2016年3月27日日曜日

【読書感想文】バトラー後藤裕子『英語学習は早いほどいいのか』

内容(「BOOK」データベースより)
子どもたちに早くから英語を学ばせようというプレッシャーが強まっている。「早く始めるほど良い」という神話はどこからきたのか。大人になったら手遅れなのか。言語習得と年齢について研究の跡をたどり、問題点をあぶり出す。日本で学ぶ場合、早期開始よりも重要な要素とは何か。誰がどのように教えるのが良いのだろうか。

小学校で英語学習がはじまったり、早いうちから英語を学ばせようという幼児教育が盛んだ。
といっても今にはじまったことではなく、ぼくが小学生のときにも英会話教室に通っている同級生はけっこういた。
で、そういう子らがその後英語ができるようになったかというと、(ぼくが知るかぎりでは)ぜんぜんそんなことはない。まあ本人の意欲なんかもあるんだろうけど。
そんなわけでぼくは早期英語教育については懐疑的に見ている。



『英語学習は早いほどいいのか』では、慎重にデータを集めて「ほんとに早期英語教育は有効なのか?」を検証している。
しかし本当に慎重なのである。慎重すぎてうんざりするほど。
「○○という研究結果もある一方で、××という報告も上がっている。というわけでどちらということもできない」という説明ばっかり。

筆者は学問的に誠実な人なんだろうけど、それにしてももうちょっと明快にできなかったのか。
「で、どっちやねん!」と言いたくなる。
新書なんだからもうちょっと簡潔に書いてよ……。


乱暴に結論をまとめてしまうと、

「外国語学習においては幼少期から学習をはじめたほうがよさそう。ただしそれは移民のように日常的に膨大な外国語と接する環境においての話であって、日本人が日本で英語を学習する程度であれば、『いつ始めるか』ではなく『どれだけ長い期間学習するか』が重要である。早すぎる時期に外国語学習をはじめることは、外国語に対する苦手意識が増したり、母語の習得が遅れるというデメリットも引き起こす」

ということみたいです。
 しかし、なぜ私たちの耳は生後早い時期に母語以外の言語の韻律特徴や音への敏感さを失っていくのだろうか。これは、母語をできるだけ効率的に習得するためのメカニズムであると考えられる。クールは乳幼児の脳の活動を調べ、母語への特化の早い子どもは、母語の語彙習得の進み具合が早くなるというデータを示した。逆に、外国音を聞き分ける能力をなかなか失わない赤ちゃんは、母語の習得が遅れるという。赤ちゃんは、母語の特徴に注意を集中させることで、言語環境に応じて、効率よく母語を学ぶ体制を整えているというわけだ。
 フレーゲは、非常に早い時期に学習を開始した学習者にも外国語アクセントが残るという結果から、母語の使用頻度が第二言語のアクセントに影響を与えていると考えた。すなわち、母語の使用頻度が少なくなったり、極端な場合、母語を喪失してしまったりすると、第二言語の外国語アクセントが低くなるというのである。この仮説をフレーゲはスピーチ学習モデルと名づけた。
 フレーゲによると、第二言語の外国語アクセントが強まるのは、年齢が上がるにつれ、正確な発音を習得する能力が衰えるからではなく、母語の音に大量に触れることにより、母語の音韻システムをより強固に確立するからだという。つまり、母語と第二言語とはトレードオフの関係にあるというわけだ。
移民や植民下にある地域の子どもにとっては、外国語の習得の成否が命にも関わる重要な課題である。なんとしても身につけなければ生きてゆけない。たとえ母語を捨ててでも。
という事情を考えると、「日本人は英語がへた」なんて批判されるけど、それは日本語だけで生きていけるほど軍事的にも経済的にも安定した世の中だってことだよなあ。
英語がへたでいられるって、幸せなことなんですよ。



じゃあどうすれば外国語が身につくのかというと、
「どれだけさしせまった課題として習得しようとしているか」と
「どれだけ多くの時間を外国語学習に費やすか」
ということに尽きる。

なーんだ、と思うような結論だ。

そう、結局のところ、劇的に英語が話せるようになる近道は存在しないのだ。

ジョン万次郎のように単身で外国に放りだされれば否が応でも身につくだろうし、1日5時間真剣に学習すればたいていのことは話せるようになるだろう。
つまり、高いリスクを引き受けるか、大きなコストを支払うかしかないわけだ。

