2020年3月26日木曜日

【読書感想文】語らないことで語る / ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』

本当の戦争の話をしよう

ティム・オブライエン (著)  村上 春樹 (訳)

内容(e-honより)
日ざかりの小道で呆然と、「私が殺した男」を見つめる兵士、木陰から一歩踏み出したとたん、まるでセメント袋のように倒れた兵士、祭の午後、故郷の町をあてどなく車を走らせる帰還兵…。ヴェトナムの・本当の・戦争の・話とは?O・ヘンリー賞を受賞した「ゴースト・ソルジャーズ」をはじめ、心を揺さぶる、衝撃の短編小説集。胸の内に「戦争」を抱えたすべての人におくる22の物語。

じっさいに兵士としてベトナム戦争に行き、仲間を失い、敵(と呼べるのかどうか)を殺した著者による戦争小説集。
小説、創作とは書いているが、大部分はほんとうにあったことなんじゃないかな。フィクションとノンフィクションの境界をわざとあいまいに書いているけど。

タイトルのとおり「本当の戦争の話」という感じがする。
ぼくは戦争を経験したことないけどさ。
でもわかるんだよ。作者は本当のことを書こうとしているということが。

何も断定しようとしない。教訓を引きだそうとしない。わかりやすい因果関係を探さない。責任の所在を見つけようとしない。すごく誠実な態度だ。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、正確な未来予測ができるのは以下のようなタイプなんだそうだ。
  • 自分はまちがっているのでは? という疑いを常に持つ
  • 自らの思想信条に重きを置かない
  • あいまいなものはあいまいなままにしておく
  • 頻繁に検証を重ね、自らのまちがいを認める
要するにほとんどの政治家やコメンテーターとは真逆のタイプ。
ティム・オブライエン氏は、予測力の高いタイプの人間なんだろうなとおもう。
わからないものはわからないものとして扱う。決めつけを避ける。シンプルな法則を見いだそうとしない。
戦争の得体の知れなさをそのまま読者に提示している。



『本当の戦争の話をしよう』を読むと、戦争を一言で語るなら「一言では語れない」なんだろうとおもう。パラドックス。

ぼくは学校で、戦争は単純なものだと教わってきた。
いわく「戦争は悲劇だ」「戦争は残酷だ」「戦争は悪だ」「戦争は二度としてはいけない」。
スローガンとしてはそれでいいのかもしれない。でもそれは本当の戦争の姿を伝えていない。

『水木しげるのラバウル戦記』には、南方に出兵した水木しげる氏が、アンパンを食べられなかったことを何度も悔やんでいたという記述があった。
これもまた戦争の姿だ。
『本当の戦争の話をしよう』には、ガールフレンドのストッキングを首にまきつけている兵士や、意味なく仔牛を殺す兵士や、下品な冗談を言いあう兵士の姿が描かれている。これもまた戦争の本当の姿だ。

「戦争は残酷だ」の一言からは、そういった人間の姿がこぼれ落ちてしまう。笑い、おびえ、踊り、妬み、恥じらい、あきらめ、歌い、ふざける兵士たちの姿が見えなくなってしまう。

本当の戦争は語りつくせない。だからティム・オブライエン氏は語る。とりとめもない話をくりかえすことで。



有史以来人間はさまざまな戦争をしてきたが、ベトナム戦争ほど兵士たちが戦う意味を見いだせなかった戦争はなかなかないだろう(米軍の兵士にとっての話ね)。
祖国や家族を守るためでもない。敵に恨みがあるわけでもない。そもそも敵かどうかもよくわからない。だけど戦わなくちゃいけない。戦っても自国民から感謝されない、それどころか非難を受ける。終わりが見えない。誰と戦っているのかもわからない。

帰還兵のPTSD発症率も高かったという。そりゃそうだろう。
命を削って敵と戦い、味方だとおもっていた人間からも石を投げられるんだもん。

ティム・オブライエン氏は発狂はしなかったかもしれないけど、深く傷を負ったことはまちがいない。
それは「死に直面したから」「仲間の死を目の当たりにしたから」「人を殺したから」なんて単純な理由によるものではない。そうやって語れるようなものではないからこそ、小説を書くことで語らずにはいられないのだろう。

