2016年2月10日水曜日

【エッセイ】未風呂人


そうなんです、風呂は好きなんです。
だから余計にふしぎなんですよ。

風呂が嫌いなら、わかりますよ。
熱いお湯に浸かるのがいやだとか、
身体に泡をつけるのが気持ち悪いとか、
狭い風呂場に閉じこもるのが怖いとか。
そういう理由があって風呂が嫌いだという人も世の中にはいるでしょう。

けれどぼくはそうじゃない。
風呂が好きなんです。
ゆっくりお湯に浸かっていると一日の疲れがとれるし、風呂で読書をするのは至福のひとときだし、風呂から出たあとはほどよく疲れて気持ちよく眠れる。

だのに。
だのになぜ。

風呂に入るのってあんなにめんどくさいんだろう。


そろそろ風呂入らないと……。と思いながらも、行く気になれない。

眠いなあ。風呂に入らなかったら30分多く寝られるなあ。

風呂場まで遠いしなあ。
ここから4メートルもあるしなあ。

風呂上がりに着るパジャマを用意するのもめんどくさいなあ。
どうせすぐ服を着るのになんで脱がなくちゃいけないんだろ。

運動をしたわけでもないからそんなに汚れてないしな。
2週間くらいは風呂に入らなくても平気だと思うな。

そもそも誰が風呂なんて考えたんだろ。
卒業式で在校生代表が送辞を読む儀式と同じくらい、誰も得しない風習だよなあ。

だいたい“在校生”ってなんだよ。
『学校に在るほうの生徒』と書いて在校生。
なんだそりゃ。生徒って学校にいるのがふつうだろ。
なんで出ていくやつ中心の視点で語ってんだよ。
たいていは学校を出ていくやつより残る生徒のほうが多いんだから、多数派にあわせろよ。

学校にいる生徒のことを“在校生”っていうんだったら、生きてる人間のことを『命があるほうの人』って書いて“在命人”っていえよ。
死んでいくやつ目線で生きてるやつのことを語れよ。
 
◆ ◆  ◆ ◆  ◆ ◆  ◆ ◆ 

……と、そんなことをうだうだ考えているうちに、もう15分たってるわけで。
15分前より眠さも増しているから、その分、風呂に入りたくないという気持ちは15分前より強くなっているわけで。

こんなことならさっき入っときゃよかった。


しかしほんとふしぎ。

風呂に入るのは気持ちがいい。
快楽を与えてくれる。

快楽を与えてくれる行為は、ほかにも食事とか睡眠とかセックスとか飲酒とかいろいろあるけど、どれも後悔というリスクをともなう。

「あのときあれ食べなきゃよかったな……」

「なんでおれあのとき起きなかったんだろ……」

「あんな男に身体を許すんじゃなかったわ……」

「飲むんじゃなかった……」

そんな経験、一度や二度ではないだろう。

快楽をもたらす行為には、常に後悔がつきまとう。


ところが。
あなたにはあるだろうか!?

風呂に入ったことを後悔したことが!

ぼくには、ない。

生まれてこのかた1万回は風呂に入ってきたけど、これまで一度たりとも
「あー! 風呂に入らずに寝とけばよかったー!」
って思ったことはない。
「やっちまった……。風呂に入っちまった……。どうしてあんなことしちまったのかな。魔が差したんだな……」
って悔やんだこともない。

そう、風呂はノーリスクなのだ!


ノーリスクで快楽を与えてくれるもの、それが風呂。

ギャンブルとか違法ドラッグとかハイリスクな快楽を追い求めている人に教えてあげたい。

風呂はノーリスクで気持ちよさを味わえる!

風呂こそが快楽の王様!

こうして風呂に入れるなんて、生きててよかった!
在命人でよかった!


◆ ◆  ◆ ◆  ◆ ◆  ◆ ◆

……と、そんなことをうだうだ考えているうちに、もう40分たってるわけで。


2016年2月9日火曜日

【読書感想】スティーヴン・キング『グリーン・マイル』

内容(「BOOK」データベースより)
大恐慌さなかの一九三二年、アメリカ南部、コールド・マウンテン刑務所。電気椅子へと続く通路は、床に緑のリノリウムが張られていることから通称“グリーン・マイル”と呼ばれている。ここに、双子の少女を強姦殺害した罪で死刑が確定した黒人男性ジョン・コーフィが送られてくる。看守主任のポールは、巨体ながら穏やかな性格のコーフィに一抹の違和感を抱いていた。そんなある日、ポールはコーフィの手が起こした奇跡を目の当たりにしてしまう…。全世界で驚異的ベストセラーとなったエンタテインメントの帝王による名作が、十七年の時を経て鮮やかに蘇る。