でもそんなのはやりたくない。
わが子を天才児にしたい母親や、あっと驚く施策でもてはやされたい文科省や教育委員会のみなさんや、てっとりばやくお金を稼ぎたい教育ビジネス界の方々が求めているものとは違う。

みんな勉強が嫌いなんだろうね。「楽して大きな成果をあげる」ことしか考えていない。
だから、たしかな研究結果も出ていない「早期英語学習によってバイリンガルに!」という神話に飛びついてしまう。
中国でも韓国でも、裕福なエリート層を中心に、イマージョン・プログラム( 教科を外国語で指導するという点から、一種の内容ベースの指導法といえる) は大人気だ。しかし、その「成功」のほどがはたしてどの程度一般化できるのかたいへん疑問である。日本よりずっと英語の浸透度が高いマレーシアでさえ、二〇〇三年に初等・中等教育で数学・科学を英語で教えることに踏み切ったものの、わずか六年後に、また母語で教えることに方針を戻した。結局、英語で教えることによって数学・科学の理解が不十分になるなど、デメリットの方が大きかったのである。
こうした傾向は日本だけではないみたい。

ぼくはただ、自分の子どもが学校に入るころには、根拠薄弱な「子どものうちにこそ英語教育を!」ブームが去っていることを願うばかり……。


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2016年3月26日土曜日

【写真日記】モデルの格

大阪市内 某ショップのリニューアルオープン祝いのお花。



お花の位置を見るに、関西では上戸彩やローラよりも海原やすよともこのほうが格上なんだな。

しかし、ファッションブランドとしてはどうなんだろ。
「海原やすよともこさんも愛用のブランドです!」
って宣伝効果あるのか。
マイナス効果のほうがでかい気がするぞ。

2016年3月24日木曜日

【ふまじめな考察】ヨッシーの卵のナゾ

ゲーム『スーパーマリオワールド』には、ヨッシーの卵というものが存在する。


この卵、実にカラフルな柄をしている。
白地に鮮やかなグリーンの斑点。
遠目に見ても、ヨッシーの卵だということがすぐわかる。
はたして、これは何のためだろうか?

卵が派手であることは、どう考えても、生存競争をする上で不利である。

卵というものは自走ができないため外敵に対して無防備であり、かつ栄養豊富であるため外敵からは狙われやすい。
卵が危険にさらされることは、すなわち種族の繁栄の危機である。

そのため、通常は卵が外敵から目立たない方向に進化圧がはたらく。

目立たない卵は生存に有利であり、逆に目につきやすい卵を産む個体は淘汰されて遺伝子を残すことができない。
結果として目立たない卵ばかりになる……はずだ。

なぜヨッシーは派手な卵を産むのか。


仮説1)
進化圧となるような外敵が存在しないのではないか。
外敵がまったく存在しない環境であれば卵はどんなに派手でも問題はない。

→ 反証)
『スーパーマリオワールド』の舞台となった「恐竜ランド」には、あたりかまわず攻撃をしかけてくる凶暴な生物が多い。


仮説2)
親が卵をつきっきりで保護するので柄は問題ないのではないか。
ワニのように、十分に強い親が卵を守るのであれば、仮に卵が外敵から目をつけられたとしても手出しはされない。

→ 反証)
プレイしたことのある人ならわかるが、卵が出現する場所の付近にヨッシーがいることなどない。
ヨッシーはたいていの爬虫類と同じく、子育てをしない。


仮説3)
卵を大量に産むので、少々の犠牲は問題ないのではないか。
マンボウは一度に数億個の卵を産むが、そのうち成魚になるのは数匹だけである。この数打ちゃ当たるシステムを採用しているのではないか。

→ 反証)
たしかにヨッシーは数多く卵を産むようだ。恐竜ランドのいたるところにヨッシーの卵が産みつけられている。
この仮説はなかなか有力そうだが、問題は、卵から孵ったばかりのヨッシーが成獣の半分くらいのサイズだということだ。
自身の十分の一以下のサイズの赤ちゃんを産むのでも、人間のお母さんはあれだけ苦労しているのだ。いくらヨッシーが大食いだとはいえ、成獣の半分サイズの卵を産むのには非常に大きなコストとリスクが伴うはずだ。
数打ちゃ当たる戦法は通用しない。


