2018年6月1日金曜日

【読書感想】トマス・ハリス『羊たちの沈黙』


『羊たちの沈黙』

トマス・ハリス(著) 菊池 光(訳)

内容(e-honより)
FBIアカデミイの訓練生スターリングは、9人の患者を殺害して収監されている精神科医レクター博士から〈バッファロゥ・ビル事件〉に関する示唆を与えられた。バッファロゥ・ビルとは、これまでに5人の若い女性を殺して皮膚を剥ぎ取った犯人のあだ名である。「こんどは頭皮を剥ぐだろう」レクター博士はそう予言した…。不気味な連続殺人事件を追う出色のハード・サスペンス。

有名サスペンス映画の原作。映画のほうは十年ほど前に観たが、ショッキングなシーンは印象に残ったが(スターリングとレクター博士のはじめての面会シーンとか、翌日の自殺の一件とか、脱走シーンとか)、細部についてはよく理解できなかった。
なぜレクター博士はスターリングに協力するのかとか、レクター博士の的確すぎる推理の理由とか。

で、原作を読んでみたのだけれど、レクター博士の行動原理についてはやっぱりよくわからない。
でもこれはこれでいいのだろう。わからないから彼の異常性は際立つし、また彼の頭脳の明晰さも光る。

映画だとレクター博士は超人的なひらめきで犯人を突き止めているような印象を受けたけど、小説ではレクター博士が犯人にたどりついた経緯がしっかり書かれている。「理解できないぐらいの突飛な発想をする天才」ではなく「地に足のついた天才」であり、説得力が増している。
だが、総合的に見ると映画のほうがわかりやすい。
登場人物たちの心情は伝わってこないし、文章はかなり癖がある。ストーリーとほとんど関係のない会話やエピソードも多い。何も知らない状態でこの小説を手に取っていたら途中で投げだしていたかもしれない。



レクター博士は、残忍、紳士的、醜悪、慈悲深い、優秀、非人道的、冷徹、凶暴、知性的、快楽的。ありとあらゆる性質を兼ねそろえたキャラクターだ。一言でいうと「超やべえやつ」。
改めて読んでみるとレクター博士の登場シーンはそう多くない。だが主人公スターリングよりも圧倒的な存在感を残している。

大柄な女性の皮を剥ぐ連続殺人犯、死体の喉に詰まっていた蛾の繭、過去の記憶の中にある屠殺牧場、被害者女性が閉じこめられている地下室など不気味な小道具がそろっているが、どれもレクター博士の存在の前ではかすんでしまう。
「女性の皮を剥いで自分が着る服を作りたい」という願望を持った異常殺人犯ですら、レクター博士に比べればまだ理解できそうな気がする。
なにしろレクター博士はその猟奇的殺人犯の内面をぴたりと言い当ててしまうのだ。

レクター博士の存在こそがこの本の魅力であり、また欠点でもある。読んでいても「バッファロゥ・ビルを追う」という本筋よりもレクター博士の動向のほうが気になってしかたがない。
読みながら「そういや映画でこんなシーンあったな」と思いだしながら読んでいたのだが、そのほとんどがレクター博士のシーンだった。レクター博士が脱走するシーンは強烈な印象に残っているのに、バッファロゥ・ビルの逮捕シーンなどはまったく覚えていなかった。

さまざまなフィクションにマッド・サイエンティストのキャラクターは出てくるが、そのマッドっぷりにおいて、そして存在感においてレクター博士の右に出るものはそういないだろうね。


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2018年5月31日木曜日

トリケラトプスと赤い羽根共同募金


娘には、くだらないことにおこづかいを使ってほしいと思う。

娘はまだ四歳なのでおこづかいはあげてないけど、お年玉をもらったりしているので数千円の貯金がある。
そういうお金は、なるべくくだらないことに遣ってほしい。

本を買ったり鉛筆を買ったりしないでほしい。そういうお金はぼくが出してあげる。
お菓子も、食べすぎない程度なら買ってあげる。
子どものお金は、大人が思いもよらないような、眉をひそめるようなものに遣うのがいい。


