2016年3月16日水曜日

【読書感想文】オリヴァー・サックス 『妻を帽子とまちがえた男』

 内容(「BOOK」データベースより)
病気について語ること、それは人間について語ることだ―。妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする男。日々青春のただなかに生きる90歳のおばあさん。記憶が25年まえにぴたりと止まった船乗り。頭がオルゴールになった女性…。脳神経に障害をもち、不思議な症状があらわれる患者たち。正常な機能をこわされても、かれらは人間としてのアイデンティティをとりもどそうと生きている。心の質は少しも損なわれることがない。24人の患者たち一人一人の豊かな世界に深くふみこみ、世界の読書界に大きな衝撃をあたえた優れたメディカル・エッセイ。

脳神経科医による医学エッセイ。
いやあ、おもしろい本だった。

さまざまな脳神経に障害をもった患者が紹介されている。

なんといっても衝撃的なのが、タイトルにもなっている患者Pの話。
目が見えないわけでもないのに、自分の足をさわりながら「これはわたしの靴ですか」と言ったり、帽子をかぶろうとして妻をつかんでかぶろうとしてしまう。
彼に手袋を渡してみたときの反応は……。
「手にとってみていいですか?」彼はそう言うと私の手から手袋をとり、あたかも幾何学の図形をしらべるときのような調子で、子細に検討しはじめた。
 しばらくして、彼は口をひらいた。「表面は切れめなく一様につづいていて、全体がすっぽりと袋のようになっていますね。先が五つにわかれていて、そのひとつひとつがまた小さな袋ですね。袋と言っていいか自信はないけれど」
「その通り」私は慎重に口をきいた。「あなたがおっしゃること、まちがっていません。では、それは何でしょう?」
「なにかを入れるものですね」
「そうです。何を入れるものでしょう?」
「中身を入れるんですよね」そういってPは笑った。「いろいろ可能性があるなあ。たとえば小銭はどうかな。大きさがちがう五種類のコイン。さもなければ……」
なぜそこまでわかるのに手袋だとわからないの!?
もうふざけてるとしか思えない(実際、周囲の人からは冗談だと受けとめられてなかなか病気だと気づかれなかったそうだ)。

高い知性はある。知覚に異常はないので認識はできる。論理的な推測もできる。
ただ、「判断」だけができない。

だから手袋を見て特徴を説明することはできるけど、それが手袋だという判断ができない。
ふしぎ……。

驚くのはこれだけではない。この患者Pさんは、入院もせずに仕事もしているんだとか。
音楽学校で教師を務め、家に帰れば妻がいる。(ときおり妻と帽子をまちがえたりすることをのぞけば)ごくごくふつうの教師なんだという。

人って自分の足がわからなくなっても意外と生活できるものなのか……。
妻と帽子の区別がつかなくても大丈夫なのか……。
ぼくなんか妻が怒っているかどうかの区別がつかなくて困惑ばかりしているのに!



他にもいろんな珍しい症状を抱えた患者がこの本には登場するが、べつに「どや!珍しい症例やろ!」と見世物的に患者を紹介してるわけではない。

さっき引用した文章もそうだが、著者の視点はあくまでフラット。
患者をばかにするわけでもなく、過剰に同情するわけでもなく、ひたすら冷静に対象を観察して、原因を分析し、治療を試みている。徹頭徹尾、科学者・医師の視点。

これが読んでいて心地いい。
自分までがカウンセリングを受けているような気にさせてくれる文章。



この本には、脳機能に異状をきたしたことが、かえって患者にとってプラスになったケースが多く紹介されている。

たとえば、ファントム(幻影肢)という現象。
事故で脚を切断した患者が、存在しないはずの足の指にかゆみを感じる、という現象。
これも脳神経の障害だ。

だが、このファントム、義足を動かすためには必要不可欠なものなんだとか。
ファントムの脚(実際には存在しない脚のイメージ)と、現実に存在する義足の位置とがぴったりあうことで、もともとあった脚のように義足を動かすことができるらしい。
ファントムは障害なんだけど、それがあるからこそ義足が動かせる。

