2017年8月22日火曜日
走者一斉救助のツーベースヒット
友人と話していたとき、野球の「ファール」はおかしくないか? という話になった。
[foul]を辞書で引くと、[悪い] [汚い] などの意味がある。
サッカーやバスケットボールの「ファール」は理解できる。敵チームの選手をケガさせかねない危険なプレーに対して与えられるものだから、[悪い][汚い]行為とのそしりはまぬがれない。
だが野球のファールは、べつに卑怯なプレーでもなんでもない。ただの打ち損じだ。失敗は誰にでもある。汚いなんて言われる筋合いはまったくない。
さらにファールフライは漢字で「邪飛」と表される。ラインの外にボールを打ち上げただけで、なぜ邪(よこしま)なんて汚名を与えられなくてはならないのだろう。
テニスやバレーボールでは、サーブを失敗することを「フォルト」と呼んでいる。野球の打ち損じも「フォルト」でいいのではないだろうか。
よく言われていることだが、野球用語には物騒な言葉が多い。
死んだり殺したりしてばかりいる。
一死、二死、牽制死、盗塁死、刺殺、捕殺、併殺、挟殺、三重殺……。こんなに人が死ぬスポーツは他にない。「犠牲バント」も死だ。得点することをわざわざ「生還」というぐらいだから、基本的に死ぬのがあたりまえの世界なのだ。
しかし解せないのが「死球」だ。さっきあげた野球用語の「死」や「殺」はアウトの意味だ。だが、デッドボールを直訳したのだろうが、死球の「死」はアウトではない。むしろチャンス拡大だ。
すなわち、野球には2つの意味の「死」がある。死球で出たランナーが牽制死すると二度死ぬことになる。007か。
死だけではない。不穏な用語は他にもある。
たとえば「盗塁」。これもスチールの訳だろうが、なぜ盗むのかよくわからない。
バスケットボールにも「スチール」という用語があるが、これは敵が持っていたボールを奪うことだから納得できる。
だが野球のスチールは何も奪っていない。ルールに基づいて懸命に走ってチャンスを拡大したのに盗っ人扱いだ。「到塁」とかでよかったんじゃないか。
「走者一掃のツーベースヒット」という言い方も穏やかでない。
走者一掃、なんてまるで邪魔者を排除するような言い方ではないか。ランナーにしたら懸命に走ってチームに得点をもたらしたのに、なぜ「一掃する」とゴミのような扱いを受けなければならないのか。
ヒットによってランナーを「死」から救ったのだから「走者一斉救助のツーベースヒット」とかでいいんじゃないだろうか。
「自責点」も嫌な言葉だ。
チームスポーツでは「誰のせいで負けたか」という戦犯探しは暗黙の了解としてしてはならないことになっている。明らかに誰かのミスが原因で敗れたしても、少なくとも建前としては「しょうがないよ、みんなの力が足りなかったんだ」ということにするのが潔いということになっている。
しかし野球ではそこのとこをわざわざ明白にする。自責点なる概念をつくり、誰の責任でどれだけ点をとられたかということを厳密に算定する。
さらに不公平なことに、自責点はピッチャーにしかつかない。野手がどれだけエラーをしようが、点をとられた責任はすべてピッチャーにおしつけ、あまつさえ「負け投手」なんて呼び名をつける。チームスポーツなのに、まるで負けた原因がすべてピッチャーにあると言わんばかりだ。
許せないのは、それを監督が甘んじて受け入れていることだ。部下にすべての責任を押しつけるなんて責任者失格だ。
潔く「責任はすべて私にある。自責点は私につけてくれ!」と言える監督がいてもいいんじゃないだろうか。
そして、その行動に対して「そなたの部下を思う気持ち、誠にあっぱれ! 自責点はゼロとしよう!」と名裁きを見せる大岡越前のような審判がいてもいいのに。
2017年8月21日月曜日
バカが鉄の鎖もつけられずに闊歩している世の中/中川 淳一郎 『バカざんまい』 【読書感想】
中川 淳一郎 『バカざんまい』
