2018年4月14日土曜日

クスリンピック


友人とオリンピックの話をしていて、「ドーピングは禁止するんじゃなくてむしろ解禁したほうがおもしろくなるんじゃないか」という話になった。


なるほど、それはおもしろいかもしれない。
今でもトップクラスのアスリートたちの闘いは、肉体の闘いであると同時に科学の闘いでもある。
より効率の良いトレーニング方法を研究し、より高い成果を出せる道具を開発し、科学的な分析に基づいて選手たちの肉体はつくられる。だとしたらそこに化学・薬学が加わることに何の問題があるだろう。
痛み止めの薬を打って金メダルを獲得したスケート選手も褒めたたえられているではないか。

世界中の薬学者が研究に研究を重ね、選手たちの肉体を改造する薬品を開発する。
求められているのはより強い肉体。選手たちは金メダルを獲るためのマシーンと化す。非人道的? 選手たちも同意しているのだ。何か問題でも?

選手に知性はいらない。競技のルールだけが理解できればいい。むしろ余計な思考は集中力を乱す原因になる。目の前の敵を倒すことだけ考えればいい。

Dr.イチガキチームのようにスポーツモンスターと生まれ変わった選手たちによる平和の祭典。感動まちがいなし。


2018年4月13日金曜日

おまえの人生はないのかよ


独身時代、Facebookに子どもの写真を載せている友人を心の中でばかにしていた。

子どもがおまえのすべてかよ、おまえの人生はないのかよ、と。


いざ自分が子を持つ親になってみると、ブログに子どもの話題を書いている。
SNSに子どもの写真こそ載せてないが、それはうちの子が親から見ても決して器量良しではないからで(親から見たらかわいいけどね)、子役級にかわいかったらパラパラ漫画を作れるぐらい大量の写真をアップロードしていると思う。

十年前のぼくが今のぼくに言う。
「おまえの人生はないのかよ」

ぼくは答える。
「いや、ないわけじゃないんだけどさ。でも減ったよね。子どもが自分の人生の大半を占めるようになったのは事実だね。おまえから見たら恥ずべきことだろうな。でもこれはこれで悪くないんだぜ」

だって仕方ないじゃないか。
朝、子どもと一緒にご飯を食べ、子どもの着替えを手伝い、子どもを保育園に送っていき、仕事に行く。帰ったら子どもが「遊ぼう!」と行ってくるのでいっしょにパズルやトランプをして遊び、子どもと話しながらご飯を食べ、子どもに歯みがきを手伝い、子どもを風呂に入れ、子どもに絵本を読んでやり、子どもと一緒に落語を聴きながら寝る。
それが平日。
休日は朝から夜までずっと子どもと一緒にいる。そりゃあ子どもが人生の大半を占めてしまうのは仕方ない。


少し前に「日本の親に夢を訊いたら『子どもの幸せ』と言うが、それはあなたの義務であって夢ではない」という言説を聞いた。

はぁ? 義務と夢が一緒だったらあかんの?
納税は義務だが、「納税によって多くの人の暮らしを良くすることが夢」という人のことまで否定しなくていいでしょ。

人間は遺伝子の乗り物だから、次世代の繁栄こそが生きる目的だ(必ずしも自分の直系の子孫でなくてもいい)。
それに比べたら個人の功名や満足感なんてとるにたらないことだとぼくは思う。


過去の自分から「おまえの人生はないのかよ」と言われたら、

「あるけど、より新しい人生に引き継いでいる最中」だと答えたい。

2018年4月12日木曜日

【読書感想】森見 登美彦『四畳半神話大系』


『四畳半神話大系』

森見 登美彦

内容(e-honより)
私は冴えない大学3回生。バラ色のキャンパスライフを想像していたのに、現実はほど遠い。悪友の小津には振り回され、謎の自由人・樋口師匠には無理な要求をされ、孤高の乙女・明石さんとは、なかなかお近づきになれない。いっそのこと、ぴかぴかの1回生に戻って大学生活をやり直したい!さ迷い込んだ4つの並行世界で繰り広げられる、滅法おかしくて、ちょっぴりほろ苦い青春ストーリー。

八年ぶりぐらいに再読。
はじめて読んだときは衝撃だった。いくつかの並行世界が絶妙に絡みあう構成、さりげなく散りばめられていた伏線が最後に一気に回収される展開、そして何よりそれが森見登美彦氏によって書かれていたことに驚いた。
これが伊坂幸太郎さんの作品だったらべつに驚かなかったんだけどね。「伊坂作品だったらこれぐらいのことはやってくるよね」ってな感じで。
でも『太陽の塔』を読んで古めかしい文体と幻想的な世界感のイメージが強かったから、「森見登美彦はこんな緻密な構成の先鋭的な作品も書けるのか」と良い意味で裏切られた。

