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2017年10月2日月曜日

【思考実験】もしも選挙で1人複数票制度が導入されたら

少し前に『基礎からわかる選挙制度改革』という本を読んだ(→ 感想はこちら)。

いろんな国の選挙制度が紹介されていたのだが、共通していたのは「1人1票」という点。
先進国はどこも1人1票なのだ(フランスのように複数投票制を採用している国はあるが、1回の投票で投じられるのは1票だけだ)。

1人が複数票を入れることのできる制度があってもいいのではないだろうか?
ということで【1人複数票制度】について考えてみた。





1人複数票制度の概要

もちろん「好きな候補者に何票でも入れていい」制度はありえない。そんなことをしたらむちゃくちゃな結果になるのは目に見えている。

ぼくが提示するのは

「1人が何票でも入れていい。ただし同一候補者に対して入れていいのは1票まで」

という方式だ。
ある小選挙区にA、B、Cという3人が立候補者がいるとする。

有権者は、これまで通り誰か1人に入れてもいいし、AとB、BとCなど2人に1票ずつ入れてもいい。
3人とも支持したいと思えば、AとBとCの全員に1票ずつ入れてもいい。




具体的に実行する方法

投票所に行って選挙通知書を提示すると、候補者の氏名が書かれた紙が渡される。
先ほどの例で言うと、Aと書かれた用紙、Bと書かれた用紙、Cと書かれた投票用紙の3枚を渡される。
有権者は、そのうち何票かを投票箱に入れ、残りは選挙立会人の前でシュレッダーへかける。

このようなやり方をとれば1人の候補者に複数票を入れることはできない。
電子投票にすればもっとかんたんだ。
技術的には十分可能そうだ。





考えられるメリット

意思表示の選択肢が増える

現行制度だと、3人が立候補した選挙区では、有権者の意思表示の方法は「A」「B」「C」「無効票、白票」「棄権」の5種類しかない。

【1人複数票制度】を導入すれば、先ほどの4種類に加えて「AとB」「BとC」「AとC」「AとBとC」という選択肢が増えるので、有権者の意思表示の幅が広がる。

「AとBとC」は当選結果に影響を与えないので無効票と同じじゃないかと思われるかもしれないが、これは微妙に違う。

供託金の返還には大いに影響を与える。
供託金とは選挙に立候補するときに預けるお金のことで、一定数の得票をとらないと没収される。
衆院選の小選挙区では有効投票総数の10分の1の得票がないと没収されるので、「全員に票を入れない」と「全員に票を入れる」では供託金返還ボーダーぎりぎりの候補者にとっては大きく意味が変わる。

また詳しい説明は省くが、小選挙区でどれだけ票をとったかは比例区で復活当選するかどうかにも関わってくるから、やはり「全員に票を投じる」行為は無効票とは別の行動なのだ。


複数の候補者に票を入れたいと思ったことはないだろうか?

「教育に関してはAの候補者に賛成するけど、経済政策に関してはBの言ってることを支持する」
なんてときだ。
こんなとき、【1人複数票制度】であればAとBの両方に票を投じることができるのだ。やったね。


「落としたい」という意思表示ができる

先の理由の一部ではあるが「落選させたい」という意思表示ができるのは大きい。

選挙において「誰でもいいけどこいつはいや」ということはないだろうか。

今の制度だと、「誰かを積極的に支持する」「誰にも入れない」しか選択肢がないため、こういう声をすくいとる方法がない。

【1人複数票制度】だと、「Aだけはいや」と思えば「BとCに入れる」ことでその意思を投票に反映させることができる。

投票率も上がるのではないだろうか(個人的には投票率が高いことはいいこととは思わないけど)。



考えられるデメリット

集計の手間がかかる?

得票の総数が増えるため、集計の手間や時間は増えてしまうかもしれない。

とはいえ「手書きの文字を読み取る」から「あらかじめ候補者名が印刷された用紙を集計する」に変わるので、集計作業を機械化すれば今までより楽になるのではないだろうか。

電子投票にすればもちろんこの点は解決する。


投票ミスが増える

あらかじめ印刷された投票用紙の中から選択する形にすると、どうしても投票のミスが増えてしまう。
「自民党」と書きたかったのに「共産党」と書いてしまうなんてミスはまず起こらないだろうが、「自民党」と書かれた票を入れたかったのに「共産党」の票をうっかり箱に入れてしまう、というミスは一定数起こるだろう。

これは電子投票にしても解決できない(むしろ増えるかも)問題だとは思う。

とはいえ特定の候補者だけが大きく得をするということはないだろうから、しょうがないのかなという気もする。

強いて言うなら、高齢者からの支持率の高い候補者は損をするかもしれない。


不正がしやすい

たとえば「投票用紙に票を入れずにこっそり持ち帰り他の誰かに渡す」という不正をするのが、1人1票のときよりずっと容易になりそうだ。

「1票しかない票をこっそり持ち帰る」よりも「複数票あるうちの1票を持ち帰る」ほうがずっと楽だろうし、「1票入れるふりをしながら2票入れる」よりも「2票入れるふりをしながら3票入れる」ほうがずっと楽だろう。

また、1票しかない票を誰かに譲るより、複数票あるうちの1票を譲るほうが心理的なハードルも低そうだ。

まあこのへんも電子投票であればクリアできる問題だけど。



もし導入されたらどう変わるだろうか?


さて、【1人複数票制度】を導入すれば、どのような変化が起こるだろうか?

候補者たちはどのように変わるだろうか? 有権者はどう変わるだろうか?


変わるのは無党派層


特定の政党の党員や候補者の熱心な支持者の行動は基本的に変わらないだろう。
支持する政党の候補者に1票を投じるだけ。

大きく変化するのは無党派層だ。

たとえば先の都議会議員選では、自民党に対する反対の意思表示として都民ファーストの会が票を集めた。
このように「特定の政党に対する反対票の受け皿として1つの政党に票が集まる」ということが今ほどはなくなる。自民党がイヤなら自民以外のすべてに入れることになるので。

ただし1党集中が軽減されるのはあくまで票の行方の話であって、当選議員数の話ではない。
小選挙区制度である以上、少し流れが変わっただけでドミノ倒しのように一気に戦局がひっくりかえることは今後も起こるだろう。


選挙カーがなくなる?


現行の選挙では、とにかく目立つ、名前を覚えてもらうことが重要とされている。

【1人複数票制度】になればそのやりかたが変わるのではないだろうか。

現行制度では「支持する」意思表示しかできないので、候補者にとってある有権者から「関心を持たれない」と「嫌われる」は同じようなものだった。
どちらも票を入れてくれないのだから、無視してもいい。

そこでとにかく目立つ、支持者に対してアピールする、ということが大きな意味を持つようになり、選挙カーや街頭で大声を張り上げる選挙活動が一般的になった。

選挙カーがあれだけ嫌われていてもなくならないのは、自分への関心の度合いを考えたときに「0.5を1にする」ほうが「0を-1にしてしまう」よりも重要だからだ。

だが【1人複数票制度】では「こいつだけはイヤ」というマイナスの意思表示ができるので、嫌われないようにすることも重要な戦略となる。

不祥事なんてもってのほか。
嫌われたら自分以外の全員に票が集まるかもしれない。

そう思うと、選挙カーで大きな音を出して住宅地を走ることはできなくなるのではないだろうか?

また、知名度は高いがアンチも多いタレント候補は、今より不利になるかもしれない。


政策が似たり寄ったりになる?


現行制度では、過半数の票をとれば確実に勝つことができる。

ところが【1人複数票制度】になれば、合計得票数が投票者数を上回るので、50%を獲っても勝てるとはかぎらない。
選挙区によっては70%ぐらい獲らないと勝てないかもしれない。

となると、大半の人に支持してもらえる政策を打ち出す必要がある。

「原発反対」「憲法改正」なんて賛否両論分かれるテーマは怖くて打ち出せない。

結果的に「子どもたちが暮らしやすい日本を」「活力のある世の中を創る!」みたいな誰にも反対されないけど何も言ってないのと同じ具体性のない公約か、
「大幅減税」みたいな現実味のない政策かのどっちかになってしまう。

どの候補者も似たり寄ったりの耳あたりのいい似たり寄ったりになりそうだなあ。


現職・与党が不利になる?


"悪目立ち"をする候補者は不利になる。
現職・与党はどうしても動向が報道される機会が多くなるので、敵を増やしやすい。
「自民党だけはぜったいイヤ」という人はけっこういるだろうが、「社民党だけはぜったいイヤ」と思う人はほとんどいないだろう。

結果、【1人複数票制度】は現職・与党に不利にはたらきそうだ。


選挙協力が進む?