それから、あるチック症の男。
落ち着きがなく、怒りっぽく、ひとところにじっとしていられないという性質の持ち主。
その反面、反応と反射が異常に速く、スポーツやゲームにめっぽう強いという利点もあるんだとか。
彼に投薬をすることでチックを抑えたところ、落ち着いた行動をするようになったものの、身のこなしがおそくなり、ぼんやりと過ごすようになったそうだ。欠点と同時に、美点も失われてしまったわけだ。

彼の言葉。
「チック症を治すことができたとしても、あとに何が残るっていうんですか? ぼくはチックでできているんだから、なんにも残らなくなってしまうでしょう」
結局、本人の希望で週末は投薬をやめることになり、当人は大いに満足したそうだ。

一般にはマイナスとされることでも、うまくつきあっていける人にとっては武器であり、アイデンティティになるんだね。

ぼくはまったく音程のとれないド音痴だ。これもきっと脳のエラーなんだろう。
だから人前では歌わない。カラオケなんかもってのほか。
でも。
音痴だってうまく使えば武器になる。カラオケにいって堂々と歌えば、確実に笑いはとれる。そこそこうまい人よりよっぽど印象に残るだろう。

だけどぼくには恥ずかしくてできない。そんな小心者のぼくとしては、弱点を武器に変えられる人がうらやましくてしかたがない。



その他、知的障害者の青年がコンピュータも紙も使わずに十桁以上の素数を次々に見つけたりと、さまざまな「障害がプラスにはたらいたケース」が紹介されている。

天才と呼ばれたモーツァルトやアインシュタインやエジソンも、奇人としてのエピソードが残っている。
彼らもまた、もしかすると脳神経を調べると何かしらの異状を持っていたのかもしれないね。

天才とキチガイは紙一重というけど、紙一重どころか同じ紙の表と裏なのかもしれないね。
頭が良すぎるのも「異常」にはちがいないし。



最後に、もっとも印象に残ったエピソードをご紹介。

病院で患者たちがテレビを観ていると、どっと笑い声が上がった。笑ったのは失語症の患者たち。彼らは言葉が理解できないはずなのに。
何かおもしろい番組でもやっているのかと作者がテレビを見ると、大統領が大まじめに演説をしているだけ。
いったい彼らはなぜ笑ったのか?

じつは、言葉の意味が理解できない失語症患者でも、話しかけられたことの大半は理解できるんだそうだ。
どういうことかというと、単語の意味が理解できなくなっている分、彼らは言外の意味を読むことに長けていることが多いんだとか。
話し手の表情や、声調、テンポ、抑揚、イントネーションなどの微妙な変化を聞き分け、語りかけられた内容を理解するそうだ。

で、声の微妙な変化を感じとれるから、失語症患者には嘘が通用しない。
嘘をすぐに見破ることができる。

だから、オーバーな身ぶりやもっともらしい表情なのに話している言葉は嘘ばかりの大統領がおかしくて笑っていた、ということなんだそうだ。

言葉の意味がわからないのに嘘がすべて見抜ける……。
すごい、人間嘘発見器だ。伊坂幸太郎『陽気なギャング』シリーズに出てくる成瀬氏ももしかするとこの病気なのかな。

ぼくみたいに嘘ばかりついている人間からすると、おそろしすぎる。
妻が失語症になって、嘘を見抜く能力を手にしないことを願うばかり……。


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2016年3月14日月曜日

【エッセイ】ホワイトツナ缶

寿司屋のカウンターで呑んでいると、隣からこんな会話が漏れ聞こえてきた。
「男どもってどうしてホワイトデーのお返しにお菓子ばっかくれるんやろか」

声のした方を見ると、三十代半ばであろう女性ふたりが語らっている。
女同士で寿司屋で呑むだけあって、なかなかやさぐれた感じの女だ。
黄緑に塗った爪で、イクラの軍艦をつかんで口に放り込んでいた。
「お菓子あげときゃ喜ぶと思ってんのかね、やつらは」

えっ……。ちがうの!?
ぼくも、今の今までお菓子あげときゃ喜んでもらえると思っていた。
ていうかホワイトデーの定義って、男がお菓子あげて喜ばせる日なんじゃないの!?

彼女たちの話は続いた。
「みんな芸もなくお菓子ばっかり。お菓子じゃなかったのはひとりだけやったわ」
 「誰?」
「カシワバラさん」
 「何くれたの?」
「珍しいツナ缶」
 「おー。さすがカシワバラさんやなあ。ステキやわあ」

珍しいツナ缶……!!