『刑務所のリタ・ヘイワース』と並んで有名な、キングによる刑務所を舞台にした作品。
『刑務所のリタ・ヘイワース』ときいてもピンとこないかもしれないが、映画『ショーシャンクの空に』の原作だと云われれば、ああ、あの。とうなずく人も多いだろう。
『グリーン・マイル』も、スピルバーグ監督の同名映画のほうが有名だ。

エンタテインメントとしては、『刑務所のリタ・ヘイワース』のほうがずっとおもしろい。
謎解きの要素やどんでん返しがあり、勧善懲悪的なストーリーなので、最後はすかっとする
『グリーン・マイル』のほうは、全体的に重たくて、読むのに体力を要する。
前半は何もおこらないし、残酷きわまりない描写はあるし、終始イヤなやつが主人公と読み手を不快にさせるし、善人が救われないし。
明るくハッピーなだけの物語を読みたい人にはまったくおすすめできない。


『グリーン・マイル』は“神”の物語だ。
ぼくはこの本を読みながら、遠藤周作の『沈黙』を思いだしていた。

『沈黙』のストーリーはこうだ。
江戸時代、キリシタンの男が厳しい弾圧に遭い、拷問を受ける。男は神の救済を一心に信じて拷問に耐えつづけるのだが、事態は一向に改善しない。信仰心に報いずに「沈黙」を貫く神に対して、ひたすら神を信じていた男はついに疑念を持つ……。

一方、『グリーン・マイル』には神の使いのような男が登場して、病気を治したりネズミを助けたりといった数々の奇跡を起こす。
だがその奇跡は大きな問題を解決しない。
無惨に殺された双子の少女は助けられない。痴呆を治した相手は事故死する。そして、奇跡の使い手である男は無実の罪で死刑に処せられることが確定している……。

どちらの作品でも描かれているのは「信じるものを救わない」神の無慈悲さであり、信仰する神に疑念を抱いた人間の、信じたいが信じられないという葛藤である。

無宗教の人間からするとそんな神様さっさと捨ててしまえばいいじゃんと思うのだが、やはり信者からするとそういうわけにはいかないのだろう。

ぼくは宗教を持たないが、それに代わる拠り所はある。
国家が己のために何もしてくれなかったとしてもぼくは日本人でありつづけるだろう。
親が自分にとって害をなすだけの存在になったとしても、やはりかんたんに親子の縁は切れないだろう。

自らを形成しているものが破壊されたとき、ぼくは自身を再構築できるんだろうか。
途方もなくめんどくさそうだ。
めんどくさいあまり、『グリーン・マイル』における神の使いのように、死を選んでしまうかもしれない。


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2016年2月8日月曜日

【エッセイ】エッジ・トーク

会社の後輩と話していて、うちに2歳の娘がいるという話になった。

「うわー。いちばんかわいいときですね。お父さんとしては、今から娘さんが結婚したら……と考えて悲しくなったりしないですか?」

と訊かれたので

「いやー。それはべつに悲しくないなー。逆に、結婚できなかったらと思うと悲しいけど」

と答えたら、
「そうか……。あー、そうですね……。うわー……」
と、落ち込ませてしまった。

29歳独身女性を無意識に刺してしまった。


2016年2月7日日曜日

【ふまじめな考察】妖怪の意味について考える

妖怪の「意味」について考えてみる。

妖怪が実際に存在するとしても、想像の産物だとしても、妖怪を思い描いて他人に伝承するときには、その人の意図が介入する。
人は事実をそのまま伝えることが苦手だから、必ず「解釈」や「願望」や「恐怖」が投影されているはずだ。


■ こなきじじい
ものの本によると、山の中で赤子に化けて泣き、旅人がおんぶをすると石のように重くなり、ときには旅人を死に至らしめる妖怪だという。
旅人の親切心につけこんだずいぶん非道な妖怪だが、これも「意味」を考えれば理解できる。
かつてはどの家も貧しかったから、口減らしのために赤子を捨てることもあったにちがいない。だが、捨てられている赤子がかわいそうだからといって連れてかえっていたら、家計を圧迫することになり、場合によっては一家全員が食っていけなくなる。
「捨てられている赤子はかわいそうだけど、拾ってやるわけにはいかない」という慚愧の想いが、「あれはこなきじじいだから拾わなくてもかまわない」といって自己を正当化するための妖怪を創りだしたのではないだろうか。


■ ぬりかべ
ものの本によると、歩いていると目の前に突然大きな壁が現れ、通せんぼをするのだとか。それがぬりかべで、押しても引いても先に進めなくなってしまうらしい。
これはやはり、君子危うきに近寄らず、というような意味がこめられているのだと思う。
人生においてさまざまな試練(=壁)が立ちはだかることがある。そんなときは無理に乗り越えたりせず、早々に諦めて引き返すべきだという教えだろう。
昔は、試練に挑戦する者の大半が命を落としていただろうから。