【1人複数票制度】が導入されれば、今よりもっと候補者間・政党間での選挙協力が進むだろう。
「うちの支持者に対してあんたにも票を入れてくれと頼むから、あんたも支持者に対してわたしをよろしく言っといてね」
という取り引きだ。

市議会議員選のような中選挙区では言わずもがな、小選挙区でも中間予想で2位と3位の候補者が結託する可能性もある。

勝ちは諦めたが比例での復活当選を狙う候補者が、惜敗率アップ目当てに選挙協力をするケースもあるかもしれない。

そうなると今以上に政治が権謀術数の世界になり、裏でお金が動く可能性も高まるわけで、このへんが【1人複数票制度】の最大のデメリットかもしれない。



導入される可能性は……


ことわっておくが、【1人複数票制度】はぼくが思いついただけの制度だ。

実際に導入しようという声を聞いたことはないし、たぶんこの先も導入されないだろう。


上でも書いたように、有権者にとっては「意志表示しやすくなる」という大きなメリットがあるものの、不正の温床になりそうな気がする。

なにより、与党が不利になる制度だ。

さらに無党派層の票が増えるので、強い支持基盤を持っている公明党なんかは相対的に票が減ることになるだろう。

自民党に不利&公明党に不利、ということなので、まずまちがいなく導入されることはないだろうね……。


2017年10月1日日曜日

いっちょまえな署名

全国私立保育園連盟というところから署名協力の依頼がきた。


なんじゃこりゃ。

何万もの署名集めて、首相に伝えるのが「子どもの保育・成育環境向上のための改善を求めます」ってなんじゃそりゃ。

ぼくが首相だったらこんな抽象的な努力目標書かれた署名届けられても「オッケー、改善しまーす☆」って言って、その1秒後に秘書に「おいこれシュレッダーしとけ」って言ってるわ。
「ったく。おれは忙しいんだから金にならない来客は通すなって言ってあんだろ」つって。

(一応書いておくと、少しだけ具体的な要望も後半にはあった。少しだけね)



この署名用紙、めんどくさいことにこんなことが書いてある。

「〃」等の略字は避けてご署名は自署にてお願いします。

いっちょまえに。「自署にて」ですってよ。

いや一応知ってるよ。請願法ってのがあるんでしょ。署名について定めた法律。

自筆じゃなかったり住所が適当だったら無効とされることがあるんでしょ。

知ってるよっていうかさっき調べたんだけどね。知らなかったけどね。


でも無効ってなんだよ。そもそもこの署名が有効になることあんのかい。

この署名が集まったら、それ見た首相が「え!? 子どもの保育環境改善したほうがいいとみんな思ってんの? 知らなかったー。よっしゃ、軍事費全部保育園に回せーい!」ってなることあんのかい。

首相と「〇月〇日までに署名を〇万通集めたら予算を〇円増やす」って具体的な取り決めしたのかよ。してねーんだろ。だったら全部無効だよ。

住所を書こうが書くまいが無効だから、書かないほうがまだマシだよ。




デモとか署名とかの「やったった」気になる行動が嫌いだ。

身内でやるならいいけど、考え方が同じかどうかわからない人にまで協力を求めてくるのがいやだ。

趣旨に賛同できなくて署名をしないこともあるが、それでも断ったときにはいくばくかの罪悪感を感じる。

なぜ他人の思い出作りのためにこっちが罪悪感を覚えにゃあならんのだ。


デモにしても署名にしても、達成感味わうために文化祭やんのはいいけど他人を巻きこまないでほしい。

やるんなら寄付金集めるとか選挙の候補者擁立するとか地元議員と取引するとか、もうちょっとマシなことあるだろうよ。
それが効果あるかどうか知らないけど、署名集めて総理大臣に持っていくよりは可能性あるだろうよ。
(ちなみに私立保育園連盟は寄付金も募っていたからそれには協力した。主張自体に反対するものではないからね。)

署名なんて、何十時間もかけてちまちまベルマーク集めて1,000円ぐらいの文房具もらう行為よりももっと不毛だわ。

こんなことのために他人の時間を奪おうとするなよ。

やりたいんなら1人で千羽鶴折って届けろよ。





世の中の署名嫌いのみなさん!

「署名をなくそう」という署名を集めて世の中を変えましょう!



2017年9月27日水曜日

万国のかわいそうなスポーツ選手よ、団結せよ!


60代半ばのおっちゃんとしゃべっていて、こんな話を聞いた。

高校生のとき修学旅行で東北の三陸海岸に行った。50年ほど前のことだ。
『あまちゃん』でも有名になったが、当時から海女による漁の盛んな地域だった。
海女の仕事を見学した後、ボールを手渡された。高校生たちが海に向かってボールを投げ込むと、海女たちが潜ってボールをとってくる。その様子を見てひとしきり楽しんだ。

いくら50年も昔のこととはいえ、戦後日本でそんな非道なことがおこなわれていたのだろうか。
よくほらを吹くおっちゃんなので「うそでしょ?」と訊いてみたが「ほんま、ほんま」と妙に真剣な顔で言う。
半信半疑だったのだが、数ヶ月後、別のおっちゃんからも同様の話を聞いた(ただしそのおっちゃんが体験したのは三陸海岸ではなく三重県の伊勢だと言っていた)。

別々のおっちゃんが同じ話をしているので、おそらく本当にあったアトラクション(っていうのか?)だったのだろう。
しかも東北と伊勢志摩という遠く離れた場所でおこなわれていたということは、たまたま誰かがちょっと思いついてやってみたというような類のものではなく、継続的におこなわれていたポピュラーなイリュージョン(っていうのか?)だったにちがいない。

また、どちらのおっちゃんの話にも共通しているのは、「海女さんに対して申し訳ないとはまったく思わなかった」ということだった(昔はこんなんやってたで、と笑いながら話していたから今も罪悪感などは感じていなさそう)。
奈良公園の鹿にせんべいをやるぐらいの感覚で海女さんに向かってボールを投げていたようだ。


高校生が冷たい海に投げ込んだボールを半裸のおばちゃんたちが苦しい思いをして取ってくる。
まるで鵜飼いの鵜じゃないか。
想像するとかなり異様な光景だ。しかし日本が豊かになっていることを象徴しているような光景でもある。成長する国では若者が力を持っている。

[海女 ボール] [海女 取ってこい] といったキーワードで検索してみたがこれといった情報は見当たらないので、今はやってないのだろう。
今高校生にそんなことやらせてたら非難殺到だろうな。





と思ったのだが、はたして海女さんにボールを拾いに行かせるのは人道にもとる行為なのだろうか。

ぼくは大学生のとき、日本に旅行に来たカナダ人に京都を案内したことがある。
清水寺の近くで人力車に乗った。カナダ人が乗ってみたいと言ったので、ぼくも一緒に乗ったのだ。
車を引いてくれたのはたくましいお兄さん。年齢を聞くと26歳だと言っていた。当時のぼくよりずっと年上だ。


ぼくは罪悪感を覚えた。
酷暑の下、親の金で大学に行かせてもらっているごくつぶしが金に物を言わせて年長者に車を引かせてのんびり京都観光。
いいのかこれで。
今のおまえは資本主義の醜い豚そのものじゃないか。万国の労働者よ、団結せよ!
という思いが胸に去来した(いやべつにマルクス主義者じゃないけど)。

とはいえ「ぼく、降りて走りますよ。なんならぼくが車を引くんでお兄さんは車に座っててください」と言うわけにもいかず、居心地の悪さを感じながらじっと座っていた。
車引きのお兄さんだって客に乗ってもらわないことには金にならないからこれでいいんだ、と自分に言い聞かせながらぼくは三年坂を揺られた。

はじめて乗った人力車はぜんぜん楽しくなかった。
いっそ足を骨折してたらよかったのに、と思った。そしたら何の遠慮も感じず人力車に乗れたのに。




人力車に乗ることに申し訳なさを感じるのはぼくだけじゃないと思う。
人を乗せた車を引くなんて、本来なら機械や馬や牛がやるはずの仕事だ。タクシーやバイクでも行ける距離をわざわざ人が汗水たらして車を引きながら走るのは、娯楽性以外の何物でもない(料金だってタクシーよりずっと高い)。
だが、とりあえず現代日本においては人力車は非人道的な乗り物だとはされていない。今でも観光地ではよく人力車が走っている。

