子育てをしていていちばんおもしろいのは、子どもの成長を見ることよりも親の気持ちを追体験できることだ。
たとえば真夜中に子どもが目を覚まして泣いている。
どうしたのと訊くと「こわいゆめをみた」と云う。
正直「知らんがな」とおもう。「きにすな。はよねえや」とおもう。だってこっちも夜中にたたき起こされて眠いからね。
でもそうは言わない。
なぜなら、ぼくも子どものころに同じようなことを経験し、そのときに母親が「そう、じゃあおかあさんのおふとんでいっしょにねよう。そしたらだいじょうぶだから」と優しく言ってくれたからだ。その言葉に幼い日のぼくは心から安心することができたからだ。
だからぼくもめんどくせえなあとおもいながらも「そっか、じゃあおとうちゃんと手をつないで寝よっか。こわいゆめをみないように念じながら手をにぎっといてあげる」と言って、いっしょに寝る。
そしておもう。「ああ、あのときおかあさんも心の中では『めんどくせえなあ。しょうもないことで起こすな』とおもいながらも優しい声で接してくれたんだなあ」とおもう。
母親というのは無条件で子どもに尽くすものだとおもっていた。子への奉仕こそが母の喜びなのだと。
でも自分が人の親になり、とんでもないまちがいだったことを思い知る。
めんどくさい、うっとうしい、憎い、生意気で腹が立つ、やかましい、つまんない、くだらない、かわいくない……。
子どもに対していろんな負の感情を抱く(もちろんポジティブな気持ちになることのほうが多いよ)。
自分の母や父も、同じように感じていたんだろうな。
本気で憎んだりしてたんだろうな。
あのとき厳しく叱ったのは愛しているからこそではなく、ただ単純に心の底からいらだってたからだったんだな。
我が子だからって全面的に愛していたわけではないんだな。ときには我が子だからこそ本気で嫌ったりしていたんだろうな。
それがわかったからといって両親に対してに失望したりしない。むしろ余計にすごいとおもう。余計に感謝する。
だって愛する者を育てるより憎らしい者を育てるほうがはるかにたいへんだもん。
ぼくが子育てをする動機は愛じゃない。そんな気楽なもんじゃない。
使命感というか本能というか、あるいはもっとシンプルな物理法則(慣性の法則)によるものか。
2020年4月27日月曜日
2020年4月24日金曜日
診断されたし
娘の同級生、Tくん(六歳)。
元気な男の子だ。元気すぎるぐらい。
じっとしていられない、人の話を聞かない、怒ると手が付けられなくなる。無鉄砲で損ばかりしている。
まるで子どもの頃のぼくを見ているようだ。ぼくもあんな子だった。教師や親の話なんかぜんぜん聞いてなかったし、しょっちゅう喧嘩してたし、いろんな子を叩いてたし、そのくせ攻撃されると弱くてよく泣いて暴れていた。
だからちょっと自分と重ね合わせてTくんをかわいがっていた。
Tくんはこちらから追いかけると逃げる。でも放っておくと近づいてくる。かまってほしそうにボールをぶつけてきたりする。
素直じゃないところがかわいい。うちの娘は「いっしょにあそぼう」「今はひとりで本を読みたいから」とはっきり口にするタイプなので、余計に。
そんなTくんのおかあさんと話していたら、
「こないだ病院で診てもらったら、Tは発達障害なんですって」
と云われた。
えっ、と驚いた。
「え? たしかにちょっと落ち着きないところはありますけど、でも男の子ってそんなもんじゃないですか。他の子も似たようなもんだとおもいますけど。ていうかぼくが子どものころもあんな感じでしたし」
「まあ外だとちょっとマシなんですけどね。でも家の中だとほんとに手が付けられないんですよ。気に入らないことがあったらぜったいに譲らないですし、何時間でも抗議しつづけますし、大暴れすることもありますし」
「そうなんですね……。保育園とか公園で見るかぎりではそこまででもないですけどね……」
「まあ保育園とか公園ならね。でも小学校でじっと座ってるのはむずかしいから、小学生になったらもっと他の子と差がつくだろうって言われました」
「そうですか……」
ぼくはそれ以上何も言わなかった。
ぼくは専門家ではないから。家の中でのTくんの様子を知らないから。
