2017年12月12日火曜日
走れ読書人
"遅刻"に対して恐怖といっていいほどの感情を持っている。前世では大事な式典に遅刻して将軍様に粛清されたのかもしれない。
学生時代は授業がはじまる一時間以上前に学校に行っていた。野外観察同好会なのに運動部の朝練よりも早かった。
今でもはじめての場所に行くときはかなり早めに出発する。方向音痴なので三度目くらいの場所でもだいぶ早めにでかける。迷うことも勘定に入れてスケジュールを組む。最近はスマホのおかげで迷うことはほとんどなくなったが、それでも早めに出発する習慣は変わらない。
だからだいたい約束の二十分前ぐらいに目的地に到着する。二十分前というのは半端な時間で、トイレに行ったりして時間をつぶすには長すぎるし喫茶店を探してコーヒーを飲むには短すぎる。だいたい路上で本を読んで時間をつぶす。路上で本を読んでいる人を見たらぼくだと思ってもらってまずまちがいない。
路上で本を読むとおどろくほど集中できる。自宅で読むよりよっぽど没頭できる。路上には人や車や音が多いが、情報が多すぎるとかえってひとつのことに集中できるのかもしれない。
おかげでこないだあやうく遅刻しそうになった。本を読んでいるうちに気がついたら時間ぎりぎりになっていたのだ。
あわてて待ち合わせ場所まで走った。間一髪、すべりこみセーフ。しかし肩で息をしているぼくを見て、待ち合わせの相手は「こいつ遅刻しかけたな」と思ったにちがいない。
ちがうんです、ぼくは二十分前に来ていたんです。
路上で本を読んでいたと思ったらいきなり走りだした人がいたら、まずぼくだと思ってもらってまちがいない。
2017年12月11日月曜日
お金がないからこそ公共事業を!/藤井 聡『超インフラ論 地方が甦る「四大交流圏」構想』
『超インフラ論
地方が甦る「四大交流圏」構想』
藤井 聡
社会工学を専門とする学者による、インフラ論。
この人、大阪都構想に反対していることもあって橋下徹とすごく仲が悪い。ちょうどこないだ橋下徹・元大阪市長の講演を聴く機会があったのだけれど、橋下氏は「あの京大の藤井っていうクソヤローが……」と悪口をまき散らしていた。
でもその公演の中で橋下氏はインフラ(鉄道、高速道路)の重要性を語っていて、一方で藤井聡氏もこの本の中でインフラ整備がいかに重要かをくりかえし書いている。犬猿の仲なのに主張の内容は同じなんだなあ、と笑ってしまった。方向性が近いからこそ敵対するのかな。
著者の主張はわりとシンプルだ。「高速道路や新幹線といった交通インフラを整備することで雇用は増え、社会資本は増え、経済は活性化する」と。
今の日本は「お金がないから」といって将来への投資をどんどん減らしている。本来なら、お金がないからこそインフラへの投資を増やしていかなければならないのに。
さらに「交通インフラが整備されれば東京への一極集中化も軽減され、災害リスクを減らすことにもなり、一極集中が緩和されれば国民の生活の質は上がり少子化にもブレーキがかかる」とも主張している。
通信機器の貧弱だった時代ならともかく、少なくとも情報通信の面においては物理的な距離の持つ意味合いが小さくなっているわけで、居住区やビジネスの拠点はもっと分散したほうがいいよね。
でも、今の日本で「もっと道路を! もっと鉄道を! 公共事業を!」と主張すると、「もう十分道路も鉄道もあるじゃないか」「利権を守りたいだけでしょ」っという話になってしまう。
ということで、日本がいかに他の先進国に比べて社会インフラの整備が遅れているか、インフラを充実させることでどれだけのプラスになるかということを、手を変え品を変えながら主張している。
論理はいたって明快で、少々強引なところはあるけど説得力がある。頭のいい人なんだろうなあ。
インフラ整備の重要性は納得できる。
ぼくも昔は「道路なんかもういらないだろ! 環境破壊になるし税金の無駄遣いだ!」と思っていた。でも大学に入って『公共政策論』という講義を聴いて、考えが変わった。
