大した被害を受けていない人間の、阪神大震災の記憶。
阪神・淡路大震災が起こったときぼくは小学六年生だった。
大地震の起こる二ヶ月ほど前から、ぼくの住んでいる兵庫県川西市北部では頻繁に地震があった。震度2とか3くらいの小さな地震が何度も起こる。はじめは「怖いね」と言いあっていたが、多い時は一日に何度も起こるのでそのうち不感症になってしまった。授業中に地震があっても、先生が「おっ揺れたな」と言って五秒後に授業に戻る、そんな感じだった。一ヶ月に百回以上の地震があったらしいが、この地震があの大地震と関連があったのかどうかはいまだによくわかっていないようだ(→
猪名川群発地震)。
だから一九九五年の一月十七日の五時四十六分にマグニチュード7.3の地震が起こったときも「またか」ぐらいの感じだった。揺れで目が覚めたが、「今度のはちょっと大きいな」と思ってまた寝てしまった。ぼくの家族も同じだった。
六時半くらいに母がぼくの部屋に飛びこんできた。「ちょっと、テレビ見てみ。たいへんなことになってるで!」
リビングに行ってテレビをつけると、地震のニュースをやっていた。といってもあまり覚えていない。高速道路がぽっきり折れてバスがぶらさがっている映像をそのときに観たような記憶がするが、後から合成した捏造記憶かもしれない。
そのときはおおごとだと思っていなかった。我が家は揺れたが本棚の本が倒れていたぐらいで、つまり被害はなかった。
ニュースでも、朝の時点では本当に被害の大きかった地域の映像がまだ届いていなかったのだ。とにかく大きい地震が起こったということはわかったが、いつも通りに朝食を食べて家を出た。
ふだんと同じように学校へ行き、ふだんとおなじように始業前に校庭で遊んでいると、校内放送のチャイムが鳴った。
「本日は地震の影響で休校になりました。みなさん、気をつけて帰宅してください」
小学生たちはのんきなもので「ラッキー。休みだー!」と喜びながら帰った。
帰ってすぐに公園に遊びに行った。母から「また地震があるかもしれんからやめといたら?」と言われたが、「公園におるのがいちばん安全やん」と返し、母が「それもそうやな」と納得したことを覚えている。
ぼくらは気楽なものだったが、父はたいへんだったらしい。
父は大阪ガスに勤めていた。地震の影響で広範囲にわたってガスが停止し、その対応に追われていた。父の所属は広報部だったので現場に行って復旧作業をすることはなかったが、情報収集やあちこちへの報告に追われてたいへんだったようだ。今のようにインターネットのない時代だ。
父は数ヶ月の間ほとんど家に帰ってこず、たまに帰ってきても夜遅くに帰って翌朝早くに出ていくという生活をしていた。休日も出勤していたので、小学生だったぼくとは二ヶ月ぐらいほとんど顔を合わせなかった。
地震の一ヶ月後ぐらいに大阪ガスの広報担当者として父が『ニュースステーション』に出て復旧状況を伝えたことがある。ぼくは「お父さんがテレビに出た!」と能天気に喜んでいた。
ぼくの住んでいた地域でもガスが止まった。電気や水道は問題なかったが、ガスの復旧には時間がかかった。もしガス管が破損していると爆発などの大事故につながるため、すべてチェックをするまではガスを通せないためらしい。
他の家も苦労したと思うが、我が家は特に苦労した。父が大阪ガスの社員だったため、家にあるのはガス製品ばかりだったからだ。
暖房はガスファンヒーターとガスエアコンのみで、灯油ストーブも電気ストーブもなかった。炊飯器もガス式、オーブンレンジもガス、コンロも風呂ももちろんガス。ガスが止まったことで、我が家の暖房と調理器具はほぼ全滅状態だった。
数日後に母が小さな電気ストーブとボンベ式のコンロを買ってきたので、とりあえず寒さ対策と調理はできるようになった。ボンベのコンロだけでは何品もつくることができないので、毎日鍋料理だった。小さなストーブではリビング全体を暖められないので、隣の六畳間にこたつやテレビを持ってきて、母と姉と狭い部屋でぎゅうぎゅうになって過ごした。
風呂は沸かせないので、電気ポットで沸かしたお湯にタオルを浸し、体を拭くだけだった。週に一度くらい隣町の温泉に行ったり、都市ガスが通っておらずプロパンガスを使っている知人の家に風呂を借りに行ったりしていた。
「あんまり汗をかかない冬場でよかったわ」と母が言っていた。しかし今考えると夏なら水浴びもできたので、やはり冬にガスが止まるほうがつらいと思う。
学校が休校になったのは一日だけで、翌日以降は平常運転だった。
