2019年12月20日金曜日

六歳と一歳との平日夜

平日夜の過ごし方。
オチも何もないけど、将来自分で読み返したくなるかもしれないので書いておく。


ぼくが家に帰ると、一歳が出迎えてくれる。
「あっ!あっ!」といいながらとたとたと玄関までやってくる。
たいてい何か持っている。
おもちゃだったり、紙切れだったり。あるいはパプリカを口の中に入れている(夕食前はおなかがすいて不機嫌になるのでパプリカを渡されている。パプリカをしゃぶっている間はごきげんになる)。
手にしたおもちゃをぼくに見せてくれる。ぼくの鞄の中身を見ようとする。ぼくの脚にしがみついてくる。

一歳を抱えて手を洗い、リビングに行く。
六歳が寄ってきて「本よんで」「しょうぎしよ」などという。
一歳児の相手をしながら六歳児と将棋を指す。本を読む。最近はドラえもんの漫画を読むことが多い。六歳はもう自分で本を読めるのだが、読んでもらうほうが好きなのだ。
一歳がまとわりつくと料理がしづらいので、妻が料理をしている間に一歳の相手をするのがぼくの仕事だ。

夕食。
一歳がごはんを食べる手伝いをする。最近少しだけフォークやスプーンが使えるようになったが、うまくフォークを刺せないことも多い。刺すのを手伝ってあげる。スプーンでごはんをすくってやる。
コップでお茶を飲めるようになったが、飲んだ後にお茶をわざとこぼすことが多い。こぼさぬようコップに手を添える。
一歳の相手をしながら妻や六歳と話す。保育園でしたことを聞く。大げさに褒めてやったり六歳クイズにわざとまちがえたり。

夕食の後は一歳の歯みがきをする。歯は四本しか生えていない。上の前歯二本と下の前歯二本。いとをかし。四本しかないので歯みがきは一瞬で終わる。
六歳は自分で歯みがきをするが、雑なこときわまりないので仕上げをしてやる。六歳はぼくの膝の上に座って口を開ける。わざと口を閉じたりするので「あー」とか「いー」とか言いながら仕上げをする。
妻が料理や洗い物をし、ぼくが子どもの相手をするという役割分担にいつのまにかなった。ぼくが洗い物をしようとすると妻はあからさまにイヤそうな顔をして「それより子どもの相手してあげて」という。ぼくの洗い物が雑なのが許せないのだ。

風呂を沸かしている間に自分の歯みがきをし、一歳と六歳と遊ぶ。絵本を読んだり風船で遊んだり。
一歳と六歳と風呂に入る。一歳を膝の上に乗せて洗う。六歳は自分で身体を洗う。
一歳を湯船に漬ける。おぼれないように六歳が身体を支えてくれる。助かる。ひとりめのときはたいへんだった。
その間に自分の髪と身体を洗い、一歳と六歳と湯船に漬かる。狭いがリラックスできる。ペットボトルや水風船や水鉄砲で遊ぶ。
ぼくが先に出て身体を拭いてパジャマを着てから、一歳児を風呂から出し保湿クリームを塗りたくる。おむつを履かせる。パジャマを着せる。たいていその途中で逃げるので追いかけながら服を着せる。
次に六歳にも保湿クリームを塗ってやる。六歳はすぐにくすぐったがる。しかし自分では塗らずに必ず「お父さんぬって」と言いにくる。

妻が風呂に入っている間にまた一歳と六歳と遊ぶ。ぼくのおなかの上に二人を乗せたり、寝室でかくれんぼをしたり。ぼくと六歳が布団の下に隠れ、一歳が布団をめくって「あっ!あっ!」と言う。

妻が風呂から出てくると一歳はおっぱいをもらいにいく。
六歳は「やっと行った!」と言って本をぼくのところに持ってくる。一歳がいるとじゃまをされるので落ちついて本を読めないのだ。
最近は長めの児童文学を読むようになったので読みおわるまでに三十分ぐらいかかる。端からぼく、六歳、妻で寝る。一歳の寝る場所は決まってない。あちこち移動して好きなところで寝る。
六歳はすぐ寝る。ぼくも少しだけ本を読むがすぐ眠くなって寝る。