これは今年のお正月に娘が買ったトリケラトプスだ。1,500円した。

いい。すごくいい。大人だったらこんなものは買わない。
買うにしても、もっと小さいやつか、もっと精巧なやつか、もっと安いやつにする。
でかくて、ちゃちで、そこそこの値段がするトリケラトプスを大人は買わない。

娘が「このトリケラトプス買う!」といったとき、「えー、これ買うのー」と思ってしまった。でもまあいいかと思いなおした。
お金の価値もよくわかっていない四歳児が買わなくて誰がこのトリケラトプスを買うんだ。このトリケラトプスは今、うちの娘に買われるために作られたのだ、と。


思えばぼくも子どものときはわけのわからないものにお金を遣ってきた。
今でもいちばん意味わかんないのは、小学一年生のとき、赤い羽根共同募金に全財産(八百円ぐらい)を寄付したときだ。競艇場でおっさんが帰りの電車賃までレースにつっこんでしまうように、ぼくも全財産を募金箱につっこんだ。もちろん競艇場のおっさんと同じく何も得られなかった。赤い羽根はもらったけど、あれは寄付しなくてももらえる。

べつに善意でやったわけではない。何もわかっていなかっただけだ。先生に「おこづかいの中からいくらか入れてね」といわれたから、「ふーん。そういうものか」と思って全財産を入れただけだ。
ぼくが「これ全部入れる!」と高らかに宣言したとき、母親は当惑していた。「いいの?」「ほんとうにいいの?」と六回訊かれた。悪いことをするわけじゃないから止めるわけにもいかず、困っただろうな。


大人になった今、ぼくはものを買うときに「値段」と「機能」しか見ない。デザインとかブランドとかはほぼ気にしない。同じ機能で安いほうがあれば迷わず安いほうを買う。
だから買い物はべつに楽しくない。歯みがきと同じ「作業」だ。

自分ができないことだからこそ、値段も機能も気にしない娘の買い物を見て「ばかなもの買ってるなあ」と思うのは楽しい。


2018年5月30日水曜日

姉妹都市のような関係でいましょう


例によっていわし氏、花泥棒氏ととりとめもない話をしているうちに「姉妹都市ってなんで姉妹なんだろうね」という話になった。

「都市は女性名詞だから、とか? フランスあたりが発祥の概念なのかな?」という説が出たが、調べてみると元々は英語の「sister city」らしい。英語ということは女性名詞説ではなさそうだ。

本気で検索したらすぐにわかるのかもしれないけど、あっさり答えを出すのもつまらない。あれこれ考えてみるうちに、なんとなく以下のような仮説にたどりついた。

姉妹は縁を切ることがないからではないだろうか。
夫婦や親子や友人関係は、絶縁に至ることがある。「離縁」「勘当」「絶好」という言葉があるのがその証拠だ。
でも、あえて兄弟姉妹の縁を切る人はまずいない。仲が悪いきょうだいはいくらでもいるが、それでもきょうだいはきょうだいだ。そもそも大きくなればきょうだいとは距離を置くのがふつうだから、わざわざ縁を切る必要があまりない。

だったら「兄弟都市」でも良さそうなものだけど、兄弟には上下関係がある。
「兄貴分」「弟分」「父兄」「貴兄」「子弟」「弟子」なんて言葉が表すように、兄は目上で弟は下の存在だ。
でも「姉妹」には上下関係がない。「姉」と「妹」に、「年上の女きょうだい」「年下の女きょうだい」以上の意味はない。ないっていったらおおげさかもしれないけど、ない。

友好関係を築こうという相手に上下関係は持ちこまないほうがいい。
とはいえ上下関係がないからといって「双子都市」にしてしまうと、「うちのほうが歴史ある都市なのになんであそこと双子扱いなんだよ」と反発する住民もいるだろう。

そこで「めちゃくちゃ深い付き合いをするわけではないけどそこそこのつながりを保っていきましょうね」というメッセージをこめて「姉妹都市」になったんじゃないか、というのが酔っ払いたちの出した答えです。


