2019年8月6日火曜日

歯が抜ける恐怖


娘の友だちSちゃん(六歳)の歯がぐらぐらしている。
乳歯が抜けそうになっているのだ。
そうか、そんな年頃かー。

「へえ。歯が抜けそうなんだ」というと、とたんにSちゃんの顔が曇った。
「ちょっと見せて」というと、「いや!」と口を固く閉ざしてしまった。見ると、涙目になっている。

Sちゃんのおかあさんが
「歯医者さんに診てもらおうとおもって連れていったんですよ。でも大泣きして暴れまわって、結局診てもらわずに連れてかえってきました」
と教えてくれた。
Sちゃんにとっては歯が抜けるというのはめちゃくちゃ怖いことで、考えるだけでも泣いてしまうことらしい。
Sちゃんのおかあさんは「すぐに新しい歯が生えてくるから大丈夫、って言ってるんですけどねー。でもすっかり怖がっちゃって」と笑っていた。


そうかー。
ぼくはもう歯が生え変わるときの気持ちをすっかり忘れてしまったけど、たしかに最初は怖いだろうなあ。

だって身体の一部がなくなるんだよ。恐怖でしかないでしょ。

「もうすぐあなたの指が抜けます。最初は小指、それから薬指、中指、人差し指、そして最後に親指。だんだん指が腐ってぐらぐらしてきますが神経は残っているので痛いです。最後はおもいっきりひっこ抜きます。もちろん強い痛みを伴います。それが両手両足であわせて二十本分あります。大丈夫、すぐに新しい指が生えてきますから」

って言われて

「そっか、新しい指が生えるのか。だったら安心☆」

とはならないわけで。


2019年8月5日月曜日

医者をめざさない理由


高校三年生の進路面談で、ぼくの進路希望を見た担任の教師からこう訊かれた。

「なんで医学部をめざさないの?」

は……?
質問の意味がわからなかった。
逆ならわかる。
ぼくが医学部に行きたいと言っていて「なんで医者になりたいの?」と訊くのならわかる。
だが、医学部を志望しないことに理由がいるのだろうか。

「なぜダンサーにならないの?」とか「なぜ軍人にならないの?」とか訊かれても、 「いや、なりたいとおもったことないから……」としか答えようがない。
それと同じだ。


その教師(おばちゃんの体育教師だった)は受験のことなどまったく知らなかったので、 「医学部に行くには成績が良くなくてはならない」を「成績が良ければ医学部に行く」と勘違いして(命題が真だからといってその逆が真だとは限らないことを知らないのだ)、ぼくの成績がそこそこ良かったので医学部に行くのが当然とおもいこんでいたらしい。


その教師に対していろいろ言いたいことはあった。

医師がみんな崇高な使命に燃えていなければならないとまでは言わないけれど、勉強ができるから、金を稼げるからってだけで医師をめざすような風潮にはぼくは反対です! とか。

それってまるで医師を一段高いものに置いていて、ほかの職業を下に見ているようじゃありませんか! とか。

医師には医師のたいへんさ苦しさがあるだろうに、なれるならなっとけっていうのは本気で医学部を目指している他の学生に対しても失礼じゃないですか! とか。


しかしなにより、いちばん言いたかったのはこれだ。

「いやぼく文系やで! あんた文系クラスの担任なんやで!」



2019年8月4日日曜日

ショールームとエロ動画の本棚


いっとき、家を買おうとおもって住宅展示場やマンションのショールームをいくつか見にいったことがある。

ショールームなので、どの部屋もすてきな内装が施されている。
品のいい家具、シックな壁紙、高級そうな食器。住みたい! とおもわせてくれるインテリアだ。

だが、いくつかのショールームを見ているうちに気がついたことがある。

本がない。

どの部屋にも本がない。本棚がない。
なんてこった!

まあわかるんだけど。
本棚は場所をとるから、ショールームにそんなものを置いてしまうと部屋が狭く見えてしまう。だから置かないんだろうけど。

にしたって。
本棚がない家って、やっぱりなんか嘘っぽい(ショールームだから嘘なんだけど)。

世の中には本をまったく読まない人がいることはぼくも知ってるよ。
でも、まだまだほとんどの家庭には本棚の一架や二架や三架ぐらいは置いてあるもんじゃないだろうか(そうでもないのか?)。

ショールームにはワイングラスを逆さ吊りにするやつ(なんて名前か知らない)もあるのに、本棚はない。
ワイングラスを逆さ吊りにするやつ(名前は知らない)よりは本棚のほうが多いだろ!