一兆円の減税は国民に一兆円のお金しかもたらさない(しかもそのお金は元々国民から出ているものだ)。でも一兆円の公共事業をやれば、賃金という形で国民に一兆円を渡すことができるうえに一兆円分の財を作ることができる。さらにそうやってつくった道路や橋を使って、より効率的な経済活動ができるようになる。
労働力は溜めておいて後でまとめて使うことができないのだから、特に不況期においては引き締めをするのではなくじゃんじゃん公共事業をおこなって市場にお金を回したほうがいい。
というのが『公共政策論』でぼくが教わったことだ。なるほどーな、と感心した。
おまけに公共事業をやれば労働者にまっさきにお金が回るわけだから、労働していない資産家→労働者という資産の再配分のためにも有効だ。不況だから還付金、というのがもっとも愚策だ(なんたって働いている世帯からまきあげて働いていない世帯にまわすのだから)。それ以来、減税だの還付金だの言う政治家をまったく信用していない。
公共事業が嫌われるのは、
・無駄なことに金を使う
・お金の流れが不正(特定の事業者が有利になる)
からであって、公共事業自体が悪いわけではない。悪い医者や誤った医療があるからといって「医療行為なんてものはいらない!」とならないのと同じように。
ふるさと創生事業(→Wikipedia)みたいな世紀の愚策が公共事業のイメージを地に落としてしまったんだろうね。地方に金をばらまいちゃだめですよ。
上でも書いた橋下徹氏の講演で、氏は「大阪の経済が停滞しているのは交通インフラが整備されていないからだ。それは府と市が別々に行動していて物事が決まらないからだ」と、大阪都構想の必要性を語っていた。
橋下氏の言うとおり、大阪市営地下鉄と私鉄の連携はすごく悪い。それは大阪市を越えたとたんに「府と市のどっちが金を出すんだ」という話になるために路線を延伸できないからだそうだ。
ぼくはインフラ拡張の主張には納得できるけど、だから大阪都構想だ、という話には賛同できない(数年前の住民投票でも反対に投じた)。
それを大阪でやる、大阪維新がやる、ということに納得できないのだ。
交通インフラを整備するのであれば、話は大阪市や大阪府だけにとどまることじゃない。「なんてみみっちい話をしてるんだ」と思えてしまう。
交通インフラ整備のためには近隣の都道府県、はたまた中四国や北陸・東海など、他地域とも連携しないといけない。他市長や県知事との連携を進め、さらには国を動かす。住民投票よりもそういうことをやるのが先だろうと。堺市長すら説得できない大阪維新にそれができんのかと。
もちろんとんでもなくたいへんなことだろうけど、政治家はそれぐらいの大きな構想を持っていてほしい、そして実行してほしいとぼくは思っている。
こないだNHKの『ブラタモリ』で黒部ダム建設の話をしていた。
着工から完成まで七年かかっているというから、計画段階も含めると十年以上だろう。それが「関西地方で停電が相次いでおり、電力不足を解消するために作られたというから驚きだ。十年後の電力不足解消をめざしてダム建設計画を立てる。なんと先を見据えたビジョンだろう。
2011年の東日本大震災の後、原発停止を受けて都市部が電力不足に陥った。そのとき、「じゃあ電力不足解消のために十年後の完成を目指してダムを造りましょう」と言える政治家がいただろうか(いたとしても国民が許さなかっただろうね)。そういうスケールの大きい話をできる政治家は、今ほとんどいないんじゃないだろうか。
二十年後を見すえた仕事をするのが政治家の仕事だと思う。
たとえば2016年に北海道新幹線が開業したが、北海道新幹線の計画が策定されたのは1972年だ。田中角栄が『日本列島改造論』を打ちだした年。四十年後を見すえた計画にのっとって作られた北海道新幹線は、当時の見通しのとおり、北海道に大きな利益をもたらしている。
はあ。感心してため息しか出ない。
ギザのピラミッドは数十年かかって作られたが、その後四千年以上たっても地域に富をもたらしている。公共事業とはそういうものだ。
次の選挙に向けて減税だ増税先送りだと主張している政治家に、クフ王のミイラを煎じて飲めと言ってやりたい。そういや江戸時代にはミイラって薬だったらしいね。関係ないか。