隣で聞いていたぼくも、わあステキと思う。
なんて自然体なチョイスなんだろう。
ツナ缶がステキなのではない。
カシワバラさんの、失敗をおそれない姿勢が気持ちいいのだ。

ぼくだったら、ホワイトデーのお返しを選ぶときは「まちがいのなさ」で選ぶ。
デパートの、みんなが並んでいる店で、そこそこの値のするお菓子を選んでおけば
「まあまちがいないだろう」
という気持ちで選んでいる。

その点、カシワバラさんは違う。
彼は間違いをおそれてはいない。
彼は自分だけの正解を探す。
自分の感性に真剣に耳を傾け、何を贈りたいかを自問する。
そしてその結果、ツナ缶以外にはないという結論に達した。
「ツナ缶あげときゃ問題ないだろ」なんて気持ちはカシワバラさんの心には微塵もない。
「これおいしいから食べてもらいたい!」
きっとその気持ちだけで、彼はホワイトデーのお返しにツナ缶を選んだに違いない。

多くの男たちが空振りを避けようとして“とりあえず”デパートのお菓子を贈った。
やさぐれ女は、その姿勢を見抜いていた。
人まねのファッションをしている人がどんなに高い服を着ていてもかっこわるいように、「ハズさないようにしよう」という考えそのものが、もう「ハズレ」なのだ。

カシワバラさんは違った。
三振してもかまわないというぐらいのフルスイングでツナ缶を放った。
そしてその一か八かのスイングは、見事なホームランとなった。
このひたむきさこそが「さすがカシワバラさんやなあ」「ステキやわあ」につながったのだ。

なんて魅力的な人なんだ、カシワバラさん。
会ったことないけど。


2016年3月12日土曜日

【エッセイ】我々は梅干しを許さない!

梅干しが憎い。

嫌い、という程度では収まらない。
ぼくは梅干しを憎んでいる。
殺しても殺したりないぐらいだ。

ぼくは味の濃い食べ物が嫌いだ。
だから当然、塩味と香りの強い梅干しも好きになれない。

でも、それだけでは嫌いにはなっても、蛇蝎のごとく憎んだりはしない。
梅干しの憎々しさは、厚かましいところにある。

ぼくは梅干しにかぎらず、漬物全般が好きではない。味が濃いからだ。
たくあんも、しば漬けも、おしんこも、どれも好きではない。
だが彼らとは距離を置いて、ほどほどの付き合いをやっていけている。
それは彼らが、ぼくの食生活に干渉してこないからだ。

定食を頼むと、たいてい漬物が小皿に乗って出てくる。
もちろんぼくは箸をつけない。
どうせ食べないことに決めているのだから、はじめからその存在を意識すらしない。

ぼくが漬物に見向きもしないのと同様、漬物もまたぼくのことを無視している。
「ほら、漬物も食べなよ」
「このままだとおかずがなくなってごはんが余っちゃうよ」
そんなことは口にも出さない。

お互いに不干渉を決めこんでいる。
いってみれば、大人の付き合いというやつだ。
暴力団もテロ組織も詐欺師もセレブ妻も好きじゃないけど、ぼくの生活にかかわってこないかぎりはどうでもいい。いちいち憎んだりはしない。

ところが梅干しはそうではない。
なんとかして関わってこようとする。

お弁当を買う。
するとヤツ(梅干し)は、ごはんの真ん中にどっかりと腰を下ろしている。
ほんとにど真ん中。
ごはんが占める長方形のスペースの、対角線が交わるところにヤツはいる。すなわち、重心。
申し訳なさそうに弁当箱の隅に身を潜めている他の漬物のつつましさとは大違いだ。

憎い。なぜこいつはこんな偉そうにしているのか。


ぼくが買ったのは “トンカツ御膳弁当(税込864円)” である。
誰がどうみたって、主役はトンカツ。助演女優はごはん、キャベツがトンカツとの友情出演で、脇を固めるベテラン俳優がひじきと煮物。
梅干しなど、役名もない通行人Aにすぎない。
それがなぜ、偉そうに真ん中に陣どっているのか。
口うるさいベテラン女優に
「ちょっとなにあの赤い子!? なんでど真ん中に座ってるのよ! 事務所どこよ!?」
と怒られればいいのに。
そしてお弁当界から干されればいいのに。もう干してあるけど。

