2018年2月12日月曜日

ライナスの毛布


スヌーピーでおなじみ『THE PEANUTS』にライナスという男の子が出てくる。

いつも青い毛布を持っている男の子。あの毛布は「ライナスの毛布」という名でも心理学用語になっている。



ぼくも「ライナスの毛布」を持っていた。というか今でも持っている。

三歳ぐらいのとき、さびしがりやで、ひとりでは泣いて寝られなかった。そこで母がパジャマを与えると、それを握りしめて寝ていたらしい。

母は古くなったパジャマを切ってぼくに与え、それ以来ぼくはパジャマのを持って寝るようになった。


ただぼくがライナスとちょっとちがうのは、布切れそのものではなく、それについているボタンに執着するようになったことだ。

パジャマの切れ端が汚くなったので母がとりあげると幼いぼくは大泣きした。代わりにべつの布切れを与えてもやはり泣いたが、その端にボタンを縫いつけてやるとうそのように泣きやんだそうだ。

ボタンをさわることで、安心した。

五歳くらいになると「ボタンのついた布を持っていないと寝られない」というのがなんとなく恥ずかしいことだと思うようになったので家族以外には隠していた。引き出しに布をしまい、夜になると引っぱり出してきてボタンをさわりながら眠った。

母には何度も「そんなの恥ずかしいからやめなさい」と言われた。自分自身、いつまでもボタンに頼っていてはいけないと思い、「もうやめる!」と宣言したこともあった。

けれどボタンをさわらずに寝るのはどうしようもなく寂しく、結局一日たつとまたボタン付きの布を引き出しから引っぱり出してしまうのだ。



小学生になっても、ボタンのついた布切れを持って寝ていた。

五年生のとき、林間学校という五泊六日の野外活動がおこなわれた。

布切れを持っていくかどうか迷ったが、ばれたら恥ずかしいことと、旅先でなくしてしまったらたいへんだという思いがあり、置いていった。

これが失敗だった。

帰ると、お気に入りの布切れがない。

母に訊いても「知らない」と云う。だが、それは嘘だった。留守中に、母が捨てたのだ。なぜなら、布切れが入っていた箱もいっしょになくなったのだが、後日母が「箱が見つかったよ」と持ってきたからだ。箱の中身だけが自然になくなるはずがない。

ぼくは泣いて母に抗議した。「泥棒!」と何度もののしった。母とは三日ぐらい口を聞かなかった。

母のことは嫌いではないが、このときのことはいまだに許していない。母が認知症になって「わたしの財布がない。盗んだんでしょ」とか言いだしたら、「ぼくが大事にしていたあの布切れを盗んだ人がよくそんなこと言えるね」とねちねちと責めたててやろうと思っている。



母の誤算は、小学校五年生は家庭科の授業でボタン付けを習っているということだった。

ぼくは母の裁縫道具箱からちょうどいい大きさのボタンを手に入れ、ハンカチの端にボタンを縫いつけた。

そして前と同じようにボタンをさわりながら寝た。

勝手に布切れを捨てた母に抗議するかのように、ボタンをさわる回数を増やした。

寝るときだけでなく、自室で本を読んでいるときにもボタンをさわるようになった。

部屋を開けるときは、再び母に捨てられないよう、机の引き出しのさらにその奥に布切れを隠した。

大学生になってひとり暮らしをするようになったときは、ボタン付きの布も持って行った。

いつしかボタンをさわらなくても寝られるようになっていたが、やはりボタンをさわっていると心の底から落ち着いた。



ボタン付きの布切れは、今でも持っている。

結婚して妻といっしょに住むときに持ってきた。引き出しの奥底に隠している。

今ではほとんどさわることがない。一年に一回ぐらいだろうか。ちょっとさわるだけで、さわりながら寝ることもない。

けれどさわるとやっぱり安心する。温泉に入ったときのようにリラックスした脳波が流れる。


幼いころからボタン付きの布切れとずっとつきあってきたから、ライナスの毛布を奪って逃げるいたずらをするスヌーピーのことはどうも好きになれない。


2018年2月10日土曜日

肉吸い


コンビニでおにぎりと肉吸いを買う。いつもはおにぎりと味噌汁だが、今日は肉吸いを買ってみた。

肉吸いは大阪の食べ物だ。全国的にはほとんど知名度がないし、大阪でもそんなにメジャーな食べ物ではない。Wikipediaにはこうある。
簡単に言えば、肉うどんからうどんを抜いたもの。
「カツ丼、カツ抜きで」というくだらない冗談みたいな食べ物、それが肉吸いだ。これぞC級グルメ。

