2020年3月25日水曜日

自動運転車の形状


いろんな会社が自動運転技術を搭載した自動車を開発しようとしている。
試運転の映像を目にすることがあるが、今の自動車と見た目はほぼいっしょだ。

ふとおもう。
自動運転車は、あの形じゃなくていいんじゃないだろうか?

今の自動車の形状はたぶんベストに近いとおもう。
いろんな人が長い間数々の試行錯誤をくりかえして、今の形にたどりついたのだろう。

だからといって、自動運転車が同じ形である必要はない。
むしろ別の形のほうがいいとおもう。

だってまず運転席がいらないわけでしょ。
まあ最初は「必要に応じて人間が運転する」みたいなやりかたをとらざるをえないだろうけど、完全に機械にまかせっきりになったら運転手はいらない。
ということは運転席もいらない。助手席もいらない。今だって助手席の乗員がほんとに助手として働いているのって教習車ぐらいだ。
もっといえばフロントガラスだっていらない。前が見えなくたってかまわない。電車に乗るのと同じ感覚なんだから。電車で前方を見てる乗客って鉄道ファンと子どもだけだもん。
もちろんバックミラーもいらないしウインカーもいらない。
ヘッドライトは……いるか。歩行者のために。

今の自動車は「運転しやすい」「事故に遭ったときに乗員を守る」といった点を重視して設計されているけど、運転が必要なくなり、事故に遭う可能性もほとんどなくなったらエネルギーコストと乗り心地だけ考えればいいことになる。

ほぼ半球形に落ち着くんじゃないだろうか。完全自動運転が実現した社会の自動車は。
空気抵抗も少ないし、ぶつかったときの衝撃も小さくなるし。
テントウムシみたいな形の自動車がいっぱい走ることになる。

半球の周辺部ににエンジン類を積みこむ。すると中はほぼ直方体の部屋になる。
これがいちばん快適に過ごせる。

リクライニング椅子を置き、前には机。
未来の自動車はあんまり揺れないから、車内でひまつぶしができるように机にはパソコン。脇にはひまつぶし用の漫画。

これはあれだ。
漫画喫茶だ。
未来の自動車は走る漫画喫茶だ!


2020年3月24日火曜日

文才がある


学生のとき、よく自作の文章を書いて友人たちに見せていた。
何人もの人から「おまえは文才があるな」と言われた。ぼくは真に受けて、そうか自分には文才があるのかと信じきっていた。

そこからいろいろあって、今では自分に非凡な文才などないことを知っている。
読み手の心を揺さぶる文章だとか、巧みな描写だとか、玄人が舌を巻く表現とか、そういったものはまるで書けない。
ビジネス文書を書くのは得意だが、それは文才と呼べるようなものではない。
ぼくの場合、「書くことがあまり苦にならない」であって「書くのがうまい」わけではないのだ。

そう。
最近になってようやくわかった。
世の中には、まとまった分量の文章を書くことすらできない人がたくさんいるのだ。うまいへた以前に、書けない人が。
Twitterが世に出たとき「ブログとかmixiとかFacebookでいいのに、なんで140字しか書けないものをみんなわざわざ使うんだろう」とふしぎだった。
今ならわかる。「140字を超える文章を書くのがすごく苦痛な人」は存外多いのだ。

そういう人にとっては、長い文章を破綻なく書けるというだけで「文才のある人」だ。


ぼくは、いってみれば「42.195kmを走りきれる人」だ。
これだけでも、マラソンをやっていない人からしたらすごいことだ。
でも42.195kmを走れることはトップ選手になるための必要条件であって、十分条件ではない。
「42.195kmを走りきれる人」と「一流マラソンランナー」には遠い隔たりがある。
同じように、「長い文章を難なく書ける人」と「文才のある人」はまったく違う。
そんなかんたんなことに、最近になってようやく気づいた。

ということで、文章を書けない人の「文才がある」を真に受けちゃだめだぜそこの若ぇの。

2020年3月23日月曜日

倍倍菌

中学校の数学の授業で「文字につく1は省略して表記する」と教わった。

「2x」とは書くが「1x」とは書かない、「x」と書けばそれは「1x」のことなのだ、と。

数式にかぎった話ではない。

「おれは億を稼ぐ」といえば1億円のこと。2億円ではない。
「箱」とか「ダース」とか「カートン」とかも、特に数字をつけない場合は「1箱」「1ダース」「1カートン」だ。