一方で海女さんに潜ってボールを取りに行かせる話を聞くと「ひどい」と思う。
人力車を引かせる行為と、やっていることは違うのだろうか。
「誰かの娯楽のためにやらなくていい肉体労働をさせている」という点ではどちらも同じなのに。

もっといえばプロスポーツ選手だって「見世物になるために苦しい思いをしている」わけだが、彼らをかわいそうと言う人はほとんどいない。
競走馬を見て「ムチを入れられてむりやり走らされてかわいそう」という人はいても、陸上選手を見て「かわいそうに」と涙を流す人はいない。
海女さんはボールを取りに行くことでお金をもらえるが、多くのランナーはお金ももらえないのに懸命に走っているのだ。なんとかわいそうなことか。

ボールを取りに行かされる海女さんはいなくなっても、今日もバレーボール選手は飛んできたボールを落とさないよう必死で走る。

なんと非人道的行為だろう。



2017年9月23日土曜日

汚くておもしろいスポーツ


少し前にTwitterに書いた投稿。

Twitterでは文字数制限があって不正確になってしまった点もあるので、補足。

まず「スポーツ」とひとくくりにしてしまったけど、スポーツにもいろいろある。
たとえば剣道なんかは、いくら相手に鮮やかに打ち込んだとしても「打ち込んだ後に気を抜かずに相手を意識していないと一本にならない」「相手への敬意を欠いていると一本にならない」といった決まりがある。
これはスポーツのルールとしてはすごくあいまいだ。「気を抜いていたかどうか」なんて他人が判断できることではない。
しかしこういうあいまいなルールは、あいまいであるがゆえにどんなシチュエーションにも対応できる。

法律に詳しくない人は「法律って杓子定規で人間味がないんでしょ」なんてイメージを持っていることが多いが、じっさいは逆だ。
法律というのは最低限のことだけ決めておいて、あとはあいまいなまま残しておく。懲罰ひとつとっても「無期または3年以上の懲役」「1000万円以下の罰金」などかなりざっくりとしか決められていない。「1000万円以下の罰金」の刑で罰金1万円、ということだってありうる。
1人殺したら15年、2人殺したら無期、3人で死刑みたいな刑罰表があるわけではない。判例はあるけれど、最終的には裁判官のさじ加減で刑は決まる。

不公平なようにも思えるが、おかげで「長年の介護生活の末にこれ以上息子を苦しめまいよう自分を殺してくれと頼んだ老母を泣きながら手にかけたケース」と快楽殺人の刑罰に差をつけることができる。
社会や倫理観は変化するが、ルールがあいまいであれば「とりあえず今の時点ではベスト」な判断ができる。



しかし野球のルールはそうではない。
野球のルールブックを見たことがあるだろうか?
数百ページあり、シチュエーションごとの詳細な規則が記されている。
ルールの数は数千ともいわれている。もしかするとプロ野球において一度も適用されたことのないルールもあるかもしれない。
だが野球のルールは細かすぎるがゆえにすべての局面に対応することができない。

たとえば1992年の高校野球選手権大会で、明徳義塾高校が強打者だった星稜高校の松井秀喜を5打席連続敬遠したことが話題になった。
社会現象にもなるぐらい賛否両論を巻き起こし、そのほとんどが否定的な意見だったが、野球のルールでは5打席連続敬遠を罰することはできなかった(今もできない)。数百ページにわたるルールブックのどこにも「敬遠四球は4打席連続まで」なんて書かれていないからだ。仮に書いたとしても、ピッチャーが「この四球はわざとじゃない」と主張すれば規定には引っかからないからザル法となる。
だから今後同じ作戦を弄するチームが現れたとしても、少なくともルール上はそれを罰することはできない。

剣道方式なら話はかんたんだ。
「相手への敬意を欠いたプレーをおこなったチームは負けとする」の1行で済む。
審判の判断で、明らかにコントロールの悪いピッチャーなら5打席連続四球を与えても見逃すし、状況的に敬遠と判断されても仕方のないケースであれば3打席連続であっても負けになる。

前代未聞のプレーが起こったとしても、審判の内なる「相手への敬意を欠いたプレーかどうか」の基準に照らし合わせればすべて判断可能だ。



あいまいなルールは、プレイヤーからするとすごくやりにくい。
どこまでがセーフでどこからがアウトかわからないのだから。
だからこそ厳密にルールを守る。「ここまではぜったいに大丈夫」と自信を持って言える範囲を超えることはない。
「これは規定がないけどフェアじゃないかもしれないな」という作戦は実行しにくいし、仮に試してみて見逃されとしても次の試合の審判が見逃してくれるとはかぎらない。実力者であるほどアンフェアなプレーを試せない。

野球のような事例を列挙していくパターンだと、安心してギリギリを攻められる。「ルールに書かれていない」=「やってもいい」のだから。
わざとデッドボールを当ててもランナーを1人許すだけ。危険なタックルして相手の野手を怪我させても守備妨害でアウトが1つとられるだけ。チームが即負けになることはない。
卑怯と罵られるかもしれないが、少なくともグラウンド上ではたいした罰は受けない。
基本的に「反則スレスレの行為をしたほうが得をする」構造になっているのだ。



……と、まるでぼくが野球を憎んでいるかのようなネガティブなことを書いてしまったが、そんなことはない。毎年甲子園に高校野球を観にいくぐらい野球は好きだ。
相手をだますプレー(隠し球、スクイズ、1塁走者が気を惹いている隙に3塁走者が本塁を陥れる重盗、ランナーを誘いだす牽制……)があるからこそ野球はおもしろいと思っている(逆に剣道を観戦したことはない)。

野球以外でも、人気のあるスポーツは反則すれすれの汚い手が横行しているのがふつうだ。
相手を怪我させかねない危険なスライディング、審判の見えないところでおこなわれる暴力を伴う激しいポジション取り、敵が反則をしたことを印象付けるための大げさなアピール。状況によってはわざと反則をしたほうが有利になることもある。
そうした駆け引きがあるからこそ観客は熱狂する。
だから反則すれすれのプレーをやめろという気はないし、これからもどんどんやってほしい。
犯罪や騙しあいを描いた小説や映画がおもしろいのと同じだ。

ただ、さんざん汚い手を使う競技をやらせておきながら「スポーツは若者の心身の健全な育成に役立つ」とかしゃあしゃあとのたまうのは気に食わない。

「世の中は汚いことだらけだから、その予行演習として汚い振る舞いかたを覚えさせるためにスポーツは役立つよ」と言うのならわかるけどさ。

2017年9月20日水曜日

パスワードをどうやって決めるか



みんな、パスワードってどうやって決めてる?

パスワードを決めろって言われるじゃないですか。
WEBサイトで会員登録するときに。


ぼくはだいたいこんなふうにしてる。

 【どうでもいいサイト】
 → 誕生日 または 誕生日+名前の英字表記

 【個人情報を登録するなどまあまあ重要なサイト】
 → 過去に住んでいた住所の番地+名前の英字表記

 【クレジットカード番号を登録するなどすごく重要なサイト】
 → 過去に住んでいた住所の番地+サイトごとに変わるランダムな英数字


どうでもいいサイトってのは、
「ログインしないと見られない情報があるからアカウント作るけど明日以降見ることないだろうな」ってサイトとか、
「個人情報を一切入れないから万が一漏れてもべつにいいや」ってサイトね。

でもさ。
どうでもいいサイトにかぎってやたらと堅牢だったりするんだよね。
誕生日4桁で設定したら「パスワードは8文字以上にしてください」って言われて、
めんどくせえなって思いながら誕生年+誕生日の8桁にしたら「パスワードには数字とアルファベットの大文字と小文字を1文字以上ずつ含んでください」とか言われるの。

うるせえって。
そんな強固な鍵、おまえんちにいらねえって。
中に何もないボロボロの廃墟だけど2重の錠+指紋認証つけてます、みたいな感じ。
誰もおまえんちに泥棒に入らねえって。

ほんと嫌になる。地球を滅ぼしたくなる。滅ぼせる力が備わってなくて良かった。


20年前の人は、未来人がこんなことで頭を悩ませているとは思わなかっただろう。
面倒な計算はすべてコンピュータがやってくれて人間は創造的なことだけに頭を使う世の中がくるはずだったのに、そのコンピュータを使うためにわけのわからない文字列を記憶しないといけないのだ。