そしてなにより、Tくんのおかあさんが決して悲嘆にくれているわけではなくむしろ晴れ晴れとした顔をしているように見えたから。
ここからはぼくの想像でしかないんだけど、Tくんのおかあさんは息子が発達障害と診断されて、もちろんショックを受けただろうけどそれ以上に安堵したんじゃないだろうか。
昨年、ぼくは熱を出した。全身がぐったりとだるく、食欲もなくなった。
風邪にしちゃあ症状が重い。インフルエンザだろうか。咳も出るし肺炎とかになってたらどうしよう。それとももっとめずらしい病気だったりして。
あれこれ考えていたが、病院に行って「ウイルス性の胃腸炎ですね」と診断されて薬を出されたとたん、ふっと症状が軽くなった気がした。
病院に行くときはふらふらと這うようにしながら向かったのに、帰りは足取りも軽かった。
まだ薬を飲んだわけではない。病気の身体を引きずって病院まで歩いていっただけなので、本当なら具合が悪くなることはあっても良くなることはないはずだ。
でも、ぐっと楽になった。自分の不調に病名がついて対処法が示されただけで、まだ何も手を打っていないのに楽になった。
Tくんのおかあさんも同じ気持ちだったんじゃないだろうか。
どうもうちの子は落ち着きがなさすぎる。他の子はもっと落ち着いているように見える。話も聞いてくれない。
何が悪いのだろう。これまでの育て方に問題があったのか。自分の対応が悪いのか。他の親ならもっとうまく対応しているのだろうか。それともこの子に重大な疾患があるのだろうか。回復の見込みのないような病気だったらどうしよう……。
あれこれと結論のない思いをめぐらせていたんじゃないだろうか。
で、病院に行って発達障害と診断された。
何が変わったわけではないけれど、余計な不安はなくなった。
生まれついての脳の問題だ。育て方が悪かったわけではない。誰が悪いわけでもない。どんな親だって手を焼いていたはず。
発達障害はとりたててめずらしいものではない。同じ問題を抱える親も多いし、対処方法もある程度確立されている。薬物療法で一定程度は症状を抑えこむこともできる。
原因とやるべきことが明確になるだけで、事態がまったく動いていなくてもずっと楽になった!
……ってことがTくんのおかあさんに起こったんじゃないだろうか。勝手な憶測だけど。
わかんないって何よりもつらいもん。
ぼくらがちょっと体調が悪くて病院に行くのは、治してもらうためじゃない。診断されるためだ。
町医者の仕事の九割は「診断」にあるんじゃないかな。治療は一割で。
医者があれこれ検査した結果、病名不明だったとする。
それでも「あーこれはホゲホゲ病ですね。大丈夫ですよ、薬出しとくんで」と言ってプラシーボ(偽薬)を出しておけば、患者の病状が良くなるとおもう。
「いろいろ検査しましたが結局わかりませんでした」と正直に言うよりも(だからって嘘をついたほうがいいとは言わないが)。
もしかしたら「発達障害」自体が、そういうニーズに応えるためにつくられた言葉なのかも。
「発達障害と言ってもらうことで助かる」という親を安心させるためにつくられた言葉。
じっさい、多くの親が「発達障害」という診断に救われているはず(ぼくが子どものころにも「発達障害」があればきっとぼくの親もいくらか楽になっただろう)。
だからどんどん病名を増やしていったらいいとおもうんだよね。
「勤労障害」とか「難熟考症」とか「起床不適応症」とか。
救われる人はたくさんいるはず。
2020年4月22日水曜日
ツイートまとめ 2019年8月
道案内
おばちゃんから「〇〇ビルはどっち?」と訊かれたので、暑い中途中まで連れていって案内した。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 1, 2019
いいことをした、と満足していたのに別れ際におばちゃんが「〇〇ビルの宝くじ売り場がよく当たるって聞いたから買いに行くのよ」と言ったせいで人助けをしたという気持ちが消し飛んでしまった。
そんな話よく聞きますね。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 1, 2019
億万長者になりそこねた!