行儀悪いけど肉吸いにおにぎりを浸して食べようと、あえて具なしおにぎりを買った。


昼休み。さあ食べようと思って、しくじったことに気がついた。

この肉吸い、お湯を入れて作るタイプではなく電子レンジで温めて作るやつだ。うちの職場にはポットはあるがレンジはない。

さあどうしよう。隣の会社に押しかけていって「すみません、肉吸い買ったんですけどレンジがなくて。電子レンジお借りできないですか」って言ってみようかな。

 「肉吸いってなんですか」

「知りませんか。大阪ローカルの食べ物で、肉うどんからうどんを抜いたものです」

 「知らないですね」

「そういえば"肉吸い"っていう妖怪もいるみたいですよ。人間に食らいついて肉を吸う化け物。タガメみたいな妖怪ですよね。タガメって知ってます? 田んぼにいる昆虫。タガメって魚やオタマジャクシをつかまえて、体内に消化液を送りこんでどろどろに溶かした肉を吸うらしいですよ。えへへ」

 「うち、電子レンジないんですよ」


しょうがないからゼリー状になった肉吸いに、お湯を注いでみる。

うん、ぬるい。

やはり電子レンジじゃないとダメだな、と思いながらタガメのようにずるずると肉吸いをすすった。


2018年2月9日金曜日

盗んだカートを放置する


ぼくが住んでいるところって大阪の下町を再開発して新しいマンションがいっぱい建っているところで、だから古くから住んでいる人もいれば、きれいな高層マンションに住む上品なファミリーもいれば、昼間から公園で酎ハイ飲んでいるおっちゃんもいれば、銭湯に行けば背中に本意気の刺青(タトゥーじゃなくて刺青ね)が入ったお方もいるという、まあいろんな人が住んでいる地域だ。

ここに引っ越してきて衝撃的だったのは、スーパーマーケットのショッピングカートを持って帰るやつがいっぱいいる、ということ。

すぐ近くにスーパーマーケットがあるんだけど、そこのショッピングカートを家まで持って帰るんだよ。かごを乗せるキャスター付きのカート。


あれ、持って帰ってる人、見たことある?
ぼくはここに越してくるまで見たことなかった。せいぜい駐車場まで持っていって放置する人がいたぐらい。

それでもマナー悪いな、って思うけどうちの周りはそんなもんじゃない。
スーパーは地下にあるんだけど、カートを押したままエレベーターに乗って地上に上がり、カートを押したまま歩道を歩き、そのままマンションに入ってエレベーターに乗り、そして自分の部屋の前にカートを放置する。

しかもこういうのがたくさんいる。うちのマンションの同フロアだけでもそういう家が二軒ある。家の前にスーパーのカート放置してるババアの家が。

しかもババアのやつ、カート返さないの。次にスーパーに行くときに持っていかない。
だから家の前に三台カートが溜まっていることもある。

ふつうに犯罪でしょ。でも家の前に堂々と盗んだカートを三台も溜めてるの。尾崎豊もびっくりだ。

しかもぜんぜん悪いと思ってないの。通路ですれちがったら、盗んだショッピングカートを押しながらにこにこして「こんにちはー」ってあいさつしてくんの。こんなにほがらかな泥棒、ほかにはルパン三世しか見たことない。


うちのマンションだけじゃなくて、他にもそういうババアがいっぱいいる。
マンションの自室の前まで持って帰るババアもいれば、マンションの入り口に放置するババアもいる。
こないだなんか近所の公園にカート停めてあったしね。スーパーから五十メートルくらいの距離にある駐輪場の前にもよく放置されてる。よぼよぼのババアならともかく、自転車で来るぐらい元気のあるババアなのにスーパーの外にカートを持っていってる。

