2019年8月16日金曜日

【読書感想文】ブスでなければアンじゃない / L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』

赤毛のアン

L.M. モンゴメリ (著)
村岡 花子 (訳)

内容(e-honより)
りんごの白い花が満開の美しいプリンスエドワード島にやってきた、赤毛の孤児の女の子。夢見がちで、おしゃべり、愛情たっぷりのアンが、大まじめで巻きおこすおかしな騒動でだれもが幸せに―。アン生誕100周年をむかえ、おばあちゃんも、お母さんも読んだ、村岡花子の名訳がよみがえりました。世界一愛された女の子、アンとあなたも「腹心の友」になって!

ご存じ、赤毛のアン。子どもの頃に読んだはずだけど「赤毛を黒く染めようとして髪が緑になった」というエピソードしか記憶にない。子ども心に「変な染料を使っても緑にはならんやろ」とおもったのをおぼえている。
で、三十代のおっさんになってから再読。
例の「赤毛が緑に」はかなりどうでもいいエピソードだった。



アンがいちご水とまちがえてぶどう酒をダイアナに飲ませてしまう、というエピソードがある。
これを読んでおもいだした。

まったく同じことをぼくもやった!

小学生のとき。
母が青梅に氷砂糖を入れ、そこに水を入れて「梅ジュースやで」とぼくに飲ませてくれた。おいしかった。

翌日、友人のKくんが遊びにきた。
台所に行ったぼくは、昨日の「梅ジュース」が瓶に入って置いてあることに気づいた。
ぼくは「梅ジュース」をKくんにふるまった。あの後母がホワイトリカーを注いで梅酒にしていたとも知らずに

Kくんは一気に飲み、顔をしかめた。「なんか変な味がする」
「え? そんなことないやろ」ぼくも少しだけ口をつけた。昨日とちがう味がする。おいしくなくなってる。
「あれ。なんでやろ。昨日はおいしかってんけどなあ」

しばらくして、Kくんは気分が悪いといって家に帰った。
後からKくんのおかあさんに聞いた話だが、Kくんは自宅に帰ったあとに大声でなにかをわめきちらし、まだ夕方だというのにグーグー寝てしまったそうだ(Kくん自身も記憶がなかったそうだ)。
赤毛のアンのエピソードそのままである。
おもわぬところで昔の記憶がよみがえった。まさかぼくと赤毛のアンにこんな共通点があったなんて。


ちなみに、『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子の生涯を描いた朝の連続テレビ小説『花子とアン』にも友人にお酒を飲まされて酔っぱらうエピソードが描かれていたそうだ。



ところで、最近の『赤毛のアン』について言いたいことがある。
『赤毛のアン』は今でも人気コンテンツらしく、各出版社からいろんな版が出ている。
中にはイラストを現代風にしたものも。

講談社青い鳥文庫(新装版)
集英社みらい文庫(新訳)
学研プラス 10歳までに読みたい世界名作

まったくわかってない。
アンをかわいく描いちゃだめでしょ

現代的なイラストをつけることに文句はない。古くさい絵だとそれだけで子どもが手に取ってくれなくなるからね。
だから、こんなふうに『オズのまほうつかい』のドロシーを現代的なかわいい女の子に描くことは大賛成だ。