しかしまあ、その件については目をつぶろう。
たしかに梅干しは、主役をはれるほどの華やかさはないが、キャリアだけは長い。
押しも押されもせぬ大物女優のごはんと、苦しい下積み時代を支えあってきたという功績もある。
年功報奨的な意味で、ごはんの真ん中に配置してやるのもしかたない(たいした役でもないベテラン俳優が、エンドロールで最後にクレジットされるようなものだ)。


ぼくが許せないのは、その後の振る舞いだ。
梅干しを食べたくないから、箸でつまんで弁当箱の外に追い出す。
すると、梅干しが座っていたごはんの上に、赤い染みができている……!

なぜ静かに退場しないのか。

梅干しの出番は、
「塩分によってごはんが傷むのを防ぐ」
「その赤さによって弁当に彩りをくわえる」
というところで終わっているのだ。
もう十分にその役割を果たしたのに、なぜおとなしく去ってくれないのだっ。

これが若手なら、まだ致し方ない。
たとえば新進気鋭の個性派俳優・パクチー。
彼はそのアクの強さゆえに好き嫌いの激しい俳優でもある。
多くは取り除かれる運命にあるが、退場した後もその強い香りによって存在を主張する。
これは決して褒められたことではないが、パクチーが日本でデビューしてからまだ日が浅いことを考えれば、気持ちはわからないでもない。
なんとかして爪痕を残さなければ、その他多くの野菜たちの中に埋没してしまう。
その焦りが、パクチーにかのような行動をとらせたのであろう。
実際、そのおかげで今ではパクチーは嫌いな食べ物の代名詞として名を馳せ、名悪役として確固たる地位を築きつつある。
これもひとつの戦略だ。

だが梅干しはそうではない。
長らく第一線でやってきて、もう十分評価されている。
もういいじゃないか、梅干しよ。

あなたが日の丸弁当となって貧しい日本人の食生活を支えた時代はとうに終わったのですよ。
老害として若い人から疎まれながら生きるのはつらいでしょう。
後進に道を譲り、自身は若い才能の引き立て役にまわることもベテランの大事な仕事ですよと、ぼくは梅干しと浜村淳に対して言ってやりたい。

2016年3月10日木曜日

【考察】本屋大賞を嫌いな理由 その2

「本屋さんが選ぶいちばん売りたい本」こと『本屋大賞』についてふたたび。


ぼくは何年間か本屋で働いていたけど、すっごい激務で、朝は6時に出勤していた(開店が10時くらいなので朝のんびりしていると思われがちだが、荷出しに時間がかかるので本屋の朝は早い)。

6時出勤で郊外店だったので電車ではまにあわず、車通勤を余儀なくされていた。

休みも少なく、勤務時間は長く、通勤は車だったので、本屋で働いていた期間はぼくの人生の中でもっとも本を読まなかった時代だった。
本屋を辞めて読書量は格段に増えた。

ぼくのまわりの店員もそんなんだったから、書店員が選ぶ本屋大賞なるものをぼくはまったく信用していない。

言っておくぞ!
本屋は本読めてないからな!

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
  
「本屋大賞 感想」で検索すると、いろんな書評がヒットして、かつそのほとんどにAmazonへのリンクが貼ってあるの、ほんとステキ。

本屋大賞候補作・受賞作は大手書店が独占しちゃうせいで本屋に行っても売り切ればっかりだから、これほんと助かる。

ほんと、本屋大賞って本屋にとって害毒です。


【関連記事】

元書店員が本屋大賞を嫌いな理由

2016年3月9日水曜日

元書店員が本屋大賞を嫌いな理由

「本屋さんが選ぶいちばん売りたい本」こと『本屋大賞』


性懲りもなくまだやってんのか本屋大賞。

本屋の店員だった立場からすると、そして紙の本を愛するものとしては、この賞は嫌いです。
早くなくなればいいと思います。

本来は多くの人に本屋を好きになってもらうために創設された賞であり、『博士の愛した数式』を掘り起こした功績はきわめて大きいものでした。
でもその意図が成功していた幸福な時代ははじめの1、2回だけで、今は本屋の復興(というより延命)のために生まれた本屋大賞が、本屋をつぶそうとしています。