単位につく係数(3xの3の部分が"係数")が省略されている場合は、係数は1である。
どんな単位でも。


ところがひとつ例外がある。

「倍」だ。
ただ「倍」という場合、それは「2倍」のことだ。「1倍」ではない。

「1倍」の場合はわざわざ「等倍」なんて言葉を使う必要がある。

「倍」だけが1ではなく2を省略する。
ちょっと考えてみたけど、ほかにこんな言葉はおもいつかない。

「倍々ゲーム」といえば、それは[1 , 1 , 1 , 1 , 1 ,……]ではなく[1 , 2 , 4 , 8 , 16 ,……]のことだ。



ところでふとおもったのだが「倍々ゲーム」ってなんなんだ。
「ねずみ算式」とか「等比級数的に増加」ならわかる。
でも何かが倍倍ペースで増えてゆくゲームなんか見たことも聞いたこともないぞ。

ひとつおもいつくのは、むかし北杜夫氏が書いていた『ルーレット必勝法』だ。
カジノのルーレットで、赤に1ドルを賭ける。はずれたら今度は赤に2ドル賭ける。それでもはずれたら次は4ドル賭ける。次は8ドル、その次は16ドル……。
とやっていけば、いつかは当たる。そうするとこれまでの収支で1ドルだけプラスになる。
という理屈だ。

一見もっともらしいが、これは「資金が無尽蔵にある」ことが前提の話だ。
はじめは1ドル2ドルであっても、13回目の賭け金は1,000ドルを超え、15回目には10,000ドルを超え、18回目には100,000ドル、21回目には1,000,000ドルを超える。
20回もはずれつづけることはめったにないが(赤になるのが1/2の確率だとしても100万回に1回ぐらい。実際は赤でも黒でもないこともあるのでもっと多い)、長くやっていればいつかは訪れる。資金が尽きればそこでジ・エンド。
「必ず1ドル稼げる必勝法」は「途中で降りるに降りれず莫大な損失を生みだす賭け方」になる。
(北杜夫氏の名誉のために書いておくともちろん氏はこれが必勝法でないことはわかって書いている)

「倍々ゲーム」とはルーレットのことだろうか。
しかし倍々に賭けていくのは戦略のひとつであって、ほとんどの人は倍々ゲームをしない。

なんで「倍々ゲーム」なんだろう。「倍々方式」でいいんじゃないか。
ゲーム理論の「ゲーム」だろうか。
それにしても倍々になっていくゲーム理論なんて聞いたことないけどなあ。

2020年3月21日土曜日

ツイートまとめ 2019年5月


懐中電灯

痴漢

コロンブス

地平線

古本市

怨念

負けっぷり

連休明け

象徴

育児

コンテンツ

タワーマンション

うそみたいなほんとの話

うそだとおもうなら

下着

京都

ダービー

見た目

なんもしてないのに

2020年3月19日木曜日

【読書感想文】「没落」の一言 / 吉野 太喜『平成の通信簿』

平成の通信簿

106のデータでみる30年

吉野 太喜

内容(e-honより)
平成元年。消費税が施行され、衛星放送が始まり、日経平均株価は史上最高値をつけた。それから三十年、日本はどれくらい変わったのか?家計、医療費、海外旅行、体格、様々なアングルからこの三十年間の推移を調査。平成日本のありのままを浮き彫りにする。

昨年、『FACTFULLNESS』という本を読んだ。
さまざまなデータを示して、「みんな悲観するけどほらじっさいは世界はこんなに良くなってるんだよ~」と紹介する本だ。
病気で死ぬ人は減った、戦争も減った、子どもは教育を受けられるようになった、豊かな暮らしができるようになった、と。

その本に載っているデータはもちろん本当で、世界が多くの人にとって生きやすい世の中になっていっているのはまちがいない。
でもその一方でぼくは「いや世界は良くなってるんだろうけど、でもぼくらが生きる日本についてはどうなのさ」ともおもった。

たとえば1989年(平成元年)の若者と2019年(令和元年)の若者、どっちが生きやすいんだろう?
もちろん物質的には2020年のほうが豊かだろう。スマホあるし。それだけで圧勝。写ルンですでは勝負にならない。
でも「将来に希望を持てるか」とか「周りと比べて自分は恵まれない境遇にあるとおもう人はどっちが多いか」とか「今の社会は自分にとっていい社会か」とか尋ねたときに、令和元年の若者からより前向きな答えを引きだせるだろうか。

世界は全体的によくなっている。それはまちがいない。
でも人が幸福を感じるのは絶対的な尺度よりもむしろ相対的な優位性による面が大きい。
日本人は、三十年前と比べて幸福になったのだろうか?