仮説4)
卵が外敵に食べられやすくなるというデメリットを上回るほどのメリットが存在するのではないか。

→ アブラムシは、甘い汁を分泌し、アリを集める。
アリはアブラムシから汁を吸わせてもらう代わりに、アブラムシの天敵であるテントウムシを追い払う。

同じようにヨッシーも、あえて目立つ卵を産むことで他の生物、すなわちマリオを惹きつけようとしているのではないか。

先ほども説明したとおり、ヨッシーは子育てをしない。また、恐竜ランドには危険な外敵が多数生息している。
この過酷な環境で生存するために、ヨッシーはマリオという生物種を利用する道を選んだのではないか。

ヨッシーはマリオの足となり、代わりにマリオは外敵からヨッシーを守る。
このような共生関係を保つためには、遠目からでもマリオの目につきやすいデザインの卵は都合がよかったのだろう。

遺伝子を残すために他の生物の習性(姫を助けに行きがち、という習性)を利用する。
たくましくもしたたかな生物としての戦略が、ここにはある。

2016年3月23日水曜日

【読書感想文】堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』

内容(「BOOK」データベースより)

1995年から2011年。まさに「失われた20年」と呼ばれる時期に、『週刊文春』誌上で連載されていた伝説のコラム「ホリイのずんずん調査」。どうでもよさそうなことから意味ありげなことまで、他に誰もできない(というか、やらない)調査の積み重ねから100の「謎」をセレクトした集大成。飲み屋の小ネタによさげに見えて、実は日本の20年までもが浮かび上がってくる―(かも)。ネットでは検索できない秘密がここにある。

週刊文春で連載していた「ホリイのずんずん調査」はおもしろい連載だった。もう終わっちゃったけど。

どうでもいいことを調べるためにとんでもない量のデータを集めていた。
「どうやって調べているのだろう」 と思っていたけど、連載をまとめた(というか厳選した)この本を読んで謎がとけた。
なんのことはない。足と労力と時間とお金を使って調べつくしているのだ。

と、かんたんに書いてしまったが、これはとんでもない調査だ。 「金のエンゼルの出現率を調べるため」にチョコボールを2,000個買ったり、 みんなが銀行の4桁の暗証番号をどうやって決めているか調べるために、 知人に「どうやって数字を決めたの」と訊いてまわったり (かなり不審がられたらしい。あたりまえだ)、日本三景(松島、宮島、天橋立)を一日でまわったり(強行日程のため宮島まで行ったのに厳島神社を見られない……!)、テレビ局全局の1週間の番組をすべてチェックして、 どのアナウンサーが映ってる時間がいちばん長いかを調べたり(24時間×7日×6局=1,008時間らしい)。

いや、すごい。
ぜひ堀井憲一郎氏に国の研究機関から金を出してあげてほしい。
1,000年後には貴重な史料になるはずだから。
(1,000年経てばどんな本でも貴重な史料になるはずだというツッコミはなしだ)



いやでもほんと、「えーそうなんだ!」とおどろく調査結果も多い。
たとえばこんな調査結果。

寿司を「一貫、二貫」と数えるようになったのは1990年代で、それまでは「一個、二個」と数えていた。

これは、1990年前後の雑誌を丹念に調べてわかった事実だそうだ。
知ってました? ぼくは「一貫、二貫」は江戸時代からある数え方だと思ってた。悪名高い「江戸しぐさ」みたいなもんなんだね。

1980年頃まで、クリスマスは子どもだけのものだった。カップルが一緒に過ごす日になったのはバブルの頃。

花粉症も1980年頃。もちろん症状はそれ以前からあったが、ほとんど認知されていなかった。

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』以前は、坂本龍馬は明治維新において脇役扱いだった。
(というか実際に脇役だった)

1980年代生まれのぼくからすると、カップルのためのクリスマスも、花粉症も、龍馬を中心と歴史観も、あたりまえの話。 でもちょっと上の世代にとってはそんなことないんだね。
日本の「常識」って、けっこう最近つくられてるんだなー。
龍馬と自分を重ね合わせている人間はぼくも大嫌いなのだが、堀井氏もこう書いている。 
(国の制度作りに携わっていない)龍馬が幕末の人物のトップであると本気で言ってるのなら、国の運営はどうでもいいといってるようなものだ。
 だから現役政治家で「龍馬を目標の政治家としてる」と公言して憚らない連中はチェックしておいたほうがいい。