コンピュータの活用が進んだ結果、「無意味な英数文字列の記憶」というもっとも非創造的なことに頭をつかわなくちゃいけないなんて、なんとも皮肉な話だ。



2017年9月19日火曜日

正規雇用を禁止する




派遣の規制緩和をすすめようとする国や経団連と、
労働者を守るために派遣規制を緩めるなといっている労働者団体。


もういっそ、正規雇用を禁止にしてみたらどうだろう。どうせ終身雇用制度なんて崩壊してるし。
全員パート・短期契約社員。正社員禁止。2年以上連続して同じ会社で働くことを禁止する。


一気に雇用の流動化が進む。みんなすぐ辞める。バイト感覚で辞める。「おまえ同じ会社で1年も働いてんの? 長いなー」ってなことになり、愛社精神なんて言葉は死語になる。

そうすっと会社としては片時も気が抜けない。社員がごっそり辞めたらすぐにつぶれちゃうから。
優秀な社員に対しては高給を支払うか労働条件を緩和してつなぎとめるしかない。
「がんばってたらいつか出世させるよ」みたいないいかげんな言葉では誰も来てくれない。短期労働者なんだから。「今いくら払うか」だけが重要になる。
今までやりがいや将来の出世という中身のないエサで釣っていた企業はつぶれる。


安定を求める労働者は2社か3社と労働契約を結ぶ。非正規だからね。
複数社で働けば、完全失業のリスクが小さくなる。
月・火はA社、水・木はB社、金曜日はC社。
労働者からすると1社に依存する度合いが減るので、会社に対しても強気で交渉できる。
他の会社の情報も入ってくるので、今いる会社の良し悪しがすぐわかる。
相場より低い給与しか出さない会社はどんどん人が離れていく。


非正規化をとことん推し進めてみたら、かえって労働者の立場が強くならないだろうか?


2017年9月18日月曜日

ガソリン自動車と国産ミュージックプレイヤー


ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』にこんな一節があった。
 商品資本主義に取って代わりつつあるのが、知能資本主義である。知能資本には、まさにロボットやAIがまだ実現できていない、パターン認識と常識的判断が含まれる。
(中略)
 この歴史的移行がどうして資本主義の土台を揺るがすのだろう。至極単純なことだが、人間の脳は大量生産できない。ハードウェアは大量生産してトン単位で売ることができるのに、人間の脳ではそれができない。となると、常識が未来の通貨になるだろう。商品の場合と違い、知能資本を生み出すには、人間を育成し教育しなければならず、これには個人の数十年にわたる努力が要る。
かつて国の力は資源に大きく依存していた。
金属や石炭や石油をどれだけ保有しているかが国の強さを決め、資源を求めて人々は移動し、資源を保有する国を植民地にしていた。
日本もまた資源を求めて海外に進出し、最終的に資源の差でアメリカに敗れた。


しかしその時代は終わろうとしている。
戦後日本の復興があらわすように、資源そのものよりもどれだけの付加価値をつけられるかが求められる時代になった。
マサチューセッツ工科大学の経済学者レスター・サローはこう語っている。
「シリコンバレーとルート128沿いに最先端企業が集まるのは、そこに頭脳があるからだ。それ以外のものは、何もない」(『資本主義の未来』)
今後はもっと頭脳集約型の労働が求められる。
頭脳によって生みだされるのはモノではない。プログラム、デザイン、システム、コンテンツ。ソフトの重要性が増す時代が来ることはまちがいない。



さて。
イギリスとフランス政府が2040年までにディーゼルやガソリン車の新車販売を禁止する方針を発表した。中国も電気自動車への完全切り替えを検討しているらしい。

日本政府はそうした期限を定めない方針だ、というニュースを見てぼくは愕然とした。
国内産業を守るためなのだろうが、それが産業を守ることになっているとは到底思えない。
どの燃料が次世代自動車の主流を占めるかはわからないが、いずれガソリン車が廃れることはまちがいない。イギリス・フランスは2040年という期限を設定しているが、2040年よりずっと早くに世代交代の日が来るとぼくは信じている。

政府が決めなくても市場が決める。
明確な期限を切って強制的に次世代自動車にシフトさせたほうがよくないか? ガソリン車を改良している時間的余裕などあるのか?
未来のない産業に優秀な人材を回さないほうがいい。消費者からすると国産車がなくなってもかまわないのだから。

iPodが出てきたときの国産ミュージックプレイヤーの開発部の話を思いだす。
CDやMDで音楽を聴いていた時代に、1,000曲をダウンロードできるiPodが登場した。
そのとき、某国産メーカーでは開発部が「iPodに対抗するためもっと音質をクリアにした商品をつくるべきでは」という話をしていたらしい。消費者がiPodを購入する理由をまったくわかっていなかったのだ。
「市場が求めているもの」「自分たちが劣っているところ」ではなく「提供できそうなもの」「自分たちが勝てるところ」を必死に探していたのだ。

国産ガソリン車の保護も同じことをやっているように思えてならない。

2017年9月17日日曜日

香辛料でごまかす時代


ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』という本に、昔の香辛料に関するこんな一文があった。

それが重宝されたのは、冷蔵庫のなかった当時、腐りかけの食べ物の味をごまかすことができたからだ。ときには王や皇帝さえ、ディナーで腐ったものを食べなければならなかった。冷蔵庫も保冷コンテナもなく、海を渡って香辛料を運ぶ船もまだなかったのだ。

だからコロンブスたちは香辛料や香草を求めて海を渡り、大航海時代が到来した。
つまり香辛料こそが船乗りたちが追い求めた ”ONE PIECE” だったわけだ(そういや漫画『ONE PIECE』でウソップがタバスコを武器として使うシーンがあるが、ほんとの大航海時代なら貴重な香辛料を武器として使うなんて考えられない話だ)。


昔の人々が「食べ物が腐りかけているから味をごまかそう」という発想にいたったことは、すごくおもしろい。
現代人なら「食べ物が腐りかけているから新鮮な食べ物が手に入るようにしよう」と考えるだろう。
はるばる海を渡って未知の大陸を探検するよりも、「新鮮な肉や野菜が手に入るように王宮の近くに牧場や農場をつくる」とか「鮮度が落ちないような輸送・管理の方法を考案する」とかのほうがずっと安くつきそうなものだけど。

問題の本質的な解決ではなく、ごまかすことに心血を注いでいたというのが滑稽だ。





とはいえ現代の常識を昔にあてはめて「ばかだなあ」と言ってもしかたがない。

今の時代だって、2100年の人から見たら

「がんばって穴掘って石油を探すより、もっと身近なものをエネルギーに換えればいいじゃん」

「ゴミを処分するために遠くまで運ぶぐらいだったら、分解して有用な物質に転換するほうがずっと楽なのに」

「病気を治すよりも身体を捨てて脳だけ新しい身体に移植するほうがずっと安上がりなのに、なぜそういう方向に努力しないんだろう」

と言いたくなるような、問題の本質的解決から逃げまくっている時代なのだろう。




2017年9月14日木曜日

バケツ一杯のおしっこ


詳しい経緯は省くが、4人がかりでバケツ一杯におしっこを溜めたことがある。


酒を飲みながら 代わる代わるバケツに用を足し一晩かかってバケツ一杯にした。もう10年以上も前のことだ。
千里の道も一歩から。ローマは一日にして成らず。困難なチャレンジではあったが、強固なチームワークと必ずやり遂げるんだという強い意志が、プロジェクトを成功に導いた。
企業の人事担当のみなさんは、ぜひ新人研修で取り入れていただきたい。


健康診断で 採尿したとき、予想以上の重みを感じたことがないだろうか。
毎回「あれ。紙コップに半分しか入れてないのにこんなに重いの?」とその重量感に戸惑う。明らかに同量のお茶より重い。

お茶と尿では存在感が違う。
「これがさっきまで自分の体内に……」という思い入れ。
「検査の結果によってもしかしたら入院なんてことも……」という不安。
「これをこぼしたらとんでもないことになるぞ」という緊張感。
諸々の感情が乗っかっているから重たい。人の命は地球より重く、おしっこはお茶より重い。


バケツ一杯に 溜めたおしっこは、重たかった。
どのくらい重たかったかというと、詳しい経緯は省くが、中身をテニスコートにぶちまけようとした友人がバランスを崩して自分の靴を盛大に濡らしてしまったぐらい重たかった。


2017年9月13日水曜日

ゴルフと血糖値と傘


ぼくはゴルフやらないんだけど、ゴルファーの会話ってどうしてあんなにスコア聞くんだろうね。
絶対言うよね。
「ゴルフやるんですか」
「そうなんですよ」
「いくつで回るんですか?」
「こないだ90でした」
「ほーすごいですねー」
みたいな。

すぐ聞く。中には聞かれてもないのに言うやつもいる。
病院の老人か。すぐに血圧と血糖値の話しだす老人か。

ゴルフとボーリングはやたらとスコアを聞く。あとTOEICも。

まあTOEICはわかる。スコアをとるためにやってるわけだし。

ボーリングもまあわかる。全員共通の指標だからね。
スコア200のやつは180のやつよりうまい。

でもさ。ゴルフっていろんなコースがあるわけでしょ。
当然、いいスコアを出しやすいコースとそうじゃないところがあるわけでしょ。
一応パー4とか決めてるけど、かんたんなパー4とむずかしいパー4があるわけでしょ。

だったら違うコースで出したスコア比べても意味なくね?