2019年12月17日火曜日

犯罪者予備軍として生きる


犯罪者予備軍として生きている。

その意識が芽生えたのはいつからだろう。
たぶん二十歳を過ぎたあたりから。そして無職だった期間がいちばんその気持ちが強かった。

といっても、べつに犯罪を企図しているわけではない。
「周囲の人から犯罪者とおもわれているかもしれない」という思いを持って日々生きている、ということだ。


たとえばひとりで公園に行く。
ベンチに座ってぼんやりする。

法的にはなんの問題もない。公園は市民の憩いの場だからだ。

だが、「世間の目」的にはどうだろう。
二十歳を過ぎたいい大人が、だらしない恰好で、何をするでもなく、公園のベンチに座っている。
不審者ではないだろうか。
小さい子どもを連れて公園に来ているお母さんは警戒しないだろうか。
警戒する。
ぼくが逆の立場なら「なんだあいつ」とおもう。


「男女で公園のベンチに座って話しこんでいる」「子どもが公園でサッカーをしている」「お父さんが子どもを連れて散歩している」ならまったく問題ない。
「スーツ姿の男性が公園のベンチでお弁当を食べている」はぎりぎりセーフ。目的がわかるから。
だが「普段着の大人の男がひとり公園に座っている」はアウト。法的にはセーフでも“世間的”にはアウト。
むしろ「明らかに家のなさそうなボロボロの服のおじさんが公園で空き缶を集めている」ほうがまだ目的がわかりやすいだけマシかもしれない。少なくとも「なんでこんなとこにいるんだよ」という目は向けられないだろう。

世間の目なんて気にしなくてもいい! と言うのはかんたんだが、社会で生きるぼくらはそんなに強くない。
“世間”から白い眼を浴びながら生きていくのはすごくしんどい。“世間”にあわせるほうが楽だ。少なくともぼくにとっては。

だからぼくは用もないのに公園に行ったりしない。
もし行くならこぎれいな恰好をする。
本を読む、たいして飲みたいわけでもないコーヒーを飲むなどして「目的のある人」であることをアピールする。


また、ぼくの所属する会社は服装自由だが、ぼくはスーツを着て出勤している。
なぜならスーツを着ているだけで、“世間”からの風当たりはぐっとやわらぐから。
サングラスにジャージ姿よりも、スーツ姿のほうが見知らぬ人から警戒されずに済むから。

高校生のときは、まだぼくは「犯罪者予備軍」ではなかった。
人目を気にせず好きなことをできた。
学校帰りに公園に行ってベンチの上にひっくりかえって昼寝をしたこともある。
周囲の人からは「変な学生」とおもわれるかもしれないが、変質者には見えないだろう。学校の制服、という帰属を表すサインを持っていたから。

屋根の上によじのぼって本を読んでいたこともある。
近くを歩いている人からしたら「あそこの息子さん変な子ね」とはおもっただろうが、「警察に通報しなきゃ!」とまではおもわなかっただろう。学生の特権だ。

でも今のぼくは、公園で寝ることも意味なく屋根によじのぼることもできない。
通報されかねないから。
少なくとも「変わった子ね」という生あたたかい視線ではなく、「ヤバい人だ」という凍てつく視線を向けられることは必至だ。

なぜなら、いい歳した男は存在自体が犯罪者予備軍だからだ。



子どもが生まれたことで、ぼくの犯罪者予備性はぐっとやわらいだ。

ベビーカーを押していると、赤ちゃんをだっこしていると、子どもと手をつないでいると、どこで何をしていても不審者扱いされない。

昼日中に公園にいても、道端に立ち止まっても、ショッピングモールの女性下着売場の前を歩いても、エレベーターで女子高生と乗り合わせても、「あの男こんなとこで何やってんのかしら。犯罪者じゃないの」という視線を感じない。

だって子ども連れだからな! 子連れは無敵だ。子どもはフリーパス。どこにいても許される。

そういや貧しい国だと、乞食に赤ちゃんを貸す商売があると聞く。
子連れの乞食のほうが多く恵んでもらえるからだそうだ。
子どもは免罪符。子どもを連れているだけで世間はぐっと優しくなる。