社会インフラの整備って数十年スパンで考えないといけない話だから、国家単位でやらなきゃだめだと思うんだよね。地方分権とか言ってる場合じゃないでしょ。だいたい数十年後にその自治体が存続しているかどうかもわからないわけだし。
藤井聡氏の主張は明快であるがゆえに「ちょっと話がうますぎるんじゃないの?」と思えてしまうところもある。そんなにすべてうまくはいかんだろ、と(当然藤井氏はそのへんもわかっててあえて書いてないだけだと思うけど)。
でも「公共事業=悪」ではない、という点だけは深く納得できる。
これ以上日本に道路も線路もいらない、と思っている人にこそ読んでもらいたい一冊。
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2017年12月10日日曜日
四人のおとうちゃん
ぼくには子どもがひとりいるが、ぼくのことを「おとうちゃん」と呼ぶ子は四人いる。隠し子ではない。
娘の保育園の友だちといっしょに遊んでいたら、娘がぼくのことを「おとうちゃん」と呼ぶので、その友だちもぼくのことを「おとうちゃん」と呼ぶようになった。
彼らは自分の父親のことを「パパ」と読んでいるので、ぼくのことを「おとうちゃん」と呼んでも呼び名はバッティングしない。だから抵抗なくよそのおじさんを「おとうちゃん」と呼ぶ。
(ぼくが子どもの頃は「パパ、ママ」派はほとんどいなかった。でも今の子どもたちは、ぼくが観測しているかぎりでは八割ぐらいは「パパ、ママ」派だ。時代は変わったなあ)
よその子から「おとうちゃん」と呼ばれるぐらいなつかれるのはちょっとうれしいけど、でも実のおとうちゃんに申し訳ない。だから「おっちゃんだよ」と訂正するのだけど、うちの娘が「おとうちゃん」と呼ぶのでつられて「おとうちゃん」になってしまう。そんなわけでぼくは四人の子どものおとうちゃんをやっている。
子どもを持つようになってわかったのは、世の中の人はあまり子どもと遊ぶのが好きじゃないんだなあ、ということ。
ぼくの父親はよく子どもと遊ぶ人だった。自分の子どもだけでなく、よその子とも遊んでいた。よく会っていた伯父さんもそういう人で、しょっちゅう家に子どもたちを招いて遊んでいた。
だから子どもを持つようになると「意外とみんな子どもと遊ばないのね」と思った。公園に行っても、子どもがひとりで遊んでいて親はおしゃべりしたりスマホを見たり、という光景をよく目にする。
子ども好きのおじさんに囲まれて育ったからか、ぼく自身は子どもと遊ぶ。自分の子はもちろん、よその子とも。
娘の友だちと遊んでいるうちに気づけば娘がほったらかしになっている、なんてこともある。子どもとどれだけ遊んでいても苦にならない。というより、よそのお父さんお母さんと話すのは気を遣うので、子どもと遊んでいるほうがずっと楽だ。
よその子と一緒に二時間くらい走りまわっていると「いいパパですね」なんて言われることがある。遊んでいるだけで褒められるのだからいい身分だ。いえーい。
でも、ちがうぞ、と思う。べつにいいパパじゃないぞ。まず「おとうちゃん」だし。
以前、こんなことを書いた。
ぼくが子どもと仲良くなる方法は「自分を相手と同じレベルに持っていく」だ。おしりをさわられたらおしりをさわりかえす、「あっかんべー」とされたら「おならプー」と言いかえす、かけっこをする前には「おっちゃんは子どもより速いからぜったいに負けへんで!」と宣言する。こういうことをすると、子どもは「この人はいっしょに遊んでくれる人だ」と認識するらしく、たちどころに心を開いてくれる。
つまり、"おとなげないふるまいをする"ことが、子どもと遊ぶときにぼくが心がけていることだ。かけっこで負けても「〇〇くん、足はやいなー」と褒めたりしない。「今のはスタートが早かった。ズルしたからもう一回!」とおとなげなく食いさがる。これこそが子どもと遊んでもらう秘訣だ。そう、遊んであげるのではなく遊んでもらうやり方なのだ。
