高い服を着ていてもかっこわるいように、「ハズさないようにしよう」という考えそのものが、もう「ハズレ」なのだ。

カシワバラさんは違った。
三振してもかまわないというぐらいのフルスイングでツナ缶を放った。
そしてその一か八かのスイングは、見事なホームランとなった。
このひたむきさこそが「さすがカシワバラさんやなあ」「ステキやわあ」につながったのだ。

なんて魅力的な人なんだ、カシワバラさん。
会ったことないけど。