2020年3月30日月曜日
評価基準が外部にある人
評価基準が外部にある人はたいへんだろうな。
極力そういう界隈とか関わらないようにしているのだが、幼なじみにひとりだけいる。
しょっちゅうパーティーとかやって、Facebookに「今日は〇〇さんと会いました! 明日は△△でお食事です! 来月はロンドンに行きます!」みたいな報告をしているやつが。
なんだか見ているだけでこっちが疲れる。
「自分をよく見せる」ことに全身全霊を傾けていて、しかもそれがわかっちゃうものだから痛々しい。
本人はハッピーそうに見せているのだから他人がとやかく言うことではない。
彼の投稿を見るたびにうげえとつぶやいてそっとブラウザを閉じる。見なきゃいいじゃないかと言われるとそのとおりなのだが、でもときどき怖いもの見たさで見にいっちゃうんだよね。そしてそのたびにげんなりする。
ことわっておくが、そいつはいいやつなのだ。
そいつのことはぜんぜん嫌いじゃない。
まあいいやつに決まってる。周囲からよく見られたいという行動原理で動いてるのだから、当然明るく社交的で親切なのだ。嫌いになる要素がない。
だからこそ、しんどい。
いいやつが、勝ち目のないレースに参加しているのを見るのがつらい。
そう。勝ち目がないのだ。
「他人からよく思われるレース」に勝者はいない。全員が敗者だ。
だって、自己評価を他人の評価が上回ることなんてないんだもの。ぜったいに。
自分に対する自己評価が10としたら、他者が自分に下す評価なんてせいぜい2とか3とかだ。
5あったらいいほう。もしかしたら0とか-5とかかもしれない。
思春期のときなんかはそのギャップに悩む。ぼくも悩んだ。
でもだんだんわかってくる。この差はぜったいに埋まらないものなんだと。自分以上に自分を評価してくれる人なんておかあさんだけなんだと。
もちろんちょっとでも埋めようと努力するのはすばらしいことだけど、残念ながら努力しても差は縮まらない。それどころか開く一方。だって自分の努力をいちばんわかってくれるのは自分なんだもの。
だから他人の目なんか気にしなくたっていい。まったく気にしないのも問題だけど、それより自分がどう感じるかが百倍大事だ。
……とまあ、多くの人は二十代三十代ぐらいでこういうことをちょっとずつ悟るんじゃないかな。
しかしFacebookには「他人からよく思われるレース」出走者がたくさんいる(Instagramにもいるんだろうけどぼくはやってないので知らない)。
おれってこんないい暮らししてるぜ、オレっちはこんなに有名な人と付き合いあるんだぜ、ボクチンはこんな楽しい日々を送ってるんだぜ。
見るたびに心が痛む。
もうやめようぜ。そんな不毛な戦いは。
その先に幸せはないんだから。
やめてくれ。そんな必死に自己顕示をしなくたっていいじゃないか。
大丈夫だ、ぼくはわかっている。
そんなアピールをしなくたって、おまえが十分すごいやつだってことを。
ぼくは評価しているから大丈夫だ。おまえ自身の評価の二割ぐらいは評価してあげてるから。
2020年3月29日日曜日
六歳児とのあそび
六歳の娘と最近よくやる遊び。
「りんご」
「りんご、ごりら」
「りんご、ごりら、らっぱ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ、つみき」
……とだんだん長くなっていくしりとり。記憶力が試される。
高校時代、友人たちとの間でこの遊びが流行ったのだが、当時のぼくは無類の強さを誇っていた。ほとんど無敗。短期記憶が強いのだ。三十ぐらいまでならほとんど苦労せずに覚えられる。
さらに「かもしか」「いか → かい」のように同じ文字のワードを近接させると飛ばしてしまいがちになるとか、「なかよし」「げんき」のような抽象的なワードを言うことでイメージしにくくさせるとか、容赦ないテクニックを使って六歳児相手に連勝している。
ちなみにこれ、三人以上でやると格段にむずかしくなる。
自分の言ったワードより他人が言ったワードのほうが思いだしにくいからだ。
これの別バージョンとして「おぼえて古今東西」もやる。
赤いもの、というお題で
「りんご」
「りんご、ポスト」
「りんご、ポスト、トマト」
「りんご、ポスト、トマト、赤信号」
……とやっていくのだ。こっちは単語同士の間につながりがないためさらにむずかしい。
アキネイター の人力版だ。
選ぶのはぼくと娘の両方が知っている人でないといけないので、アニメのキャラクターや、親戚、保育園の友人など。
娘は慣れないころは序盤に「青いですか?」と質問したりしていたが(ドラえもんしかおらんやないか)、「人間ですか?」「女ですか?」「大人ですか?」のようにおおざっぱな質問をして徐々に狭めていくのがコツだよ、と教えると徐々に上達してたいてい十以下の質問であてられるようになってきた。