だから「いいパパ」と言われると、それはちょっと違うんじゃないか? と思う。いいパパってのは、優しくて鷹揚な良き指導者なんじゃないだろうか。
ぼくがやってるのはむしろ、いい歳しておとなげない「困ったおじさん」だ。だからせいぜい「いいお友だちが見つかって良かったね」ぐらいのほうが身の丈にあっているお言葉だと思うんだよな。
2017年12月9日土曜日
トイレ・ウォーズ ~ションドラの逆襲~
ほとんどの女性は知らないと思いますが、男性用の公衆トイレには用を足したあとのちんちんを乾かすためのドライヤーがついています。
正式な名前は何というのか知りませんが、ぼくが生まれ育った地域では「ションドラ」と読んでいました。しょんべんドライヤーの略でしょうね。
ションドラは髪の毛用のドライヤーとはちがい、ちんちん専用の細長くて銀色のドライヤーです(ちなみに銀色なのは西日本だけみたいですね。東京駅のトイレで真っ白のションドラを見たときはびっくりしました)。
温度や風量の調整はできず、ただ風が出るだけの代物です。小便器の上にあるセンサーに手をかざすとションドラが伸びてきて、ごーっと風が吹きだします。10秒ほどで勝手に止まり、また引っこんでいきます。ウォシュレットトイレのノズルに似た動きです。
紙を手で持って拭く必要がないので衛生的ですし、風でちんちんを乾かすときはなんともいえぬ爽快感があります(冬場はちょっと寒いですけどね。冬は温風が出てくれたらいいのに)。
そんなションドラに関する失敗談をひとつ。
今でこそほとんどの公衆トイレに設置されているションドラですが、ションドラが日本に普及したのは1980年代のことで、ぼくが子どもの頃は田舎で育ったこともありションドラなんてものは見たこともありませんでした。
はじめて見たのは、小学六年生のとき、家族旅行で行った京都でのことでした。
京都駅のトイレに入って小便器に向かっておしっこをしていると、目の前に見慣れぬボタンがあります(昔はまだセンサー式ではなく押しボタン式でした。衛生的でないので後にセンサー式でになったのでしょう)。
もちろん「排尿完了後にこのボタンを押してください」というような注意書きがあったのだとは思いますが、なにしろ好奇心旺盛な男子小学生のこと、注意書きを読むより早く、押したらどうなるんだろうとボタンに手を伸ばしていました。
さあたいへんです。なにしろまだおしっこが出ているのですから。
うにょーんとションドラが伸びてきて、これはなんだかやばいと思ったけれど一度出はじめたおしっこは止まらない。ションドラはぼくの股間に向かって風を吹きつけます。放出したおしっこは逆風にあおられて霧状になり、ぼくのパンツとズボンを盛大に濡らしました。
うわあああと思わず声をあげましたが、まだおしっこが出ているから便器の前を離れるわけにもいかない。そのまましばらくおしっこの霧を浴びつづけてしまいました。
幸い旅行中だったためにリュックに着替えが入っていました。あわてて個室に駆けこんで着替えましたが、トイレから出たとたんに目ざとい姉から「あんたなんでさっきとズボンがちがうの」と言われてしまいました。事の顛末を正直に話すと両親と姉から「あんたばかねえ」と大笑いされました。
最近のションドラは水流を感知するセンサーがあるので、おしっこが出ている間は手をかざしても風が吹くことはありません。
きっとぼくみたいな不幸な事故が多発したために改良されたのでしょう。
あんな悲しい思いをするのは、ぼくの世代で最後にしてもらいたいものです。戦争の悲惨さを語り継ぐ戦争体験者のように、ぼくもションドラの逆襲の恐ろしさを後世に語り継いでいきたいと思います。
2017年12月8日金曜日
不良中学生のチキンレースが生んだ殺人/大崎 善生『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』
『いつかの夏
名古屋闇サイト殺人事件』
大崎 善生
2007年に起きた強盗殺人事件。インターネットで知り合った初対面に近い男たちが共謀し、やはり面識のない女性を拉致して殺害した。いわゆる「闇サイト殺人事件(→Wikipedia)」。