ということで『平成の通信簿』。
平成のはじまりと終わりで比べて、日本をとりまく状況がどう変わったのかをデータで示す。
「日本版・FACTFULLNESS」といった内容だ。

で、ぼくがもともと悲観的な見方をしていたからかもしれないけど、やっぱり残念なデータが目立つ。
 1989(平成元)年の日本の一人あたりGDP(名目)は、世界第4位であった。1988年の第2位からは少し下がったものの、米国やイギリス・フランス・ドイツを上回り、スイスや北欧諸国など、欧州のトップグループと同じ層にあった。
 では現在は、どうなっただろうか。一人あたりGDPの順位は、2000年の第2位をピークに低下をつづけ、2017年のランキングでは日本は25位となった。このランキングには、マカオ、アルバなど、国家ではない地域も含まれているので、これらの扱いによって順位の数字は微妙に異なりうるが、傾向は変わらない。現在の日本は、かつて首位を争った欧州のトップグループからは引き離され、イギリス・フランス・ドイツなど欧州の一軍グループからやや後れをとりつつある。そして、イタリア・スペインなど欧州の二軍グループや、韓国・台湾が後ろに迫っている。
 1989(平成元)年当時、日本のGDPは米国に次ぐ世界第2位であった。世界経済全体に占める日本のシェアは15.3%で、3位から5位のドイツ・フランス・イギリスを合わせたのと同じくらいあった。ニューヨーク・ロンドン・東京が世界の三大証券市場であり、米国・欧州・日本が世界経済を考えるうえでの三本柱であった。
 最新のランキングはどうなったか。2017年の日本のGDPは、米国、中国に次ぐ世界第3位となり、世界経済におけるシェアは6.5%にまで低下した。
 日本のGDPは、1989年から2017年の間に1.6倍に増えている。これだけを見ると、「失われた20年」とはいえ、なかなか増えているものだと思われるかもしれない。しかし世界の中でみると、日本はこの3年間でもっとも成長しなかった国のひとつである。
 世界全体のGDPは、この間に4.0倍になった。中国は26.1倍、インドは8.7倍、韓国は6.3倍、米国は3.5倍。ヨーロッパの国々は世界平均よりも低いが、それでもドイツ3.0倍、フランス2・5倍、イタリア2.1倍となっている。日本のGDPの伸び率は、データの存在する139カ国中134位、下から数えて6番目である。ちなみに、日本よりも下位は、中央アフリカ(1.4倍)、ブルガリア(1.3倍)、リビア(1.1倍)、イラン(1.1倍)、コンゴ民主共和国(1.0倍)となっている。なお戦争のあったシリアやイラク、アフガニスタン、あるいは北朝鮮など、このデータには含まれていない国もある(3-2)。
経済力だけでいえば「没落」の一言に尽きる。「凋落」でも「零落」でもいい。
もちろん他国が伸びたから、というのもある。日本は早い段階で成長しきっていたからのびしろが少ないのもある。
とはいえ。とはいえ。
「日本のGDPの伸び率は、データの存在する139カ国中134位、下から数えて6番目」ってのはあまりに衝撃的なデータだ。
日本より下位の中央アフリカとかリビアとかコンゴ民主共和国って、クーデターや内戦があった国だからね。それらの国よりちょっとマシってのが日本の30年。
大きな自然災害があったとはいえ、戦争もないのにこの数字ってのは相当なもんですよ。
ちなみに高齢者人口が増えてるのは日本だけじゃないからね。同じくらい高齢化が進んでても経済成長してる国もあるからね。高齢化だけのせいにしちゃだめよ。

国の経済が伸びていないのだから、もちろん国民の暮らしは悪くなっている。
支出の内訳でいうと、家賃、インフラ代、家賃、交通費、医療費などの「生きていくために必要なお金」の額が増え、被服費、教育費、娯楽費、交際費などの「余裕のある暮らしをするためのお金」が減っているそうだ。
うーん、せちがらい。ほんとに貧しい国になってるんだなあ。

