2019年6月17日月曜日

【読書感想文】登山のどろどろした楽しみ / 湊 かなえ『山女日記』

山女日記

湊 かなえ 

内容(Amazonより)
こんなはずでなかった結婚。捨て去れない華やいだ過去。拭いきれない姉への劣等感。夫から切り出された別離。いつの間にか心が離れた恋人。…真面目に、正直に、懸命に生きてきた。なのに、なぜ?誰にも言えない思いを抱え、山を登る彼女たちは、やがて自分なりの小さな光を見いだしていく。新しい景色が背中を押してくれる、感動の連作長篇。

登山をテーマにした連作短篇集(説明文には「連絡長篇」とあるがこれを長篇とはいわんだろ)。

上司と不倫をしている同僚といっしょに山に登ることになった、結婚を目前に迷いが生じているOL。
婚活パーティーで知り合った男性と山に登ることになった、バブルの香りを引きずった女。
一緒に登山をするもやはり価値観の違いから喧嘩になる姉妹。

どの話も主人公は女性だが、いわゆる「山ガール」の浮かれた感じとはほど遠い。年齢は三十~四十歳ぐらい。どの女もそれぞれに鬱屈たる思いを抱えている。
 姉と二人で歩いた時は、私は姉に独身でいることや経済的に不安定な生活を送っていることを責められるのではないかとモヤモヤした気分を抱えていたし、姉は自身の離婚問題について深く悩んでいた。それぞれの答えを探すような思いで急坂ばかりが続く山道を歩いていたのだ。大雨の中を。
 山は考え事をするのにちょうどいい。同行者がいても、一列で黙って歩いていると、自分の世界に入り込む。そこで自然と頭の中に浮き上がってくるのは、その時に心の大半を占めている問題だ。自分の足で一歩一歩進んでいると、人生だって、自分の足で進んでいかなければならないものだと、日常生活の中では目を逸らしていた問題についても、まっすぐ向き合わなければならないような気がしてくる。頂上までこの足で辿り着けたら、胸の内にも光は差してくるのではないかという期待が背中を押してくれる。そうやって、己と向き合いながら歩くのが登山だと思っていた。
ぼくもときどき山登りをする。といっても1000メートルぐらいの山に日帰りで登るぐらい。ロープウェイを使うこともあるし、ハイキングの延長といった程度だ。
それでも登山中下山中はすごくしんどいし、頂上に達したときには喜びも味わえる。山登りの楽しさは一応知っているつもりだ。

友人と登ることが多いが、歩いている間はあまり話さない。しんどいのでそんな余裕がないからだ。
黙って足を動かしていると、いろんなことを考える。何年も前の情景がふっと浮かんできたり、過去の嫌な思い出がよみがえることもある。
苦しい思いをしながら思索にふけっていても、とても清々しい気持になんてならない。
「あのときああいえばよかったな」とか「もう気にしていないつもりだったけどやっぱりアイツ嫌いだわ」とか、わりとネガティブなことを考えているような気がする。
気がする、というのは後々まで覚えていないからだ。
山登りというさわやかなイメージとは裏腹に、登っている間はいろんなことに腹を立てている。でも登ったら忘れてしまう。
内なる「むかつく」をおもいっきり出せるのが山なのだ。

とことんまで自身の内面と向き合い、嫌なものを表に出す。
登山というのはアウトドアの代表のように扱われるけど、じつは内向的な行為なんじゃないかな。
サウナで脂汗をたっぷりと流すのに似ているかもしれない。身体的には健康によいのかもしれないが、精神的にはなんとなく不健康的な感じがするのもいっしょだ。



そんな登山のどろどろした楽しみを存分に描いている『山女日記』。
全篇最後は前向きなラストになっているのは好みではないが、「山登り中のいろんなことにむかつく心情」を思いださせてくれる、いい小説だった。

中でも印象に残ったのが『槍ヶ岳』という短篇。
ほんとにイヤなおばさんが出てくるのだが、「言動がいちいち癇に障るけど面と向かって指摘するほどではない」という絶妙なイヤさ。
いやあ、不愉快だ。はっはっは。

ぼくは不愉快な小説が好きなので、湊かなえ氏にはこういうのをもっと期待しちゃうな。山を登りきったときの晴れ晴れとした気持ちじゃなくて登る途中の悶々とした心情にスポットを当てた小説を。


【関連記事】

クソおもしろいクソエッセイ/伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月14日金曜日

コンニチハ! スシ! テンプラ!


