2018年11月11日日曜日

去年の流行りの服


オシャレには疎い人間だが、それでもたまには「今年は〇〇が流行っているらしい」という情報を耳にする。

そうすると「今年は〇〇が流行っているのか。じゃあ〇〇を買うのはやめとこう」と思う。

ぼくがあまのじゃくだから、ってのもあるけど、それだけではない。
流行は、ちょっと古くなるといちばんダサくなるからだ。

流行りじゃない服を着るのはぜんぜん平気。
でも「あの人、去年流行った服を着てるわ」と思われるのはめちゃくちゃ恥ずかしい。


と考えると、流行の服は「いちばんダサい服一歩手前の服」だ。
みんなようそんなの買うわ。

肉は腐りかけがいちばんうまい、ってのと似てるね。

2018年11月9日金曜日

みんな小さな機械を見ている


電車に乗っている。ふと文庫本から顔を上げてあたりを見まわす。
スマホを見ている青年、スマホを見ている女性、スマホを見ているおじさん、スマホを見ている子ども。


毎日見慣れた光景のはずが、急に世界がぐらつく。あれ、なんだこれ。

ぼくは二十年前からタイムスリップしてきた人。

なんだこれは。
みんな小さな機械を見ているぞ。ははあ、あれは小型テレビなのかな。いや、何やら操作をしている。テレビ付きウォークマンか。それともゲームボーイの進化版か。
さすがは二十年後の未来。みんな小型端末で娯楽に興じているようだ。

だがどうも様子が変だ。
ちっとも楽しそうじゃない。
みんな険しい顔をしている。あの画面に映っているのはゲームの画面のように見えるが、それにしてはつまらなさそうだ。
表情がちっとも変わらないし、「よっしゃ!」とか「くそっ」とか言ったりしない。無言・無表情でひたすら指だけを動かしている。いやいややらされているようにすら見える。

あれは娯楽じゃないのか。仕事なのか。
ワープロやFAXや電卓があの機械の中に入っているのか。
いや仕事にしたってもうちょっと感情の動きがあるだろう。どの人もただただ"無"の顔で画面をにらんでいるぞ。

もう手遅れなのかもしれない。
すでに彼らは大いなる存在に操られているのではないだろうか。
ビッグ・ブラザーの意向によって画面を凝視させられている。目を離すと不穏分子として当局から目を付けられる。だから歩いている間もあの小さな画面から目を離さない。

ここは感情を表に出してはいけない世界なのか。
その掟を破ったらどうなるんだ。
まるで地獄だ。こわい。こわい。
えっ。
なんですかあなたたちは。感情を顔に出していた? ぼくが?
待ってやめてやめてその手を離して。
ちょっと誰か! 誰か助けて! 連れていかれそうなんです!
誰か助けて、その画面を見てないで顔を上げてこっちを見て!

2018年11月8日木曜日

未来のUFO


ぼくたちが見ている星の光は、何万年も前の光なんだそうだ。

だったら逆に、未来の光を見ることもあるんじゃないだろうか。
ぼくらは時間の流れを半直線のようなものと考えているけど、じつは輪のようなもので、ループしている。ずっと未来はずっと過去につながっている。
そして、なにかの拍子にずっと昔、すなわち未来の映像をちらっと目にすることもあるかもしれない。

ここは1968年。
今から50年前。アメリカの牧場主がふっと空を見あげたら、2018年のドローンが飛んでいるのが見える。
なんだありゃ。明らかに人工物だが、あんなものが空を飛べるわけがない。飛行機やヘリコプターよりずっと小さいし、自由自在に飛びまわっている。
地球のもんじゃねえ。まちがいねえ、ありゃ宇宙船だ。

目撃したのは牧場主だけじゃない。何人もの目撃情報が集まる。
保安官がやってくる、州警察がやってくる、ついには軍までやってくる。
牧場のほかに何もない町はたちまちUFOの町としてアメリカ中、世界中に知られるようになる。

そして50年後。
今でもときおりこの町には世界中のUFOフリークがやってくる。
はたしてUFOはどこからやってきたのか。なぜここにやってきたのか。どうやって姿を消したのか。
現場検証のため、UFO研究者はカメラを搭載したドローンを飛ばす。

2018年11月7日水曜日

まゆ毛っていらないよな


こないだテレビで、美容整形手術で乳首をとる男性がいるという話をやっていた。
不要なものだからとりたい、という人がそこそこいるらしい。

気持ちはわからなくもない。
乳首をとりたいと思ったことはないが、同じような気持ちを抱いたことはある。

小学校一年生ぐらいのとき、ふと「まゆ毛っていらないよな」と思った。
なんでこんなものがあるんだろうと思った。鏡で自分のまゆ毛を見てみる。
なんだこれ。中途半端なところに生えている。髪の毛はまだわかる。人間にとって大切な頭部を守るのだろう。しかしまゆ毛があるのは眼とひたいの間。ぜんぜん大事じゃない。
生えてる場所も半端なら、長さも半端。うっすらと生えているだけで生命力を感じない。
つくづく不要なものに思える。