歯に衣着せぬ物言いのライター・中川淳一郎氏のエッセイ集。
「こいつもバカ」「あいつもバカ」とずばずばと時事問題をたたっ斬っていくので、読んでいるとまるで自分が賢い側にまわったかのように錯覚してなかなか痛快だ。そういう人間こそがいちばんのバカなんだろうけど。
しかし解せないのが、これが新書で出ていること。新書って多少なりとも論文やルポルタージュの形式をとっているものだと思っていたんだけど。この本は完全なエッセイ集(というかボヤキ漫談)なんで、ちったあ知見ってやつを広げてみようかと思って手に取った身からすると騙されたような気分。文庫で良かったんじゃないかなあ、新潮社さん。
ぼくも中川淳一郎さんと同じく「世の中バカばっかり」と思ってる人間だけど、なるほど、バカが多いのはこういうからくりか。
「成人式でヤンキーが暴れるのは、成人式が彼らにとって自分たちと違う階層の人たちにアピールできる最後のチャンスだから」という説を聞いたことがある。
小中学校ぐらいまではいろんな家庭環境・趣味嗜好の人が同じコミュニティにいるけど、高校、大学、社会人となるにつれ階層は分かれてゆき、彼らの人生が交わることはまずない。何かの拍子に接近したとしても、思想も会話の内容も趣味嗜好も違うから、共通の話題がなくて親しくなることはあまりない。
少し前に、小学校の同級生だった「中学生から不登校になって高校には行かずやんちゃしてて今は大工をしている子」と飲む機会があった。
思い出話でそれなりに盛り上がったのだけれど、タバコを平気で路上に捨てるとことか、あたりまえのように飲酒運転をして「捕まるやつは運が悪い」と放言しちゃうようなところとか、随所に「価値観が違いすぎるな」と感じるところがあった。
たぶん向こうは向こうでぼくに対して「なんだこいつ」と思うところがあっただろう。
価値観がぜんぜん違う人がいても彼らと会うことはほとんどないのでぼくの人生においてプラスもマイナスもないのだけれど、インターネットができてからこっち、そういうわけにもいかなくなった。
特にTwitterみたいな不特定多数と接する媒体を見ていると、「こんなヤバい思想の持ち主がよく社会生活を送ってられるな」と思うことがよくある。学校にも職場にもいなかった人種、未知との遭遇だ。
こんなバカが鉄の鎖もつけられずに闊歩している世の中は大丈夫か、と不安になる。
本来ならまず出会うことのなかったバカ(価値観がまったく違う人物)と出会えるツール、それがインターネットなのだ。
この本でもインターネットの話題が多くとりあげられている。
共感したのは、この一節。
とはいえ、「世間をお騒がせ……」のほうは、しかたないとぼくは思う。
不倫や覚醒剤使用した芸能人とかが謝罪会見とかやらされてるけど、世間に謝れと言われても「世間をお騒がせして申し訳ない」としか言いようがないだろう。だってテレビを観ている人には何の迷惑もかけてないんだもん。むしろ暇人のために話題を提供してあげたのだから感謝されてもいいぐらいだ。
ほんとに迷惑をかけてる家族や所属事務所の人には直接謝罪してるだろうし。
しかし「誤解を招いたのであればお詫びします」はほんとに見苦しい。そこまで嫌々頭を下げるのなら謝らなきゃいいのに、とさえ思う。
つい最近も大臣が大失言をした後に「誤解を招きかねない発言を撤回し、お詫びを申し上げる」と、謝罪になってない謝罪をしてたね。
こういう発言をした人がいたら、報道機関はちゃんと「自らの落ち度を完全否認」「謝意なし」と報道しなきゃだめだと思うよ。
で、当の議員から抗議されたら、ちゃんと「侮辱しているかのような誤解を招いたのであれば申し訳ない」と言ってやればいいね。
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2017年8月19日土曜日
競争力の高いバターになっとけ
「競争」って重きを置かれすぎじゃない?