それ以来気になって、部屋の写真を見ると本棚をさがしてしまう。

で、気づいたんだけど、じっさいに人が住んでいる部屋には本棚があり、そうでない部屋には本棚がないことが多い。

インテリア雑誌の写真とかテレビコマーシャルの部屋とかには本棚がない。
あっても洋書が数冊並べてあるぐらいで、インテリアとして存在するだけだ。読むための本ではない。

つくりものの部屋に本がないのは、本が住む人をイメージさせてしまうからではないだろうか。

「新書と自己啓発本ばっかりだな。おもしろみのないやつが住んでるんだな」
「うわあ。ハヤカワSFがこんなに。ちょっとめんどくさいSFオタクってかんじだな」
「この人は郷土史に興味があるのか。おじいちゃんかな」
「岩波、ちくま、河出……。おお、これはなかなかの読書家だな」
というように、持ち主の人となりが想像されてしまう。

とたんに生活感というかなまなましさが生じてしまうので、つくりものの部屋には本がないんだろうね、たぶん。



話は変わるけど。

エッチな動画では「部屋」が舞台になっていることが多い。
マンションの部屋に酔っぱらった女の子を連れこんで……とか。
家庭教師の先生の大きく開いた胸元に昂奮してしまって……とか。
シェアハウスに引っ越したら男はぼくひとりで……とか。

そういう動画には本が映っていることが多い。
本好きとしては、ついついそちらに目が行ってしまう(もちろん女性の裸にも目が行ってしまうんだけど)。
たいていは漫画とか漫画雑誌なんだけど、ときどき文庫が並んでいたり、ごくまれにハードカバーの小説が映ることもある。
おっ。こんなの読むんだ。
なんだか親近感が湧く。

エロ動画なんて「つくりもの」の典型のような作品なのに、意外にもちゃんと本が並んでいる。
あれはたぶん撮影のためにつくられた部屋ではなく、予算節約のためにスタッフとかがほんとに暮らしている部屋を提供しているんだとおもう。
だから本があるのだ。置物としての本でなく、読むための本が。

エロ動画の背景に映る本棚、ぼくはあれが大好きだ。
すごくリアリティを与えてくれる。バックに本棚があるだけでエロさが二割増しになる気がする。


ところで、エロ動画に映る本ってモザイクがかかっていることが多いんだよね。
だからタイトルまではわからなかったりする。

出版社や著者から「うちの本をエロ動画に勝手に使うな!」というクレームがつかないようにという配慮なんだろうけど、女の人のおっぱいにはモザイクがかかってないのに文芸書の背表紙にはモザイクがかかっているのはなんかおもしろい。

エロ動画制作の人たちからしたら本って裸よりセンシティブなものなんだなあ。

2019年8月2日金曜日

けったくそわるい


「けったくそわるい」という言葉がある。

たぶん関西弁。
意味としては、不愉快だ、胸くそ悪い、反吐が出そうだ、虫唾が走る、といったところだろうか。強い嫌悪を表す言葉だ。

用例としては、
「けったくそとは漢字で書くと[卦体糞]。[卦体]とは元々……なんてインターネットで三十秒で拾ってきた蘊蓄をならべてえらそうにすなや、けったくそわるい!」
のように使う。

ぼくは関西で生まれ育ったのでときどき耳にする。若い人やきちんとした身なりの人はあまり使わない。
昼間からハイボールを飲んでいるおじさんが口にする言葉、というイメージだ。

ただでさえお近づきになりたくない人が不快感をあらわにしているわけだから、「けったくそわるい」という言葉を聞いたらとるものもとらずにすぐその場を離れたほうがいい。「海辺で地震が起きたら高台に向かって走れ」と同じだ。


危険をあらわすシグナルではあるが、ぼくはこの「けったくそわるい」という言葉が好きだ。
なぜなら、「けったくそわるい」という言葉自体にけったくそわるさがにじみでているから。

「けったくそわるい」とつぶやいてみてほしい。
吐きすてるような言い方になるはずだ。「けっ」で痰がこみあげてきて「たくそわるい」でそれを吐きだすようなイメージ。

「けったくそわるい」と口にしたとき、自然にしかめっつらになるはずだ。
「けったくそわるい」と言いながら笑顔にはならないはずだ。


発声と身体動作が結びついている言葉はほかにもある。

「にやにや」というとき、自然と顔がにやにやしてしまう、とか。

「のらりくらり」と口にするときは無意識に顔の力が抜ける、とか。

「COOL」とつぶやくと体温が少し下がる、とか。

「クラムチャウダー」と言うと口の中でクラムチャウダーができる、とか。

「けったくそわるい」の顔

2019年8月1日木曜日

【読書感想文】小田扉『団地ともお』


小田扉『団地ともお』


漫画の魅力を文字で伝えるのはなかなか困難だが、『団地ともお』という漫画の魅力は、センスのいい笑いと不条理な世界観の融合にある。

昔はトンカツのようなこてこてのギャグも好きだったが、歳をとると「どやっ、おもろいやろっ! わろてや!」って感じのギャグはもう胃もたれして受けつけなくなってきた。
その点『団地ともお』の笑いはぜんぜんもたれなくていい。うどんのようにおなかにやさしい。


主人公のともおは、団地に住む小学生。
団地というと高度経済成長期のイメージだが、ともおは現代に生きる小学生だ。
アイテムとしてパソコンも出てきたりするが、基本的にぼくが小学生だった1990年代とあまり変わらない生活をしている。
虫を集め、カードゲームに興じ、単身赴任中の父さんが帰ってきたら飛びあがって喜び、宿題を娯楽に変えられないかと頭を悩ませ、野球やサッカーで泥だらけになっている。

