2017年10月27日金曜日
【ショートショート】ワイルド・アクタガワ
「いたぞ、野生の芥川賞作家だ!」
まさか。そんなはずはないと思いながらも脚は勝手に駆けだしていた。
そんなわけが。いるわけない。でももしかして。
地下鉄の階段をかけあがったところで人だかりができていた。おかげで勢いのままに見知らぬおばさんの背中にぶつかってしまったがおばさんは振り向こうともしない。
群衆が取り囲んでいたのは、くしゃくしゃの髪の毛、丸眼鏡、そして右手に万年筆を持った中年男性だった。
たしかに作家であることはまちがいないようだった。
「あれですか」
隣に立っていた男性に訊いた。
「たぶん」
男性はスマホの画面を作家に向けてムービーを撮りはじめた。
「おい何か書いてみろよ」
若い男が怒鳴った。
言われた作家は少しおびえた様子を見せたが、しかしためらうこともなく「何か書くものを」と言った。
若い男は紙を持っていなかったらしく、誰かいないかと周囲を見まわした。
「iPadならあるけど」
サラリーマンが言い、隣にいた上司らしき男に「ばか野生の芥川賞作家だぞ。タブレットなんか使えるわけないだろ」と頭をこづかれた。
「便箋でもいいの?」
百貨店の紙袋を提げた老婦人が尋ねた。
作家がうなずくと、老婦人はハンドバッグから鳥の絵がはいった便箋を五枚ほどまとめて作家に手渡した。
作家は便箋を手にすると「机が……」と言った。
さっきのサラリーマンが「これ下敷きにしてください」とタブレットを差しだし、上司に「ほら役に立ったでしょ」と得意げに笑った。
作家は背中をかがめるとタブレットの上に乗せた便箋にすごい勢いで何やら書きだした。
しばらく書くとくしゃくしゃっと便箋を丸めて投げ捨て、また新しい便箋に怒涛の勢いで書きつけた。
その様子を見ていた群衆から、おぉ……というため息が漏れた。
私も驚嘆していた。
万年筆を片手に猫背で原稿用紙(便箋だが)に向かう姿勢、ぼさぼさ頭、紙を丸めて投げ捨てるしぐさ、すべてが野生の芥川賞作家のそれだった。
といっても野生の芥川賞作家はとっくに絶滅したことになっているので、あくまでテレビで見ただけのイメージなのだが。
「これは期待できそうだな」
「もし本物の野生の芥川賞作家だったらやっぱり通報したほうがいいのかな」
「言うってどこに」「テレビ局とか」「やっぱり出版社じゃないの」
人だかりはますます大きくなっていた。もはや地下鉄の階段は完全にふさがれていて、下から「早く通せよ!」という声が聞こえてくる。
「おいおいおいおい」
ざわめきを切り裂くように、男の大げさな声が響いた。
さっき「何か書いてみろよ」と言った若い男だった。
手には、作家が丸めて捨てたくしゃくしゃの便箋が握られている。
「なんだよ『ぼくが目が覚めると異世界だった。それが冴えない中学生だったぼくが魔法を武器に戦うようになったきっかけだった』って。おまえ純文学じゃねえじゃねえか!」
隣に立っていた会社員も便箋を覗きこみ、すぐにがっかりしたような怒ったような顔になった。
「ほんとだこりゃライトノベルだ!」
「おまけにすごく子どもっぽい字」
老婦人は顔をしかめて、残りの便箋をひったくってハンドバッグにしまいなおした。
「まぎらわしいまねすんじゃねえよ!」
サラリーマンが怒鳴りながらタブレットを取りかえし「今度やったら二度と書けないようにしてやるからな!」と罵声を浴びせて立ち去っていった。
車道にまであふれていた人だかりはあっというまに雲散し、気づくとニセ芥川賞作家野郎も姿を消していた。警察が来る前に逃げだしやがったのだろう。
「野生の芥川賞作家はもういない、もういないんだ……」
いつからそこにいたのだろう、隣に立っていた老人が誰に言うでもなくつぶやいた。
「おじいさんは本物の芥川賞作家を知っているんですか」
私が訊くと、老人はこちらを向いて話しはじめた。
「ああ。わたしの若いころにはまだ、年に二回、新しい芥川賞作家が見つかっとった。多いときにはいっぺんに二人見つかるようなときもあった」
「二人も」
「そう。だがやがて年に一度になり、数年に一度になり、人々が危機感を抱いたときにはもう遅かった。芥川賞作家は完全に姿を消した。やはりあれは乱獲だったんだ。高く売れるからといって、若き才能を発掘しすぎたんだ。一度消えた芥川賞作家はもう甦らん……」