ギャンブル
社会福祉は充実させてほしいが増税はイヤなので、宝くじや公営ギャンブルをじゃんじゃんやってギャンブル好きからどんどん巻きあげてほしい。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 1, 2019
(なので公営カジノにも反対しない)
ポイントカード
高校球児の酷使問題は、学校や監督にとっては「その選手が卒業後にどうなったか」が評価の対象にならない以上、なくならない問題だとおもう。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 2, 2019
監督・学校にとって三年生部員は「もうすぐ有効期限の切れるポイントカード」だからね。そりゃ急いで全額使おうとするよ。
八割
人が「約八割の人が〇〇だと考えている」と言ったときは、じっさいは多くて五割だと考えてまちがいない。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 2, 2019
本屋大賞
ふつうの本屋大賞とちがってこっちは全部おもしろそう。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 2, 2019
というか本屋大賞はフィクションに限定してるわけでもないのになんで小説しかノミネートされないんだ?
ヤフー×本屋大賞「2019年ノンフィクション本大賞」、ノミネート作6作品が発表 https://t.co/jt7PZYJCEa @dot_asahi_pubから
空気
韓国をホワイトリスト除外したことに喝采してる人たちを見ていると、1933年に国際連盟から脱退したときの国内の空気もこんなんだったんだろうなーと想像してしまう。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 2, 2019
明らかに国益を損なう措置であっても、「日本が損しても韓国に一泡吹かせることができれば万々歳」という人たちにとっては大勝利なんだろう。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 2, 2019
合理的に振る舞うのって難しいね。人も国も。
だからこそ行動経済学なんて学問があるんだろうね。
「このボタンを押せば日本に一兆円入ります。同時に韓国には十兆円入ります」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 2, 2019
というボタンがあったとして、明らかに押すほうが合理的な選択なんだけど、押さないことを選ぶ人たちもけっこういるんだろうな。
今の日韓問題を語っている人を見ていると、損得ではなく二国間の「勝ち負け」で捉えている人が多いように思う。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 2, 2019
二国間の勝ち負けでいえば自分が1点失って相手が2点失えば「勝ち」なんだけど、全体で見たらそれって負けでしょ、と思うんだけどなー。
チコちゃん
「ねえねえ岡村。お金ってあるじゃない。お金。岡村はお金いっぱい持ってるでしょ。だから、わたしに分けてくれてもいいわけじゃない。でもくれないよね。……なんで?」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 2, 2019
~『チコちゃんにたかられる』~
ヘウレーカ
ヘウレーカ(古代ギリシャ語で「わかった」の意)— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 3, 2019
カクメーカ(革命家)
コウレーカ(高齢化)
ケッテーダ(決定打)
フーケーガ(風景画)
アオリーカ(アオリイカ)
一杯
すみません、水を一杯いただけないでしょうか……。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 3, 2019
できれば、キンキンに冷えたやつを……。冷えていれば水じゃなくてビールでもけっこうです……。贅沢言えた立場じゃないんで生じゃなくて瓶でいいです、瓶で……。いえ、ジョッキはいりません、瓶のままでいきますんで……。
次何食おう
チューブからの栄養摂取だけでことたりるようになり食事しなくて済む世の中になったら、自殺率が跳ね上がるような気がする。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 5, 2019
「次何食おう」の連続で命をつないでいる人、けっこういるんじゃないかな。
社長
「シャチョウサン」と言われて気を良くして高いお店に行ってしまうサラリーマンと同じ心理ですね。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 6, 2019
青春
ドラゴンボールでいちばん「青春」って感じで楽しそうなのはピラフ一味だな。 pic.twitter.com/kVtsCzDcf3— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 6, 2019
犬じゃない
子どもができてわかったけど、世の中には「子どもと話せない人」がけっこういるよね。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 7, 2019