それ野球でさ。
「こないだソフトバンクホークス相手に投げたんですよ。7回5失点でした」
「じゃあおれのほうが上だ。先週の草野球で5回2失点だったから」
みたいなことでしょ。
その比較、何の意味もないよね。

ボーリングだってレーンによって多少は差はあるんだろうけど、ほんとに微々たるもんでしょ。
でもゴルフってコースによって距離も地形もぜんぜん違うし、天候や風の影響も大きい。
そのへんの諸々を無視して比べても、まるで比較にならない。

だからゴルファー同士の会話では、スコアじゃなくてもっと比較しやすいものを言いあうようにしたらいい。
「スイングの速さ」とか「サンバイザーをいくつ持ってるか」とか「てもちぶさたなときに傘とかでゴルフの素振りをしてしまうことが1日に何回ぐらいあるか」とか。


2017年9月12日火曜日

報われない愛の呪縛


芸能に 興味のない人間なので、アイドルに入れあげる人の気持ちが理解できなかった。
いくら熱狂しておかしくなっているファンであったとしても、アイドルがファンの一人になびく可能性がないことぐらいはわかるだろう。
それなのに、なぜアイドルに莫大なお金を投下するのだろう?
同じCDを何枚も買ったり、すべてのコンサートに足を運んだりするのは度を越しているとしか言いようがない。もはやそこまでいったら楽しみよりも苦痛のほうが大きいのではないだろうか?
それだけやっても、得られるものといえばせいぜい握手ができるぐらい。
同じお金と労力を他にかけていたらもっと多くのものを手にしていたのでは?
リターンがないとわかっている投資をするのはなぜなのだろう?


と、かねがねアイドルファンに対して疑問に思っていたのだけれど、子どもを育てるようになって「いや、リターンがないからこそハマるのかもしれない」と思うようになった。

何かにハマる度合いというのは、得られたもの、得られそうなものではなく、投下したものに比例するのではないだろうか。


小学校1年生から 毎日野球をやってきた子が、高校3年生の春に「受験に集中したいから野球部やめるわ」という決断を下すことは、かなり困難だろう。仮にそこが弱小校で甲子園に出場できる可能性がほぼゼロだったとしても。
でも1週間前に野球部に入った生徒なら「練習きついし、どうせ甲子園出られないし、もうすぐ受験だから」という理由で、ずっとかんたんに辞められる。
”甲子園出場” というリターンがほぼゼロなのはどちらのケースも同じ。それでも多くの資本を投下してきた前者の子は、「せっかくここまでやってきたのだから」というもったいなさに引きずられて合理的な判断を下すことができない。
「いやいや甲子園出場だけが野球をする目的ではない。続けることでこそ得られるものもあるんだ」という人もあろうが、それは1週間前に野球部に入った子も同じだ。むしろ初心者のほうが上達のスピードが速いから得られるものは大きいだろう。


子育てを していると、子育てはコストが大きくてリターンがゼロの行動だと思う。
夜中に泣き声で起こされたり、夜中にゲロ掃除をしたり、夜中におねしょで濡れた布団を洗ったり、朝早くにおなかの上に飛び乗ってきて起こされたり、「やってらんねえよ」と言いたくなることばかりだ(ぼくは眠れないのがいちばんつらい)。
それでもなんとかやっているのは、無償だからだ。
「夜中に起こされてゲロ掃除をしたら350円もらえます」なんてシステムだったら「いや350円いらないから寝かせて」となっている。

子どもが将来自分の老後を見てくれる、なんてリターンがないわけでもないが、そんな不確実なことのために多大なる金と労力を使うぐらいなら貯金して上等な介護施設に入居するほうがずっと効率がいい。お金を払って他人に世話されるほうがずっと気楽だし。


母親はどうかしらないけど、父親であるぼくは正直、子どもが生まれた直後は愛情なんてほとんど持っていなかった。ちっさくてかわいい足だなとは思ってはいたけど、仔犬のほうがずっとかわいいと思っていた。
それでも夜泣きにつきあわされたりウンコまみれのお尻を洗ったりしているうちに、我が子が愛おしくなってきた。何かしらのリターンがあったからではない。投下した労力が大きくなってきたからだ。

「バカな子ほどかわいい」という言葉があるが、これはまさに「投下した資本が大きいほどハマる」を言い表している。



報われない愛 の呪縛は随所で観測される。

スポーツで弱いチームのファンほど熱狂的だったり(今でこそ強くなったけど、昔の阪神タイガースや浦和レッズは弱くてファンが熱狂的だった)、
ギャンブルで負けてばかりの人がなかなかやめられなかったり、
ブラック企業の社員が自殺するまで辞めなかったり、
いたるところで人々は「せっかくここまでがんばってきたんだから」に拘束されている。子育てはどうかわからないけど、往々にして不幸な結果を生んでいるように見える。

もしかすると、太平洋戦争末期における日本軍も「報われない愛」の呪縛に陥っていたのかもしれない。
多くの兵士を失い、戦艦を沈められ、戦闘機を墜とされ、失ったものは数知れず。ひきかえに得られたものは何もない。
後の時代の人間からすると「長引かせても悪くなる一方だったんだから早めにやめときゃよかったのに」と思えるが、長引かせても悪くなる一方だったからこそ抜けだせなかったのかもしれない。

個人レベルならまだしも、国家単位で「報われない愛」の呪縛に囚われると大惨事になる。
国民年金・厚生年金なんか、この呪縛に陥っているように見えてならない。


2017年9月7日木曜日

困ったときはステゴサウルスにしとけ


ステゴサウルス っているじゃないですか。いないけど。こないだいなくなっちゃったね。こないだっていうか1億年くらい前。
背中にへんな五角形がいっぱいついてるやつ。20個ぐらい。五角形が20個あったら将棋1式できるじゃない。2頭いたら対局できるね。
将棋やってたのかもね。そんでいらない駒を背中につけてたのかも。あ、もしかしてステゴサウルスって名前、捨て駒からきてるとか? ステゴマサウルスがなまってステゴサウルスになったとか。違うか。


まあ変な形状してるよね。
化石から形を再現した人も困っただろうね。頭部とか脚とか背骨とか組み立てて、
ん? なんか五角形のパーツが20枚余ったんだけど? これどこのパーツだ?
将棋の駒? ちがうよね。だって「と」とか書いてないもんね。
この五角形なんだろう。ホームベース? 絵馬? ペンタゴン?
んー。とりあえず背中に並べとくか。余らすわけにもいかんしな。

そんな感じであの形状になったんだろう。


地球に隕石が つっこんできて粉塵がまきあがって大氷河期がきたとする。
人間はもちろん、大型の動物はほとんど死に絶えるよね。その中には、もちろんキリンも。

そんで1億年して、またべつの知的生命体が地球上に繁栄して、そいつらがキリンの化石を見つける。
頭はここ、脚はここ、これが首で、
ん? 首の骨みたいなやつがいっぱい余ったぞ?
これ全部首の骨? まさかね。そんなことしたら首だけが長いアンバランスな生物になっちゃうもんな。

どこにつけたらいいんだろう。
んー。とりあえず背中に並べとくか。余らすわけにもいかんしな。



2017年9月4日月曜日

VBAで魔法呪文のマクロを組んでみた


魔法使いは呪文を唱えることが多い。「チンカラホイ!」とか(『のび太の魔界大冒険』より)。
なぜ唱えるのだろうか。ぼくは魔法を使ったことがないのでよくわからない。

わざわざ呪文を口にすることにはデメリットがいくつかある。
まず、発動までに時間がかかる。
スポーツ漫画だと「トルネードアロースカイウイングシュート!」と言いながらシュートを打ったりするが(『キャプテン翼』より)、どう考えても時間の無駄だ。「トルネードアロースカイウイングシュート!」と叫ぶためには相当長い”溜め”をつくることが必要で、PKのときならともかく、ゴール前でそんなことを叫んでいたらあっという間にボールを取られてしまうだろう。