海外に行くとわりと経験することだとおもうが、日本人と知るとカタコトの日本語で話しかけてくる人がいる(おっさんが多い)。

ぼくも何度か経験したことがある。
中国の道端でおっさんに「どっから来た?」と訊かれ(もちろん中国語で)、日本人だと答えると
コンニチハ! スシ! テンプラ!
と笑顔で言われる。

めんどくせえなあ、伝えたいことがないなら無理してしゃべらなくていいんだよ、ほとんど日本語知らないくせに……。

とおもいながらもむやみに国際摩擦を引き起こしたくもないので
「あ、ああ。こんにちは。はは……」
みたいな愛想笑いでお茶を濁す。



話は変わって、こないだ道端で外国人のおばちゃんに英語で話しかけられた。

旅行パンフレットを見せられ、
「このホテルにはどうやって行くんですか?」
と訊かれた(英語に自信はないが、たぶんそんなことを言ってた)。

地図アプリで検索をしたら、歩いて五分ぐらいの場所にあるとわかった。
時間もあったので歩いて案内してあげることにした。
(わざわざ連れていってあげたのは親切だったからではなく英語で道を説明する自信がなかったからだ)

スーツケースを引きずったおばちゃんと並んで歩く。
流れる沈黙。
気まずい。

なにか話さないと。
なにしろ、この瞬間、このおばちゃんにとってはぼくが全日本人代表なのだ。
「日本人って不愛想で感じ悪いわね」とおもわれないよう、せいいっぱいおもてなししないと。

「Where are you from?」

持てる英語知識を総動員して、やっと絞りだした。

おばちゃんは答える。
「Thailand」

タイランド。
あー、タイね。はいはい、もちろん知ってるよ。

この後が続かない。タイって何があったっけ

仏教国だよね。でも初対面で宗教の話って危険すぎるよね。

何年か前にクーデターがあったってニュースで観たな。
でも戦争の話もまずい。悲しませたり怒らせたりするかもしれない。

アジアで植民地にならなかったのは日本とタイだけ、って聞いたことあるけどそれを伝える英語力がない。
伝えたとて、だからなんだって話だしな。

タイの有名人って誰かいたっけ。ガンジーはインドだよね。

だめだ、ストリートファイターⅡのサガットしか出てこねえ。

タイを代表する人物

ぼくの頭の中にある「タイ」というラベルのついた引き出しを全力で探すのだが、いかんせん使える知識が出てこない。

引き出しの奥を探したら、あった! トムヤムクン

そうだそうだ、トムヤムクンだ。
タイを代表する料理。世界三大スープのひとつ。

「トムヤムクン!」
と口にしようとして、すんでのところで思いとどまった。

これはあれだ。
日本人と知ったら「スシ! テンプラ!」と言ってくる外国のおっさんといっしょだ。

これをタイ人に言っても、得られるのは苦笑いだけだ。


そうかー。
日本人に「スシ! テンプラ!」と話しかけてくるおっさんってこういう気持ちなのかー。

乏しい知識の中でなんとか共通の話題をさがそうというホスピタリティから出ていた発言だったんだなー。

うっとうしいおっさんの気持ちが理解できた。

2019年6月13日木曜日

【読書感想文】なによりも不自由な職業 / 立川 談四楼『シャレのち曇り』

シャレのち曇り

立川 談四楼

内容(e-honより)
落語家になるため弟子入り志願した若者(のちの談四楼)に、憧れの立川談志が告げたのは「やめとけ」の一言だった。―なんとか入門を許されるも、「俺と仕事とどっちが大事だ!」と無理難題に振り回される談四楼。恋に悩み、売れないことに焦燥し、好敵手と切磋琢磨する中で、ついに真打昇進試験が…。しかしそれは、落語界を震撼させる一大事件の始まりに過ぎなかった。師弟の情を笑いと涙で描く傑作小説。

立川談志氏の弟子であった立川談四楼氏による自伝的小説。

おもしろく読めたが、時系列がばらばらで読みにくいこと甚だしい。
いきなり時代が飛んだりさかのぼったりするので、読んでいて「えっ、あの話はどうなったの?」と混乱する。
発表時期がばらばらだったかららしいけど、一冊の本にするときになんとかできなかったものか。これはちょっとひどいぜ。編集者仕事しろ。

話にまとまりがないのは落語的といえるかもしれないけどね。ストーリーに一貫性のない噺ってけっこう多いし。
上方落語の噺だけど、『こぶ弁慶』なんかその典型だよね。前半と後半でまったく別の噺になるからね。登場人物も入れ替わっちゃう。