『本当の戦争の話をしよう』は、戦争の悲惨さを伝えるために書かれたような本ではない。
作者自身の魂の救済のために書かれたものだ。



最後に。
これは名文だとおもった文章。
 ノーマン・バウカーとヘンリー・ドビンズが毎日日没の前にチェッカーをやっていたことを覚えている。それは二人にとっては儀式みたいなものだった。二人はたこつぼを掘って、チェリッカー盤を取り出し、ピンクから紫にと変化していく夕空の下で黙りこくったまま延々とゲームに耽った。我々は時折足をとめてゲームを見物した。そこにはなにかしら心の休まるものがあった。秩序正しく、そして見ているだけでほっとできる何かがあった。それは赤い駒と黒い駒の戦いだった。完璧な碁盤目がその戦場だった。そこにはトンネルもなければ、山もジャングルもなかった。自分がどこにいるか、はっきりとわかる。得点だって把握できる。駒は全部盤の上に載っているし、敵の姿だってちゃんと見える。作戦がより大きな戦略へと展開していく様をこの目で見ることもできる。そこには勝者がいて、敗者がいる。そこにはルールというものがある。
この文章、すごくない?
この文章はチェッカー(テーブルゲーム)について語っているだけ。戦争については何も書いていない。なのに「戦争とはどういうものか」がひしひしと伝わってくる。

書かないことで語る。すげえなあ。

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2020年3月25日水曜日

自動運転車の形状


いろんな会社が自動運転技術を搭載した自動車を開発しようとしている。
試運転の映像を目にすることがあるが、今の自動車と見た目はほぼいっしょだ。

ふとおもう。
自動運転車は、あの形じゃなくていいんじゃないだろうか?

今の自動車の形状はたぶんベストに近いとおもう。
いろんな人が長い間数々の試行錯誤をくりかえして、今の形にたどりついたのだろう。

だからといって、自動運転車が同じ形である必要はない。
むしろ別の形のほうがいいとおもう。

だってまず運転席がいらないわけでしょ。
まあ最初は「必要に応じて人間が運転する」みたいなやりかたをとらざるをえないだろうけど、完全に機械にまかせっきりになったら運転手はいらない。
ということは運転席もいらない。助手席もいらない。今だって助手席の乗員がほんとに助手として働いているのって教習車ぐらいだ。
もっといえばフロントガラスだっていらない。前が見えなくたってかまわない。電車に乗るのと同じ感覚なんだから。電車で前方を見てる乗客って鉄道ファンと子どもだけだもん。
もちろんバックミラーもいらないしウインカーもいらない。
ヘッドライトは……いるか。歩行者のために。

今の自動車は「運転しやすい」「事故に遭ったときに乗員を守る」といった点を重視して設計されているけど、運転が必要なくなり、事故に遭う可能性もほとんどなくなったらエネルギーコストと乗り心地だけ考えればいいことになる。

ほぼ半球形に落ち着くんじゃないだろうか。完全自動運転が実現した社会の自動車は。
空気抵抗も少ないし、ぶつかったときの衝撃も小さくなるし。
テントウムシみたいな形の自動車がいっぱい走ることになる。

半球の周辺部ににエンジン類を積みこむ。すると中はほぼ直方体の部屋になる。
これがいちばん快適に過ごせる。

リクライニング椅子を置き、前には机。
未来の自動車はあんまり揺れないから、車内でひまつぶしができるように机にはパソコン。脇にはひまつぶし用の漫画。

これはあれだ。
漫画喫茶だ。
未来の自動車は走る漫画喫茶だ!