また、相手に察知されるというマイナス面もある。野球でピッチャーが「スライダー!」と叫びながら球を投げたら、打たれる可能性はまちがいなく高まる(ときどき嘘を混ぜれば効果的かもしれないが)。



かようなデメリットがあるにもかかわらず魔法使いが呪文を唱えるのは、そうしなければならない理由があるからだろう。

それはつまり、魔法というものは魔法使いの内なる力ではないということを意味する。
内なる力の発動であれば心の中で思うだけで十分だ。ピッチャーが黙ってスライダーを投げるように。
わざわざ言語化するのは他者に対して指示を与えているからだ。
たぶん精霊みたいなものが近くにいて、そいつに対して「こういう魔法を使いたいからよろしく!」というメッセージを発する、それが呪文なのだ。

構造としては、コンピュータを操作するときにコマンドを打ちこむことで望むとおりの動作をさせるのと同じだ。
つまり、魔法使いとは精霊を思い通りに動作させるプログラマーであり、呪文はプログラミング言語にあたるわけだ。



魔法は科学と対極にあるものとして語られることが多いが(『のび太の魔界大冒険』でも魔法が使える世の中では科学が迷信扱いされていた)、はたしてそうなのだろうか。

魔法を使いこなすためには、同一の条件下で同一の呪文を唱えたときは同一の動作が確認されなければならない。あるときは火が出て、あるときは氷が出て、あるときは相手を回復させるような呪文は使い物にならない。ドラクエシリーズには「パルプンテ」という何が起こるかわからない呪文があるが、これを常用するユーザーはまずいないだろう。
少なくとも呪文を唱えることによって何が起きたかという結果が確認できて、さらに「この呪文を唱えれば10回中8回以上は××という効果が生じる」といった傾向が把握できないと役には立たない。

すなわち魔法を有用なものとして使うためには検証可能性や再現性、測定可能性が求められるわけで、これはまさしく科学のアプローチそのものである。
魔法とは科学なのだ。



呪文が精霊に対するコマンドである以上、命令の内容は客観的・普遍的なものでなければならない。
たとえばドラクエシリーズにおける呪文”メラ”は「敵に対して小さな火球をぶつける」といった説明がなされているが、これはゲームユーザーに対する簡略化された説明であって、実際はこんな指示では魔法は発動できないはずだ。

まず”敵”のような漠然とした概念では場所を特定できないから、座標を用いて火球をぶつけるオブジェクト(対象)を指定してやる必要がある。
「呪文詠唱者を起点として真北から方位角132度の方向6.1メートルの位置」といった一点に定まる座標の指示を与えなければならない。
方位角や距離を正確に把握するためには三角法に対する正しい知識と素早い計算能力が必要になるから、魔法使いは相当数学に強くないとやっていけない。


さらに”小さな火球”といった曖昧な表現では精霊はうまく対応できないから、サイズ、温度、継続時間といった指標を設定する必要がある。
ただし”敵”は毎回変わるのに対して”小さな火球”は毎回同じものでもかまわないから、マクロのようなものを組んで毎回の発動を簡素化することができる。
一般にはそのマクロの名前が呪文と呼ばれるのだろう。
(ドラゴンボールに出てきた「タッカラプト ポッポルンガ プピリットパロ」のように極端に長い呪文はマクロではなくコードをそのまま読みあげているものだと予想する。神龍の召喚のように数年に一回しか使わないコマンドはマクロとして登録する必要性があまりない。)


ということで、VBAでメラのマクロを組んでみた。



2017年9月2日土曜日

子どもを野党に入れるには




以前Twitterにこんなことを書いた。
そっちを覚えんのかい!


親として娘に望むことはいろいろあって、その中のひとつが「素直に謝れる人になってほしい」だ。
たいていの場合、早めに謝ったほうがトクをする。意地を張っていいことなんかない。
だから娘がぼくの足を踏んだときとか、寝ているときにおなかに飛び乗ってきたには(想像してほしい。睡眠中に17kgの塊が腹部に落ちてくるのを)、「痛かったよ。ごめんは?」と厳しく注意している。

で、昨日保育園の先生から聞いたのだけれど、娘は失敗をした園児に対してとても厳しいらしい。
少しぶつかられただけで「痛かった! ごめんは!?」と強い口調でまくしたてるのだという。

そっちを覚えんのかい!
素直に謝ることではなく、相手に謝らせる方法を学んでしまったらしい。

以前「子どもは親に言われたことはしない。親がすることをする」と聞いたことがあるが、まったくそのとおりだ。

他人の失敗を厳しく糾弾するのは、とても感じが悪いのでやめてもらいたい。
野党の議員には向いている資質かもしれないけど。


2017年8月31日木曜日

ビールでタコを煮た無人島


無人島の七人

学生時代、無人島でキャンプをした。

瀬戸内海の1周3kmほどの小さな島。男7人、2泊3日のキャンプ。
海沿いの小さな駅で降り、こじんまりとしたスーパーマーケットで買い占めちゃうんじゃないかってぐらい肉や酒を買いこみ、漁港の市場でタコや貝を買って、タクシーフェリーに乗せてもらって無人島に渡った。

男が7人もいたらアウトドアの達人が1人ぐらいはいそうなものだけど、ぼくらの中に「できるやつ」はひとりとしておらず、苦労しながらテントを斜めに立て、食材はそのへんに投げだして、がさつなだけのカレーをつくって食べた。涙が出るほどうまかった。


ビールは山ほど買っていったのに水をあまり買っていかなかったせいで2日目にして深刻な水不足におちいった。
水を節約するために海水で米を研ぎ、ビールでタコを煮た。酒より水のほうが貴重というソ連みたいな状況だった。「タコのビール煮ってなんかおしゃれじゃない?」とうそぶきながら食べた。じっさいはまずくて、でもうまかった。


せっかくの無人島なんだから大きな声を出さなきゃ損とばかりに無意味に島中に響きわたるほどの声を張りあげた。最終日は7人とも声ががらがらだった。


3月の海に入ったら冷たすぎて痛かった。みんなで鼻パックをつけたまま一日すごした。島にあったマリア像が怖かった。豚肉を日なたに半日放置していたけど気にせず食べた。小さい島なのに遭難しそうになった。明け方は寒くて眠れなかった。早朝の浜辺で食う焼き芋はしみじみとうまかった。


10年以上たって振り返ると、2泊3日の無人島生活が1年もいたように感じるし、あっという間の夢だったようにも思える。
細かいことは忘れてしまったが、ただあの日々を味わうことはもう二度とないという実感だけが確かなものとして今は存在する。



無人島の七人


2017年8月26日土曜日

室内ゲリラ豪雨の夜


「人生における愚かな夜」のベスト3を決めるとするならば、家の中で水鉄砲を撃ちあった晩は確実にランクインするだろう。


20歳のときだった。
大学の夏休みで、実家に帰っていた。
その日は父母が墓参りでおらず、ぼくは大喜びで高校時代の友人たちを招待した。
「おれんち誰もいないから来いよ」

リビングで酒を飲んでばか話をしていると、ふと傍らにあった水鉄砲が目に留まった。
昼間川で遊んだときに使ったものだ。水鉄砲は3丁あった。猟銃タイプの、水量も水圧もあるやつ。
ぼくはこっそり水鉄砲を手に取り、洗面所に向かった。水を入れ、そっとリビングに戻ると友人の背中に向けて少量の水を放射した。
友人は「ひゃっ!」と大声を上げて驚き、それを見たぼくらはげらげらと笑った。
些細ないたずらだった。

そこから水鉄砲3丁を使っての撃ちあいになるまではあっという間だった。
はじめは遠慮しながらちょろちょろと水をかける程度だったが、酔っぱらっていることもあり、頭から服からずぶ濡れになるにつれてためらいはなくなった。室内ということも忘れて全員おもいっきり引き金を引いていた。

ぼくはビデオカメラを持ってきてこの狂った饗宴を撮影した。1人は実況役にまわり、残る3人はそれぞれ水鉄砲を持って互いに撃ちあった。
ぼくもビデオカメラを片手に家中を走りまわりながら「いいぞ、もっとやれ!」「トイレに逃げこんだぞ、追え!」と叫んで大笑いした。