キャラクターだけでなく「場所」「動物」「食べ物」などでもやる。
ただし娘の知識が乏しいため、「卵を産みますか?」「いいえ」だったのにカメだったとか、「緑ですか?」「いいえ」なのにトウモロコシだったりとか(緑の皮に覆われていることを知らなかった)、意図せぬ嘘が混じって難問になることがある。
以前は娘が作る迷路は分かれ道がなかったり、すべてが行き止まりだったりしたのに……。成長したなあ……うう……。
なので娘が作った迷路をぼくが解くことになる。らくちんで助かる。
昔は「めいろつくってー」と言われて十分ぐらいかけて大作をつくっても一分で解かれて「べつのつくってー!」と言われていたなあ……。あれはつらかった……うう……。
めいろもあみだくじも、ぼくも子どものころ好きだった。あとサイコロと。
単純な遊びなんだけど、おかげで高校数学の順列組み合わせとか確率とかを難なく理解できたので、何が役に立つのかわからない。
相手は、数字を予想して「1,2,5」と言い、それに対し出題側は「1つあたり」と答える(順番はどうでもいい)。
これをくりかえし、三つとも的中させるまでの質問数が少ないほうが勝ち。当然論理的思考力が必要になるが運の要素もあるので、三回に一回ぐらいは娘が勝つ。
ヒットアンドブローというゲームの簡易版。
娘には賢い人になってほしいとはおもうが、いかにも教育的なことはしたくない。
娘の友人たちは塾や英会話教室に通ったりしているが、ぼくはまだいいんじゃないかとおもっている。
足し算引き算を一、二年早くおぼえたところで十年たったらいっしょだし、それよりは学ぶことのおもしろさを今のうちに知ってほしい。
考える、知る、調べるっておもしろいんだよ、ということを伝えたい。
◆ おぼえてしりとり
しりとりをしながら、これまでに言ったものをおぼえるという遊び。「りんご」
「りんご、ごりら」
「りんご、ごりら、らっぱ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ、つみき」
……とだんだん長くなっていくしりとり。記憶力が試される。
高校時代、友人たちとの間でこの遊びが流行ったのだが、当時のぼくは無類の強さを誇っていた。ほとんど無敗。短期記憶が強いのだ。三十ぐらいまでならほとんど苦労せずに覚えられる。
さらに「かもしか」「いか → かい」のように同じ文字のワードを近接させると飛ばしてしまいがちになるとか、「なかよし」「げんき」のような抽象的なワードを言うことでイメージしにくくさせるとか、容赦ないテクニックを使って六歳児相手に連勝している。
ちなみにこれ、三人以上でやると格段にむずかしくなる。
自分の言ったワードより他人が言ったワードのほうが思いだしにくいからだ。
これの別バージョンとして「おぼえて古今東西」もやる。
赤いもの、というお題で
「りんご」
「りんご、ポスト」
「りんご、ポスト、トマト」
「りんご、ポスト、トマト、赤信号」
……とやっていくのだ。こっちは単語同士の間につながりがないためさらにむずかしい。
◆ キャラクターあてクイズ
「はい」か「いいえ」で答えられる質問をくりかえして、相手が思いうかべたキャラクターをあげるゲーム。アキネイター の人力版だ。
選ぶのはぼくと娘の両方が知っている人でないといけないので、アニメのキャラクターや、親戚、保育園の友人など。
娘は慣れないころは序盤に「青いですか?」と質問したりしていたが(ドラえもんしかおらんやないか)、「人間ですか?」「女ですか?」「大人ですか?」のようにおおざっぱな質問をして徐々に狭めていくのがコツだよ、と教えると徐々に上達してたいてい十以下の質問であてられるようになってきた。
キャラクターだけでなく「場所」「動物」「食べ物」などでもやる。
ただし娘の知識が乏しいため、「卵を産みますか?」「いいえ」だったのにカメだったとか、「緑ですか?」「いいえ」なのにトウモロコシだったりとか(緑の皮に覆われていることを知らなかった)、意図せぬ嘘が混じって難問になることがある。
◆ めいろ、あみだくじ
娘は昔から迷路が好きだったのだが、最近は自分でそこそこ骨のある迷路をつくれるようになってきた。以前は娘が作る迷路は分かれ道がなかったり、すべてが行き止まりだったりしたのに……。成長したなあ……うう……。
なので娘が作った迷路をぼくが解くことになる。らくちんで助かる。
昔は「めいろつくってー」と言われて十分ぐらいかけて大作をつくっても一分で解かれて「べつのつくってー!」と言われていたなあ……。あれはつらかった……うう……。
めいろもあみだくじも、ぼくも子どものころ好きだった。あとサイコロと。
単純な遊びなんだけど、おかげで高校数学の順列組み合わせとか確率とかを難なく理解できたので、何が役に立つのかわからない。