ビジネスでも学業でもそうなんだけど。
競争なんか、しなくて済むならそれに越したことはない。
忍者が麻を使って修行する話、知ってる?
忍者が麻の種を植えて毎日その上を飛び越えてたら、麻はすごい勢いで成長するから、それにあわせて跳んでるうちにいつのまにか忍者も3メートルぐらいジャンプできるようになってるって話。
そんなわけないよね。嘘にもほどがある。ぼくは小学生のとき信じてたけど。
麻に対抗心燃やしたからって人間が3メートルもジャンプできるようにはならない。
その忍者の話を信じてるのか知らないけど、競争させたら成長すると信じてる人が多い。
いや、二流はそうかもしれない。他人よりいい点とるために勉強する。そういう人がいるのはまちがいない。
義務教育はそれでいい。全体のレベルを引き上げるのが目的だから。
でも一流の人は競争するから成長するわけじゃない。
学ぶことが楽しいから勉強する。絵を描くのが好きだから絵を描く。で、そういう人が業界を牽引する。彼らにとって競争なんて成長を阻害する要因でしかない。
スポーツは競争を楽しむためのものだから競争こそが選手を成長させるかもしれない。
だけど学問や芸術はそうではない。真理に近づくことやより善なるものや美を追求することが成長を促す。個ではなく全体の成長を。
前職を 辞めたのは、競争に対する考え方も原因のひとつだった。
ぼくは一応管理職という立場にあったんだけど、会社は社員たちをむやみに競争させようとしていて、ぼくはそれに反発していた。
みんなそれぞれ別の業務をやってるから競争させることに意味がない、競争させてそれを計測するのにもコストがかかる、競争させて足の引っ張り合いになったらトータルでマイナスになる、そもそも競争させないと仕事をしないようなやつはいらない、とかいろんな理由があって。
全員がゴールを狙うサッカーチームが勝てるわけない、と言って結局は会社を辞めた。
なんでもかんでも競争の原理を持ちこむのは、二流半を二流に引き上げるために一流の足を引っ張る行為だ。
大学が「競争力を高めるため」って理由で独立法人化させたのなんかまさにそれ。結果が出るかわからない研究、短期的に結果が出ない研究をする余裕をどんどんなくしていって、「競争力」だけの二流の大学ばかりになっていく。
そもそも「競争力」という言葉がばか丸出しだと思う。国際競争力をつけよう、とか。
競争は手段あるいは結果にすぎないのにそれを目的化しているのがほんとに愚かだ。
囲碁とかオセロとかビーチフラッグみたいなゼロサムゲームであればともかく、マクロ経済とか教育とか政治とかの世界で「競争力」という言葉を使うやつは、そいつら同士で追いかけっこをしすぎてバターになればいいのに。世界のバター市場で勝負できる競争力の高いバターに。
2017年8月18日金曜日
ビール飲みながら「おれが監督ならなー」と言ってるおっさんの話/小関 順二『間違いだらけのセ・リーグ野球』【読書感想】
小関 順二『間違いだらけのセ・リーグ野球』
今はプロ野球を観ないけど、1993~2000年ぐらいはよく観ていた(当時は小学生~高校生)。
兵庫県に住んでいたこともあって、父に連れられて球場にも何度か足を運んだ。兵庫県にある2つのプロ野球の球場、阪神甲子園球場と、オリックスの本拠地だったグリーンスタジアム神戸だ。
当時の阪神といえばまさに暗黒時代で、なにしろその8年間の最高順位は4位、最下位は5回とほんとにどうしようもないチームだった。プロ野球ファン以外に名が知れるようなスター選手もいなかった(新庄剛志はいたが、彼がスターになるのはメジャー挑戦~日本ハムでの活躍があった後の話だ)。
一方、オリックスはといえば仰木彬が監督を務めてイチローが在籍していた時代で、93~99年はずっとAクラス。リーグ優勝2回、日本一1回。阪急からオリックスという名前にかわって以降、もっとも輝いていた時代だった。
しかし、球場の客の入りは成績とは正反対だった。
甲子園球場の阪神の試合は常に満員。グリーンスタジアムでのオリックスの試合は多くても7割ぐらいの入り。
グリーンスタジアムではD.J.(オリックスにD.J.という登録名の選手がいたのでややこしいけどここではディスクジョッキーのこと)によるハイテンションなアナウンスとにぎやかな音楽がゲームを盛り上げ、夏場は試合中に花火を打ち上げ、入場時に無料でグッズを配ったりと、さまざまなイベントを催していた。