でもアンはだめだ。

「やせっぽちで赤毛でそばかすだらけの見た目のよくない少女が、持ち前の明るさと豊かな想像力で周囲の人間を惹きつける」
これがアンの魅力だ。

アンを美少女に描いてしまったら設定そのものが崩れてしまう。
「アンは生まれついての美少女だったのでみんなに愛されました」だったなら、ここまで世界中の子どもたちから愛されなかったにちがいない。
 まもなくアンが、うれしそうにかけこんできましたが、思いがけず、見知らない人がいましたので、はずかしそうにへやの入り口のところに立ちどまりました。
 そのすがたは、とてもきみょうに見えました。
 孤児院から着てきた、つんつるてんのまぜ織りの服の下から、細い足がにょきっと長くでていますし、そばかすはいつもより、いっそうめだっていました。
 かみは風にふきみだされて、赤いこと、赤いこと、このときはど赤く見えたことはありませんでした。
「なるほど、きりょうでひろわれたんでないことはたしかだね。」
と、レイチェル夫人は力をこめていいました。
 夫人はいつでも、思ったことをえんりょえしゃくもなしに、ずけずけいうのをじまんにしている、愛すべき、しょうじき者の一人だったのです。
「この子はおそろしくやせっぽちで、きりょうが悪いね。さあ、ここにきて、わたしによく顔を見せておくれ。まあまあ、こんなそばかすって、あるだろうか。おまけにかみの赤いこと、まるでにんじんだ。さあさあ、ここへくるんですよ。」
 すると、アンは一とびに、レイチェル夫人のまえにとんでいって、顔をいかりでまっかにもやし、くちびるをふるわせて、細いからだを頭からつまさきまでふるわせながら、つっ立ちました。そして、ゆかをふみならして、
「あんたなんか大ききらい──大きらい──大きらいよ。」
と、声をつまらせてさけび、ますますはげしくゆかをふみならしました。

この描写からもわかるように、アンは初対面のおばさん(しかも“しょうじき者”)から「きりょうが悪い」と言われるぐらいのブスで、そのことを自覚してコンプレックスに感じている少女だ。
だからアンの挿絵は美少女であってはいけない。『美女と野獣』の野獣がグロテスクなビジュアルでなければ話が成立しないように。

赤毛のアンの魅力をきちんと理解している本もある。

ブティック社 よい子とママのアニメ絵本

徳間アニメ絵本

ここに描かれているアンは、美少女キャラのダイアナにくらべて明らかに見劣りしている。アンを、がんばってブスに描いている

身も蓋もない言い方をすれば、赤毛のアンは「ブスが美人より輝く物語」だ。

『白雪姫』や『シンデレラ』のような生まれながらの美女がいい目を見る物語が素直に受け入れられるのはせいぜい幼児まで。成長するにつれ、自分が「お妃さまに嫉妬されるようなこの世でいちばん美しい存在」でないことがわかってくる。
だからこそ、自分の見た目に悩みを抱える十一歳のアンの物語が世界中で読まれてきたのだ。

他の作品はどうでもいいけど『赤毛のアン』だけはちゃんとブスっ子にしてくれよな!


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2019年8月14日水曜日

ツイートまとめ 2018年12月


対案


生後二か月の遊び

パパイヤ

ドイツ


なぞなぞ


謎謎


育児


値引き


ケーキ


理想の死


ブラ


だべさ


地獄


ポータブル


サンタクロース


パチンコ


明石焼き


一網打尽


ちんどん屋


2019年8月13日火曜日

ツイートまとめ 2018年11月


アレクサ


ビートルズ

居残り


ホラー

バス


調査


五十音順



裁ちばさみ


定型詩

なぞなぞ




千と千尋


溜飲


値下げ


爪痕


恐竜時代


ポイントカード


一片の悔いなし


プリキュア

2019年8月9日金曜日

【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

世にも奇妙な人体実験の歴史 

トレヴァー・ノートン (著)  赤根洋子 (訳)

内容(e-honより)
性病、毒ガス、寄生虫。麻酔薬、ペスト、放射線…。人類への脅威を解明するため、偉大な科学者たちは己の肉体を犠牲に果敢すぎる人体実験に挑んでいた!梅毒患者の膿を「自分」に塗布、コレラ菌入りの水を飲み干す、カテーテルを自らの心臓に通す―。マッド・サイエンティストの奇想天外、抱腹絶倒の物語。

いやあ、おもしろかった。これは名著。
科学読み物が好きな人には全力でおすすめしたい。

世の中にはおかしな人がずいぶんいるものだ。

ぼくにとっていちばん大事なものは「自分の命」だ。あたりまえだよね……とおもっていた。

でも子どもが生まれたことでちょっと揺らいできた。
自分の命を投げ出さなければ我が子の生命が危ないという状況に陥ったら……。
ううむ、どうするだろう。
そのときになってみないとわからないけど、身を投げだせるかもしれない。少なくとも「そりゃとうぜんかわいいのは我が身でしょ!」とスタコラサッサと逃げだすことはない……と信じたい。

そんな心境の変化を経験したおかげで、大切なものランキング一位がで「自分の命」じゃない人はけっこういるんじゃないかと最近おもうようになった。
「子どもの命」や「他者」や「信仰」や「誇り」を自分の命よりも上位に置いている人は意外とめずらしくないのかも。