で、ひさしぶりに読み返してみての感想。
展開は知っているから驚きはないが、「並行世界」という仕掛けを彩るディティールが見事であることに改めて気づく。猫ラーメン、もちぐま、ラブドールの香織さん、コロッセオ、蛾の大群(読んだことない人には何が何やらわからないだろうな)。
本格派SFだったらこういう演出は最小限に抑えて「並行世界」を説明することにもっと時間をかけるだろうが、『四畳半神話大系』はあくまでも大学生の日常に起こるどうでもいいことに重きが置かれ、大きな仕掛けよりも小さなどうでもいい仕掛けが描かれている。
半径数メートルの私的な物語に終始することで、「もしあのときああしていたら……」をいくら試そうが狭い世界の中をうろうろするだけ、というメッセージを伝えようとしているのかもしれない。可能性は無限だが、そのどれもが四畳半のように狭い世界の中の話なのだ。

大学生時代はいちばん選択肢が多い時期に感じられる。できることは高校生までに比べて格段に増え、やろうと思えば何にだってチャレンジできるように思える。
ぼくも大学に入ったときは、『四畳半神話大系』の主人公のように希望に満ちあふれていた。英語の雑誌を購読してみたりした。勉強に遊びに恋にバイトに創作に大忙しだぜ! と思っていた。ああ、懐かしい。同じく京大で学生生活を送っていたので、賀茂大橋、デルタ、糺の森、下鴨神社、御影通りといった地名が出てくるたびにあの頃の感覚を思いだした。映画サークルに入ろうとして結局やめた経験もあった(「みそぎ」ではない)。

でも結局誇れるような学問もしてないし外国語も身についてないし、入学時と卒業時で何が変わったかというと四年歳をとっただけのようにも思う。得たものより失ったもののほうが大きかったかもしれない。
「もし大学入学時に戻ったら……」と考えたことがあるけど、戻っても大差はないんだろう。どうせソリティアとかやって時間を無駄にしてしまうのだ。


「なくなったクーラーのリモコンを取りに行く」ためだけにタイムマシンを使う『サマータイムマシーン・ブルース』という映画がある(奇しくもこれも頽廃的な大学生の物語だ)。『四畳半神話大系』では並行世界の自分の存在を感じとることができ、『サマー・タイムマシーン・ブルース』ではタイムマシンで過去に戻ることができるが、どちらもたいしたことをしない。うまくいかないことは何度やりなおしてもうまくいかないし、付きあう友人は自分の身の丈にあったやつらになる。

かつて『四畳半神話大系』を読んだときは「どうせおまえはおまえだよ」と言われているようで残酷な物語だと感じたが、おじさんになって読むとこれは救いなのかもしれないと思えるようになった。後悔したって過去には戻れない以上、「どうせ同じような道をたどってたさ」と思って現在に居場所を見つけるほうが幸せだよね。


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【読書感想】森見 登美彦 ほか 訳『個人編集 日本文学全集 竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』



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2018年4月11日水曜日

声優初挑戦


そうですね、声優初挑戦ということで緊張もありましたが、楽しんでできました。
アイドルしかやったことなくてこういうお仕事ははじめてだったので新鮮な気持ちを味わえました。


やっぱり、ゲスト声優をやってくれって言われたときはびっくりしましたし、はじめは不安もありました。
ちゃんとギャラ振り込まれるのかなって。
ほら、映画って斜陽産業だっていうじゃないですか。だからそのへんちゃんとしてるのかはすごく不安でしたね。
でもきちんと金額を提示していただいて、しかもプロの声優よりも高いギャラをもらえるということで、今はやっぱりやって良かったなって思います。本業の声優さんはかわいそうですよねー。ははっ。

気を付けたこと、ですか。
遅刻しないことですかね。あたし、よく寝坊しちゃうんですよね。いや、もちろん大事な仕事のときはしないんですけどね。コンサートとかテレビとかのときは気をつけてます。マネージャーにもぜったい起こせよって言いますし。
でもラジオとかだとよく遅刻しちゃうんですよね。気の緩みですかね。昨日の夜もアラームセットせずに寝たんですけど、今朝は早めに目が覚めました。奇跡ですね。

映画? あっ、はい、好きですよ。大好きです。
『となりのトトロ』とか『なんとかの城ラピュタ』とか観たことあります。映画フリークといっていいでしょうね。映画関係の仕事がいっぱい来たらいいな、と思ってます。
今回吹き替えさせていただいた映画も楽しみですね。早く金曜ロードショーで観たいなと思います。

声優のお仕事ははじめてでしたが、やってみてわかったのは、案外ちょろいなってことでしたね。これをステップにして、もっといい仕事にチャレンジしていきたいと思ってます!