ガスが使えないので給食の調理はストップし、おかずがサバの味噌煮などの缶詰になった。おかず不足を補うためかプリンやヨーグルトなどのデザートが毎日つくようになり、ぼくらは「地震前よりこっちのほうがいいな」と喜んでいた。
一度、プリンを皿の上に開けて "プッチンプリン" にして食べたら、担任の先生から「お湯が使えないから洗い物を減らすためにこういうメニューにしてるのにむやみに皿を汚すな」と注意された。洗い物のことまで考えていなかった、と素直に反省した。
学校で、鉛筆とノートをもらったことがある。どこかの小学生が被災地へ寄附した物資らしい。なぜそれが、ほとんど被害のなかったぼくらの小学校にまわってきたのかわからない。地震で文房具を失った生徒など、この学校にはひとりもいないのに。
もっと困っている子にあげたらいいのに、と思った。もっと困っている子は文房具どころではなかったのかもしれないが。
地震で大きな被害を受けた人には申し訳ないが、正直に言って、小学生のぼくはふだんと違うイベントとして震災後の生活を楽しんでいた。ガスの止まった生活も、いつもと違う給食も、キャンプに来たときに感じるぐらいの不便さだった。
ニュースを見て被災地の状況は知っていたが、身近に悲惨な目に遭った人がいなかったので、テレビの向こうの出来事として見ていた。義援金として小遣いからいくらか寄附をしたが、それも心から同情してのものではなく「やらないと怒られそうだから」やっていただけだった。
テレビ番組が自粛ムードになり、おもしろい番組をやらなくなったのが残念だった。公共広告機構の「生水飲まんとってや」とイッセー尾形のゴミの分別のCMを飽きるほど見た。学校でもよく真似をした。
ぼくの住んでいた兵庫県川西市での死者は一人だけだったらしい。「地震にびっくりして家から飛び出したおばあちゃんが転んで死んだんだって」という話を耳にしたが、真実かどうかは知らない。小学生のうわさ話だ。
祖父母が兵庫県西宮市に住んでいた。西宮は震源地に近く、うちよりもずっと被害が大きかった。
祖父母の住んでいるマンションは倒壊こそ免れたが大きな亀裂が入り、ガスだけでなく水道も止まった。ぼくも一度、水を汲みに行くのを手伝いに行った。西宮市内にある関西学院大学のキャンパスに給水車が停まり、そこでポリタンクに水を入れてもらって持って帰るのだ。
だがおもしろいものではなく、次からは両親に「おばあちゃんたちを手伝いに行くよ」と言われても「友だちと遊ぶ約束があるから」と言って逃げだしていた。「いっつもおじいちゃんおばあちゃんにかわいがってもらってるくせに、困ってるときに助けに行かないなんて……」と強く怒られたが、「もう約束しちゃったから約束を破るわけにはいかない!」と言って自転車で家を飛びだした。ほんとは約束などしていなかったのに。
なんと身勝手だったのだろう、休みの日ぐらい祖父母孝行しとけばよかった、と当時のことを思いだすと胸が痛む。
そんな感じで地震から二カ月が経ち、ぼくは小学校を卒業した。小学校の卒業式は三月二十日。なぜ日付を覚えているのかというと地下鉄サリン事件のあった日だからだ。
卒業式を終えて家に帰ってくるとサリン事件のニュースをやっていた。同じ県内で起こった地震ですら他人事だったぼくにとって、東京の地下鉄で宗教団体が起こした事件など遠い異国の出来事だった。
三月になると父の仕事も少しは落ち着いたらしく、休みもとれるようになっていた。父は一日中寝ていた。何ヶ月ぶりかの休みなので、一気に疲れが出たのだろう。
ガスも使えるようになり、ぼくらの周囲は地震以前と同じ状況に戻りつつあった。
春休みに友人たちと甲子園球場に行った。開催があやぶまれていたセンバツ高校野球がなんとか開催されることになり、その観戦に行ったのだ。
兵庫県代表が三校も出場し、しかも三校とも初戦を突破した。ぼくらが見にいったのは二回戦だったと思う。
ぼくらが住んでいた川西市は兵庫県だが、西宮市の甲子園球場に行くには一度大阪に出てから阪神電車で行くのがいちばん早い。
阪神電車は被害の大きかった尼崎市や西宮市を通る。電車の窓から大量のブルーシートが見えた。倒壊した家屋はある程度撤去されていたが、仮設住宅が立ち並んでおり、まだまだ復旧・復興とはほど遠い状況だった。鮮やかなブルーのシートが線路に沿ってずっとずっと続いていたのを覚えている。
同じ車両の人たちは、みんな窓の外を見ていた。無言で外を見ていた。
それまでわいわいと騒いでいたぼくらも言葉を失った。隣に立っているおばさんが涙ぐんでいた。
同じ県内に住みながら、ぼくが阪神大震災を理解したのは、地震発生から二ヶ月以上たったそのときがはじめてだった。