そして、子どもを連れて公園に行くぼくはこうおもう。
「なんだあの男、昼間っからベンチに座って。怪しいやつだ。うちの子に変なことするんじゃねえだろうな」と。


2019年12月16日月曜日

ハナクリーンの話

ハナクリーンSの話をしようとおもう。

知っているだろうか、ハナクリーンSを。
その名の通り、鼻をクリーンにする道具。またの名を、右の鼻から入れた液体を左の鼻から出す装置。

作っているのが東京鼻科学研究所で、販売しているのがティー・ビー・ケー。
なるほど、Tokyo Bikagaku KenkyujoでTBKなのだな。しらんけど。

ハナクリーン公式ホームページ

東京鼻科学研究所の沿革を見ると、
1979年2月 創業 鼻洗浄器「ハナクリーン」発売
1987年9月 鼻洗浄器「ニューハナクリーン」発売
1992年9月 鼻洗スプレー「ハナクリーンミニ」発売
1994年11月 鼻洗スプレー「ハナクリーンミニ30」発売
1995年9月 鼻洗浄器「ハナクリーンEX」発売
1997年9月 鼻洗スプレー「ぐ~クリーン」発売
1998年9月 鼻洗浄器「ハナクリーンα」発売
1999年9月 鼻洗スプレー「ハナぴゅあ」発売
1999年11月 鼻洗浄器「ハナクリーンS」発売
……と続く。一貫して鼻を洗うことしかやっていない。実に潔い。
創業以来40年、一途に人々の鼻をきれいにすることだけを考えてやってきたのだ。なんと尊い考えだろう。スポーツ選手とか芸能人ではなく、こういう会社にこそ国民栄誉賞をあげてほしい。

と、ぼくがさっき知ったばかりのこの会社を絶賛するのは、昨日試してみたハナクリーンSの効果がすばらしかったからだ。

添付しているサーレという薬をお湯で溶かし、ハナクリーンSを使って鼻に注ぎこむ。

おお、ぜんぜん痛くない。
ちょうどいい濃度、ちょうどいい温度なのでまったく痛くないのだ。ぬるま湯を飲むのと同じで、ただ流れこむだけ。
はじめはおそるおそるやっていたのだが徐々に勢いよく入れる。そして鼻をかむ。
これを何度かくりかえすと、鼻の奥にたまっていた鼻水が一気に流れ出てすっきりする。
鼻が通るようになり、右の鼻から入れた液体が左の鼻から出てくる。口からも出てくる。鏡を見るとめちゃくちゃマヌケな姿だが、これが気持ちいい。

水道管のパイプ洗浄剤ってあるじゃない。ぬめり詰まりをごぼっととるやつ。あれをやってる感覚。快感。
あー、人間って管なんだなーと実感する。
管なんだよね。鼻や口から肛門までの長い管。管のまわりに、管をとおるものを消化する器官や、それらを支える骨や筋肉がついている。単純化すればただの管。
溜まりに溜まった鼻水を洗い流すと、管に戻れる気がする。


何かの本で(たぶん『完全自殺マニュアル』だったとおもう)、服薬自殺に失敗したときは胃洗浄という処置をとられるがそれがめちゃくちゃ苦しい、と書いてあった。
胃にチューブをつっこんで液体を流し、胃を洗い流すのだという。

苦しいだろうな。
でも、終わったあとはめちゃくちゃすっきりするんじゃないかな。
胃や食道にこびりついた汚れを一気に洗い流すのだから、きっと気持ちいいだろう。
ちょっと経験してみたい気もする。でも苦しいのはイヤだな。

ぼくが死んだら、口から高圧の水を一気に流しこんで、食道や胃や腸のものを全部ずばずばずばーっと洗い流してほしい。
想像するだけでめちゃくちゃ気持ちよさそうだ。死んでるけど。汚いから誰もやりたくないだろうけど。
ただ、まちがっても入口と出口を逆にはしないでほしい……。

