2018年12月5日水曜日

手作りカヌーと冬のプール


「おい犬犬、カヌーつくるから放課後、詰所にこい」
高校一年生の冬。現代社会の授業中、H先生から突然声をかけられた。

いろいろと説明が必要だ。



詰所というのは、北校舎一階にある小部屋のこと。
H先生はなぜか学校内に自分だけの部屋を持っていて、職員室にも社会科準備室にもめったにおらず、詰所にいることが多かった。
公立高校で、いくらベテランとはいえ何の権限もない一教師がなぜ自分だけの部屋を持っていたのかは謎だ。
たぶん「空いている部屋に勝手にH先生が棲みついて、校長含め誰もが黙認していた」のだと思う。

H先生はとにかく変わった人だった。
五十歳を過ぎていたがトンボが大好きで、よく巨大な虫取り網を持って学校の周りをうろうろしていた。
沖縄出身で、幼いころにはトンボを追いかけているうちに基地内に入りこんでしまい、米軍に捕まったこともあるそうだ。

野外観察同好会という部活(同好会という名称だが一応学校公認の部活だった)の顧問をしていた。
ぼくがどういういきさつでぼくが野外観察同好会に入ったのかはおぼえていない。部員は三人だった。まったく口を聞かない三年生と、バスケ部とかけもちしているぼくの友人。
三年生は引退し、友人はバスケ部の練習が忙しいので実質ぼくひとりだけの部活だった。

野外観察同好会の活動は、びっくりするぐらい何もなかった。
入部したものの三か月ほど何もしない。あまりに何もしないのを不安に思ってH先生に「何かしないんですか」と訊いたら、「じゃあトンボ取りに行くか」と、ぼくと友人を郊外の山まで連れて行ってくれた。
山歩きをして、釣りをした。その間H先生はずっとトンボを追いかけていた。

文化祭では、文科系の部活は何か出展しないといけない。美術部は絵や彫刻を出展するし、吹奏楽部や軽音部は演奏をする。
だがぼくらは何もしなかった。文化祭当日、生物室には「野外観察同好会」名義でトンボの写真が飾られていた。H先生がひとりでやったらしい。

ぼくは部員というよりH先生の助手、というか手下のような扱いだった。
H先生が授業で使う資料をよく運ばされた。
あるとき、女子生徒が「コートをかけるハンガーがないのが不便」と漏らすのを聞いたH先生が「ハンガー掛けをつくろう」と思いたった。
H先生はどこからか板や棒切れを持ってきて、それをぼくに運ばせた。
そして教室の後ろの掲示板にがんがん釘を打ちつけてハンガー掛けを作ってしまった。「ここに釘打っていいんですか」と訊くと「知らん!」と言われた。



話を戻す。
どういうわけか、H先生は急にカヌーを作りたくなったらしい。
カヌーなんて作れるの? と、疑問に思った。アボリジニーが大きな丸太をくりぬいてカヌーを作っているのをテレビで見たような気がする。まさかあれ?

と思ったが、ちゃんと「手作りカヌーキット」みたいなものがあるのだった。
ぼくとH先生は放課後、一週間ほどかけてカヌーを作りあげた。板を組み立て、最後には防水シートでぐるぐる巻きにした。手作り感満載のカヌーだった。
「これってカヌーというよりカヤックっていうんじゃないですか?」と訊くと「カヤック? なんやそれ。これはカヌーや!」と言われた。H先生がカヌーというからカヌーなのだ。

完成した余韻にひたる間もなく、「犬犬、そっち持て」とカヌーを運ばされた。車にでも積むのかと思ったら、着いたところはプールだった。
冬の屋外プール。もちろん誰もいない。
H先生はプール入口の鍵を開けた。ぼくらは手作りカヌーをプールに浮かべた。すぐにぶくぶく沈むのではないかと心配したが、意外とちゃんと浮いていた。
近くで部活をやっていたバレー部やテニス部の女子生徒がなんだなんだと集まってきた。またH先生が変なことやろうとしてる。嫌な予感。
「よっしゃ、犬犬、先に乗っていいぞ」
ぐええ。やはり。先に乗る名誉を与えられたというより、実験台にされた形だ。冬のプール。もちろん掃除もしていないから藻が繁殖して水は緑色。落ちたらタダでは済まない。
「いやここは先生が」
「何を言ってるんや」
半ばむりやりカヌーに乗せられた。おっかなびっくりだ。なにしろカヌー自体、人生で数回しか乗ったことがないのだ。この緊張感。寒空の下で緑色の水にはまるのはつらすぎる。おまけにバレー部やテニス部の女子たちが見ているのに。

転覆しそうになるたびにわあわあ言っていたが、しばらく乗っているうちにコツをつかめてきた。乗るときが一番揺れるが、いったん落ち着いてしまえば安定するし、プールだから波もない。もうひっくりかえりそうになることはない。
集まっていた女子生徒たちは「なーんだ」という顔で練習に戻っていった。明らかにぼくが転覆して緑色の水にはまることを期待していたのだ。残念だったな!