六歳児連れてると「お子さんかわいいですねー」と親に言ってくる人とか。
犬じゃないんだから本人に言えよ、とおもう。でもその人にとっては犬と変わらんのだろうな。 https://t.co/VXUiIqHBzw
ヒッチハイク
梅田で「心斎橋」という紙を持ってヒッチハイクしてる人がいた。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 8, 2019
ヒッチハイク成功するまで待つより歩いたほうが早いんじゃない?(梅田から心斎橋は3kmちょっと)
NHKニュース
NHKニュースの最後にキャスターが頭下げなくていいから、バラエティとかドラマの最後に出演者全員で「みなさまの受信料でしょうもない番組作ってすみません」って頭下げろ。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 8, 2019
長寿
いまだに「○○は早死にの原因」「長寿の秘訣は✕✕」みたいな記事があるけど、いまや長寿はめでたいことではなく不幸の種だからな……。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 8, 2019
売人
「売人」って漢字には「売る人」という意味しかないのに、なんで違法なものを売るときにしか使わないんだろ。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 8, 2019
薬剤師を「ドラッグの売人」とか言ってもいいはずなのに。
ネット大喜利
自分も無職期間を支えてくれたのがネット大喜利でした(仕事してたら運営なんかできん)。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 8, 2019
開票されるまでは死ねん、の連続で生をつないでいたのかもしれません。
ナイススティック
〇歳児の手の届くところに置いてたぼくのナイススティックがバッドスティックに……! pic.twitter.com/fqqTlfNAiD— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 8, 2019
オーナー
ジャムおじさんと一緒に現場に行ったときのアンパンマン— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 8, 2019
「ぼくの……じゃなくて ぼくがつけさせていただいてる顔をお食べ」
毒島
毒島(ぶすじま)という苗字は「どくじま」と読んでも正しく「ぶすじま」と読んでもいい意味にならない。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 9, 2019
滋賀県守山市浮気町(ふけちょう)も、「うわき」でも「ふけ」でもいいイメージじゃない。
高温注意情報
「関西の高温注意情報:滋賀県 京都府 大阪府 奈良県 和歌山県 兵庫県」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 12, 2019
全部やん。
非効率だから、逆に高温じゃない地域を発表するようにしてほしい(そんなとこがあるんなら)。
白いカーペット
友人の新居におじゃましたんだけど、その家には5歳児と3歳児がいるのに食卓の下に毛足の長い真っ白なカーペットを敷いているのを見て— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 12, 2019
「暑さでどうかしちまったのか?」
と声に出してしまった。
神々
逆に「神々」は、一神教文化の言語に訳すのがむずかしそうですね。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 13, 2019
たいそうのおじさん
おかあさんといっしょ60周年スペシャルで3代前のたいそうのおにいさんが出てるけど、完全におじさんなので仲本工事の体操を見てるような気分になる。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 13, 2019
15巻
ドラえもん15巻を買ったけどすばらしいラインナップ。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 14, 2019
有名な「どくさいスイッチ」をはじめ、「不幸な手紙同好会」「人生やりなおし機」「階級ワッペン」「ポータブル国会」など、藤子・F・不二雄のシニカルな部分が存分に発揮されている。
ぼくがいちばん好きなのは「タイムマシンで犯人を」。 pic.twitter.com/yryGxeOzdj
自由研究
姪に「宿題の自由研究の書き方教えて」と頼まれたのでレポートの構成やら書き方やら教えてあげたんだけど、なかなかたいへんだった。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 16, 2019
これはあれだな、姪だからできたことだな。
他人だったら早々に見捨ててるし、我が子だったら喧嘩になってた。
韋駄天の韋
韋って字に似てる pic.twitter.com/C6ejQwEekF— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 18, 2019