引っぱって抜いてみた。ぜんぜん痛くない。髪の毛を抜くと痛いのに、まゆ毛はちっとも痛くない。やっぱりいらないものなんだ。ほんとに必要なものだったら抜くときに痛みを感じるはずだもの。
途中で母親から止められたおかげで全部抜くことはなかったが、当時の写真を見るとまゆ毛が薄くて人相が悪い。



中学三年生のとき、ふいに自分の下くちびるが気持ち悪くなった。
なんだこのぼってりしたやつ。こんなにぶあつい必要あるか? ものを食べるために使うには、この半分でも十分だろ。
当時は思春期まっさかり。この気持ち悪い下くちびるで人前に出ることが急に恥ずかしくなった。
幸い下くちびるは、口の中に隠すことができる。下くちびるをぐっと口の中に押しこみ、上くちびるでふたをする。
鏡を見てみる。こっちのほうがずっといい。きりっとして見える。下くちびるはだらしない印象を与えるようだ。

ちょうどその頃、卒業アルバムをつくるために写真屋さんが学校に来ていた。ひとりずつ座って写真を撮る。
ぼくは下くちびるをしっかりと口の中に隠す。
写真屋さんは云った。「口をぎゅっとしないで、ふつうにして」
ちがうんです、これがぼくのふつうなんです。下くちびるを全部見せているのはだらしなくしているときだけで、下くちびるを隠しているこの状態こそが本来のぼくの顔なんです。心の中で弁解する。

ぼくはほんの少しだけ下くちびるを外に出す。
写真屋のおじさんは云う。「そうじゃなくて、もっと自然にして」
かなりいらいらした口調だ。この後何十枚も撮らないといけないのだ。
ぼくは下くちびるを隠しつづけた。やがて写真屋のおじさんは諦めて「この写真が残るけどいいねんな?」と確認して、シャッターを切った。

卒業アルバムに写ったぼくの顔は、ぎゅっと下くちびるを噛んで、まるで悔しさを押し殺しているように見える。じっさいぼくは悔しかったのだ。不必要にぶあつい下くちびるが自分の口についていることが。



あれから数十年。
今ぼくはまゆ毛をじゃまに思うことはないし、自分の下くちびるを無駄にぶあついと思うこともない。ごくごくふつうのまゆ毛、ふつうの下くちびるだと思う。
血迷ってカッターナイフで下くちびるを切りとったりしなくて本当によかった。

美容整形手術で乳首をとってしまった男性は、数年後に後悔したりしないのだろうか。
それともやはり切除してよかったと思っているのだろうか。
もしくは、乳首をとってすっきりしたことで、またべつのものを不要に思うのかもしれない。
このへそ、何の役にも立ってないなとか。なんでこんなところにくるぶしみたいなでっぱりがあるんだろうとか。鼻なんて穴だけあればいいじゃないかとか。背中を使うことないなとか。

2018年11月6日火曜日

瀬戸内寂聴の予約キャンセル


予約って怖いよね。

予約できる人ってすごいよね。ぼくが美容院に行かない理由もそれ。予約しないといけないから。

だって予約するってことはキャンセルしたり遅刻したりできないってことじゃない。

ずっと気にしてなきゃいけないんだよ。
一週間も前からああ今度の土曜日美容院だ、他の予定入れたらだめだ、体調万全にしとかなきゃ、髪に良さそうなものを食べよう、明日は美容院だから髪をしっかりかわかしてから寝よう、少なくとも三時間前には起きとかなきゃ、あと一時間三十分だ、今家を出たら早く着きすぎるからあと十五分したら出よう、でもやっぱり早く着きすぎたあんまり早く入店しても迷惑かな。

ずっと美容院のために脳のリソースを使わなきゃいけない。だったら予約なしで床屋に行って一時間待たされるほうがいい。

飲食店やホテルには、予約をしたのに来ない客がけっこういると聞く。
予約を忘れたのか、それとも覚えていたのにキャンセルが面倒で放置したのか。
いずれにせよ、そういうことができる豪胆な神経がちょっとうらやましい。周囲は苦労するだろうが、本人はいたって幸せに生きていけるように思う。


キリストやブッダやマザーテレサや瀬戸内寂聴のような「心の広い人」は予約キャンセルの連絡を入れない。たぶん。

よいではありませんか。行けなくなったのはめぐりあわせがよくなかった、ただそれだけのこと。わたしの予約は別の誰かのもとへ行く。そしてまた誰かの予約がわたしのもとにやってくる。すべての予約はつながっているのです。
あなたが過ごしている時間はあなたひとりのものではないんです。世界中の人、あらゆる生物と共有しているのです。それを独占しようだなんて考えはやめましょう。

「ご予約のお時間ですがいらっしゃらないので確認のお電話をさせていただきました」と言われた瀬戸内寂聴さんはきっとこう言う。

「いやじっさいお店に迷惑かけてるのにそんなふうに開きなおって大丈夫なの」
とヒヤヒヤしているのは、隣で聞いているぼくだけだ。