老人は遠い昔を思いだすように、そっと目を閉じた。
2017年10月26日木曜日
現代人の感覚のほうが狂っているのかも/堀井 憲一郎『江戸の気分』【読書感想】
『江戸の気分』
堀井 憲一郎
落語通の堀井憲一郎氏が、落語というフィルタを通して現代社会について考えた本。
江戸の人の視点で眺める現代というか。落語に出てくる江戸の人に向かって「今から200年後、あんたたちの子孫はこんなふうに生きてるぜ」と説明するというか。
現代人は昔の人よりもずっと正しい医学の知識を持っていると思っていて、それはじっさい正しいんだけど、根本的な考え方でいうとひょっとしたら江戸人のほうが正鵠を射ているのかもしれない。
健康的な生活をしていると「健康=正常」で、病気になることは突発的なエラーが起こっているような気になるけど、はたしてそれは正しいのだろうか。
こないだ読んだ山口雅也『生ける屍の死』(感想はこちら)にこんな台詞が出てきた。
死んでいる状態こそが自然な状態であり、動的に活動している生の状態こそが異状なのだ、という解釈だ。
さすがにそれは極端な考え方だが、ぼくも歳をとって身体のあちこちにガタがくるようになると「どこかしら悪いほうがふつうで、絶好調のときのほうが例外的」と思えるようになってきた。
江戸時代だったら視力が悪いのも矯正できないし虫歯になっても治せないし、たぶん今よりずっと「身体が悪くてあたりまえ」という感覚は強かったのではないだろうか。
死も今よりずっと身近に存在していたから、身体についての理想的な状態は今よりずっとハードルが低かっただろう。「とりあえず目が見えて耳が聞こえて立って歩けて生きてたらオッケー」ぐらいのものだったかもしれない。
江戸にかぎらず人類の歴史としてはそっちのほうがずっと長かったわけで、今の「具合が悪かったら病院へ」の時代のほうがずっと異常な時代なのだろう。
あと何十年かしたら「毎日身体チェックをして病気になる前にその芽をつぶす」時代が訪れるだろうから、「病気を治す時代」なんてのは長い人類の歴史においてたった100年ぐらいので終わるかもしれないね。
江戸の経済成長の話も興味深かった。
江戸時代の人口は、戸籍がなかったので正確にはわからないけど、1600~1750年の間で1.5~2.5倍くらいの増加らしい。
昭和時代が約60年で倍になっているから(しかも大戦で多くの国民が死んだにもかかわらず)、150年で2倍くらいというのはだいぶ緩やかだ。1年で1.0046倍ずつ増えていけば、だいたい150年で2倍になる。
ということは年に0.5%経済成長すれば経済成長ペースが人口増加ペースを上回るわけで、単純に考えると人々の暮らしはよくなることになる。
なるほど、それなら革新的な政策を打ちだして経済成長をしようとするより、社会の安定(ひいては幕府の安定)をめざすのも納得できる。
0.5%ぐらいだったらやれ軍需だアベノミクスだと言わなくても自然に達成できそうだし。
ぼくは経済のことはさっぱりわからないけど、肌感覚としては、インフレもデフレも経済成長もなくて「今ぐらいの状態がずっと続いてくれる」のがいちばんいい。
それなら将来の備えもしやすいし。
日本はどんどん人口が減っていくわけで、もう経済成長を捨てて大きな実害が出ないようにちょっとずつ日本をシュリンクさせていきましょう、ってな方向にもっていけないもんですかね。
グローバル競争とかもういいじゃない。さっさと負けを認めて競争からおりましょうよ、と言いたい。
未来のための撤退戦、ってのはできない相談なんでしょうかね。
やっぱりあれですかね。江戸時代みたいに鎖国するしかないんですかね。
その他の読書感想文はこちら
江戸時代の人口は、戸籍がなかったので正確にはわからないけど、1600~1750年の間で1.5~2.5倍くらいの増加らしい。
昭和時代が約60年で倍になっているから(しかも大戦で多くの国民が死んだにもかかわらず)、150年で2倍くらいというのはだいぶ緩やかだ。1年で1.0046倍ずつ増えていけば、だいたい150年で2倍になる。