たぶん、第一次世界大戦のときも こんなふうに一瞬で戦場が拡大したのだと想像する。

セルフイメージはこんなんだった

家の中で水鉄砲の撃ちあいをやったことのある人ならわかると思うが、水鉄砲戦争は野外でやるより室内のほうが7.5倍おもしろい。

まず隠れる場所が豊富にあるので戦術が立てやすい。
トイレに隠れて扉のすき間から狙い撃つ、洗面所で待機しておいて弾切れで給水にやってきた反撃不可能なやつに一方的に射撃を浴びせるなど、さまざまな作戦が可能になる。

また、家の中がびしょびしょになるのも楽しい。
相手を追いつめることに熱中するあまり、濡れたフローリングにすべってずっこける、という事態が何度も生じた。
そのたびに他の面々は大笑いしながら、死者にとどめを刺すように集中豪雨を浴びせた。

なにより背徳感が楽しい。
家の中を水びたしにするのは悪いことだ。だから楽しい。そこに理屈はない。
ビデオカメラで撮影していたおかげでそのときの映像はいまだに残っているが、誰もがほんとにいい笑顔をしている。


1時間以上は撃ちあっただろうか。
アルコールが入っている状態で走り回り大声を上げていたので、さすがに誰しも疲れきった顔をしていた。
「そろそろやめよっか」
誰からともなく言い、改めて部屋の様子を眺めた。

見事なぐらいびしょ濡れだった。
床や壁はもちろん、天井やソファにまで水がかかっていた。テレビも濡れていて、電源を入れたら一瞬ファミコンがバグったときみたいな破滅的な色彩になって「やばい、壊れた!」と焦ったが、よく拭いたら直った。
家中いたるところに銃撃戦の痕跡が残っていたが、和室だけは無事だった。日本人としての良心 がかすかに残っていたのだろう。

2017年8月25日金曜日

「道」こそが「非道」を生む


「報道」という言葉について。

報道、という言葉はどうも鼻持ちならない。
自分で「報道やってます」という人間はどうも信用ならない。「ニュース番組作ってます」とか「新聞記事書いてます」は事実だから何とも思わないんだけど。

思うに「道」という言葉がついているのが、自称"報道関係者"の態度を尊大にさせるのではないだろうか。

ニュースを伝えることなんて、いってみりゃただの商売だ。「報道」なんておこがましい。「報業」で十分だ。
「広告道」とか「製造道」とか「サービス道」とか言わないじゃないか。「農道」は農地脇の道だし。

商売には正しさは必要だ。広告だって製造だってサービスだって同じだ。
法を破ってはいけない、人を傷つけてはいけない。そんなことはあたりまえだからわざわざ「道」をつけたりしない。
「報道」という言葉には「おれたちは他の商売とはちがうんだぜ」という意識が透けて見える。


「道」をつけると、どうしても「正しき道を追い求める者」ということになる。
宮本武蔵のような求道者のイメージだ。
しかし正しい道を求めることは危険極まりない行為だ。

人が度の過ぎた悪に手を染めるのは、正義のために行動するときだ。
「抑圧されている人々を救うため」「正しい世界をつくるため」といった大義名分をふりかざしはじめたとたん歯止めは利かなくなり、あとは自らが破滅するか他者を破滅させるかしかないことは多くの戦争が教えてくれている。
太平洋戦争だって、指導者たちが「金儲けのため」と思っていたらほどほどのところで手を引いていただろう。
金儲けのためなら「これ以上やったら赤字」という損益分岐点があるが、正義には引き際がない。


「報道」はときに正義のために暴走する。災害救助の邪魔になるような取材をしたり、罪のない被害者やその遺族を苦しめたりする。
商売のためにニュースをつくっているという意識があれば「さすがにこれはやりすぎだな」とブレーキがかかるのに、「報じることが正しい道」と思えばどこまででも突き進んでしまう。

正義の色眼鏡をかけて突き進むことでこそ得られる真実もあるのだろうが、これだけ多くの情報にかんたんにアクセスできるようになった時代、報道に求められるのは「道」を捨てることじゃないかな。

2017年8月22日火曜日

走者一斉救助のツーベースヒット


友人と話していたとき、野球の「ファール」はおかしくないか? という話になった。

[foul]を辞書で引くと、[悪い] [汚い] などの意味がある。
サッカーやバスケットボールの「ファール」は理解できる。敵チームの選手をケガさせかねない危険なプレーに対して与えられるものだから、[悪い][汚い]行為とのそしりはまぬがれない。
だが野球のファールは、べつに卑怯なプレーでもなんでもない。ただの打ち損じだ。失敗は誰にでもある。汚いなんて言われる筋合いはまったくない。

さらにファールフライは漢字で「邪飛」と表される。ラインの外にボールを打ち上げただけで、なぜ邪(よこしま)なんて汚名を与えられなくてはならないのだろう。
テニスやバレーボールでは、サーブを失敗することを「フォルト」と呼んでいる。野球の打ち損じも「フォルト」でいいのではないだろうか。



よく言われていることだが、野球用語には物騒な言葉が多い。
死んだり殺したりしてばかりいる。
一死、二死、牽制死、盗塁死、刺殺、捕殺、併殺、挟殺、三重殺……。こんなに人が死ぬスポーツは他にない。「犠牲バント」も死だ。得点することをわざわざ「生還」というぐらいだから、基本的に死ぬのがあたりまえの世界なのだ。

しかし解せないのが「死球」だ。さっきあげた野球用語の「死」や「殺」はアウトの意味だ。だが、デッドボールを直訳したのだろうが、死球の「死」はアウトではない。むしろチャンス拡大だ。
すなわち、野球には2つの意味の「死」がある。死球で出たランナーが牽制死すると二度死ぬことになる。007か。


死だけではない。不穏な用語は他にもある。
たとえば「盗塁」。これもスチールの訳だろうが、なぜ盗むのかよくわからない。
バスケットボールにも「スチール」という用語があるが、これは敵が持っていたボールを奪うことだから納得できる。
だが野球のスチールは何も奪っていない。ルールに基づいて懸命に走ってチャンスを拡大したのに盗っ人扱いだ。「到塁」とかでよかったんじゃないか。


「走者一掃のツーベースヒット」という言い方も穏やかでない。
走者一掃、なんてまるで邪魔者を排除するような言い方ではないか。ランナーにしたら懸命に走ってチームに得点をもたらしたのに、なぜ「一掃する」とゴミのような扱いを受けなければならないのか。
ヒットによってランナーを「死」から救ったのだから「走者一斉救助のツーベースヒット」とかでいいんじゃないだろうか。


「自責点」も嫌な言葉だ。
チームスポーツでは「誰のせいで負けたか」という戦犯探しは暗黙の了解としてしてはならないことになっている。明らかに誰かのミスが原因で敗れたしても、少なくとも建前としては「しょうがないよ、みんなの力が足りなかったんだ」ということにするのが潔いということになっている。
しかし野球ではそこのとこをわざわざ明白にする。自責点なる概念をつくり、誰の責任でどれだけ点をとられたかということを厳密に算定する。
さらに不公平なことに、自責点はピッチャーにしかつかない。野手がどれだけエラーをしようが、点をとられた責任はすべてピッチャーにおしつけ、あまつさえ「負け投手」なんて呼び名をつける。チームスポーツなのに、まるで負けた原因がすべてピッチャーにあると言わんばかりだ。
許せないのは、それを監督が甘んじて受け入れていることだ。部下にすべての責任を押しつけるなんて責任者失格だ。
潔く「責任はすべて私にある。自責点は私につけてくれ!」と言える監督がいてもいいんじゃないだろうか。
そして、その行動に対して「そなたの部下を思う気持ち、誠にあっぱれ! 自責点はゼロとしよう!」と名裁きを見せる大岡越前のような審判がいてもいいのに。



2017年8月19日土曜日

競争力の高いバターになっとけ


「競争」って重きを置かれすぎじゃない?
ビジネスでも学業でもそうなんだけど。
競争なんか、しなくて済むならそれに越したことはない。


忍者が麻を使って修行する話、知ってる?
忍者が麻の種を植えて毎日その上を飛び越えてたら、麻はすごい勢いで成長するから、それにあわせて跳んでるうちにいつのまにか忍者も3メートルぐらいジャンプできるようになってるって話。
そんなわけないよね。嘘にもほどがある。ぼくは小学生のとき信じてたけど。
麻に対抗心燃やしたからって人間が3メートルもジャンプできるようにはならない。

その忍者の話を信じてるのか知らないけど、競争させたら成長すると信じてる人が多い。
いや、二流はそうかもしれない。他人よりいい点とるために勉強する。そういう人がいるのはまちがいない。
義務教育はそれでいい。全体のレベルを引き上げるのが目的だから。