ババアたちが盗んだカートをところかまわず放置しているから、スーパーにカートがぜんぜんないことがある。五台くらいしか残ってない、みたいなことが。

だからときどきスーパーの店員が近所をうろうろしてカートやカゴを回収している。

たいへんだな。この店員さんもスーパーでパートするときにまさか近所のマンションを回ってカートを回収してまわることになるとは思ってなかっただろうな。


もう一人二人の頭おかしいババアの話じゃないんだよ。この町ではカートを持ちだしてもいい、みたいな風潮になっちゃってんの。

カートを持ち出して放置する習慣が文化として地域に根付いちゃってるの。

「地域文化で日本を元気にしよう!」みたいなことを云う人がいるけど、うちの地域の文化はスーパーのカートの持ち出しだからね。どうやって日本を元気にするんだ。


2018年2月8日木曜日

借りたもの返さないやつが落ちる地獄


『BIG ISSUE 日本版』327号に、『あなたもつくれる! 小さな図書館』という特集記事が載っていた。

小さな私設図書館が増えているのだという。


ああ、いいなあと思う。

ぼくも本が好きだから家にはたくさん本があるが、その大半は二度と読み返すことのない本だ。

将来自分の子どもや孫が手に取ってくれたらうれしいけど、あまり期待できそうにない。ぼくの母親も本好きだったから家には母の本がたくさんあったけど、そのうちぼくが手にしたのは1パーセントくらいだ(その1パーセントが拓いてくれたジャンルというのはすごく大きかったけど)。
子どもがぼくの蔵書の1パーセントでも読んでくれたら上出来といったとこだろう。



「私設図書館、やってみようかな」と思う。だが待てよ。

ぼくがこの世でもっとも憎む存在のひとつが「借りたものを返さない輩」だ。

ほんとに許せない。

姉がそういう人だった。ぼくの本やCDを「それ貸して」と言って持っていく。そして返さない。
姉が性悪なわけではない。「そういうことを気にしない」人なのだ。だから自分が貸したものが返ってこなくても気にしない。
でも「そういうことを気にする」ぼくからすると、悪意がないのがまた憎らしい。

ぼくの感覚では、借りたものは最優先で読む。CDならさっさとテープやMDに取り込む。そしてすぐに返す。

毎日顔を合わせる家族であれば、「本なら一週間以内、CDなら二日以内に返す」というのがぼくの"常識の範囲"だ。

それを過ぎると「あれもう読んだ?」「CD、録音した?」と訊く。ことあるごとに訊いていると、迷惑そうな顔をされる。こちらも嫌がる相手に理不尽なことを言っているようで、申し訳ない気持ちになってくる。

でもよくよく考えれば借りたものを返せというのは理不尽でもなんでもない。CDなんてその気になればすぐに録音できるし、本なんて読むのが遅い人でも一週間もあればたいていの本は読める(漫画なら一冊一時間あればいい)。それをする時間がないのなら、そんなときに借りなきゃいい。

そんなわけで姉とは何度か喧嘩になって、「なんでこっちが善意で貸してやってるのに嫌な気持ちにならなきゃいけないんだ」と思い、あるときを境に一切ものを貸すのをやめた。「貸して」と言われても断るようにした。



レンタルビデオ屋でアルバイトをしていたことがある。

「借りたものを返さない輩」を許せない人間がレンタルビデオ屋で働くなんて自殺行為と思うかもしれないが、そのとおり、すごくストレスフルな日々だった。

世の中にはこんなにも借りたものを返さない人間が多いとは知らなかった。

いや、べつに遅れるのはいい。延滞料金もらってるわけだから。店としてはじゃんじゃん遅れて延滞料金を払ってもらえるのは助かる。

でも「なんで延滞料金払わなくちゃいけないの」とか「ちょっとくらいいいじゃない」とか言ってくる客の神経が理解できない。

「一日遅れただけで三百円って高すぎない?」だったら、わかる。ぼくも同感だ。一週間レンタル三百円のDVDでも、一日遅れたら三百円になる。たしかに高い。

でも「なんで払わなくちゃいけないの?」と言う人間の気持ちはとうてい理解できない。逆に訊きたい。「なぜ約束の期日を守らなかったのに何のペナルティも受けずに済むと思えるの?」