ということは年に0.5%経済成長すれば経済成長ペースが人口増加ペースを上回るわけで、単純に考えると人々の暮らしはよくなることになる。
なるほど、それなら革新的な政策を打ちだして経済成長をしようとするより、社会の安定(ひいては幕府の安定)をめざすのも納得できる。
0.5%ぐらいだったらやれ軍需だアベノミクスだと言わなくても自然に達成できそうだし。
ぼくは経済のことはさっぱりわからないけど、肌感覚としては、インフレもデフレも経済成長もなくて「今ぐらいの状態がずっと続いてくれる」のがいちばんいい。
それなら将来の備えもしやすいし。
日本はどんどん人口が減っていくわけで、もう経済成長を捨てて大きな実害が出ないようにちょっとずつ日本をシュリンクさせていきましょう、ってな方向にもっていけないもんですかね。
グローバル競争とかもういいじゃない。さっさと負けを認めて競争からおりましょうよ、と言いたい。
未来のための撤退戦、ってのはできない相談なんでしょうかね。
やっぱりあれですかね。江戸時代みたいに鎖国するしかないんですかね。
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2017年10月25日水曜日
ズゾゾゾゾゾゾゾォ
少し前にこんなことを書いたんだけどさ。
人間って動くものであれば機械に対してでも愛着を持つから、アイボとかルンバとかペッパーとか愛称をつける。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年10月19日
って考えると、スターウォーズに出てくるR2-D2やC-3POはずっと型番で呼ばれててかわいそう。
あれは故障したときにカスタマーセンターに伝えるときのための名前だろう。
身のまわりの機械製品を考えたとき、親しみを感じるものとそうでないものがあるな、と思った。
たとえば電気髭剃りには、あまり親しみがわかない。
長く使っていたら愛着は湧くけど、電気髭剃りに名前をつけて友人やペットのように接している人は、たぶんそう多くない。
「わたしは髭剃りをブラウンって名前で読んでます。こないだ壊れたときは庭に埋葬しました」ってあなた、あなたは少数派です。
ロボット掃除機に親しみを覚える人はけっこういる。
「うちのルンバちゃん」みたいな言い方をする人もいる。
ぼくの家にはロボット掃除機がないのでわからないけど、たぶんペットに近い感覚なんだと思う。イヌやネコとまではいかなくても、飼ってるザリガニに対して湧くぐらいの親しみは湧くんじゃないだろうか。
親しみが湧くかどうかは、使う頻度とはあまり関係がない。
ふつうの人がいちばん接する時間の長い電化製品はテレビだと思うが、テレビ自体をペットのようにかわいがっている人はちょっとアレな人だ。テレビのことを「テレビのジョン」って呼んでるあなたのことです。
最近はしゃべる家電も増えているが、それも親しみとはあまり関係ない。
うちの湯沸かし器は「ノコリヤク5フンで、オフロガワキマス」「オフロガ、ワキマシタ」としゃべるが、それに対して「おうおう、ういやつじゃ」とは思わない。返事もしない。昭和の関白亭主のように黙って風呂に入る用意をするだけだ。
たぶん、ポイントは「自走するかどうか」なのだと思う。
だから、アイボやC-3POのように犬や人の形をしている機械はもちろん、ロボット掃除機のように楕円形の機械に対しても親愛の情を持つのだろう。
だって想像してみてほしい。
もしもロボット掃除機が部屋の片隅からぴくりとも動かず、超強力な吸引力を発生させて「ズゾゾゾゾゾゾゾォーーーーー!!!」と部屋中のごみを一気に吸いこむ方式をとっていたとしたら。
怖くてしかたがない。
2017年10月24日火曜日
陽当たりの悪い部屋
学生時代、陽当たりの悪い部屋に住んだことがある。
窓のすぐ向こうには別のマンションが建っていて、昼でも薄暗かった。
不動産屋と内見に行ったときから「暗い部屋だな」と思ったが、家賃が安かったのでぼくはその部屋を選んだ。
暗ければ電灯をつければいい。
どうせ布団を干さないから陽当たりなんかどうでもいい。