でも一流の人は競争するから成長するわけじゃない。
学ぶことが楽しいから勉強する。絵を描くのが好きだから絵を描く。で、そういう人が業界を牽引する。彼らにとって競争なんて成長を阻害する要因でしかない。

スポーツは競争を楽しむためのものだから競争こそが選手を成長させるかもしれない。
だけど学問や芸術はそうではない。真理に近づくことやより善なるものや美を追求することが成長を促す。個ではなく全体の成長を。


前職を 辞めたのは、競争に対する考え方も原因のひとつだった。
ぼくは一応管理職という立場にあったんだけど、会社は社員たちをむやみに競争させようとしていて、ぼくはそれに反発していた。
みんなそれぞれ別の業務をやってるから競争させることに意味がない、競争させてそれを計測するのにもコストがかかる、競争させて足の引っ張り合いになったらトータルでマイナスになる、そもそも競争させないと仕事をしないようなやつはいらない、とかいろんな理由があって。
全員がゴールを狙うサッカーチームが勝てるわけない、と言って結局は会社を辞めた。

なんでもかんでも競争の原理を持ちこむのは、二流半を二流に引き上げるために一流の足を引っ張る行為だ。
大学が「競争力を高めるため」って理由で独立法人化させたのなんかまさにそれ。結果が出るかわからない研究、短期的に結果が出ない研究をする余裕をどんどんなくしていって、「競争力」だけの二流の大学ばかりになっていく。


そもそも「競争力」という言葉がばか丸出しだと思う。国際競争力をつけよう、とか。
競争は手段あるいは結果にすぎないのにそれを目的化しているのがほんとに愚かだ。

囲碁とかオセロとかビーチフラッグみたいなゼロサムゲームであればともかく、マクロ経済とか教育とか政治とかの世界で「競争力」という言葉を使うやつは、そいつら同士で追いかけっこをしすぎてバターになればいいのに。世界のバター市場で勝負できる競争力の高いバターに。



2017年8月17日木曜日

パパ友の口説き方


「ママ友」の検索結果 約1300万件

「パパ友」の検索結果 約38万件


ということで どうも世のお父さん同士はあまり友だちにならないらしい。
(しかし「ママ友」も「パパ友」もネガティブな検索結果が並んでるな……)

ぼくには4歳の娘がいるが、パパ友はいない。
学生時代の友人に子どもが生まれたので子どもと一緒に遊びにいく、ということはあるが、子どもを介して友人になった人はいない。

毎朝娘を保育園に送っているので、他の保護者とも顔を合わせる。
保育園に通わせている人は基本的に共働きだから父親が送りにくる家庭もめずらしくない。
必然的によく顔を合わせるお父さんも決まってくる。
ぼくは常々まっとうな人間として生きていきたいと願っているからあいさつをする。「もうすぐ発表会ですね」とか「今日も〇〇ちゃんは元気ですね」といった言葉も交わす。
でもそれ以上の踏み込んだ話をすることはない。


休みの日には たいてい子どもと遊びにいく。しかし「この人(娘のこと)はお父さんとばかり遊んでいいのだろうか」と心配になる。
一人っ子だし、もっと同年代の子と遊ぶ機会をつくってあげたほうがいいんじゃないか。

あるとき、娘と公園に行ったら保育園の同じクラスの子とばったり会った。
子どもたちはおいかけっこをはじめて、そのとき娘はぼくが見たこともないぐらい速く走っていた。
犬を飼ったことのある人は知っていると思うが、犬は散歩のときリードを持つ人の速さにあわせて歩く。老人と散歩するときはゆっくり歩くし、若くて元気な人が散歩をさせると犬は「この人のときは走ってもいい」と思って速く走る。
同い年の子どもと全速力で走って遊ぶ娘を見て、「ああ、4歳の娘もぼくと遊ぶときは、老人と散歩する犬のように遠慮していたのだな」と気づいた。ショックだった(犬から見た老人の扱いをされていたことも含めて)。

もっと同じ年代の子と遊ばせてあげたい。しかし近所にはパパ友がいない。
ちくしょう! 娘よすまない、ぼくが社交的でないばっかりに……!


忸怩たる 思いいを抱えていたぼくだが、少し前にこんなことを書いた。

娘の保育園に行ったときに他の子の父親から「休みの日ってどこに連れていってます?」と訊かれたので、これはチャンスと思い「こないだプール行ったんですけど子どもは喜んでましたよ。今度子ども連れて一緒に行きませんか?」と誘ってみた。

言われたお父さんは「あーいいですねえ」とニコニコしながら言って、あれ? この後どうしたらいいんだ? 具体的な日程を決めたらいいのか? それとも今日は連絡先の交換だけにしておいて後日LINEとかでやりとりしたほうがいいのか? いやでも「いいですねえ」と言っただけで「行きます」って言ったわけじゃないしこれは断りかたがわからなくて困ってるパターンか? とかいろいろ考えているうちになんとなく次の会話がなくなってしまって、うやむやになってしまった。

コミュニケーション能力が低いばかりに千載一遇のチャンスを棒に振ってしまったのだが、あきらめきれなかったぼくは「あのお父さん(Nちゃんのお父さんとする)とプールに行く」という目標を立てた。

そこで、まずは娘に
「Nちゃんとプール行こっか。Nちゃんに、一緒にプール行こうって言ってみたら?」
と吹きこんでみた。

娘とNちゃんの間で「プールに行こう」という約束ができる
 ↓
Nちゃんが家でお父さんに「〇〇ちゃんとプール行きたい!」と言う
 ↓
Nちゃんのお父さんが、今度会ったときにぼくに「娘が行きたがってるんでプール行きましょう」と言う

という展開を期待したものだ。
自分では声をかける勇気がないので子どもたちを経由して、しかも向こうから誘ってもらおうという巧妙かつ意気地なしの作戦だ。好きな女の子から告白されるのを待って自分からは何のアクションも起こさなかった学生時代からまったく成長していない。


その後も 何度かNちゃんのお父さんと会う機会があったのだが、いっこうにプールの話が出ない。
うちの娘のところで止まっているのか、それともNちゃんで止まっているのか。なにしろ4歳児なのであてにならない。大人でも報連相はむずかしい。
もしかしたらNちゃんのお父さんのところまで話は届いているのに「あいつと出かけるのイヤだな」と思われているのかもしれない……。

くよくよ考えていても結論は出ない。
ここは直接的に誘うにかぎる。

ある日、保育園に娘を送った後、少し前をNちゃんのお父さんが歩いているのを見つけた。
小走りでNパパに近づく。すっと横に並び、たまたま出くわしたかのように「あ、おはようございます」と声をかけた。

そして、前から準備していた台詞を、まるで今思いついたかのように言う。
「ああそういえばですね、こないだプールの話したじゃないですか。あれ以来、娘がNちゃんとプールに行きたいって毎日のように言ってるんですよ。どうでしょう、今週末にでも一緒に行きませんか?」
娘が毎日のようにプールに行きたいと言っている、というのはもちろん嘘だ。また娘を利用させてもらった。

で、
「いいですよ。行きましょう」
「じゃあLINE交換してもらっていいですか」
と、事前に脳内シミュレーションしていたやり取りを経て、見事一緒にプールに行く約束をとりつけることに成功した。


学生時代に 好きな女の子を誘ったときぐらい周到に準備したのが功を奏した。
休みの日は家族でゆっくりしたいのに誘ったら迷惑じゃないだろうかとか断られたらその後保育園で顔を合わせたときに気まずいなとか思い悩んでいたが、杞憂に終わった。
プールに行くときも「ダサいと思われたくないから新しい服を着ていこう」と前日から準備をして、何があるかわからないから一応銀行でお金おろし、気持ちは完全に初デート前日の高校生だった。


プールでは娘たちも楽しんでいたし、「また一緒に遊びに行きましょうね!」と言って別れたのだが、その日からまたべつの悩みが生まれた。

次はどう誘ったらいいのだろうか。

前回はこっちから誘ったから、次は向こうが誘ってくるのを待ったほうがいいのだろうか。
いやでも待つだけの姿勢では自然と疎遠になってしまうかもしれない。
かといってすぐにまた誘うのも「しつこい人だな」と思われるんじゃないだろうか。
どれぐらいの間隔を開けるのがベストなんだろう。1ヶ月ぐらいだろうか。
前回は「プール」という夏らしいイベントがあったけど、次は何を誘ったらいいのだろう。公園遊びとかは平凡すぎるだろうか。

パパ友をつくるってこんなにたいへんなプロジェクトだったのか。
そりゃなかなか作れんわ。