2018年4月10日火曜日

【読書感想】毎日新聞取材班『枝野幸男の真価』

『枝野幸男の真価』

毎日新聞取材班

内容(e-honより)
野党の混迷に終止符を打ち、政権交代も視野に入れる代表・枝野幸男のビジョンとは?徹底取材によるドキュメント。

毎日新聞取材班ということで客観的なドキュメントを期待していたのだが、前半は枝野氏に肩入れしすぎ。ファンブックみたいだったのでもうちょっと引いたスタンスで書いてほしかった。
ただ第4章『離合集散の野党史』と第5章『立憲民主党を待つ試練』は読みごたえがあった。新進党や民主党の躍進と没落の原因を分析することで、立憲民主党がなぜ支持を集めたのか、そして今後何をしたら零落するのかが理解できた。歴史はくりかえしているんだねえ。



「権力は憲法によって制約される、これが立憲主義です。立法権、内閣総理大臣の権力は何によって与えられているか。選挙と言う人がいるかもしれません。でもそれは半分でしかない。選挙で勝った者に権限を預けると憲法で決められていると同時に、無条件で預けるのではない。こういう規制の中でしか権力を使っちゃいけない。この両方を憲法で決めてセットで私たちは委ねられている」
「立憲主義とセットになって初めて民主主義は正当化されます。多数の意見でものを決める考え方は、それだけでは決して正義ではありません。多数の暴力によってこそ、少数者の人権侵害が生じるからです」

昨年秋、この演説を聴いたとき、ぼくも「これだよ! このあたりまえのことを言う人を待ってたんだよ!」と思った。
立ち上がったばかりの立憲民主党はまたたくまに支持を拡大していったところを見ると、同様に感じる人が多かったのだろう。

いやほんと、至極当然のことなんだけどな。政治家、内閣の権力には憲法による制限があるなんて、あたりまえすぎて誰も言ってなかった。そして誰も言わないうちに、いつしかその重要性が忘れられ、権力者が立憲主義を軽視するようになった。

権力は憲法によって制約される、こんなあたりまえのことを言う政治家が大きな支持を集めるのだから、いかに現在民主主義が危機にさらされているか。



ぼくは立憲民主党のすべての政策に賛成なわけではないし、現政権の政策に賛同する部分もある。
けれど、ぼくが投票時にもっとも重視するのは「現行法を守ろうとしているか」だ。重視というかすべての根本だと思っている。
だから憲法を解釈でねじ曲げようとする政権は、その一点をもって打倒すべきだと思っている。たとえ他の政策がどんなにすばらしくても。
スポーツ選手がどれだけすばらしい成績を残してもドーピング使用が発覚したらすべての実績がゼロになるように、法律、特に憲法を守ろうとしない政権は何も信用することができない(憲法改正に反対しているわけではない。憲法に定められた正当な手続きに従って改正することには何の異論もない)。

まあここまで書いたから言わずもがなだとは思うが、ぼくは現政権に早く退陣してほしいと思っている。それは政権全体として法に対する誠実性が感じられないからだ。「結果さえ良ければ法の枠からはみだしてもいい」と考えているようにしか見えない。
「権力に対して抑制的であるかどうか」という問題に比べれば経済政策や外交なんて屁みたいなものだ。


ときどき現首相をアドルフ・ヒトラーのような独裁者と重ね合わせる意見が見られるが、ぼくはその意見には賛成しない。良くも悪くも、歴史に名を残した残虐な独裁者と肩を並べられるほどの資質は現首相にはない。
ただ、現政権は「いつか邪悪な独裁者が現れそうになったときにそれを阻止する制度」を破壊することにためらいがない。
もっと邪悪でもっと能力の高い人物が政権を握って「過去にも『解釈の違い』で乗り切ったことがあったから今回も少々法の枠からはみだしたっていいよね。一定数の民意さえ集めれば法で定められた手続きを少しぐらい省略したっていいよね」という論理をふりかざす日のことをまるで考えていない。