これを「失政」と呼ばずして何を失政と呼ぶって感じだけど、為政者が責任をとるどころか総括すらしないわけだから、日本の凋落は令和の世になっても止まらないだろうな。

せめて認識だけでも改めないとね。先進国という意識は捨てないと。
モンゴルとかポルトガルといっしょですよ、日本は。
はるか昔に世界の覇権を手に入れそうになった国。それだけ。今は見るかげもない小国のひとつ。

もっとも、個人的にはそれでいいとおもうんだけどね。
没落した中小国家のひとつとしてやっていくならそれなりに幸せにやっていける道はある。小国には小国の幸せがある。
そこでオリンピックだ万博だと身の丈にあわないことを言いださなきゃ、ね。
そういうのは先進国さんや成長中の国家さんに任せましょうよ。ねえ。



国債について知らなかったこと。
 国債には、建設国債と赤字国債(特例国債)がある。公共事業など後世に残る資産を作るために一時的に資金を借りるのが前者、単なる借金が後者である。ただし建設国債で作ったものが本当に資産になるかはわからないので、この区分はかなり恣意的なものである。とはいえ、昭和の日本には、後世のために何かを作る建設国債ならともかく、後世の負担にしかならない赤字国債を発行してはいけないという矜持が一応はあった。
 高度成長期はおおむね均衡財政を維持してきたが、70年代から低成長期に入ると悪化、1975(昭和62)年度、ついに赤字国債を発行するに至った。財政規律はいったん緩むと歯止めがかからない。国債残高はたちまち増加、当時OECDで最悪の水準にあったイタリアと肩を並べるに至った。これに危機感を持った当時の政府は、国鉄や電電公社の民営化など財政再建に取り組んだ。バブル景気の税収増加にも助けられ、1991(平成3)年度の赤字国債の発行額はゼロとなった。
ぼくなんか物心ついたときから日本が借金まみれだから、借金があるのがあたりまえだとおもっていた。国の財政ってそういうものなんだと。
でもそうじゃないんだね。
1975年までは赤字国債を発行していなかったし、1991年も赤字国債はゼロだった。
借金がないのが健全なのだ。そんなあたりまえのことを忘れていた。たぶんみんな忘れている。財務省の人間なんかもう完全に麻痺しちゃってるんだろう。
「借金があっても大丈夫ですよ」と主張するための言い訳は必死で探すけど、借金を返す方法なんて考えようともしていない。



いちばん悲しくなるのがこれ。
 数の少なくなった貴重な人材を、今の日本はどう育てているだろう。教育費の公費負担額の対GDP比をみると、日本はOECD加盟国でデータの存在する34カ国中最下位、未加盟国を含む40カ国では39位である。トップの中米のコスタリカは、建国当初から教育熱心な国として知られ、教育費にGDPの6%を使うことを憲法に明記している。
 教育費を公私どちらが負担するかは、国によって異なる。欧州の大陸系の国は公費負担の比率が高く、英米系の国は公費負担の比率が低い。そして総額は、英米系のほうが多い。日本は公私の比率では英米系に属するが、私費負担はとくに高等教育で英米ほど多くなく、結果として総額が少なくなっている。私費負担を含む教育費の総額でみても、日本はGDP比で4.1%と、OECDの34カ国の平均5.0%を下回っている。
はああ。
教育費の公費負担分は、コスタリカはGDPの6.6%、アメリカと韓国は4.1%(先進国はだいたいその前後)、そして日本の公費負担分は2.9%……。

情けなくなってくるね。
貧しいのはしかたないにしても、未来に投資しなくなったらもう終わりじゃない。小泉純一郎が総理時代に「米百俵」とか言ってたけど、その話はどうなったの?

子どもに投資するどころか、老人が子どもから借金してる(そして返す気はない)のが日本の状況だからね。
つくづく憂鬱になる。


ほんとに平成ってまるまる日本没落の時代だったんだな。
何がつらいって、その没落が止まる傾向がまったくないことなんだよな。

他人事みたいに言ってるけど、責任の一端はぼくにもあるんだけどね。はぁ。選挙行ってるんだけどなあ。変わんねえなあ。

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