ということで、告白されて「姉妹都市のような関係でいましょう」と言われたあなた、フラれたと思ってまちがいないです。


2018年5月29日火曜日

仕事に夢を求めずに


新卒入社の社員と話す機会があったので、訊いてみた。
「入社して二ヶ月くらいたったけど、どう? 辞めたくなった?」

すると新卒くんが応えて曰く、
「いや、辞めたくはないです。可もなく不可もなく、ふつうって感じです」

ぼくは云った。
「すばらしいね。入って一ヶ月でその境地に達することができるなんてすごい。それがいちばんいいよ。仕事が嫌で嫌でたまらないのも困るけど、仕事が大好き! って思うのもよくない」

 「そうですか。どうせなら好きなほうがよくないですか?」

「自分が楽しくやるだけならいいけどね。でも仕事が好きな人はたいてい周りを攻撃しはじめるからね。自分はこんなにがんばってるのにどうして他の連中はもっとがんばろうとしないんだ、って。そういう人がいると周りがやりづらくなるし、そもそもサラリーマンに向いてない」

 「あー。そうかもしれませんね」

「だから可もなく不可もなくっていう今の状況はすごくいいよ。ぼくはそのことに気づくまでに十年かかって、最近ようやくプラスとマイナスが同じになるぐらいにコントロールできるようになった。君は二ヶ月でたどりつけるなんてすごいね」

 「ありがとうございます」

「これからも仕事に夢を求めずに、お互いプラスマイナスゼロでやっていきましょう」


2018年5月28日月曜日

アメリカの病、日本の病


今年の2月、アメリカ・フロリダ州のハイスクールで銃乱射事件があった。多くの生徒が犠牲になった痛ましい事件だが、申し訳ないがニュースを目にしたぼくの感想は「またか」だった。それよりさっき床に落としてしまった食パンのほうが悲しい。
正直いって、アメリカじゃあよくあることだよね、ぐらいにしか思えない。アメリカ名物銃乱射事件。

アメリカでは年間一万五千人以上が銃によって殺されているそうだ。事故死、死に至らない怪我など含めればずっと多くの死傷者が出ていることになる。
アメリカでは精神疾患患者でも銃を購入できる。十八歳でもライフルを買える(拳銃は買えない)。
銃は「アメリカの病」と言われている。

「銃の所持を規制すればいいのに」と思う。大半の日本人はそうだろう。日本にはいろん考えの人がいるが、「日本もアメリカ並みの銃社会になればいいのに」と主張する人は男子中学生を除けばほとんどいない。男も女も年寄りも若者も右翼も左翼も、銃社会なんてろくなもんじゃないと知っているのだ。
そんな誰でも知っている「ろくなもんじゃない銃社会」を、アメリカは維持しつづけている。

なぜこんな愚策をとりつづけているのか、ふしぎで仕方がない。
小さな島の民族が銃を携帯していても「ふーん、まあ世の中にはいろんな村があるからね」としか思わないが、愚策をとっているのは軍事力、経済力、科学力どれをとっても世界ナンバーワンの大国USAだ。そこが解せない。
四流大学が「総合未来グローバル環境システム福祉学部」を新設したら「ふーんまあ好きにしたら?」と思うけど、東大に「東京大学総合未来グローバル環境システム福祉学部」ができたら、東大と一切関係ない人ですら「おいおいそんなばかなことしたらだめだろ」と言いたくなる。そんな気持ちだ。



じっさいのところ、アメリカ人って銃についてどう思ってるんだろう。
「なくせたらいいけど現実的にはなくせないからしょうがないよね。あったほうがいいこともあるし」として受け入れているのだろうか。日本における暴力団と同じように「必要悪」扱いなんだろうか。

いつ撃たれるかわからない社会でびくびくしながら暮らすのってすごいストレスなんじゃないかと思う。
でも日本だって殺そうと思えば車ではねとばしたり電車のホームからつきとばしたりすれば殺せるわけで、銃を規制しても他の手段での殺人に代わるだけで案外殺人そのものは減らないのかもしれない。