◆ めいたんていゲーム
1から7までの数字の中から、重複しない三つを紙に書いて相手に見せないようにする(2,4,7など)。相手は、数字を予想して「1,2,5」と言い、それに対し出題側は「1つあたり」と答える(順番はどうでもいい)。
これをくりかえし、三つとも的中させるまでの質問数が少ないほうが勝ち。当然論理的思考力が必要になるが運の要素もあるので、三回に一回ぐらいは娘が勝つ。
ヒットアンドブローというゲームの簡易版。
娘には賢い人になってほしいとはおもうが、いかにも教育的なことはしたくない。
娘の友人たちは塾や英会話教室に通ったりしているが、ぼくはまだいいんじゃないかとおもっている。
足し算引き算を一、二年早くおぼえたところで十年たったらいっしょだし、それよりは学ぶことのおもしろさを今のうちに知ってほしい。
考える、知る、調べるっておもしろいんだよ、ということを伝えたい。
2020年3月27日金曜日
ユニバーシティのキャパシティ
最近、大学の講義はチャットで質疑応答をしたりするところがあるらしい。
講義に対して質問や意見があれば、受講者はスマホを使いチャットで質問をする。
講師はそれを見ながら、回答・解説を講義に織りまぜてゆくのだという。
なるほど。
いい仕組みだとおもう。
手を挙げて質問をするよりぐっとハードルが下がる。文章でまとめて質問するほうが論理的な内容になるだろう。
講師にとっても、受講者の理解度がつかみやすいし、質問が文字として記録に残るので次回以降の講義にも活かしやすい。
しかし。
それだったら、もう一箇所に集まって講義をする必要もないのではないだろうか。
講義をネットで生配信して、受講者は自宅で視聴すればいい。どうせ質問はチャットなのだ。
どうせ大学の授業の出席なんてさして重要でないのだ。
そうすると講師は東京にいて、受講者は全国各地にいるなんてことも可能になる。
もしかすると大きな大学だともうやっているかもしれない。
待てよ。
この考えを突きつめていくと、そもそも大学の定員自体が必要なくなるんじゃないか?
入学試験という選抜制度をあたりまえのように認識しているけど、本来は物理的な制約から生まれた制度なんじゃないだろうか。
理想をいえば意欲と能力のある人なら誰でも勉強できるようにしたほうがいい。だけど教室に収容できる人数は物理的な制約がある。だから入学試験をおこなって選抜する。
ネットであれば制約はないに等しい。何万人が視聴しようが、せいぜいサーバーを増強するだけで済む。
だったら「ネット環境さえあれば誰でも受講できるよ! 日本中、いや世界中どこにいたってオーケー。年齢も職業も問いません。八十歳でもいいし、理解できるなら十歳でもいい。勉強したい人は誰でもウエルカム!」とできるし、少なくとも国立大学はそうするのが本来の在り方じゃないだろうか。
まあさすがに試験やレポートは採点の労力があるので人数無制限ってわけにはいかないが、講義に関しては一般無料公開でいいんじゃないだろうか。
もう希望者全員東大生でいいんじゃない?
2020年3月26日木曜日
【読書感想文】語らないことで語る / ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』
本当の戦争の話をしよう
ティム・オブライエン (著) 村上 春樹 (訳)
じっさいに兵士としてベトナム戦争に行き、仲間を失い、敵(と呼べるのかどうか)を殺した著者による戦争小説集。
小説、創作とは書いているが、大部分はほんとうにあったことなんじゃないかな。フィクションとノンフィクションの境界をわざとあいまいに書いているけど。
タイトルのとおり「本当の戦争の話」という感じがする。
ぼくは戦争を経験したことないけどさ。
でもわかるんだよ。作者は本当のことを書こうとしているということが。
何も断定しようとしない。教訓を引きだそうとしない。わかりやすい因果関係を探さない。責任の所在を見つけようとしない。すごく誠実な態度だ。
フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、正確な未来予測ができるのは以下のようなタイプなんだそうだ。
- 自分はまちがっているのでは? という疑いを常に持つ
- 自らの思想信条に重きを置かない
- あいまいなものはあいまいなままにしておく
- 頻繁に検証を重ね、自らのまちがいを認める
ティム・オブライエン氏は、予測力の高いタイプの人間なんだろうなとおもう。
わからないものはわからないものとして扱う。決めつけを避ける。シンプルな法則を見いだそうとしない。
戦争の得体の知れなさをそのまま読者に提示している。
『本当の戦争の話をしよう』を読むと、戦争を一言で語るなら「一言では語れない」なんだろうとおもう。パラドックス。