ぼくも同じような遊びをしていた。
ところがふしぎと、ノスタルジーを感じない。

ひとつには『団地ともお』を読んでいるときはぼくも男子小学生の気持ちに戻っているから。小学生が小学生の生活にノスタルジーを感じるわけがない。

そして『団地ともお』の世界は日常的でありながら非日常だから。
基本的に一話完結なのだが、突然パラレルワールドが描かれたり、過去に行ったり、幽霊が出てきたり、モノや動物が意識を持ったりする。そのことに対して、たいていの場合なんの説明もない。あたりまえのようにファンタジー世界が描かれる。
読んでいるうちに「どうやら今回はパラレルワールドの話らしいな」となんとなくわかるだけだ。
で、翌週には何事もなかったかのように現代の団地に戻っている。

かつてラーメンズの小林賢太郎氏が自分たちのコントについて「日常の中の非日常ではなく、非日常の中の日常を描いている」と語っていたが、それに近い。
奇妙を奇妙と感じさせないように描く、ってなかなか易しいことじゃないよね。

これもまた小学生っぽい。子どものときって、異世界がもっと身近にあった気がする。
ふとした瞬間に妙な世界に行ってしまうことがたびたびあったんじゃないかな。たぶん気のせいだろうけど。




『団地ともお』には、しばしば死が描かれる。
死者が幽霊となって出てくる、みたいな軽快な話が多いが、中にはすごく現実的な描き方をしていることもある。
印象に残っているのは、どちらも初期の名作だが、
「過去に子どもをなくした夫婦がともおを預かり、冗談めかして『うちの子になっちゃう?』と言うエピソード」と
「担任の先生が、自分の恩師の葬儀に子どもたちを連れていくエピソード」
だ。

どちらもセンセーショナルな死ではなく、日常からすごく身近なところにある死だ。

「過去に子どもをなくした夫婦」は、もう悲嘆にくれてはいない。子どもを亡くしたのは何年も前のことだからだ。悲しい思い出ではあるがそれなりに自分の中で消化して、日常を取り戻している。
しかしともおが遊びにきたことでかさぶたになっていた傷口が開いて、様々な思いが少しずつ流れだす。
この表現がさりげなくてすばらしい。


「担任の先生が、自分の恩師の葬儀に子どもたちを連れていくエピソード」が伝えるのも、悲しみというより喪失感に近い。

ぼくは数年前旧友を亡くした。くも膜下出血による突然死だった、と聞いた。
亡くなった彼とは教室で言葉を交わす程度で、すごく仲が良かったわけではない。高校卒業後は同窓会で一度会ったことがあるだけ。死んでいなかったとしても、もしかしたら一生会わないままだったかもしれない。
けれど、訃報を耳にしたときは胸にぽっかりと穴が開いたような寂しさを感じた。そうか、あいつはもういないんだなあ。涙を流すほど悲しいわけではない。病死なのだから誰かを恨むような気持ちでもない。ただ茫々とした寂しさがあった。

たいていの死はそんなものなのだろう。悲しくないわけじゃないけど、号泣したり憤ったりするほとではない。
子どものころに戻りたいとおもっても戻れないのと同じで「寂しいけどしょうがないな」ぐらいの感覚。

この感覚を漫画で表現できる(しかもユーモアで包みながら)漫画家はそう多くないだろう。
『団地ともお』にはときどきこうした文学としか言えないような回がある。
ばかばかしいギャグの間に質の良い文学がはさみこまれるのだから、たまらない。




主人公が男子小学生なので「男子から見た世界」が描かれることが多いのだが、『団地ともお』に出てくる女子もまた魅力的だ。
小田扉の初期の傑作『そっと好かれる』や『男ロワイヤル』で描かれていたような自由自在に生きる女性も魅力的だが、『団地ともお』の女子のリアルなたたずまいもいい。

乱暴者で男子にも喧嘩で勝つ女の子、まじめで先生からのウケはいいが男子からは嫌われている女の子、言いたいことをはっきり口に出せない女の子、集団になると強気な女の子、人の嫌がる仕事を人知れず引き受ける女の子。
どのクラスにもひとりはいたような子ばかりだが、彼女たちの悩みが丁寧に描かれている。

そういえば小学生のときって、男子にとっては女子という存在はひとしく"敵"だったよなあ。なにかというと男子と女子が対立。おとなしい子ややさしい子でも、女子というだけで敵だった。

彼女たちにもそれぞれの悩みがあるなんて、当時はまったく考えなかった。からっぽだとおもっていた。実はぼく自身がからっぽだっただけなんだけど。
そうかあ、あのおとなしい女の子たちもこんなことに悩んでたんだろうなあ。数十年遅れで女子小学生の気持ちがちょっと理解できたような気がする。




最終回もいつも通りの『団地ともお』だった。『団地ともお』らしい。
あんまり終わった、という感じがしない。まるではじめから自分自身の過去の思い出だったような気がする。

ときどきでいいから、また続きが読みたいなあ。

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