立憲民主党は広報戦略が非常にうまいと言われている。Twitterの使い方が実にうまい。

広報だけでなく、党執行部も「どう見られているか」「何が求められているか」を的確に把握している。

 市民団体の集会に野党の党首が参加する形式で、志位と社民党の吉田忠智党首は壇上で並んで演説した。しかし枝野は、直前までNHKの番組出演で2人と一緒だったにもかかわらず、あえて2人が立ち去った後に会場に到着するように時間を調整した。
「社民党さんも共産党さんもそれぞれ、決めている候補者を下ろすのがいかに大変か、私もよーく分かっています。それぞれの立場を超えて努力された両党の皆さんに、私は敬意と感謝を申し上げたい」と候補取り下げへの謝意を示したものの、自らとのスリーショットの写真は撮らせなかった。
 枝野自身は、希望の党という保守系野党と、共産党の「間」の政策を求める有権者のニーズを意識していた。その受け皿となるために、共産党と同一視されるリスクを徹底的に回避していた。

インターネットを見ていると先鋭化した右派と左派が活発に論争をくりひろげているけど、左右に分けるのであれば世の中の人の大半は「やや右」か「やや左」だと思うんだよね。かつては自民党と社会党がそれぞれの人の受け皿になってきたんだろうけど、55年体制崩壊後はそうかんたんにはいかなくなってしまった。
自民党には幅広い議員がいるけど最近は右派が多数を占めている(ように見える)。政権を握ったときの民主党も似たような状況だった。
そして2017年の衆院選挙時には民主党の中の右派が希望の党と合流し、中道左派、リベラル派の受け皿がなくなってしまった。
親しい人と話していても「安保法案や海外派兵には反対。だけど共産党は嫌」という人はすごく多い。感覚的にはいちばん多い層なんじゃないかとさえ思う。特に女性に多い。
ぼく自身もその考え方に近い。で、選挙のたびに「特にどこも支持したくないけど『たしかな野党』も一定数いたほうがいいから……」という消極的な理由で共産党や社民党に票を投じていた。

そういう層に立憲民主党はぴったりとはまった。そこを理解しているから、共産党や社民党とは選挙協力はするが近づきすぎないようにしている。希望の党や旧民進党と合流すると「結局政権を狙うための烏合の衆か」と思われて支持者が離れていくのを知っているから、距離を保っている。
こうした立ち位置のとりかたがすごくうまい。


ただ、政権交代を狙うと、政策の異なる政党とも協力関係を築かざるをえなくなる。ここの戦略を見誤ると有権者に愛想を尽かされることになる。

「少なくとも(下野後の)この5年間自分が思っていたことが、いかに間違いだったかを痛感する(選挙戦の)日々だった。こんなに政党の合従連衡が嫌われていた、こんなに『政権交代のために一つにまとまる』のが嫌われていたのか、と。1+1がせめて1.5なら(合併も)考えるけど、今は1+1が0.8になる状況だ」

一度政権をとると、ポジションを守ることが自己目的化して、当初の方針は二の次になってしまう。自民党、民主党、公明党、みんな同じ道をたどっている。

いつか立憲民主党が政権をとったとしても、同じことが起こるんじゃないかと思う。党が力を持てば持つほど、政権を狙えるという理由で様々な考え方の人が入ってくるから。そうなったら立憲民主党も終わりだろうね。民主党と同じ道をたどって見放されてしまうだろう。
ぼくは今は立憲民主党を応援しているが、第一党になってほしいとは思わない。少なくとも数年間は。「発言力のある野党」としての立ち位置を期待している。

つくづく二大政党制って良くない制度だと思う。小選挙区制も。これに関してはこのブログでも何度か書いているから詳しく書かないけど、たったふたつの政党に民意が拾えるとは到底思えないんだよね。



最後に、ほんまかいなと言ってしまったエピソード。

枝野氏と前原誠司氏はカラオケ友達なんだそうだ。

 それから半月が過ぎたころ、2人は知人を交えて久しぶりに歌おうと計画した。臨時国会の開会を10日後に控えた9月18日にセッティングされた。しかしその前日の17日、「月内に衆院解散」という情報が永田町を駆け巡る。前原は会合を欠席。枝野は「選挙前の歌い納め」のつもりで短時間参加した。歌ったのは欅坂46の「不協和音」である。

 ここで同調しなきゃ裏切り者か
 仲間からも撃たれると思わなかった

この直後に前原誠司氏は希望の党への合流を決め、枝野幸男氏は新党立ち上げを決意する。そして希望の党は立憲民主党の候補者に対して刺客候補者を擁立する……。

ちょっと話ができすぎじゃない?


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