2016年5月7日土曜日

【読書感想文】橘 玲『言ってはいけない 残酷すぎる真実』


内容(「BOOK」データベースより) この社会にはきれいごとがあふれている。人間は平等で、努力は報われ、見た目は大した問題ではない―だが、それらは絵空事だ。進化論、遺伝学、脳科学の最新知見から、人気作家が明かす「残酷すぎる真実」。読者諸氏、口に出せない、この不愉快な現実を直視せよ。

いやあ、おもしろい本でした。

とある書評サイトで
「この本には著者独自の見解というものがほとんど含まれていない。いろんな本や論文から得た見識を紹介しているだけだ!」
と批判している人がいた。

そう、そのとおり!
いろんな見識を紹介しているだけ!
でも、それがすごいんだよなあ。かんたんな仕事に見えるかもしれないけど。

膨大な資料にあたり、それをわかりやすくまとめて、興味をひくように提示するてのは、ほんとに頭がいい人にしかできないことですよ。
「政治・経済の池上彰、(経済学も含めた)サイエンスの橘玲」
ですね。

なにより、挑発的なコピーをつけるのがうまいね。
たとえば、この本の見出しだけをいくつか取りあげてみると。
  • 馬鹿は遺伝なのか
  • 犯罪は遺伝するのか
  • 妻殺しやレイプを誘発する残酷な真実
  • 脳科学による犯罪者早期発見システム
  • 「美貌格差」最大の被害者とは
  • メスの狡猾な性戦略
  • 避妊法の普及が望まない妊娠を激増させる
  • 低学歴の独身女性があぶれる理由
  • 子どもはなぜ親のいうことをきかないのか
  • 英才教育のムダと「バカでかわいい女」

どうですか。
読みたくなるでしょう。
電車の吊り広告に載っている週刊誌の見出しのよう。
実際、週刊誌と同じで煽りすぎなところもあったり、結論を急いで極論に走ったり、わざと誤解を招くようなことを書いたりしてるけど、娯楽的な読み物としてはこれで十分。
あくまで入門書(または飲み会での話のネタ)と考えて、正確な知識は巻末の参考文献にあたる、というのが正しい接し方ですね。


内容も刺激的。
たとえば……。
 犯罪における遺伝と環境の影響を知るには、養子に出された犯罪者の子どもがどのような人生を歩んだかを調べてみるのも有益だ。もちろんこうした研究も行なわれていて、約1万5000人の養子(男の子)を対象としたデンマークの大規模な調査が有名だ。
 この調査では、実の親も養親もともに犯罪歴がない場合、有罪判決を受けた息子の割合は 13・5%だった。養親に犯罪歴があり、実の親にない(遺伝的な影響がない)場合、この割合は 14・7%にしか上がらない。しかし養親に犯罪歴がなく、実の親が有罪判決を受けたことのある(遺伝的な影響がある)ケースでは、息子が犯罪をおかす割合は 20%にはねあがったのだ。

つまり、子どもが犯罪者になるかどうかは、どんな家庭で育ったかよりも、どんな親から生まれたかに影響されやすいということ。
たしかにこれはおおっぴらには言えない話だよね……。
犯罪者の親を持つ子どもへの差別につながりかねない(親が犯罪者でも犯罪をしない子のほうが多いのに)。
「親のしつけが悪かったせいだ!」というほうがよほど受け入れやすい。事実とちがったとしても。 


備えあれば憂いなし。
「親なんて無力だ」ということを知っておくためにも、子育てをする前にこの本を読んでおいてもいい。
おもしろかったのはこんな話……。
男女共学の学校に通う女子生徒は、「数学や物理ができる女はかわいくない」という無言の圧力を加えられている。「バカでかわいい女」でなければ友だちグループに加えてもらえないなら、好きな数学の勉強もさっさと止めてしまうだろう。
 このように考えれば、親のいちばんの役割は、子どもの持っている才能の芽を摘まないような環境を与えることだとハリスはいう。
 知的能力を伸ばすなら、よい成績を取ることがいじめの理由にならない学校(友だち集団)を選ぶべきだ。女性の政治家や科学者に女子校出身者が多いのは、共学とちがって、学校内で「バカでかわいい女」を演じる必要がないからだ(必要なら、デートのときだけ男の子の前でその振りをすればいい)。同様に芸術的才能を伸ばしたいなら、風変わりでも笑いものにされたり、仲間はずれにされたりしない環境が必要だろう。