個々のエピソードは読みごたえがあった。
特に立川談志一門の落語協会脱退のくだりはおもしろい。

上方落語派のぼくにとって立川談志という噺家は
「偉そうにふんぞりかえっていてなんか嫌い(『M-1グランプリ2002』の審査員の印象がひどすぎて)」「落語はすごいらしい」
というぐらいのイメージしかなかった。
一度CDを聴いたことがあるが、江戸っ子訛りがどうも聞きづらく途中でやめてしまった。

しかしこの本に出てくる立川談志は、人間性の良し悪しはべつにして、ずいぶん弟子思いのいい師匠である。
「何だとゥ、独演会ィ?」
 寸志がその見幕に思わず謝ろうとするよりも早く、談志は一気に続けた。
「やれやれィ、やらなきゃしゃあねェ。独演会が打てる、つまり客が呼べる芸人だけが一人前というこった。それが俺の認識だ。前座だろうが二ツ目だろうが構うこたねェ、遠慮は要らねえから派手にやれ。だいたいなあ、俺の他に独演会を打てる落語家が何人いるってんだ、いやしねえだろ。何にも行動を起こさねえで、ただ居心地がいいというだけで寄席に安住してやがる。こんなに客が減ったのもみんなそいつらのせいなんだ。やれやれ、どんどんやれ。ただ、ひとつだけ言っておく。ネタだけはキッチリしたものをやれよ、前座噺で逃げようなんて思うな。で、いつやるんだ、木戸銭はいくらだ、客は何人呼ぶつもりだ、ゲストは誰なんだ、俺が要るのか要らねえのか……」と、それはもう矢継早に言った。
「お願いします、是非出て下さい。十月の三十一日です」
 寸志がやっとの思いで伝えると、「よし、事務所へ電話してみろ。空いてたら行ってやる」
「ハイ、その日は何もありません。空いてます」
「そうか、そこまで調べがついてるんじゃ仕方がねえな。じゃ、行ってやる。おめえの会に俺が出るなんてもったいねえぐらいのもんだ」
弟子の書いたものだから美化されている部分はあるだろうが、それにしても気風がいい。
落語協会を飛びだしたのも「弟子が真打昇進試験に落とされたことに納得できず」だというのがかっこいい。
事あるごとに「おまえらはおれの弟子なんだから腕はある」と口にするところ、ここぞという局面では現状に甘んじている弟子を厳しく叱りつける姿など、いやいい師匠だなと感心するばかり。
金に汚いところは江戸っ子っぽくないが、独自流派を立ち上げて弟子たちを食わせていかなければならないというプレッシャーがあっただろうことを考えると、それもやむなしとおもえる。
ビートたけし、高田文夫、横山ノック、上岡龍太郎など著名人を弟子として高座に上げて客寄せに利用したところなど、ずいぶん商才もあったんだなと感心する。

この本を読んで、「傲慢な天才」という談志のイメージは大きく変わった。
繊細で、周囲の人間をよく見ていた人だったのだろう。
考えてみれば当然の話で、人間観察に長けているからこそ噺家として大成したんだろうね。



印象に残るのは、真田家六の輔のエピソード。
真田家六の輔という名前の落語家は存在しないので著者が創作した人物なのだが、そのエピソードがあまりに生々しいのできっとモデルとなる人物がいたのだろうと想像する。

苦労人である師匠をもった六の輔。師匠は芸はうまいが気が弱く、そのせいで落語協会の中でも不遇の扱いを受けていた。
だが真打昇進試験で落とされた談四楼の師匠(談志)が落語協会を飛びだしたのとは対照的に、六の輔の師匠は「こらえろ」という。協会に対しての不満は多いはずなのにそれをひた隠し、弟子にまで不遇を強いる師匠に絶望する六の輔は、自由に見える談志一門の談四楼がうらやましくてたまらない。
だが不満や嫉妬を表には出さない六の輔はやがて酒におぼれてゆき、身体を壊すまでに……。

長くないエピソードだが、落語家という商売の業がぎゅっと凝縮されたような話だ。
ひょうきん、お気楽、自由闊達であることを求められながら、一方で伝統、師弟制度、閉鎖された組織という環境に身を置かなければならない落語家。
不満を感じながらも、表には出せない。ずいぶん因果な商売だ。