あと大阪生まれ、兵庫育ちのぼくにとっておどろきだったのはこんな話。

エスカレーターでの立つ位置。右に立つのは大阪、兵庫、奈良、和歌山ぐらい。

「大阪は右だけど東京は左らしいよ」 そんな話は聞いたことがあったので、 「そうか、右に立つのは西日本だけなのか」  と思っていた。
ちがうんだね。 中国も四国も九州も左。 圧倒的少数派だったとは……。



週間天気予報はまったく当たってないという調査もおもしろかった。
週間天気予報127日分を調査。 そのうち雨は31日あったが、7日前に「7日後は雨です」と的中させていたのは1回だけ。 なんと的中率3.2%!
そんなにあたらないのか……。 冗談でもなんでもなく、下駄を転がしたほうがまだ当たるだろな……。
3日前でも38.7% 2日前で58.1% 前日でやっと77.4%
こんな的中率なのに、週間天気予報ってやる意味あるのかね。
週末に出かけるときは月曜日ぐらいから予報をチェックしてたけど、こんなにいいかげんなんじゃ、なんの参考にもならないね。


いいかげんといえば相撲の仕切り時間。 4分以内に立ちあわないと決まっている。 ところが堀井さんが実際に計ってみたら、5分を超える取り組みはざらで、6分を超えるものもあったとか。
相撲好きのぼくも、おかしいと思ってたんだよなー。 相撲って競技時間は決まってないのに、いっつも夕方6時ちょうどに全取り組みが終わるもんなー。 すごく早く終わる日や、時間がないので横綱取り組みは放映できません、みたいな日があってもいいのに(相撲ファンとしてはよくないけど)。 

なるほど、NHKの相撲中継にあわせて仕切り時間を長くしたり短くしたりして調整してるんだなあ。 けっこうせこい。 なんでも調べないとわからないもんだね。



笑ったのが次のふたつの調査。

・選挙で当選したときに、応援者がバンザイするのにつられて自分もバンザイしちゃうマヌケな議員は誰なのか。
・サッカーW杯におけるフリーキックの調査。ディフェンダーが前で手をあわせて股間を守る率が高い国はどこなのか。逆に、股間を守らない男らしい(?)国はどこなのか。

気になる答えは、この本で調べてください。 気にならないですか。そうですか。



ところで堀井憲一郎、データ収集の情熱もすごいけど、文章もうまいなあ。コラムニストのお手本のような読みやすい文章を書く。
落語が好きだというだけあって、軽妙で洒脱な言い回しが光る。
重たいデータなのにそうは見えなくてとっつきやすいのは、この文章によるところが大きいはず。

「調べる」楽しさを教えてくれる一冊。
 新大学生に読んでほしいな。


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2016年3月18日金曜日

【エッセイ】かわいそうなおじさん


年を重ねると、いろんな角度からものを見られるようになる。


『かわいそうなぞう』の話を小学生の頃に読んだときは、あの手この手で殺されるなんて、ゾウたちがかわいそうだと思った。

しかし今読むと、ゾウに対してはあまりかわいそうだという感情が浮かんでこない。
その代わり、動物園の職員に対して「やりたくもないのに殺さないといけないなんて、つらかっただろう」という同情の気持ちが浮かぶ。
『かわいそうなぞう』ではなく『かわいそうなおじさん』だと思うようになった。


『つるのおんがえし』も大人になって見方が変わった。

子どもの頃は「言いつけを破ったのだから逃げられてもしかたないよね」と思った。
今は「一回のぞいちゃったぐらいで厳しすぎるよ。命の恩人に対してその対応はないんじゃない?」と思う。



『こぶとりじいさん』もだ。

隣のよくばりじいさんは、ただ、顔のこぶをとってもらいたかっただけなのに、踊りが下手だったからというだけでこぶを増やされて不憫でならない。
そもそも顔面の腫瘍がなくなってほしいと願うことは欲深いことじゃないだろ!


……と、ここまで書いて気がついたのだが、いろんな角度から見るようになったわけじゃなく、全体的におじさんやおじいさんに肩入れした見方をするようになった気がする。

年を重ねることで視野が広がったんじゃなくて、自分がおじさんになったから中高年男性に対して感情移入するようになっただけだったわ……。