2015年9月6日日曜日

【読書感想】 九井 諒子『ダンジョン飯』


『ダンジョン飯』

九井 諒子

内容(Amazon.co.jpより)
待ってろドラゴン、ステーキにしてやる!
九井諒子、初の長編連載。待望の単行本化!
ダンジョンの奥深くでドラゴンに襲われ、
金と食料を失ってしまった冒険者・ライオス一行。
再びダンジョンに挑もうにも、このまま行けば、途中で飢え死にしてしまう……。
そこでライオスは決意する「そうだ、モンスターを食べよう! 」
スライム、バジリスク、ミミック、そしてドラゴン!!
襲い来る凶暴なモンスターを食べながら、
ダンジョンの踏破を目指せ! 冒険者よ!! 

 なんというか、すごく説明しにくいんだけど、あえて既存のジャンルにあてはめるなら、料理漫画である。『クッキングパパ』のように具体的なレシピがあり、『美味しんぼ』のような食の蘊蓄も得られ、『孤独のグルメ』のように精緻なレポートで食欲をそそる。
 が、扱う食材はすべて架空のものである。魔物や鎧や肉食植物を調理して、そして食らう。

 小説やゲームなどのファンタジーの世界に食事シーンは少ない。ぼくらが見たこともない動植物が跋扈する世界なのだから、そこの住人たちも当然ぼくたちとはちがうものを食っているはずである。なのに、その描写はほとんどない。
『ドラゴンクエスト』の冒険者たちは何を食っているのだろう。数々のアイテムがあるけど、食べ物ってあったかな。やくそう、ちからのみ、まもののにく。どれも食料じゃないな。

 どんな奇妙な世界だって、そこに生きている人は腹もへるし糞もするし眠くもなる。しかし日常的な行為はあまり語られない。
 歴史的に重要なできごと ー 戦争や地震や革命 ー は記録に残る。しかし、市井の人々が何を食べ、どうやって寝て、どうやって歯を磨いていたのかの文献は少ない。あえて記録に残すほどではないと思うから。

 過去だけじゃない。
 たとえばイタリア。ぼくらはイタリア料理に関する知識を持っている。ピザやパスタはよく口にするし、カプチーノも飲む。
 けれど、「今日は昼飯遅かったし、晩はかんたんでいっかな」というとき、日本人ならお茶漬けなんかで済ませるが、イタリア人ならどうするのか。マルゲリータで済ませたりするのか。
 イタリアの男子高校生はどんなお弁当箱を使っているのか。パスタソースがお弁当箱から染みださないようにどんな工夫をしているのか。
 和菓子職人に選ばれたお茶は綾鷹でしたが、ティラミス職人はどんなコーヒーをたしなむのか。
 ぜんぜん知らない。

 Twitterやブログが広まって誰でも手軽に情報を発信できるようになった今でも変わらない。旅行に行ったことやめったに作らないごちそうを作ったことは記録しても、サンスターで歯をみがいたことや、ヤマザキの食パンで朝ごはんを済ませたことをわざわざ世に発信する人は多くない。


 だから『ダンジョン飯』は、ファンタジーの世界を知る上で、貴重な記録である(ファンタジーだからもちろん空想の記録だけど)。
 魔物と戦う冒険者たちが、何を食べ、どのように栄養バランスを考え、トイレをどう処理しているかまで丹念に書かれている。単なる想像ではない。しっかりとした科学的知識に裏打ちされた、筋の通った理論が世界観を強く支えている。生物学の教科書を読んでいるような気にさえなる。

 “無人島に持っていきたい一冊”というものがあるが、まぎれもなくこれは“ダンジョンに持っていきたい一冊”だ。


2015年9月5日土曜日

【考察】女子とおばさんの境界線

自分のことを「女の子」「女子」というようになったら、もう女の子じゃないし、
「おばさん」と言われて怒るようになったら、おばさん。

2015年9月4日金曜日

【ふまじめな考察】善人の道案内

みんな知ってるー!?