数ヶ月後、遠足で京都の嵐山に行った。
遠足は昼過ぎに解散。
見ると、H先生がカヌーを持っている。
「先生、まさか……」
H先生はおもしろくもなさそうに言った。「これで帰るんや。おまえも乗るか?」
ぼくは即座に断った。学校のプールとはわけがちがう。

だがH先生は手作りカヌーで桂川を下り、五時間かけて無事に淀川までたどり着いたらしい。そしてカヌーをかついで阪急電車に乗って帰ったのだそうだ。

後からその話を聞いて、やっぱりやっておけばよかったなあと後悔した。
カヌーは一人乗りだったけど。


2018年12月4日火曜日

【読書感想文】ちゃんとしてることにがっかり / 綿矢 りさ『勝手にふるえてろ』


『勝手にふるえてろ』

綿矢 りさ

内容(e-honより)
江藤良香、26歳。中学時代の同級生への片思い以外恋愛経験ナシ。おたく期が長かったせいで現実世界にうまく順応できないヨシカだったが、熱烈に愛してくる彼が出現!理想と現実のはざまで揺れ動くヨシカは時に悩み、時に暴走しながら現実の扉を開けてゆく。妄想力爆発のキュートな恋愛小説が待望の文庫化。

三ヶ月くらい前に映画『勝手にふるえてろ』のDVDを観た。
映画がおもしろかったので原作小説も手に取ってみたのだが、
「あれ、なんかこぢんまりしてる……」という印象。

映画を先に観たのがよくなかった。
映画のヨシカは突きぬけたキャラクターだったのだが、それに比べると小説のヨシカはずっとまとも。拍子抜けしてしまった。

映画版の主人公・ヨシカは、人とコミュニケーションがとれない、他人の気持ちを理解しようとしない、そのくせ行動力だけはある、ひたすらいかれた人間だった。傍から見ているにはおもしろいけどお近づきにはなりたくないタイプ。

小説版のヨシカはちゃんと他人の痛みが理解できるし(理解するのが遅いけど)、自分の行動を反省したりもする。
小説を先に読んでから映画を観たら、二度楽しめたかもしれないなあ。
 初めて付き合うのは好きな人って決めてた。自分に嘘をつきたくないし、逆に好きじゃなきゃ付き合えないし。いつか来留美が言ったみたいに私もまた自分自身を、いまどきめずらしいくらい純情で、純愛を貫いていると思っていた。初恋の人をいまだに想っている自分が好きだった。でもいまニを前にして、その考えが純情どころかうす汚い気さえする。どうして好きになった人としか付き合わない。どうして自分を好きになってくれた人には目もくれない。自分の純情だけ大切にして、他人の純情には無関心だなんて。ただ勝手なだけだ。付き合ってみて、それでも好きになれないならしょうがない、でも相手の純情に応えて試してみても、いいじゃないか。自分の直感だけを信じず、相手の直感を信じるのも大切かもしれない。ニは私とうまくいくと確信しているのだから。
(※注 「ニ」ってのは自分に言い寄ってくる男につけたあだ名。ひどいあだ名だ)
なんかちゃんとしてるなー。ちゃんとしてない人が出てくる小説が読みたかったんだけどな。

この「自分の純情だけ大切にして、他人の純情には無関心」ってのは、まさしく自分に思いあたる。
学生時代、すごく好きな女の子に対しては「これだけ好きなんだから付き合ってくれてもいいじゃない。イヤだったらすぐ別れてくれていいから。まずはぼくという人間を知ってよ」と思ってた。
じゃあ、自分が好きでない子のことを知ろうとしてたかというと、百パーセントのノーだ。好きでない子のことは少しも知ろうとしていなかった。

若いときに「自分の直感だけを信じず、相手の直感を信じるのも大切かもしれない」という境地に達していれば、ずっと楽に生きられただろうなあ。



『仲良くしようか』という短篇も収録されているが、こっちはどんな内容かぜんぜんおぼえてない。二日前に読み終わったばかりなのに。そんな感じの短篇でした。

【関連記事】

【DVD鑑賞】『勝手にふるえてろ』



 その他の読書感想文はこちら


2018年12月3日月曜日

ヤンキー的教育方針


娘の保育園の友だちのお父さん。
いかにも昔はヤンチャしてたんだろうなーってタイプの人。言葉遣いもやや荒っぽい(言葉だけね)。

そのお父さんと話す機会があったのだが、なるほど、教育方針もヤンキー的だ。
息子に対しての発言が、

「女の子には優しくしたらなあかんで」 とか

「男やねんから、泣かんとがんばれ」 とか

「やられたらやりかえさなあかん」 とか。


ジェンダーフリーとかポリティカルコレクトネスとかマイノリティへの配慮なんてものは気にも留めない。

おおヤンキー的だと思ったのだけれど、よく考えたらちょっと前まではこれがごくごくふつうな子育て方針だったのだ。
いや今だってこういう方針の家庭はめずらしくないだろう。



ぼくが大学で少し教育学をかじったときは、ジェンダーの再生産だとかの話題が大人気だった。
そういう時代だったし、指導教官も女性だった。
「男は女の子を守ったらなあかん」なんて口が裂けても言ってはいけない雰囲気だった。