もはや面白い本の発掘ではなく単なる作家の人気投票になっているという批判は、まったくもってそのとおりです(このへんの批判については海堂尊氏の2年前のブログ記事『読まずに当てよう、本屋大賞』がおもしろいので興味ある人はぜひ読まれたし)。


ですが本屋大賞が抱える問題はもっと根深く、出版制度にも関わります。

まず、基本的に本屋が本を仕入れるとき、返品フリーの条件で仕入れます。
1,000円の本を780円で仕入れ、売れたら220円の儲け、売れなくても返品すれば780円まるまる戻ってくる。これが本屋の基本ビジネスモデルです。

このシステムは功罪両方ありますが、その是非についてはここでは触れません。大事なのは『売れなくても仕入れ金がまるまる返ってくる』ということです(実際には入荷・返品作業にともなう人件費がかかるけど)。
いいかえれば、食品や衣料品にくらべて、本の場合は過剰発注のリスクが圧倒的に低いということです。


さて、本屋大賞は大賞発表の2ヶ月以上前に10作品がノミネートされます。
さっきも書いたように作家の人気投票と化しているので、ある程度目端の利く書店員なら本など読まなくても「これはノミネートされるな」ということは10作品中7作ぐらいはわかります。

ノミネートされたら(またはされそうなら)、本屋はノミネート作品を大量に確保します。大賞発表と同時に受賞作フェアをするためです。
大賞をとった作品は飛ぶように売れます。
大賞をとるのは10作中1作だけですが、返品フリーなので10作すべて大量に仕入れます。並べる場所がないので大賞発表までは倉庫に積みます。


本屋は返品をしても損をしませんが、出版社の懐は痛みます。
お金をかけて刷った本が大量に返ってきて、出版社の倉庫を圧迫し、おまけに本屋に返金しなければならないのですから。
だから出版社は、極力余計な増刷はしません。売れる分だけ刷るのが理想です。


本屋は売れる以上に仕入れる。
出版社は売れる分だけしか刷らない。


このひずみのしわ寄せがどこにいくかというと、小さな本屋です。
複数の本屋から同一の注文があった場合、大きな本屋(売り場の広さではなく権力がある大手チェーンのこと)に優先的に配本されるので、小さな本屋に人気作品はまわってきません。
本屋大賞ノミネート作品など、小さな本屋が注文しても99%無視されます。

百歩譲って、まだ大賞作品はよしとしましょう。
小さな本屋が売れなくても、大きな本屋が売るのですから。

でも、大賞に漏れた9作品はどうでしょうか。
大きな本屋の倉庫に2ヶ月以上も眠り、落選が決まると、一度も店頭に並ぶことなく返品されるのです。
その2ヶ月間、小さな本屋がいくら注文をしても入荷しなかったのに(そして落選が決まってから大量に入荷したりする)。


ここでもう一度考えてみましょう。
出版社は、客のニーズの分だけしか刷らない。
大きな本屋は、客のニーズ分以上に入荷して倉庫で眠らせる。
はい、その差分はどうなるでしょう?

そうです、倉庫で眠っていた分の本は、客のニーズがあったにもかかわらず買えなかった(小さな本屋が売りたくても売れなかった)ということになるわけです。



こういうことが続くと、一部の客は「また買いたい本が品切れで買えなかった。Amazonで買おうかな。電子書籍なら品切れもないし」と考えます。
一方出版社は「本屋が無駄に仕入れるから大量の返品が発生して損をする。電子書籍なら倉庫の場所もとらないし、返品も発生しないし、コスト0で増刷できる(おまけに取次や本屋の取り分がなくなって利益率が増える)」と考えます。

おやおや、読者と出版社の利害が一致してしまいました。

「本屋なんかないほうがお互いにとっていいよね!」

というわけで、本屋大賞こそが(そうでなくてもどうせ時間の問題だけど)本屋の衰退を加速させるのです。


というわけで紙の本と本屋を愛するものとしては、時代にそぐわない本屋大賞がなくなることを願うばかりであります。
少なくともノミネート制度はなくして!直木賞も!