ぼくは女子校がどんなのかは知らないけど、たしかに高校時代は賢い女子も「ちょっとばかな子」を演じてたなあ、と思いあたる。
あれは生きていく上でやむなくとっていた生存戦略なんだなあ。
ちょっと悲哀を感じるね。


他にも、刺激的なトピックが多く紹介されている。

「知性は大部分が遺伝で決まる。家庭での教育はほとんど子どもの知能や性格に影響しない」

「生まれもって犯罪者になりやすい子は存在する」

「端正な顔立ちの人のほうが知能が高い」

「同じ罪を犯しても、顔立ちによって罪状は変わる」

「男女をまったく同じように育てると、かえって男は男らしく、女は女らしくふるまうようになる」


これらは『言ってはいけない』に書かれている内容だけど、学校で教わる「道徳」に反することばかり。
誰でも努力をすれば成功する、出自や見た目で人を判断してはいけません、男女に優劣の差はありません……。

特に学校教育は「人はみな平等である」という幻想にもとづいて制度設計されているので、それがウソだとわかってしまうと、成り立たなくなるんじゃないかな。
みんな薄々ウソだとは気づいているけど、あえて口にしない。

でも、はたしてそれって人を幸福にしているのだろうか。
生まれもって勉強が得意でない子に「がんばればできるよ!」と勉強をさせるのって、車椅子の子に「がんばれば速く走れるようになるよ!」というようなもんじゃないのか。

以前にも書いたけど、ぼくは障害者がそうでない子と同じ学校に通うことに反対だ。
能力の異なる子を同じように扱うことは、決して本人を幸せにしないと思う。ぼくがサルだったら人間と同じ学校に行きたくない。もちろん逆もしかり。

そろそろ「誰でも努力すれば成功する」というエセ平等主義はやめましょうよ。
優しいことを言っているようで、「成功しなかったのは努力しなかったおまえが悪い」と言ってるのと同じだから。
ねえ。



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2016年5月6日金曜日

【エッセイ】霊感があるタイプの人

あたしには霊感がある
……という人を見分ける力が、あたしにはある。


(あー、こいつ言いそうだなー)
と思っていたら、あんのじょう。

「あたしさぁ、霊感ある人なんだよねー」

ほら、言った。

ほら、「ほかの人には見えないものが見えるトクベツなあたし」かもしだしてきた。



(こいつ、言わなくてもいいのにみんなの不安をあおるようなこと言いはじめそうだなー)
と思っていたら、あんのじょう。

「この道、なんか感じない……?」

そら、きた。

「あたしだけかな……。まとわりつくような視線を感じるっていうか……」


それはあたしが(こいつめんどくさいこと言いだしそうだな)って目で見てたからだよ!



2016年5月4日水曜日

【エッセイ】SAKURAパイ

日本に来た人が買って帰るおみやげのお菓子ってなんなんでしょう。

北海道における白い恋人。
広島ならもみじまんじゅう。
ハワイのマカデミアナッツチョコ。

そういうやつ。

めちゃくちゃおいしいというほどではないけど、誰が食べてもそこそこおいしい、おみやげのド定番。

現地の人は誰も食べない、おみやげとしてのみ生きていけるお菓子。



ぼくらが知らないだけで、日本にもそういうのがあるんじゃないでしょうか。

「SAKURAパイ」とか「JapaNoodle」みたいな、日本みやげ専門のお菓子がどこかで売られているんじゃなかろうか。


日本人は誰も食べたことがない、けれども訪日する外国人にとっては誰もが知っているド定番のお菓子が……。


2016年4月30日土曜日

【読書感想文】米原 万里 『心臓に毛が生えている理由』

内容(「BOOK」データベースより)

在プラハ・ソビエト学校で少女時代をすごし、ロシア語同時通訳者として活躍した著者が、鋭い言語感覚、深い洞察力で、人間の豊かさや愚かさをユーモアたっぷりに綴る最後のエッセイ集。同時通訳の究極の心得を披露する表題作、“素晴らしい”を意味する単語が数十通りもあるロシアと、何でも“カワイイ!”ですませる日本の違いをユニークに紹介する「素晴らしい!」等、米原万里の魅力をじっくり味わえる。