天照
あまてらせ!大御神— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 23, 2019
根
「根はいい人」がありなら、— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 23, 2019
「根はかっこいい人」とか「根は頭がいい人」とか悪口言いたい放題だな。
トマソン
— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 25, 2019
シュール
ドラえもんの中でもトップクラスにシュールなコマ。 pic.twitter.com/yEhRaIvu5k— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 25, 2019
読書感想文
読書感想文ブログを書いていると、毎年八月になるとアクセスが増える。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 26, 2019
夏休みの宿題で感想文を書かなきゃいけない学生が検索してくるんだろう。
おもしろいことに七月は他の月とほとんど変わらない。
夏休みの後半になってあわててネットで検索する情景が目に浮かぶ。
偏食
「三大・嫌いな人のほうがむしろ堂々と嫌いであることを主張する食べ物」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 27, 2019
・パセリ
・パクチー
・酢豚のパイナップル
殺処分
え!?— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 28, 2019
大阪市って今は理由なく犬猫殺してんの!? pic.twitter.com/Ol6ZgFoLNb
ラッキーアイテム
山羊座のあなた!— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 28, 2019
今日のラッキーアイテムは万馬券と当たりくじです!
ノコノコ
ノコノコはカメでクッパはカメの王様だとおもってたけど、ノコノコはカメじゃないのかもな。あいつら甲羅から出てくるもんな。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) August 29, 2019
カメの身だけ食べて残った甲羅に棲みついてる生物なのかも。で、いずれはクッパの甲羅も狙ってるのかも。
2020年4月21日火曜日
【読書感想文】維新なんていらない / 中島 岳志 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』
100分 de 名著 オルテガ『大衆の反逆』
中島 岳志
先日読んだ中島岳志さんの『保守と立憲』にすごく共感できたので(感想はこちら)、その本の中でも挙げられていたオルテガ『大衆の反逆』を読んでみたくなった。
しかし原著はむずかしそうだなとおもっていたら、NHKの番組のテキストがあるではないか。しかも書いているのは中島岳志さん。これは読まねば!
オルテガとはスペインの思想家だ。あなたがたのような勉強不足の人間は知らないかもしれない。ぼくも先月まで知らなかった。
哲学者というとドイツやフランスが多いイメージで、スペインと哲学のイメージがどうもうまくむすびつかない。ラテン民族にも思索的な人がいるんだなあ(ひどい偏見)。
『大衆の反逆』が書かれたのは1929年。
タイトルから受ける印象は「さあ大衆よ立ち上がろうぜ! 貴族のやつらにひと泡吹かせてやろうぜ!」みたいな感じだけど、メッセージは真逆。
大衆でいてはいけないぜ、という内容だ。
オルテガのいう「大衆」とは生まれついての貴族に対するものではなく、「みんなと同じである」ことに喜びを見いだす人間のことだ。
大衆は多数派であることに満足し、己の正しさを疑わない。自らはいついかなるときも誤らない理性的な人間であると思いこんでいる人間こそが、オルテガの嫌悪した「大衆」だ。
『大衆の反逆』が世に出た1929年は世界恐慌が起こった年。
ムッソリーニがイタリアで独裁制を宣言したのが1924年、ナチスがドイツの第一党となったのが1933年なので、ちょうど社会が不安定になりファシズムが台頭した時期だ。
スペインでも1939年にフランコが総統になり独裁制を敷いている。世の中が「強い権力者」を求めていた。
ナチスやファシスト党は「個」による独裁と思われがちだが、実際は「大衆」の暴走だった。
彼らははじめ力ずくで権力を奪ったわけではない。市民から正当な選挙によって選ばれたのだ。
「ヒトラーという例外的に悪いやつがいた。自分には関係のない話」とおもったほうが楽だから、ついそう考えてしまう。
それ以上何も考えなくていいし反省もしなくていいしね。
だがヒトラーを生みだしたのは大衆で、大衆が大衆である以上は同じような独裁政権が誕生する危険性は常にある。
ほとんどの人は「自分はヒトラーのようにはならない」と自信を持って断言できるだろう。
だが「自分はヒトラーのような人物を選ばない。またはヒトラー予備軍のような人物が立候補したときに必ず選挙に行って対立候補に票を入れる」と断言できる人がどれだけいるだろうか?