2020年3月24日火曜日

文才がある


学生のとき、よく自作の文章を書いて友人たちに見せていた。
何人もの人から「おまえは文才があるな」と言われた。ぼくは真に受けて、そうか自分には文才があるのかと信じきっていた。

そこからいろいろあって、今では自分に非凡な文才などないことを知っている。
読み手の心を揺さぶる文章だとか、巧みな描写だとか、玄人が舌を巻く表現とか、そういったものはまるで書けない。
ビジネス文書を書くのは得意だが、それは文才と呼べるようなものではない。
ぼくの場合、「書くことがあまり苦にならない」であって「書くのがうまい」わけではないのだ。

そう。
最近になってようやくわかった。
世の中には、まとまった分量の文章を書くことすらできない人がたくさんいるのだ。うまいへた以前に、書けない人が。
Twitterが世に出たとき「ブログとかmixiとかFacebookでいいのに、なんで140字しか書けないものをみんなわざわざ使うんだろう」とふしぎだった。
今ならわかる。「140字を超える文章を書くのがすごく苦痛な人」は存外多いのだ。

そういう人にとっては、長い文章を破綻なく書けるというだけで「文才のある人」だ。


ぼくは、いってみれば「42.195kmを走りきれる人」だ。
これだけでも、マラソンをやっていない人からしたらすごいことだ。
でも42.195kmを走れることはトップ選手になるための必要条件であって、十分条件ではない。
「42.195kmを走りきれる人」と「一流マラソンランナー」には遠い隔たりがある。
同じように、「長い文章を難なく書ける人」と「文才のある人」はまったく違う。
そんなかんたんなことに、最近になってようやく気づいた。

ということで、文章を書けない人の「文才がある」を真に受けちゃだめだぜそこの若ぇの。

2020年3月23日月曜日

倍倍菌

中学校の数学の授業で「文字につく1は省略して表記する」と教わった。

「2x」とは書くが「1x」とは書かない、「x」と書けばそれは「1x」のことなのだ、と。

数式にかぎった話ではない。

「おれは億を稼ぐ」といえば1億円のこと。2億円ではない。
「箱」とか「ダース」とか「カートン」とかも、特に数字をつけない場合は「1箱」「1ダース」「1カートン」だ。

単位につく係数(3xの3の部分が"係数")が省略されている場合は、係数は1である。
どんな単位でも。


ところがひとつ例外がある。

「倍」だ。
ただ「倍」という場合、それは「2倍」のことだ。「1倍」ではない。

「1倍」の場合はわざわざ「等倍」なんて言葉を使う必要がある。

「倍」だけが1ではなく2を省略する。
ちょっと考えてみたけど、ほかにこんな言葉はおもいつかない。

「倍々ゲーム」といえば、それは[1 , 1 , 1 , 1 , 1 ,……]ではなく[1 , 2 , 4 , 8 , 16 ,……]のことだ。



ところでふとおもったのだが「倍々ゲーム」ってなんなんだ。
「ねずみ算式」とか「等比級数的に増加」ならわかる。
でも何かが倍倍ペースで増えてゆくゲームなんか見たことも聞いたこともないぞ。

ひとつおもいつくのは、むかし北杜夫氏が書いていた『ルーレット必勝法』だ。
カジノのルーレットで、赤に1ドルを賭ける。はずれたら今度は赤に2ドル賭ける。それでもはずれたら次は4ドル賭ける。次は8ドル、その次は16ドル……。
とやっていけば、いつかは当たる。そうするとこれまでの収支で1ドルだけプラスになる。
という理屈だ。

一見もっともらしいが、これは「資金が無尽蔵にある」ことが前提の話だ。
はじめは1ドル2ドルであっても、13回目の賭け金は1,000ドルを超え、15回目には10,000ドルを超え、18回目には100,000ドル、21回目には1,000,000ドルを超える。
20回もはずれつづけることはめったにないが(赤になるのが1/2の確率だとしても100万回に1回ぐらい。実際は赤でも黒でもないこともあるのでもっと多い)、長くやっていればいつかは訪れる。資金が尽きればそこでジ・エンド。
「必ず1ドル稼げる必勝法」は「途中で降りるに降りれず莫大な損失を生みだす賭け方」になる。
(北杜夫氏の名誉のために書いておくともちろん氏はこれが必勝法でないことはわかって書いている)

「倍々ゲーム」とはルーレットのことだろうか。
しかし倍々に賭けていくのは戦略のひとつであって、ほとんどの人は倍々ゲームをしない。

なんで「倍々ゲーム」なんだろう。「倍々方式」でいいんじゃないか。
ゲーム理論の「ゲーム」だろうか。
それにしても倍々になっていくゲーム理論なんて聞いたことないけどなあ。

2020年3月21日土曜日

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