その前に住んでいた部屋が最上階で陽当たり良好の部屋だったためにめちゃくちゃ暑かったので「むしろ陽が当たらないほうが涼しくていい」ぐらいに思っていた。
住んでみると、はたしてその部屋は陽当たりが悪かった。
一日中陽があたることがなかった。
しかし夏場は快適だった。
窓は2か所についていたので両方とも開けはなつと風が通りぬけ、涼しくて気持ちがよかった。
だがたいへんなのは冬場だった。
その部屋に住んではじめて知ったのだが、陽当たりの悪い部屋というのは外と中の温度差が大きいから結露がすごい。
朝起きると、窓にびっしりと露がついていた。窓につくだけでなく、床にまで落ちていた。
窓際に置いていた本が濡れてびちゃびちゃになっていた。
窓を雑巾で拭くと、バケツ半分ぐらいの水がとれた。たかだか10畳ぐらいの部屋で、どこにこれだけの水があったのかと驚いた。
それが毎日である。
風を通せば多少は改善するのかもしれないが、冬場に窓を開けはなして風を通すなんて寒いからしたくない。
ずっと部屋を閉めきって、朝になると窓を拭いて水を捨てて、湿っぽい部屋で過ごした。
洗濯物は部屋干しをしていたが、どれだけ干しても乾かなかった。
実家に帰ったときに母から「あんたの服、くさいで」と言われた。
湿っぽい部屋にいると気持ちも滅入ってくるし、体にもよくないのだろう、その年はよく風邪をひいた。関係あるのかわからないけど、肺に穴があく肺気胸という病気で入院もした。
失ってその大切さがはじめてわかるものはよくあるが、陽当たりもそのひとつだと痛感した。
ほんと陽当たりの悪い部屋に住んでると心の水蒸気まで凝固しちゃうよ。なんだよ心の水蒸気って。
2017年10月23日月曜日
陰惨なのに軽妙/曽根 圭介『熱帯夜』【読書感想】
『熱帯夜』
曽根 圭介
『熱帯夜』『あげくの果て』『最後の言い訳』の3篇を収録。
それぞれテイストの異なる不気味さがあって、いろんな「嫌な感じ」を味わえた。
『熱帯夜』
ヤクザ、借金、ひき逃げ、シリアルキラーととにかくいろんな要素が盛りだくさん。
ばらばらな要素がラストで一直線につながるのは気持ちいいんだけど、短篇でこれをやるとご都合主義っぽさが鼻についてしまうな。
「うまい」が35%、「できすぎてる」が65%。
ちょっとうますぎるね。
とはいえ小説にリアリティはなくてもいいとぼくは思っているので、「偶然が重なりすぎだろ」と言いたくなる気持ちを捨てて読めば物語の展開の軽妙さが存分に味わえて楽しい短篇だった。
残酷な事件が描かれてるのに楽しいってのも妙だけど、乾いた文章のおかげでぜんぜん陰惨な感じがしないんだよね。
曽根圭介の文章って小説としてみると決してうまくないんだけど、それはわかりづらいということではなく、むしろ逆で余計な装飾を省いているからすごくわかりやすい。
文章のうまさって、内容とあってるかどうかだよね。ミステリには過度な美辞麗句は必要ないから、これぐらいがちょうどいい。ストーリーの進行を妨げないからね。
『あげくの果て』
これは長編にしてもよかったんじゃないかな。
若者と高齢者の対立が激化した世の中を描いたディストピア小説。
なにが絶望的かって、もうすぐ日本で実現してしまいそうなところだよね。
戦争に行くのが戦闘スーツを着た高齢者ってのはいいアイデアだね。
子孫を残せなくなった人が若い世代のために戦いにいくほうが生物学的には理にかなってるし、歳をとると戦争に行かないといけなくなるとみんな必死に戦争を避けようとするしね。
『最後の言い訳』
死者がよみがえって生者を食べたり食べなかったりする世界を舞台にした、ゾンビもののホラーコメディ。
グロテスクな描写が多いんだけど、ペーソスとユーモアにあふれた意外にも叙情的な作品だった。
こういうブラックユーモアが散りばめられていて、いかにも曽根圭介らしい。
オチもブラックで、藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』ってSF短篇を思いだした。
この人の小説ってとことんドライだよね。残酷なのに洒脱。陰惨なのに軽妙。ふしぎな味わいだ。
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