知らない人に道を訊かれたとき、
ふつうに教えても
「どうもありがとうございます」
ぐらいだけど、

一度でたらめな道を教えて、相手が歩きだして1分後ぐらいしてからあわてて追いかけて「やっぱりこっちでした!」ってほんとの道を教えると、
「ええ!? そのためにわざわざ追いかけてきてくれたんですか! なんていい人なんですか!」
ってなかんじで、ものすごく感謝感激してくれるんで、超オススメだよ☆

2015年9月3日木曜日

おっさんだけどおっさんじゃなかった

50歳くらいの小太りの男性が、駅前に立っている。
全身から汗をかき、うちわでぱたぱたぱたぱたとせわしなく扇いでいる。
そこにやってきた、連れの男性(こちらも50歳くらい)。
「おまえ、そんなだらしない格好してたらおっさんみたいやで」

お っ さ ん み た い や で 。

ぼくの目にはどっからどう見てもおっさんにしか見えなかったのだが。
まさかおっさんじゃなかったなんて。
いやあ、人は見た目によらないものだ。

2015年9月2日水曜日

遠き遠きモテの世界

「自分はモテないし、この先もモテることはない」
という現実をぼくが知ったのは、小学3年生の春のことだった。

 遠足で隣県の山に登ったときのことだ。
 山頂でお弁当を食べたあと、ぼくらは付近の斜面を走り回って遊んだ。
 斜面を駆け上がり、その後駆け下りる。そしてまた上る。
 その行為のどこに悦びを見いだしていたのかは今となっては謎だが、自分のしっぽを追いかけて回り続ける雑種犬よりアホだった小3のぼくらは、その生産性ゼロの遊びに数十分以上も耽っていた。
 その間にも南米の密林がどんどん減少して砂漠へと変わっていることも知らずに。

 突然、鋭い悲鳴が響いた。
 女の子たちが騒然としている。
 走り回っていた女の子のひとりが斜面から転げ落ち、さらに悪いことに石に頭をぶつけたのだ。
 彼女の意識ははっきりしていたが頭からは血が出ていた。
 すぐに担任の先生がとんできたが、ぼくは彼女がそのまま死んでしまうのではないかと思った。
 小学生にとって「頭から血が出る」というのは、あのベジータがあっさりフリーザにやられてしまったときと同じくらい絶望的な状況だった。
 遊んでいた誰もが、ぼくと同じようにオロオロしながら、けれど何もできずに頭から血を流す女の子を遠巻きに見ていた。

 そのときだった。
 同じクラスのヨシダくんがけがをした女の子に駆け寄り、ハンカチを差し出したのだ。

 衝撃的な出来事だった。
 今でも当時の感動とともに、その光景を鮮明に思い出すことができる。
 まちがいなくその場にいた全員(教師も含め)が、ヨシダくんの振る舞いにときめき、そして彼に惚れたはずだ。
 もちろんぼくもそのひとりである。
 傷ついた女性にさっとハンカチを差し出す紳士的な振る舞いもさることながら、何よりぼくが驚嘆したのは、彼が「ハンカチを持っている」ということだった。

 当時のぼくにとってハンカチというものは、パーカライジング(リン酸塩の溶液を用いて金属の表面に化学的にリン酸塩皮膜を生成させる化成処理)と同じくらい、自分の生活とは縁遠いものだった。
 トイレに行っても手を洗わないし、よしんば洗ったとしても濡れた手の処理は
・ズボンでごしごしする
・友だちの背中になすりつける
の二択だったぼくにとって、手をハンカチで拭くなんて、手にリン酸塩を塗ることぐらいありえないことだった。
 つまり、ぼくはごくごく普通の小学3年生男子だったわけだ。
 ところが、ぼくと同じ歳月しか生きていないヨシダくんは、ハンカチを所持していただけでなく、これ以上ないというベストなタイミングでポケットから取り出し、あろうことかさりげなく女の子に差し出してみせたのだ。
 なんて破廉恥な小学3年生なのであろう!

 そして彼がハンカチを差し出した瞬間、ぼくは稲光に打たれたように悟ってしまった。
 「モテる」とはこういうことだ、と。

 このときぼくがはっきりと認識した「モテる」世界は、眼前に見えているにもかかわらず、西方浄土よりも遠く感じられた。
 自分が立っている場所との落差を感じ、深い絶望を覚えた。
 とても自分が、傷ついた女性にさりげなくハンカチを渡せる男になるとは思えなかった。
 8歳のぼくが感じた予感は悲しいことに的中し、30歳をすぎた今でも女性に対してハンカチを差し出すことはおろか、お世辞のひとつすら言えない。

 ああ。
 なんて遠いんだ「モテる」世界よ!
 ぼくには一生かかってもたどり着けそうにないよガンダーラ!!