甲子園球場にはそういったイベントは一切なし(花火は立地的にできないと思うが)。とにかくおまえらは野球だけ見てればいいんだよ、という感じ。ジェット風船はあったが、あれは観客が金を出して風船買って飛ばすだけなのでファンサービスではない。むしろファンから球場へのサービスだ。
手をかえ品をかえ観客を楽しませようとしてくれるグリーンスタジアムのほうが、ぼくは好きだった。
それでもグリーンスタジアムは、どれだけイチローがヒットを打とうが、いくら優勝争いをしようが、常に空席が目立つ状態。
グリーンスタジアムは立地が悪くて都市部からのアクセスが良くなかったのだが、それにしてもこの差はあんまりじゃないかと子どもながらに思っていた。
十数年前、かようにセ・リーグとパ・リーグの人気の差は大きかった。
セ・リーグの試合はかなりの割合でテレビで観ることができたが、今のようにインターネットもない時代、パ・リーグの選手が動く姿を観られるのはオープン戦とオールスターゲームと日本シリーズだけだった。
そして20年近い時が流れ、セ・パの人気の差は当時とは比べものにならないほど縮まっている(理由はパ・リーグの人気が高まったことよりもセ・リーグの人気が落ちたことのほうが大きいが)。
球場に足を運ぶファンだけに限定していうなら、パ・リーグのほうが人気があるといえるかもしれない。
そして、実力では今や完全にパ・リーグのほうがセ・リーグより上である。断言してしまっていいだろう。
昔から「人気のセ・実力のパ」と言われていたが、都市伝説に近いレベルの話だった。オールスターゲームはファンサービスのお遊びだし、日本シリーズは短期決戦だから本当の実力は測れないよ、と思われていた。
だが2005年からセ・パ交流戦がはじまったことで、その実力差は歴然となってしまった。
ちなみに『間違いだらけのセ・リーグ野球』が書かれたのは2015年だが、16年も17年もパ・リーグが勝ち越している。
13年やってセ・リーグが勝ち越したのは1回だけ。これはもう1軍と2軍ぐらいの力の差があるといっていいかもしれない。
ちなみに、日本シリーズでもセ・リーグは大きく負け越しており、2005~2016年の12年間でセ・リーグの球団が日本一になったのは3回だけだ。
セ・パの力の差が開いた原因のひとつとして小関順二氏が挙げているのが、若手育成に対する取り組みだ。
セ・リーグはFAと逆指名制度に守られたことで人気選手が集まったが、実績のある選手ばかりになったことで若手が台頭できるチャンスが減った。
一方、有力選手をセ・リーグに奪われたパ・リーグは、ドラフトで高校生を中心にした若手獲得に動き、結果として若手を育成する体制が整った。
……という説。
なるほど。今はそこまででもないのかもしれないけど、いっときのジャイアンツってほんとにえげつないぐらい他球団のエースや4番をかき集めてたからなあ。
落合、清原、広沢、石井、江藤、ローズ、小久保、ハウエル、ペタジーニ、マルティネス、ラミレス、小笠原、工藤、川口、野口、杉内……。
こうやって挙げてみたらほんとひどいな。
プロ野球人気が低迷した時期とちょうど重なってるから、ジャイアンツの補強戦略が球界全体に与えた負の影響は相当大きいのかもしれないね。そりゃこんなことやってたら人気はなくなりますよ。レベルの高い争いを期待できなくなるから、一流選手は海外に行くしね。
ニューヨークヤンキースとかレアルマドリードとかも同じことをやってるけど、スター選手を集めれば(その球団だけにとっては)目先の利益は増えても、長期的に見たらまちがいなくマイナスだよね。
「なぜセ・リーグはだめになったのか」という視点はおもしろかったのだが、残念だったのは、データに基づいた話になっていないこと。ほとんど筆者の主観によってのみ書かれている。
データは載っている。たとえば「ほら、パ・リーグのほうがこんなに盗塁が多いんですよ」というデータは示してある。
なるほど、と思う。
でもその後に「だからパ・リーグはセ・リーグよりも対戦成績で上回ったのだ」と書かれると、おいちょっと待てよと言いたくなる。