とはいえ暴発による事故は確実に減るだろうから、それだけでもやる価値はあると思うけど。



アメリカ人が銃を手放さない理由としてよく言われるのは、「アメリカが銃と民主主義で独立を成し遂げたから」という説明だ。
ぼくはこの説には納得できない。仮にはじめはそうだったとしても、数百年も同じやりかたを続ける理由にはならないだろう。日本だってとっくの昔に刀を捨てた。いくらなんでも「祖先のDNA説」は無理がある。

堤 未果氏の『(株)貧困大国アメリカ』 では、全米ライフル協会がロビー活動をがんばってるから規制が進まない、と書いてあった。

『週間ニューズウィーク日本版2018年3月13日号』の特集『アメリカが銃を捨てる日』にもこんな記述があった。

 適切な銃規制が行われれば、銃犯罪 が大幅に減る可能性は高い。コネティカット州では、95年に拳銃の購入に免 許取得を義務付けたところ、05年までの10年間で拳銃絡みの殺人事件が40%減ったとされる。銃が手に入りにくくなれば、銃を使った自殺も減るだろう(アメリカでは銃絡みの死亡事件の3分の2が自殺だ)。
 アメリカの一般市民の大多数は、銃規制に賛成している。銃を所有する家庭でさえ、93%が銃購入者の経歴調査の厳格化を、89%が精神疾患者の銃所有禁止を支持している。
 それなのになぜ、アメリカの銃規制は恐ろしく緩いのか。それは政治家(圧倒的に共和党議員が多い)が、NRAから献金をたっぷりもらっているからだ。ドナルド・トランプ大統領も、3000万ドルの献金を得ている。だから学校で乱射事件が起きても、政治家は犠牲者のために祈りをささげるだけで、何の行動も起こさないというお決まりのパターンが繰り返されてきた。

NRAとは全米ライフル協会のことだ。
アメリカの選挙は金がかかる、全米ライフル協会は巨額の支援をしている。特に共和党に対してはそうだし、賭けにはずれて大負けしないように民主党にもBETしている。だから民主党政権になったとしても銃規制は進まない。
金がほしいから規制しない。いたってシンプルだ。そして「祖先のDNA説」よりずっと説得力がある。



ぼくらの多くは「人命はすべてのことに優先する」「金より人の命のほうが大事」と思っているし、じっさいその原則に従って行動する。
でもぼくらが大事にするのは「自分の命」や「よく知る人の命」であって「どこかの誰かの命」ではない。
「どこかの誰かの命」の価値はすごく低い。日本でも過労死増加確実と言われている高度プロフェッショナル制度が通されるが、あれに賛成している議員だって「過労死を増やしてやろう」と考えているわけではないだろう。「どこかの誰かの命」に対する想像力をはたらかせていないだけなのだ。想像力の欠如か、あえて考えないようにしているのかはわからないけど。
「あなたの子どもに高度プロフェッショナル制度を適用してもいいですか?」だったほとんどの議員が反対にまわるだろう。


リチャード・マシスンという作家の短篇に『死を招くボタン・ゲーム』という作品がある。
ある夫婦の元にボタンのついた箱が届けられる。見知らぬ男が現れて「そのボタンを押せば大金を差し上げます。そのかわり世界のどこかであなたたちの知らない誰かが死にます」と言ってきた……。
という話だ。

有名な話なので、作者名は知らなくてもオチを知っている人は多いだろう。
この夫婦はボタンを押すわけだが、彼らが極端に利己的というわけではない。「ボタンを押すと隣の家の人が死にます」だったら押さなかっただろう。ただ「どこかの誰かの命」は「目の前の金」よりもずっと価値が低くなってしまうのだ。

えらそうなことを書いているけど、銃乱射事件のニュースを見て「またか」と思ったぼくも同じだ。「どこかの誰かの命」に対しては食パン一枚ほどの価値も感じていない。

銃が「アメリカの病」なら、過重労働は「日本の病」だ。でもそれは症状であって病因ではない。
病の原因は全人類に共通する「どこかの誰かの命を軽視してしまう」という性質だ。