たぶんほとんどの人は断言できないだろうし、断言できるとしたらそれこそ自分の理性を疑うことを知らない「大衆」だ。
オルテガは単なる思想家ではなく、自分の考えた道を実践しようとした行動の人でもあった。
中庸を行こうとすると両極から非難される。
いちばん多いのは中道のはずなのに、その道は険しい。
両極のどちらかに属して「アベはやめろ!」「安倍さんがんばれ!」と言っているほうがずっと楽だ。個別の政策や思想についてあれこれ考えなくて済むから。
かくして、極端な意見ばかりが幅を利かせて、穏健な思想を持っている人ほど政治的な発言を控えることになってしまう。
いちばん多いはずの声が拾われない。
ナチスを選んだドイツだって、ファシスト党を選んだイタリアだって、きっと大多数は中道に近い考えだったのだろう。しかし中道が声を上げなければ、一方の極の意見が通ってしまうことになる。
オルテガは、極端な意見に流される「大衆」にならないことが必要であり、そのためには「死者の声」に耳を傾けなければならないと考えた。
今生きている人間の理性を過信しているがゆえに、既存のシステムを破壊してもうまくいくと信じてしまう。
だが長く使われているシステムには、人間の理性が及びもしない叡智が潜んでいることがある。
今の日本はコロナウイルスのせいでいろんなシステムが破綻しそうになっている。
それを生んだ要因の一つは、革新の名にさまざまな「旧来のシステム」を破壊したことだ。
耳に聞こえのいい革新的なスローガンを掲げた政治家があれも無駄これも無駄と言ってインフラの余裕を減らし、公務員を削減した。大衆もまた彼らに喝采を送った。
そして百年に一度の大災害が起きて、余裕をなくしたところから亀裂が走っている。
オルテガは「システムを変えるな」と言っているのではない。
理性に限界がある以上、完璧なシステムなど存在しない。だから「絶えず漸進的な変革が必要だ」という立場をとる。
ぼくも同意見だ。
内田樹さんがよく書いているけど、教育、インフラ、医療、政治といった制度に大改革はふさわしくない。百年単位で成果を測らなければならないものは、なるべくそっとしておくのが望ましい。「昨年度これだけ予算が余ったからここは無駄だ。削ろう」という考え方では百年に一度の疫病の流行に対応できない(今の大阪府のように)。
オルテガは死者の声を聴くべきだと説いているけど、ぼくは「まだ生まれていない人」の声にも耳を傾けるべきだとおもう。
むしろそっちのほうが大事だと。
「まだ生まれていない人」を考えたら「若者から多くむしりとって今の老人は払った以上の分をもらえる制度(厚生年金制度のことね)」なんてやっちゃいかんとすぐわかる。
「廃棄物の処理方法も決まっていない危険な発電所を動かそう」も「返しきれないぐらいの赤字国債を毎年発行しよう」もやってはいけないことだとすぐわかる。
某政党の話ばっかりになるけど「公務員も民間の考え方を持て!」なんてのはまったくの論外だ。
毎年利益を出さなければならない民間企業、ダメだったらつぶして新しいものをつくればいい民間企業の考え方と、公務員の考え方はまったくべつであるべきだ。
今の日本で「保守」のイメージはすごく悪い。
やれ教育勅語だ、やれ夫婦は同姓であるべきだ、といった「歴史上のある一点(しかも実際に存在したかどうかも怪しい一点)」に回帰しようという一群が「保守」を名乗っている。
本来の保守とはそうではない。
旧来のシステムを守り、守るために漸進的な変革をし、己の理性を疑い、それでもよりよい制度を求めて死者も含めてさまざまな人の声を聴こうとする立場こそが本来の「保守」だ。
本来の「保守」政党が現れることを心から望む。
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2020年4月20日月曜日