かつては、今のように誰もがスマートフォンを手にしておらず、テレビの報道なんかでは「インターネットはネクラなやつがやる陰湿なもの」という扱いを受けていた時代。そうしたイメージを裏付けるような事件だったので、「インターネットの闇」というような言葉とともにセンセーショナルに報道されていた。
そんな事件について、被害者の生い立ち、犯行の一部始終、そして事件後の裁判まで克明に記録したノンフィクション……かと思ったら。
うーん、これはノンフィクションじゃなくて小説だなあ。それも趣味の悪い。
こういう描写がちりばめられていて、すごく気持ち悪い。
「無計画で残忍無比な犯人」と「最期まで毅然として立派だった被害者」の対比として書いているのはまあいいとして、作者の「こうあってほしい」という理想を含んだ描写が強すぎて嫌悪感が生じる。人が残酷に殺された事件を美談にするなよ。
たとえばこんな文章。
(「瀧」は被害者の恋人の男性、「利恵」は被害者)
おえー。なんだこのポエム。
いやポエムを書くのは好きにしたらいいんだけど。
勝手に実在の人物の心情を代弁すること、そして殺人事件を使って美しい物語にしあげることが気持ち悪い。
ノンフィクションって、作者が感情をあらわにしたらだめだと思うんだよね。事件が凄惨で衝撃的であるほど、冷静な筆致で書いてほしい。新聞記事のような客観的な文章のほうが、読む人の想像力がはたらく。
どうしてもポエティックな美談を書きたいなら、ノンフィクションの体裁をとらずに事件を題材にした小説を書けばいい。
桐野夏生の『グロテスク』(東電OL殺人事件が題材)や、やはり桐野夏生『東京島』(アナタハンの女王事件が題材)のように。
同じ作者の『聖の青春』『将棋の子』『赦す人』では、そんな気持ち悪さを感じなかったんだけどな。
ぼくは書かれたものに対してあまり倫理観を求めないほうだと思うけど(ピカレスクものなんかも好きだ)、それでも殺人事件を踏み台にして美しい物語を書くことには生理的な不快感をおぼえる。
とはいえ、犯人たちが殺人に至るまでの描写や、公判の様子なんかは丁寧な取材に基づいていて、かつ冷静に書かれていて良質なルポルタージュだった。
ずっとこんな調子だったらいいノンフィクションだったんだけどな。
犯人の三人が集まったときは、おそらく誰も人を殺そうとは思っていなかった。詐欺や強盗で金さえ手に入れられればいい、と思っていた。どうやって金を手に入れようかといきあたりばったりに行動していることや、犯人のひとりが犯行直後に自首していることからも、「闇サイト殺人事件」という言葉から連想されるような殺人願望はなかったんだろう。
でも、三人が(当初は四人)顔を突きあわせ「おれのほうがワルだぜ」という意地の張り合いをしているうちに、誰も「殺人はやめとこう」と言いだせないまま突き進んでしまった。
いってみれば、不良中学生のチキンレース。「びびってんじゃねーよ」と言われるのが怖くて降りるに降りられなくなってしまっただけ。
そんなばかばかしいチキンレースでも、とうとうほんとに人を殺すところまで突き進んでしまうのだから集団心理は恐ろしい。
「悪友と一緒にいたせいで、ひとりではぜったいにしないような悪さをしてしまった」という経験はぼくにもあるから、犯人たちの心理状態もわからないでもない。
もちろん人を殺すまで至る気持ちまでは理解できないけど。
この犯人たちだって、インターネット上で犯行計画を練っているだけなら冷静に「殺人はやめとこう」ってなって振り込め詐欺ぐらいで済んでいたかもしれないと思う(それもあかんけどさ)。じっさいに顔をあわせてしまったことでマウントのとりあいがはじまり、殺人事件にまでエスカレートしてしまったんじゃなかろうか。
だからこの事件を「闇サイト殺人事件」という名前で呼ぶのはふさわしくない。
ほんとに恐ろしいのは生身のコミュニケーションなのだから。
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