■ あかなめ
ものの本によると、風呂にたまった垢をなめる妖怪だという。


この妖怪は「風呂はきれいに掃除しましょう」という教訓によって生みだされたものだと考えられる。

現代人であるぼくらは「風呂をきれいにしてないとカビが生えるよ」と聞かされているが、それと同じようなものだ。

なにしろカビを見たことはあるが、実際にカビが悪さをするところは目にしたことがない。
カビはおなかをこわしたり病気になったりする原因だとされているが、はたしてほんとうだろうか。

「カビが生えてるパンを食べたからおなかをこわしたんだよ」
「目に砂が入ったのは砂かけばばあのしわざだよ」
いったいどれほどのちがいがあるのだろう。

カビやウイルスや複雑な家庭事情は、人に害を与えるとされている、現代の妖怪だといえるね。

2016年2月5日金曜日

【ふまじめな考察】女性が速球派投手になる日

女の人が髪を切ったことには、まあ気がつかない。

そもそも女の散髪前後の変化率ときたらマジカル頭脳パワーのまちがいさがし頭脳指数200の問題かってぐらい些細なもんだから、ストーカーでもないかぎり気がつくわけがない。
そんな類い希なる注意力持ってたらとっくに青山剛昌にマンガ化してもらっとるわ!

そんなわけだから、女が髪を切ろうが彼氏との縁を切ろうが、さっぱりわからない。
でも世の中には女性の微妙な変化にいともカンタンに気づく男がいる。
すぐ「化粧品変えた?」とか「新しいカバンだね」とか言っちゃう男。

あーやだやだ。

まあだいたいいけ好かない男ですよ、そういう手合いは。
そんでうらやましいわけですよ、正味な話。
だってね。モテるもん、細かいところに目がいくマメな男は。

そりゃそうだよね。
自分に興味をもたれて悪い気はしないよね。

ぼくなんか、自慢じゃないけど会社で毎日顔をあわせている人がパーマあてたことにも気がつかなかったからね。
ある日帰宅したら妻がスプーンおばさんみたいに縮んじゃってたとしてもしばらく気づかない可能性あるよね。あれそんなサイズだったっけ、まいっか先に寝るわ、なんつって。



そんなぼくだけど、女性を見ていて唯一気づく変化がある。
それは「太った」ということ。
よく会う人だろうと、久しぶりに会った人だろうと、なぜかこれだけはわかる。
「あ、あの人太ったな」

どうして太ったことだけわかるんだろう。
はじめは、ぼくが女の人の身体ばかりエロい眼で見ているからかなと思った。
でも、不思議なことに痩せたことはわからない。
人間だから太ることもあれば痩せることもあるだろうに、ぼくが気づくのは太ったときだけ。
どうして痩せたことには気がつかないんだろう。あんなにエロい眼で身体を見ているのに。

太ったことに気づくのだってひとつの才能だけど、問題はそれを披露する場がないってこと。
なぜなら、聡明なぼくは知っているから。
「最近太ったでしょ」は、言わないほうがいいやつだってことを。

そんなわけで、女性の膨張に気づいても口には出さないことにしている。
胸の内でそっと「あ、太ったな」と思うだけ。

だけど。

言いたい。
せっかく気がついたんだもの。
“細かいところに目がいくマメな男”になってみたい。

言ったらどうなるんだろ。
やっぱり嫌われちゃうんだろうな。
だけど案外「気づいた?よく見てくれてんのねー」なんて喜ばれたりして。

言っちゃまずい。でも言いたい。
ずっと葛藤していたのだが、最近ひょんなことから答えが見つかった。



同僚のマナベくんが、隣の席のミサトさんにこう云ったのだ。
「こないだ1年くらい前の写真見てたんですけど、ミサトさん痩せてましたねー!」

横で聞いていたぼくは、思わずあっと声をあげそうになった。

これはやばいのでは……。

そっとミサトさんの顔色を伺うと、案の定顔がひきつっている。
一方のマナベくんはというと、まったく悪びれる様子がない。
むしろ、良いこと言った!ぐらいの表情だ。
どうやら彼は褒め言葉のつもりで「痩せてましたね」と発したらしい。

ぼくは叫びたかった。

マナベくんっ!
それたぶんあかんやつやで!
褒めてるようで実は今のミサトさんを貶めてるで!


 
ぼくには、マナベくんの発言を嗤うことができない。
だってぼくも、状況によっては同じような失言をしてしまいそうだから。

そしてマナベくんの貴い犠牲により、ぼくは学んだ。
やはり、女性に対して体重のことをあれこれ言うべきではない。
そういうのは、ジローラモか光源氏に任せておくべきことで、ぼくやマナベくんみたいな気の利かない男が体重の話題に触れるのは、イスラム国に行ってコーランについての見解を述べるぐらい危なっかしいことなのだ。

やはり「太ったね」と口にするのはやめて、「速球派投手っぽくなってきましたね」ぐらいの言い回しにとどめておくことにしよう。