盗塁と勝利の関連性を示すデータがまったくないし、仮に相関関係があったとしても因果関係があるとはかぎらない。
「高卒選手のほうが日本代表に選ばれることが多い。だから高卒のほうが大成しやすい」なんて主張も書かれている。
これは因果関係が逆だ。日本代表に選ばれるぐらいの素質を持った選手だから高校時代からスカウトの目にとまっただけだろう。高卒でプロ入りしたらいい選手になるのではなく、いい選手だから高卒でプロ入りできたのだ。
早打ちのほうが成績がいい、というデータも載せている。
初球を見逃さずにワンストライク目から打っていったほうが打率が高いのだそうだ。
著者の小関さんは「だから早打ちしたほうがいい!」と書いてるけど、これも相関関係と因果関係の読み違いだ。
「失投があったから早めに打った」+「失投だったからヒットになった」だけではないだろうか。ここから「早めに打てばヒットになる」という結論を導くのは大間違いだ。
また、チームプレイとして考えた場合、非力なバッターは初球はバントの構えで様子を見ろとか、じっくり見て相手に球数を投げさせろとかの指示を受けるから、遅打ちになる。「強打者だから早めに打たせてもらえる」+「強打者だからヒットやホームランが多い」だけかもしれない。
上に挙げたのは一例で、いろんなデータを出してはいるが、統計学的に意味のあるデータはほぼ皆無。
はじめに結論ありきで都合のいいデータをがんばって集めました、という感じ。
根拠を一切検証することなく「ほらね。だからパ・リーグのほうが強いんだよ」と言われても、結果を見てから「おれが監督ならあそこでピッチャー交代してたのになー」とビール飲みながらほざいてるおっさんと同じで、何の説得力もない。
だいたい「初球を見逃さずに早めに打てば成績が良くなる」ぐらいの単純な話なら、とっくに改善されてるだろうよ。
『マネー・ボール』のような科学的な分析が読めるかと思ってたのに、期待はずれだった。
野球って膨大なデータがあるから、データサイエンティストが本気で解析したらおもしろくなりそうな題材なのになー。
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2017年8月17日木曜日
パパ友の口説き方
「ママ友」の検索結果 約1300万件
「パパ友」の検索結果 約38万件
ということで どうも世のお父さん同士はあまり友だちにならないらしい。
(しかし「ママ友」も「パパ友」もネガティブな検索結果が並んでるな……)
ぼくには4歳の娘がいるが、パパ友はいない。
学生時代の友人に子どもが生まれたので子どもと一緒に遊びにいく、ということはあるが、子どもを介して友人になった人はいない。
毎朝娘を保育園に送っているので、他の保護者とも顔を合わせる。
保育園に通わせている人は基本的に共働きだから父親が送りにくる家庭もめずらしくない。
必然的によく顔を合わせるお父さんも決まってくる。
ぼくは常々まっとうな人間として生きていきたいと願っているからあいさつをする。「もうすぐ発表会ですね」とか「今日も〇〇ちゃんは元気ですね」といった言葉も交わす。
でもそれ以上の踏み込んだ話をすることはない。
休みの日には たいてい子どもと遊びにいく。しかし「この人(娘のこと)はお父さんとばかり遊んでいいのだろうか」と心配になる。
一人っ子だし、もっと同年代の子と遊ぶ機会をつくってあげたほうがいいんじゃないか。
あるとき、娘と公園に行ったら保育園の同じクラスの子とばったり会った。
子どもたちはおいかけっこをはじめて、そのとき娘はぼくが見たこともないぐらい速く走っていた。
犬を飼ったことのある人は知っていると思うが、犬は散歩のときリードを持つ人の速さにあわせて歩く。老人と散歩するときはゆっくり歩くし、若くて元気な人が散歩をさせると犬は「この人のときは走ってもいい」と思って速く走る。
同い年の子どもと全速力で走って遊ぶ娘を見て、「ああ、4歳の娘もぼくと遊ぶときは、老人と散歩する犬のように遠慮していたのだな」と気づいた。ショックだった(犬から見た老人の扱いをされていたことも含めて)。
もっと同じ年代の子と遊ばせてあげたい。しかし近所にはパパ友がいない。
ちくしょう! 娘よすまない、ぼくが社交的でないばっかりに……!