2019年12月15日日曜日

ツイートまとめ 2019年2月



栄枯盛衰


災害


漢字能力


こなきじじい

例外

牧歌的

暫定一位

目出し帽

ジャム

分別

褒め言葉

揺れる想い

飲むヨーグルト

持つとこ

ひげ


自動運転車

懐かし

かわいがられる場

最先端

知識人

2019年12月13日金曜日

【読書感想文】怒るな! けれど怒りを示せ! / パオロ・マッツァリーノ『日本人のための怒りかた講座』

日本人のための怒りかた講座

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
「怒りは悪」と思われがち。しかし、怒りを否定することは人間らしさを否定することです。仮に怒りを抑えたとしてもストレスがたまるだけで問題は解決しません。必要なのはコミュニケーション。身の回りの不愉快な出来事を引き起こしている相手と向き合い、誤解されずに怒りをきちんと伝える技術です。「知られざる近現代マナー史」を参照しながら、具体的な「怒る技術」を伝授する一冊。

ぼくも「怒れない日本人」だった。
腹が立つことがあっても
「いちいち波風を立てるより自分が我慢すればいいや」
とおもうことが多い。

でも最近ちょっとは見ず知らずの他人に注意できるようになった。

ついこないだも、マンションのエレベーター内で犬を歩かせている人に(うちのマンションをペット禁止ではないが共用スペースを歩かせるのは禁止)「犬は歩かせないでくださいね」と言った。
電車の列に割り込もうとしてくるおばさんに「後ろに並んでくださいね」と注意したこともある。

ぼくが他人に注意できるようになったのは子育てをしているせいかもしれない。
子どもと接しているとどうしても叱ることが増える。
子どもは一般常識を持っていないから「言わなくてもいつかわかってくれるだろ」が通用しない。言わなきゃわからない(ほんとは大人もそうなんだけど)。
それに「この子をそこそこの常識を持った大人に育てる」という社会に対する使命感があるから、「自分が我慢すればいいや」というわけにもいかない。

で、子ども相手に叱っているとよその子も叱れるようになる。よその子を叱れるようになるとよその大人も叱れるようになる(怖い人のぞく)。

そのうちに有効な注意の仕方もわかってきた。
怒りをぶつけても反発されるだけ、あいまいな叱り方をしても響かない、皮肉も通じない、具体的に「〇〇して」と要求を伝えるのがいちばん有効。

これは三歳児相手でもおっさんでもおばさんでも年寄りでもだいたい同じだ。
「こら!」とか「周りの迷惑を考えろ!」なんて叱っても相手を怒らせるだけで意味がない。迷惑行為をする人はそれがたいした迷惑じゃないとおもっているからやっているわけで。
自分の常識を押しつけようとしたってうまくいくわけがない。
「あなたがやっている〇〇は私にとって不愉快だから今この場ではやめてください」
これぐらいが適切だし、限界だとおもう。いついかなるときも正しい行いを他人に求める権利までは市民は持っていない。
「タバコのポイ捨てはやめてくれ」と言われて心を入れ替えてすっぱりやめるような人間はそもそもはじめからポイ捨てしないでしょう。



マッツァリーノ氏の主張はこうだ。
迷惑をかけている他人に注意すべき。
我慢したって自分のストレスが溜まるだけ。
注意したって改めてもらえるとはかぎらないが言わないよりは言ったほうが可能性があるだけマシ。
ただし深追いはいけない。聞き入れられなくてもあきらめる。喧嘩をしたり相手を貶めるのが目的ではなく、行動を改めてほしいだけなのだから。
できる範囲でかまわない。怖い相手には言わなくたっていい。
首尾一貫してなくていい。自分が注意したいときだけでいい。

しごくもっともだ。
(ちなみに後半の体罰やペットの話はおもしろいけどテーマがずれるし氏のブログの再掲なので、この本にまとめるのはいかがなものか)