ぼくは学校で、戦争は単純なものだと教わってきた。
いわく「戦争は悲劇だ」「戦争は残酷だ」「戦争は悪だ」「戦争は二度としてはいけない」。
スローガンとしてはそれでいいのかもしれない。でもそれは本当の戦争の姿を伝えていない。
『水木しげるのラバウル戦記』には、南方に出兵した水木しげる氏が、アンパンを食べられなかったことを何度も悔やんでいたという記述があった。
これもまた戦争の姿だ。
『本当の戦争の話をしよう』には、ガールフレンドのストッキングを首にまきつけている兵士や、意味なく仔牛を殺す兵士や、下品な冗談を言いあう兵士の姿が描かれている。これもまた戦争の本当の姿だ。
「戦争は残酷だ」の一言からは、そういった人間の姿がこぼれ落ちてしまう。笑い、おびえ、踊り、妬み、恥じらい、あきらめ、歌い、ふざける兵士たちの姿が見えなくなってしまう。
本当の戦争は語りつくせない。だからティム・オブライエン氏は語る。とりとめもない話をくりかえすことで。
有史以来人間はさまざまな戦争をしてきたが、ベトナム戦争ほど兵士たちが戦う意味を見いだせなかった戦争はなかなかないだろう(米軍の兵士にとっての話ね)。
祖国や家族を守るためでもない。敵に恨みがあるわけでもない。そもそも敵かどうかもよくわからない。だけど戦わなくちゃいけない。戦っても自国民から感謝されない、それどころか非難を受ける。終わりが見えない。誰と戦っているのかもわからない。
帰還兵のPTSD発症率も高かったという。そりゃそうだろう。
命を削って敵と戦い、味方だとおもっていた人間からも石を投げられるんだもん。
ティム・オブライエン氏は発狂はしなかったかもしれないけど、深く傷を負ったことはまちがいない。
それは「死に直面したから」「仲間の死を目の当たりにしたから」「人を殺したから」なんて単純な理由によるものではない。そうやって語れるようなものではないからこそ、小説を書くことで語らずにはいられないのだろう。
『本当の戦争の話をしよう』は、戦争の悲惨さを伝えるために書かれたような本ではない。
作者自身の魂の救済のために書かれたものだ。
最後に。
これは名文だとおもった文章。
この文章、すごくない?
この文章はチェッカー(テーブルゲーム)について語っているだけ。戦争については何も書いていない。なのに「戦争とはどういうものか」がひしひしと伝わってくる。
書かないことで語る。すげえなあ。
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2020年3月25日水曜日
自動運転車の形状
いろんな会社が自動運転技術を搭載した自動車を開発しようとしている。
試運転の映像を目にすることがあるが、今の自動車と見た目はほぼいっしょだ。
ふとおもう。
自動運転車は、あの形じゃなくていいんじゃないだろうか?
今の自動車の形状はたぶんベストに近いとおもう。
いろんな人が長い間数々の試行錯誤をくりかえして、今の形にたどりついたのだろう。
だからといって、自動運転車が同じ形である必要はない。
むしろ別の形のほうがいいとおもう。
だってまず運転席がいらないわけでしょ。
まあ最初は「必要に応じて人間が運転する」みたいなやりかたをとらざるをえないだろうけど、完全に機械にまかせっきりになったら運転手はいらない。
ということは運転席もいらない。助手席もいらない。今だって助手席の乗員がほんとに助手として働いているのって教習車ぐらいだ。
もっといえばフロントガラスだっていらない。前が見えなくたってかまわない。電車に乗るのと同じ感覚なんだから。電車で前方を見てる乗客って鉄道ファンと子どもだけだもん。
もちろんバックミラーもいらないしウインカーもいらない。
ヘッドライトは……いるか。歩行者のために。
今の自動車は「運転しやすい」「事故に遭ったときに乗員を守る」といった点を重視して設計されているけど、運転が必要なくなり、事故に遭う可能性もほとんどなくなったらエネルギーコストと乗り心地だけ考えればいいことになる。
ほぼ半球形に落ち着くんじゃないだろうか。完全自動運転が実現した社会の自動車は。
空気抵抗も少ないし、ぶつかったときの衝撃も小さくなるし。
テントウムシみたいな形の自動車がいっぱい走ることになる。
半球の周辺部ににエンジン類を積みこむ。すると中はほぼ直方体の部屋になる。
これがいちばん快適に過ごせる。
リクライニング椅子を置き、前には机。
未来の自動車はあんまり揺れないから、車内でひまつぶしができるように机にはパソコン。脇にはひまつぶし用の漫画。
これはあれだ。
漫画喫茶だ。
未来の自動車は走る漫画喫茶だ!
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