忸怩たる 思いいを抱えていたぼくだが、少し前にこんなことを書いた。
コミュニケーション能力が低いばかりに千載一遇のチャンスを棒に振ってしまったのだが、あきらめきれなかったぼくは「あのお父さん(Nちゃんのお父さんとする)とプールに行く」という目標を立てた。
そこで、まずは娘に
「Nちゃんとプール行こっか。Nちゃんに、一緒にプール行こうって言ってみたら?」
と吹きこんでみた。
娘とNちゃんの間で「プールに行こう」という約束ができる
↓
Nちゃんが家でお父さんに「〇〇ちゃんとプール行きたい!」と言う
↓
Nちゃんのお父さんが、今度会ったときにぼくに「娘が行きたがってるんでプール行きましょう」と言う
という展開を期待したものだ。
自分では声をかける勇気がないので子どもたちを経由して、しかも向こうから誘ってもらおうという巧妙かつ意気地なしの作戦だ。好きな女の子から告白されるのを待って自分からは何のアクションも起こさなかった学生時代からまったく成長していない。
その後も 何度かNちゃんのお父さんと会う機会があったのだが、いっこうにプールの話が出ない。
うちの娘のところで止まっているのか、それともNちゃんで止まっているのか。なにしろ4歳児なのであてにならない。大人でも報連相はむずかしい。
もしかしたらNちゃんのお父さんのところまで話は届いているのに「あいつと出かけるのイヤだな」と思われているのかもしれない……。
くよくよ考えていても結論は出ない。
ここは直接的に誘うにかぎる。
ある日、保育園に娘を送った後、少し前をNちゃんのお父さんが歩いているのを見つけた。
小走りでNパパに近づく。すっと横に並び、たまたま出くわしたかのように「あ、おはようございます」と声をかけた。
そして、前から準備していた台詞を、まるで今思いついたかのように言う。
「ああそういえばですね、こないだプールの話したじゃないですか。あれ以来、娘がNちゃんとプールに行きたいって毎日のように言ってるんですよ。どうでしょう、今週末にでも一緒に行きませんか?」
娘が毎日のようにプールに行きたいと言っている、というのはもちろん嘘だ。また娘を利用させてもらった。
で、
「いいですよ。行きましょう」
「じゃあLINE交換してもらっていいですか」
と、事前に脳内シミュレーションしていたやり取りを経て、見事一緒にプールに行く約束をとりつけることに成功した。
学生時代に 好きな女の子を誘ったときぐらい周到に準備したのが功を奏した。
休みの日は家族でゆっくりしたいのに誘ったら迷惑じゃないだろうかとか断られたらその後保育園で顔を合わせたときに気まずいなとか思い悩んでいたが、杞憂に終わった。
プールに行くときも「ダサいと思われたくないから新しい服を着ていこう」と前日から準備をして、何があるかわからないから一応銀行でお金おろし、気持ちは完全に初デート前日の高校生だった。
プールでは娘たちも楽しんでいたし、「また一緒に遊びに行きましょうね!」と言って別れたのだが、その日からまたべつの悩みが生まれた。
次はどう誘ったらいいのだろうか。
前回はこっちから誘ったから、次は向こうが誘ってくるのを待ったほうがいいのだろうか。
いやでも待つだけの姿勢では自然と疎遠になってしまうかもしれない。
かといってすぐにまた誘うのも「しつこい人だな」と思われるんじゃないだろうか。
どれぐらいの間隔を開けるのがベストなんだろう。1ヶ月ぐらいだろうか。
前回は「プール」という夏らしいイベントがあったけど、次は何を誘ったらいいのだろう。公園遊びとかは平凡すぎるだろうか。