ロシア語通訳者によるエッセイ。
死後に単行本未収録のエッセイをまとめたものらしく、内容はばらばら。
それでも一篇一篇はきちんとおもしろい。高い品質のエッセイを書いていたことを改めて思い知らされる。

中でも「チェコと日本の両方で教育を受けた」という特異な経歴を活かした、言語や文化のちがいに対する考察の鋭さが光る。

おもしろかったのがこの文章。

それまで五年間通っていたプラハの学校では、論文提出か口頭試問という形での知識の試され方しかしていなかったのだ。
「鎌倉幕府が成立した経済的背景について述べよ」「京都ではなく鎌倉に幕府を置いた理由を考察せよ」
 というようなかなり大雑把な設問に対して、限られた時間内に獲得した知識を総動員して書面であれ口頭であれ、ひとまとまりの考えを、他人に理解できる文章に構築して伝えなくてはならなかった。一つ一つの知識の断片はあくまでもお互いに連なり合う文脈を成しており、その中でこそ意味を持つものだった。
 ところが、日本の学校に帰ったとたんに、知識は切れ切れバラバラに腑分けされて丸暗記するよう奨励されるのである。これこそが客観的知識であるというのだ。その知識や単語が全体の中でどんな位置を占めるかについては問われない。
 これは辛かった。苦痛だった。記憶は、記憶されるべき物事と他の物事、とくに記憶する主体との関係が緊密であればあるほど強固になるはずなのに、単語と単語のあいだの、そして自分との関係性を極力排除した上で覚え込むことを求められるのだ。

 チェコの学校がみんなこうなのか、それとも著者が通っていた学校だけが変わっていたのかはわからない。
 でも少なくとも日本の学校の大半は、知識をばらばらにして覚えることを生徒に要求している。
(ただぼくはそれが悪いことばかりとは思わない。意味を無視してひたすら覚えるほうがかえって効率的な局面もたしかにある)

 とはいえ、著者が例であげているように、歴史なんかは有機的に覚えていったほうがずっと理解が深まるし、なによりおもしろい。


 でもなあ。
 論文式の試験は、採点するほうがたいへんなんだよなあ。
 えらそうに「知識詰め込み型の教育は良くない!」と言うのはかんたんだけど、ぼくが教師だったら、やっぱり選択式の問題とかにしちゃうだろうなあ。
 だって頭悪い子の論文を読むことほどつらいことはないもの。

 大学の先生はたいへんだなあ。



2016年4月26日火曜日

【エッセイ】バイクのブーン その3


バイクのふたり乗りは、必死にしがみついているさまがあわれだとしか思えない。
だけど、これまでの人生で一度だけ、ふたり乗りをかっこいいと思ったことがある。

バイクじゃなくて自転車だけど。


とある下町に住んでいたときのこと。

あたしはワケあって、商店街に行った。
ワケっていっても、塩大福買いにいっただけですけど。
それ以上のワケはありませんけど。



商店街の入口で、自転車のふたり乗りとすれちがった。
やんちゃな学生が多い地域だったから、自転車のふたり乗りなんて、道端に落ちてる手榴弾と同じくらいありふれた光景だった。どんな地域だ。

でも、あたしがすれちがったふたり乗りはひと味ちがっていた。
自転車を運転してるのが、70歳くらいのじいさんだった。
で、そのじいさんの両肩に手をおき、後輪に足を乗せているのも、70歳くらいのじいさんだった。

かっけえ……。

そのころ、友人に誘われてSMAPのコンサートに行ったことがある。
付き添いで行っただけでべつだん興味なかったから、踊って歌うSMAPを見ながら、なんでこんなのにみんなきゃあきゃあ云うんだろうかとふしぎだった。

SMAPにはぜんぜんときめかなかったあたしだけど、じいさんのふたり乗りにはしびれた。

じいさんたち、すっげえ愉しそうだった。

そりゃ愉しいだろう。
70過ぎて自転車のふたり乗りして、愉しくないはずがない。

若者たちはバイクでスピードを出してスリルを味わうけど、そんなの比じゃない。

だって、じいさんたちの場合、こけたら寝たきりだよ?
すごいスリルじゃない?

そりゃかっこいいわ。


【関連記事】

バイクのブーン その1
バイクのブーン その2
バイクのブーン その3