『世にも奇妙な人体実験の歴史』は、そんな人たちの逸話を集めた本だ。

この本に出てくる人たちにとって、大事なのは「真実の解明」だ。
彼らは真実を明らかにするために自らの健康や、ときには命をも賭ける。

毒物を口にしたり、病原菌を体内に入れたり、爆破実験に参加したり、食べ物を持たずに漂流したり、安全性がまったく保障されないまま深海に潜ったり気球で空を飛んだり……。
クレイジーの一言に尽きる。
 この問題に決着をつけるためには実験が必要だった。ハンターのアイディアは、誰かを淋病に感染させ、その人に梅毒の兆候が現れるかどうかを待つ、というものだった。兆候が現れれば仮説が正しかったことになるし、現れなければ仮説が間違っていたことが明らかになる。淋病にも梅毒にも感染していないことが確実に分かっていて、しかも性器を気軽に毎日診察できる実験台と言えば、間違いなくハンター自身しかいなかった。
 ハンターは自分のペニスに傷をつけ、ボズウェルが「忌まわしきもの」と呼んだ淋病患者の膿をそこに注意深く塗りつけた。数週間後、彼のペニスには硬性下疳と呼ばれる梅毒特有のしこり(これはのちに、「ハンターの下疳」と呼ばれるようになった)が現れた。そのとき彼が覚えた満足感を想像してみてほしい。
 ハンターが考慮に入れていなかったことが一つあった。それは、膿を提供した患者が「淋病と梅毒の両方」に罹患しているかもしれないということだった。彼はうかつにも、自らの手で自分を梅毒に感染させてしまったのである。早期に進行を食い止めなければやがて鼻の脱落、失明、麻痺、狂気、そして死へと至る恐ろしい病、梅毒に。理性的な人間もときにはまったく道理に合わないことをするものである。
こんなエピソードのオンパレード。

世の中にはイカれた科学者がたくさんいるんだなあ。

それでもこの本に載っているのは「クレイジーな人体実験をしてなんらかの成果を上げた科学者たち」だけなので、「危険な実験をして成果を上げる前に死んでしまった科学者たち」はこの何十倍もいたんだろうな。

 彼の最初の成功は、アヘンの有効成分を発見し、これを(ギリシャ神話の眠りと夢の神モルフェウスに因んで)モルヒネと名づけたことだった。彼はまず、純粋なモルヒネを餌に混ぜてハツカネズミと野犬に食べさせ、その効果をテストした。彼らは永遠の眠りについた。これに怯むことなく、彼は仲間とともにモルヒネを服用し、その安全量を見極めようとした。彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した。すぐに全員が熱っぽくなり、吐き気を催し、激しい胃けいれんを起こした。中毒を起こしたことは明らかだった。ことによると、命に関わるかもしれない。嘔吐を促すために酢を生で飲んだあと、彼らは意識を失って倒れた。酢を飲んだおかげで死は免れたが、苦痛は数日間続いた。
 ゼルトゥルナーはモルヒネの実験を続け、アヘンで和らげられないほどの歯痛にもモルヒネなら少量で効くことを発見した。彼は、「アヘンは最も有効な薬の一つだ。だから、医師たちはすぐにこのモルヒネに関心を持つようになるだろう」と期待を抱いた。
「彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した」って……。
いやいや。
ふつうならまずネズミと犬が死んだところでやめる。犬が死んだのを見た後に、自分で飲んでみようとおもわない。
仮に飲むとしても、「安全だと現在考えられている量」から服用する(それでもこわいけど)。なんでいきなり十倍なんだよ。ばかなの?