パパ友をつくるってこんなにたいへんなプロジェクトだったのか。
そりゃなかなか作れんわ。
そこで、まずは娘に
「Nちゃんとプール行こっか。Nちゃんに、一緒にプール行こうって言ってみたら?」
と吹きこんでみた。
娘とNちゃんの間で「プールに行こう」という約束ができる
↓
Nちゃんが家でお父さんに「〇〇ちゃんとプール行きたい!」と言う
↓
Nちゃんのお父さんが、今度会ったときにぼくに「娘が行きたがってるんでプール行きましょう」と言う
という展開を期待したものだ。
自分では声をかける勇気がないので子どもたちを経由して、しかも向こうから誘ってもらおうという巧妙かつ意気地なしの作戦だ。好きな女の子から告白されるのを待って自分からは何のアクションも起こさなかった学生時代からまったく成長していない。
その後も 何度かNちゃんのお父さんと会う機会があったのだが、いっこうにプールの話が出ない。
うちの娘のところで止まっているのか、それともNちゃんで止まっているのか。なにしろ4歳児なのであてにならない。大人でも報連相はむずかしい。
もしかしたらNちゃんのお父さんのところまで話は届いているのに「あいつと出かけるのイヤだな」と思われているのかもしれない……。
くよくよ考えていても結論は出ない。
ここは直接的に誘うにかぎる。
ある日、保育園に娘を送った後、少し前をNちゃんのお父さんが歩いているのを見つけた。
小走りでNパパに近づく。すっと横に並び、たまたま出くわしたかのように「あ、おはようございます」と声をかけた。
そして、前から準備していた台詞を、まるで今思いついたかのように言う。
「ああそういえばですね、こないだプールの話したじゃないですか。あれ以来、娘がNちゃんとプールに行きたいって毎日のように言ってるんですよ。どうでしょう、今週末にでも一緒に行きませんか?」
娘が毎日のようにプールに行きたいと言っている、というのはもちろん嘘だ。また娘を利用させてもらった。
で、
「いいですよ。行きましょう」
「じゃあLINE交換してもらっていいですか」
と、事前に脳内シミュレーションしていたやり取りを経て、見事一緒にプールに行く約束をとりつけることに成功した。
学生時代に 好きな女の子を誘ったときぐらい周到に準備したのが功を奏した。
休みの日は家族でゆっくりしたいのに誘ったら迷惑じゃないだろうかとか断られたらその後保育園で顔を合わせたときに気まずいなとか思い悩んでいたが、杞憂に終わった。
プールに行くときも「ダサいと思われたくないから新しい服を着ていこう」と前日から準備をして、何があるかわからないから一応銀行でお金おろし、気持ちは完全に初デート前日の高校生だった。
プールでは娘たちも楽しんでいたし、「また一緒に遊びに行きましょうね!」と言って別れたのだが、その日からまたべつの悩みが生まれた。
次はどう誘ったらいいのだろうか。
前回はこっちから誘ったから、次は向こうが誘ってくるのを待ったほうがいいのだろうか。
いやでも待つだけの姿勢では自然と疎遠になってしまうかもしれない。
かといってすぐにまた誘うのも「しつこい人だな」と思われるんじゃないだろうか。
どれぐらいの間隔を開けるのがベストなんだろう。1ヶ月ぐらいだろうか。
前回は「プール」という夏らしいイベントがあったけど、次は何を誘ったらいいのだろう。公園遊びとかは平凡すぎるだろうか。
パパ友をつくるってこんなにたいへんなプロジェクトだったのか。
そりゃなかなか作れんわ。
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