だから「男は強くなくちゃいけない」とか「女の子なんだからおしとやかに」なんてぜったいに口にしてはいけないと思っていたし、自分の子に対してもそういった発言はしないように気を付けていた。

娘が
「女同士は結婚できないねんで」
と言ったときは
「んー、でも女の人が好きな女の人もいるしね。今は結婚できないけど将来的には女同士でも結婚できるようになるかもしれないよ」
と説明してきたし、

娘が
「男やのにスカートはくなんてヘン!」
と言ったときは
「たしかにスカートをはくのは女の人が多いけど、男の人がはいちゃいけないっていう決まりはないんだし、他人の恰好を笑ったらだめだよ」
と教えてきた。

世の中にはいろんな趣味嗜好の人がいるから、それぞれに配慮しないといけない。主流派の考えを他人に押しつける人間になってはいけない。
と、ぼくなりに娘に伝えてきたつもりだ。
五歳の娘にそれが伝わっているかはわからないけど。



そんな配慮を一瞬で吹き飛ばすような、「男やねんから女の子には優しくしたらなあかんで」だ。

ううむ。
「男やねんから女の子には優しくしたらなあかんで」のほうが正解なのかもしれない。正しくはなくても、生きていく上ではこっちが正解。
「女同士で恋愛感情を持つのはおかしい」「男がスカートをはくなんてヘン!」も、道義的には正しくない。
でもこういう価値観を持っていたほうがずっと楽に生きられる(ぼく自身、そういう価値観を持っている。価値観と理解は同じではない)。

「男は女の子には優しくしたらなあかん」は性差別的かもしれない。
でも「男だから女に優しくする!」と信じている男のほうが
「いや、男だから、女だからって優しさに差をつけるのはおかしい!」という男よりもモテることもまた事実。


政治的正しさよりもヤンキー的マッチョな価値観を持っていたほうが世の中をうまく泳いでいけるんだろうな。
自分の子にどちらを教えるのが正解なのか、考えているがまだ答えは出ない。

2018年12月2日日曜日

ツイートまとめ 2018年10月


赤子

電話番号

部室

ムリ

メロス

歯ブラシブラシ

carp

親孝行

イケメン代表

目障り

復活

2018年11月30日金曜日

数学で百点をとる方法


はるか昔の自慢。

高校二年生のとき、数Bのテストが五回あったが(一学期中間、期末、二学期中間、期末、学年末)、ぼくはそのすべてで百点をとった。
ちなみに数Ⅱでも五回中三回百点をとり、あとの二回も九十七点ぐらいだった。

これはすごいことだと胸を張って言える。
ぼくが通っていたのはそこそこの進学校だったから、決して易しい問題ではない。
それなのに五回連続百点。すごい。
数学教師ですら何も言ってくれなかったから自分で言うけど、すごい。


数学が得意だった人ならわかると思うが、百点をとるのと九十五点をとるのは難しさがぜんぜんちがう
九十五点をとるのは、教科書に書いてあることを完璧に理解すればできる。
これはそこまでむずかしいことじゃない。基礎ができている人であれば、時間をかけさえすれば誰でもできる。
だって教科書というのは、本来「それを使う生徒全員がすべて理解できるようになる」ために作っているものだもの。
「一部の特殊な人にしか理解できないこと」は教科書には載っていないのだから。

教科書を完璧に理解したとしても、百点をとるのはむずかしい。
数学には計算が必要である以上ミスはつきものだ。

数学で百点をとるためにはチェックが欠かせない。
少なくとも二回、できれば三回解いてみる。そうしないと百点はとれない。まして五回連続百点など。

六十分のテストであればどんなに遅くても三十分以内にはすべて解きおわらなければならない。
二十分かけてもう一度すべての問題を解く(二回目は早く解ける)。
残りの十分でざっとチェックする。
ここまでやればほとんどのミスは防げる。

つまり確実に百点をとるためには、教科書の内容を完全に理解しているだけでは足りず、「とにかく早く解く」ことが必要になる。
一度目は雑でいいからとにかく早くやる。他の人の二倍以上の速さで解く。これだけで、かなりの確率で百点をとれる。

この方法で、センター試験でもぼくは満点をとった。




このやり方は仕事をする上でもたいへん役に立っている。

ミスをしないためには「とにかく丁寧にやる」ことが大事だと思っている人がいる。
ぼくから言わせると大間違いだ。そんなことではぜったいに百点はとれない。
大事なのは「雑でもいいからとにかく早くやる」だ。

一週間以内に企画をつくらないといけないのであれば、二日でつくってしまう。それを提出する。
そうすれば「伝え忘れていたけどこんな資料もほしいんだ」と言われたときにも「こっちが意図していたものとぜんぜん違いますね」となったときにも、修正できる。

早くやって時間を余らせれば見直す余裕もできるし、間違えたときに修正もできる。
結果的に失敗を防げる。


試験終了のチャイムが鳴る前に見つけたミスはミスじゃない。