しかしこの無謀すぎる実験のおかげで適量のモルヒネが苦痛を和らげることが明らかになり、モルヒネは今でも医療用麻薬として使われている。

こういうクレイジーな人たちがいたからこそ科学は進歩したのだ。偉大なるバカに感謝しなければならない。




今、うちには生後九か月の赤ちゃんがいる。
こいつはなんでも触る。なんでもなめる。口に入る大きさならなんでも口に入れようとする(止めるけど)。
「触ったら熱いかも」「なめたら身体に悪いかも」「ビー玉飲んだらのどに詰まって死ぬかも」とか一切考えていない。当然だ、赤ちゃんなのだから。

それで痛い目に遭いながら赤ちゃんは成長する(もしくはケガをしたり死んだりする)のだけど、この本に出てくる科学者たちは赤ちゃんといっしょだ。わからないから触ってみる、なめてみる、やってみる。
もちろん「死ぬかも」という可能性はちらっとよぎっているんだろうけど「でもまあたぶん大丈夫だろう」と考えてしまうぐらいに好奇心が強いんだろうね。賢い赤ちゃんだ。

 フィールドが死ぬほどの目にあったにもかかわらず、その後ウィリアム・マレルという若い医師がフィールドと同じ実験を試みた。マレルの実験方法は驚くほどカジュアルだった。彼はニトログリセリンで湿したコルクを舐め、それからいつもの診察を始めた。しかし、すぐに頭がズキズキし、心臓がバクバクし始めた。
「鼓動のその激しさといったら、心臓が一つ打つ度に体全体が揺れるのではと思われるくらいだった……心臓が鼓動する度、手に持ったペンがガクンと動いた」。にもかかわらず、彼はニトログリセリンの自己投与を続け、その実験はおそらく四十回以上に及んだ。彼は、ニトログリセリンの効果のいくつかが当時血管拡張剤として使用されていた薬のそれに似ていることに目ざとく気づき、自分の患者にニトログリセリンを試してみた。現在、ニトログリセリンは狭心症の痛みを緩和するための標準的な治療薬になっている。

この本に出てくる人たちのやっている実験は痛々しかったりおぞましかったり息苦しくなったりするのだが、そのわりに読んでいて陰惨な感じはしない。というか笑ってしまうぐらいである。
著者(+訳者)のブラックユーモアがちょうどいい緩衝材になっているのだ。
「実験失敗 → 死亡」なんてとても不幸な出来事のはずなのに、ドライな語り口のせいでぜんぜん痛ましい気持ちにならない。

人の死を軽く受け止めるのもどうかとおもうが、いちいち深刻に悼んでいたらとてもこの手の本を読んでいられないので、これはこれでいいんだろう。

読んでいるだけでどんどん病気や怪我や死に対する恐怖心が麻痺していく気がする。
この心理の先にあるのが……我が身を賭して人体実験をする科学者たちの心境なんだろうな、きっと。


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2019年8月8日木曜日

本好きは本屋で働くな


本屋で働いていたときがいちばん読書量が少なかった。
とにかく忙しかったからだ(1日の労働時間は平均して13時間ぐらい、年間休日は70日ぐらいだった)。
車通勤だったので移動中も本を読めないし(信号待ちのときに読んでみたことがあるけどぜんぜん集中できない)、慢性的に疲れが溜まっているので休みの日は人と会うとき以外は寝て過ごしていた。

もちろん本屋の業務をしているから、本の情報は入ってくる。
最近この本売れてるなーとか、なんだかおもしろそうな本が出たなとかの情報はいちはやくキャッチできる。
でもそうした情報を知れば知るほど、読みたいという気持ちが薄れていく。
「〇〇というキャッチコピーの帯をつけてから売れはじめて〇〇賞を受賞して〇〇年には映画化されるらしい」とかの周縁の情報を溜めこむうちに「どんな本だろう」という気持ちが薄れていってしまう。まったく読んでいないのに知ったような気持ちになってしまうのだ。
「あああれね」という気持ちになってしまうのだ。読んでいないのに!


あと、嫌いな本が増えた。

××の本なんか買うんじゃねえよ、とか。
××ですら低俗な本なのにその二番煎じ三番煎じの本が売れるのほんとくだらない、とか。
××出版社はゴミみたいな本ばっかり送りつけてくるな、××舎は営業の態度が悪いし、もうここの本は買わないぞ、とか。


それから、プライベートで本屋に行っても楽しめなくなった。
陳列の方法が気になったり、「うちは注文しても〇〇がぜんぜん入荷しないのにこの本屋にはこんなに入荷するんだ」と悔しくなったり、あと乱れている売場を無意識に整えてしまったり。
仕事モードになってしまって落ち着かない。


ということで、本屋で働いていたことは本を楽しむうえでプラスよりもマイナスのほうが多かった。
本屋なんて、本好きの働くところじゃないぞ。
ほんとに。