タイトルには「怒りかた講座」とあるが、これは適切ではない(あえて不適切な言葉を使っているのだろう)。
氏が主張し、実践するのは「怒る」ではなく「交渉する」だ。
「それをやめてくれないか」と、相手への敬意をある程度示した上で頼む。
正義のためではない。あくまで自分が快適に生きるために。
 なにしろ、大正一三年の読売新聞の投書欄に、「近頃は私のような年寄りが電車に乗っても若い人たちが席を譲ってくれない。本を読むふりなんかして腹が立つ」と七○歳のおばあさんが投書してるんですよ。社会道徳は戦後やバブル崩壊後に廃れたわけじゃないんです。戦前、明治大正の時代から、状況はまったく変わってません。
 そして、そういったぶしつけなこどもやオトナの行動を見て憤慨するも、その場で面と向かって相手にいえない人がほとんどなのも、いまと同じ。その場でいえず、あとで新聞に投書してうっぷんを晴らす気弱な正義漢がたくさんいたのも、いまと変わりません。いまならさしずめ、その場でいえなかった怒りを、あとでブログやツイッターに書きこむのでしょう。メディアが変わっただけで、やってることは一緒です。
 つまり、勝手なことをする人間と、それを不愉快に思いながらも叱れない人がいて、結局は勝手な人間がのさばり続けるという世間の構図は、戦前もいまも、ずーっと変わっていないのです。
 戦前の保守教育も戦後のリベラル教育も、公徳心や社会道徳を育むという目標いては、どちらも失敗しています。これが、庶民史の真実です。
時代が変わっても人間の性質は変わらない。
昔も今も迷惑な人間はいて、それに眉をひそめる人間もいて、けれどその大半は見て見ぬふり。

マッツァリーノ氏は言う。「昔は悪いことをしたら叱ってくれるがんこ親父がいたもんだ」と語る人間は多いが「私は悪いやつを叱る」という人間は少ない、と。
みんな「誰かが嫌な役目を引き受けてくれないかな」と虫のいい期待を抱いているだけで、自分がなんとかしようとはおもわない。これでは社会は変わらない。

とはいえ社会は少しずつ変わっている。
全体としては、迷惑行為は減ってきているとはおもう。ゆるやかにではあるけど。

昔よりは分煙もされているし、セクハラ、パワハラ、アルハラなんて言葉もできて弱い立場の権利が守られるようになってきた。
少しずつだけど「誰もが暮らしやすい社会」に向けて前進してきている。

それは、わずかではあるけど声を上げた人がいるからだろう。
煙たがられても声を上げた人が。
たぶん最初に「セクハラはやめて!」と言いだした人は「なんだよブスのくせに。お高くとまってんじゃねえよ」的な反応を浴びたことだろう。
それでも、そういう人がいたから多くの人が後に続きやすくなったのだ。
迷惑なことは我慢をせずに声を上げたほうがいい。無理のない範囲で。
 なかなか怒らない人は、精神力が強いのでしょうか。人格者なのでしょうか。そうとはかぎりません。ただ単に鈍感なだけ、いわゆる空気の読めない人である可能性も高いのです。自分のことに怒らない人は、他人への共感能力も低いのです。人格者どころか、他人の痛みや苦しみを想像できない鈍い人なのかもしれません。
 そういうタイプの人は、自分も平気なんだから、他人もこれくらい平気だろう、こんなことで苦しんだり困ったりするわけがない、と勝手に決めつけて、ガマンや泣き寝入りを迫る薄情な人間です。
 一方で、ささいなことで怒るのだけど、じつは、他人に対しても人一倍気配りをしてる人もいます。他人の無神経さに敏感に反応して腹を立てるからこそ、自分も他人に不快な思いをさせぬよう配慮するのでしょう。
 ささいなことでは怒らない人が、必ずしも人間的にすぐれているとはかぎらないのです。怒らない人は他人や世の中のことに無関心な、心の冷たい人なのかもしれません。怒らないからやさしい人だと考えるのもまちがいです。やさしい人だからこそ、不正や不条理に対して人一倍腹を立てるんです。

マッツァリーノ氏も書いているが、「こんな小さなこと」で怒れない人は、大きなことだともっと怒れない。

政治家の不正に声を上げたときに「そんな些細なことを問題視するよりもっと大事なことがあるだろ」と言う人がいるが、その手の人が「もっと大事なこと」をきちんと批判しているのを見たことがない。

現代人の脳がネアンデルタール人よりも小さいのは「自己家畜化」したからだという説があるが、「こんなささいなことで怒るなんて」と抑えている人は自己家畜化している真っ最中なのだろう。

感情を制御できない大人はみっともないけど、怒りの感情を完全に抑えることは社会を悪くする。
学校でも職場でも怒りを抑えることばかり求められるけど、抑えるんじゃなく適正な言葉で表出する方法を教えないといけないね。

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【読書感想文】伝統には価値がない / パオロ・マッツァリーノ『歴史の「普通」ってなんですか?』



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