そういう客は、当然ながら「人から借りたものはなるべく借りたときと同じ状態で返す」という考えもないから、DVDを傷だらけにして返してきた。

そういやぼくの姉も、CDの歌詞カードを反対向きにしたり、二枚組CDのDISC1とDISC2を逆にして返してきたりしてた。些細なことだけど、こういうのを気にしない人は、借りたものを返さなくても平気なんだろうなあ。



そんな性分だから、もしぼくが私設図書館なんかはじめたら、借りた本を返さないやつはぜったいに許さない。

上下巻の上巻だけ借りて返さないやつがいたら、首を絞めてやる。

借りた本を返さないまま死んだやつがいたら、お通夜に乗りこんでいって「故人が借りてた本、返却期限とっくに過ぎてるんですけど。香典ということにしときましょうか? それとも棺に入れていっしょに焼きます?」と遺族に対して言わなくてもいいいやみを言う。

踏み倒すやつが許せないから、ぼくの私設図書館で本を借りる人には、免許証のコピーと身元保証人の実印を提出してもらう。あと保証金も預からせてもらう。そして滞納するやつは地獄の果てまで取り立てにいく。

誰が本を借りるんだ、そんな私設図書館。

つくづく図書館員に向いていない性分だ。



貸したものが返ってこないことが許せないんじゃない。「借りたけど返さなくてもいいや」と思える(というか返さないやつはそれすら思わないんだろう)神経が許せないんだ。

ぜったいに遅れるなとは言わない。ただ、返すのが遅れたら済まなさそうにしろ。催促される前に自分から「すみません、遅れます」と言え。貸したほうに気を遣わせるな。

それができないやつは、さっさと鬼に追いたてられながら鉄の棘の上を永遠に走らされる畏熟処地獄に落ちてくれ。その鬼は、本を貸してあげたのに催促して嫌な顔をされた側の怨念だぞ。


2018年2月7日水曜日

【読書感想】ウォルフガング・ロッツ『スパイのためのハンドブック』


『スパイのためのハンドブック』

ウォルフガング・ロッツ (著), 朝河 伸英 (訳)

内容(Hayakawa Onlineより)
あなたはスパイに適しているか? スパイ養成の方法は? 金銭問題や異性問題にはどう対処するか? 引退後の生活は?――著者のロッツは元スパイ。イスラエルの情報部員としての波瀾にとんだ経験をもとに、豊富なエピソードを盛込み自己採点テストを加えて、世界で初めてのスパイ養成本

使命感も持たずにいきあたりばったりに生きているぼくにとって、スパイほど向いていない職業はない(おまけに口も軽い)。

柳 広司のスパイ小説『ジョーカー・ゲーム』『ダブル・ジョーカー』を読んで、ますますその思いを強くした。
ああ、無理だ。
常に孤独、任務に失敗したら組織から捨てられる、成功しても賞賛を浴びることはない。高給をもらえたとしても、自由と身の安全と良心と引き換えでは割に合わない。
ようやるわ、としか思えない。


そんな「ようやるわ」なスパイだった著者による、スパイにまつわるエトセトラ。
著者はドイツに生まれ、幼少期にナチスに追われてパレスチナに移住し、イギリス軍、イスラエル軍を経てイスラエルの秘密諜報部(モサド)に所属してトップとして活躍し、第三次中東戦争でのイスラエルの勝利に貢献したという経歴。エジプトでは秘密警察に捕まったこともある。
すげえ。絵に描いたようなスパイだ。すげぇスパイ、略してスペェ。

そういえばイスラエルの諜報機関は世界トップクラスの諜報レベルだと聞いたことがある。
アメリカのような超大国であれば少々他国の動静を読み誤ったところで軍事力と経済力で圧倒することができるけど、イスラエルのような小国だと情報の読み違いが即、国家の滅亡につながってしまう。必然的に諜報機関が強くなるのだそうだ。

イスラエルって周囲すべてが敵国だからね。民族も宗教も異なる国に囲まれて、しかもイェルサレムをめぐる大きな遺恨もある。
島国である日本やイギリスはそうかんたんに攻められないけど、イスラエルは他の国と地続きだし。
油断してたら数日で国がなくなる、なんてことにもなりかねない。いつ攻めこまれてもおかしくないから(じっさい何度も攻められてる)、常に周辺国の動向に最新の注意を払っとかないといけない。