【読書感想文】村上春樹は「はじめての文学」に向いてない / 『はじめての文学 村上春樹』
はじめての文学 村上春樹
村上春樹
はじめて文学に触れる青少年のために村上春樹自身が撰んだアンソロジー、だそうだ。
多くの漢字にルビがふってあるし、言い回しも子ども向けに書き直したりしているらしい。
ぼく自身にとってはもちろんはじめての文学でもはじめての村上春樹でもないのだが、小学生に戻ったような気持ちで読んだ。装丁が優しい感じがするんだよね。
で、「はじめて大人向けの文学作品を読んでみる小学生」の気持ちで読んでみておもったのは「村上春樹作品ははじめての文学に向いてねえなあ」ってこと。
翻訳調の気取った言い回しとか、現実と空想の境目がぼんやりしたエピソードとか、これといった結末のないストーリー展開とか、どう考えたって「はじめての文学」向きじゃない。
いくらルビをふって優しい装丁にしたって村上春樹は村上春樹。
村上春樹氏って誰もが認める当代を代表する有名作家ではあるけど、作風はかなり異端だからね。
はじめての文学が村上春樹って、はじめて音楽を聴く人にジャズを勧めるようなもんじゃない?
基本を知っているから、逸脱を楽しめるんだとおもうよ。
この本に収録されている作品でぼくがいちばん気にいったのは『踊る小人』。
「象をつくる工場」というシュールな舞台、なんともあやしい小人の存在、そして終盤の気持ち悪い展開に後味の悪いラスト。
うん、ぼく好みだ。
でも「はじめての文学」として誰にでもおすすめできるかというと……どうだろう。
ほんとに「はじめての文学」でこんなの読んだらトラウマになるかもしれない。
こういうのが好きな子どもはとっくに大人向けの本にふれているような気もするし。
若い日の経験を語る『沈黙』は、青春小説っぽいしわかりやすいので「はじめての文学」にふさわしいかもしれない。
現実的だしわかりやすい教訓も引きだしやすいし中学校の教科書に載っていてもおかしくないような話。
でもこれは村上春樹っぽくないんだよな……。
こういうのが読みたいなら村上春樹じゃなくていい。
改めておもう。村上春樹は「はじめての文学」に向いてない。
ぼく自身の「はじめての文学」はなんだろうと考えると、やっぱり星新一作品に尽きる。
文学と認めない人もいるかもしれないけど、ぼくにとってはまちがいなく読書の世界への入口だった。
『ズッコケ三人組』などの児童文学は好きだったが、大人向けの本は読むものじゃないとおもっていた。あるとき(小学三年生ぐらいだった)祖父の本棚にあった星新一『ちぐはぐな部品』を読んで、そのおもしろさに打たれた。
結末の意外性もさることながら、設定のスマートさにしびれた。
バーとかマッチとかの小道具が大人の世界って感じでかっこよかったんだよねえ。これみよがしでないのが余計に
また、やはり母の本棚にあったジェフリー・アーチャーの短篇集も夢中になって読んだ。
こちらは小学六年生ぐらいだっただろうか。
ちょっとエロい描写もあって(といっても女性が下着姿になる程度で今読むとぜんぜんなんだけど小学生には刺激が強かった)、いろんな意味でドキドキしながら読んだ。
子ども向けの文学というと、性や暴力の描写のない爽やかな青春小説みたいなのを考えてしまうけど、むしろ性描写や暴力描写はあったほうがいいんじゃないかと個人的にはおもう。
子どもは大人の世界に触れたいのだ。お金とかセックスとか犯罪とか。現実には触れられないからこそ余計に。
ということで、はじめての文学にふさわしいのは「はじめての文学」シリーズじゃないな。うん。
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