噺家という人種は自由に見えて、何よりも不自由な職業なのかもしれないな。


【関連記事】

【読書感想文】一秒で考えた質問に対して数十年間考えてきた答えを / 桂 米朝『落語と私』



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月11日火曜日

無一文の経験


小学校一年生のとき、お祭りに行った。
近所のスーパーの駐車場でやっている小さなお祭りだ。小さなお祭りとはいえ小学一年生にとっては小さくない。
夜店をまわり、あれこれ食べてゲームをして、めいっぱい楽しんだ。

そろそろ帰ろうか、最後にあと一軒ぐらいまわろうか、という段になって気がついた。
財布がない。

母や友だちのおかあさんといっしょにさがしたが見つからない。

ぼくは号泣した。
財布には三百円ぐらい入っていた。

母や友だちのおかあさんは「まあしょうがないね」という反応だった。そりゃそうだろう。大人にとって三百円なんてそんなもんだ。ちょっとさがして、見つからなければ諦める。五分もすれば忘れてしまう。それぐらいの金額だ。

でも一年生のぼくにとって三百円を失うというのは、絶望的な出来事だった。
なにしろそのときのぼくの全財産だったのだから。


全財産を失ったことはあるだろうか。
無一文、すっからかん、すってんてん、すかんぴん、一文無し、オケラ(日本語ってやたら無一文に関する表現が多いな)。

ぼくは小学一年生にして無一文を経験した。
それはもう、絶望的な気分だった。これから先どうやって生きていけばいいんだよ……と地面に両手をついておいおい泣きたい気分だった。




今にしておもうと、いい経験だったとおもう。

無一文の気分なんてなかなか味わえるものではない。
ぼくは今三十代だが、今無一文になったら冗談にならない。誇張でもなんでもなく生きていけない。

小学一年生にして無一文の絶望感を知ったぼくは、お金に細かくなった。
お年玉にも半分ぐらいしか手をつけない。何かを買うときはじっくり検討してからにする。見栄のために金を使わない。借金はしない。ギャンブルもしない。リボ払いもしない。
財布を落としていないかも執拗に確認するようになったので、あの日以来一度も財布をなくしたことがない。
一度身についた倹約の精神は大人になっても残っている。


我が娘にも、大人になってから散財することがないよう、ぜひダメージの少ないうちに無一文の恐怖を知っておいてもらいたい。

こっそり娘の財布を隠して……ってそれはさすがにひどいか。


2019年6月10日月曜日

ニュースはいらない


ニュースを見るのをやめた。


新聞はもう十年ほど前からとっていない。
新聞を読むのは好きなのだが、
・廃品回収に出すのがたいへん
・新聞はその日のうちに読まないといけないので、読みたい本が後回しになってしまう
というのが新聞購読をやめた理由だ。

それでも社会人としてニュースは知っておかなければ、とおもって
・朝のテレビニュース
・夜のNHKニュース
・新聞社のオンライン記事
をみるようにしていたのだが、どれもやめた。

胸糞悪いニュース(政治の腐敗とか身勝手な犯罪とか痛ましい事件とか)を観るのがいやになったのと、
どうでもいいニュース(芸能人のスキャンダルとか地方のお祭りとかパンダの成長とか同じ話題を延々やるのとか)を観るのがいやになったのが理由だ。

ぼくは事実だけを淡々と伝えてほしいのに、やたら情緒に訴えかけようとしてくるのにうんざりしたのだ。

くだらないニュースは、ほんとになんとかならんのか。
NHKですら芸能ニュースとかやるし。
こっちは憤慨したり感動したりしたくてニュース観てるんじゃねえよ。だったらバラエティ番組観るほうがマシだわ。



そんなわけでニュースを観るのはやめた。
テレビのニュースも新聞のニュースも観ない。ネットニュースは目に入ってくることはあるが、見出ししか見ない。

朝はEテレを観ている。
これが実にいい。
気持ちの良い一日のスタートを切れるようになった。
夜は読書やパズルにあてる。

そしてわかった。
ニュースを観なくなっても一切困らない。
もう二ヶ月ぐらい観ていないけど、そのせいで困ったことなんかひとつもない。

「ニュースぐらいみとかなきゃな」とおもってがんばってみていたけど、害悪でしかないものだったのだ。
気分は悪くならないし、読書のペースは上がるし、静かに過ごせるし、いいことずくめ。


ニュースを観るなとは言わないけど、「ニュースぐらいみとかなきゃな」って気持ちで観てる人は、いっぺんやめてみるといい。
たぶん何も困らないから。
有意義に過ごせる時間が増えるから。