世界一ハードな環境にいたスパイだね。



フィクションの世界では「敵に捕まってどれだけ拷問されても口を割らないスパイ」が出てくるが、そんなものは現実にはありえないそうだ。

 これに関して誤解のないようにしよう。囚われの身になったスパイが沈黙を守り通し、尋問者に(嘘八百以外は)何も話さなかったという話は、尋問の係官がいい加減な仕事をしないかぎり、まったく虚構の世界に属する出来事である。給料分の働きをしている尋問者なら、あなたに知っていることのすべてをいわせるだろう。これは、はしかや所得税のように避けては通れない現実であり、秘密情報部が部員に、逮捕されたら沈黙を守れと勧告するのをあきらめてからすでに久しい。そんなことをいっても、まったく効き目がないのである。
 そういう次第であるから、情報部は、部員に荒療治が施されてしゃべらされる瞬間に、彼らがあらいざらい暴露するのを防止する手段を考案しなければならなかった。

なるほどね。
いくら訓練されたとしても「自分の命よりも大事な情報」なんてのはほとんどないから、最終的にはほとんどのスパイは口を割る。
仮に口を割らなかったとしても属する組織から「こいつは捕まったから情報を漏らしたかもしれない。二重スパイになったかもしれない」と疑惑をもたれた時点でもうスパイとして使い物にならないだろうしね。

だったら「命に代えても秘密を守れ」なんて非現実的な命令をするよりも「秘密が漏れたときに被害が最小限に抑えられるような制度設計をしよう」とするほうがずっと効果的だ。
工作員同士の素性も名前も知らされず、ほかの部員がどこで何をやっているのかもわからない、というように。
また情報が漏れることを前提にシステムをつくっているから、情報が漏れたことを隠す必要がない。

うーん、合理的。日本ではなかなかこういう組織をつくれないだろうねえ。

 「死んでも口を割るな!」という、守れるわけないルールをつくる
  ↓
 スパイが拷問されて口を割る
  ↓
 しかしそれを知られたら罰せられるから口を割った事実を隠蔽する
  ↓
 情報が漏れつづける

ってなるだろね。
スパイだけじゃなくビジネスでも政治でも同じようなことが起こってるよね。「ミスが起きたらどうするか」ではなく「ミスをするな」だと、ミスを隠して被害がどんどん大きくなる。



『スパイのためのハンドブック』ではそのタイトルのとおり、別人をかたる方法、賄賂の贈りかた、拷問を受けたときに嘘をまじえながら自白をする方法など、スパイならではのテクニックが紹介されている。
読んでいるかぎりはおもしろいんだけど一般人にとっては役に立たない、というかあんまり役に立てたくない。特に拷問は。


著者が旧ドイツ軍将校を装ったときの話。

 私のニセ経歴の弱点は何とかしてつくろわねばならなかった。戦時中のことは、少なくとも調べにくいので、それほど心配なかった。とはいえ、私はドイツ軍全般、とりわけアフリカ軍団について知りうる限りのことをじっくり頭にたたきこんだ。調べ出せる本は全部読み、北アフリカ戦域の地図と戦闘図に綿密に目を通し、レコードを聴いて軍歌を暗記した。私はそういったものをいろいろ手に入れてもらうために事務所をずいぶん忙しい目にあわせた。後に私は何度か、アフリカ軍団の旧将校たちと一緒にビールやジンを飲みながら、ロンメルの下で戦った戦役の古い記憶をよみがえらせたことがあったが、そういう折に私の努力はたっぷり報いられた。彼らに当時の戦友であり、若年兵の一人だったと思ってもらうことは造作もなく、二十年かそこいらすれば人の容貌も少しは変わるものだということで、なかには私の顔を”思い出した”という者もいた。私にとって幸運だったことに、人の記憶もまた風化するものなのである。

人間の記憶ってあてにならんなあ。

今は偽装がもっとたいへんだろうな。世界中どことでもすぐに連絡がとれるし、やりとりされている情報も多いし、記録がいつまでも残るようになったから。
スパイには生きにくい世の中だ。

スパイになりたい人は一度読んでおくといいんじゃないかな。ちなみに、あんまり給料も良くないみたいよ(派手なお金の使い方したら目立っちゃうからね)。


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