2018年6月3日日曜日

北杜夫というヘンなおじさん


ぼくにとって北杜夫は『夜と霧の隅で』『楡家の人びと』で知られる芥川賞作家ではなく、「どくとるマンボウ」シリーズで知られるエッセイの名手でもなく、「ばかばかしくておもしろい小説を書く人」だ。

はじめて出会ったのは、図書館で手にした『さびしい王様』だった。


童話のようなタイトルとユーモラスな表紙を見て、ごくふつうの児童文学だと思った。
ところが読んでみて「なんじゃこれは」と思った。
物語が始まらないのだ。作者による「書けない言い訳」が延々と続く。言い訳が終わったと思ったらまた別の言い訳が始まる。本の一割か二割ぐらいは言い訳で埋まっていた。
そんな本読んだことがなかったのであっけにとられた。そして、めちゃくちゃおもしろかった。

物語本編もおもしろかった。続編の『さびしい乞食』『さびしい姫君』も借りて読んだ。ばかばかしいお話なのにふしぎとペーソスが漂っていた。子どもの王様と子どもの姫君がいっしょに寝て「子どもができない」と嘆くところは名シーンだ。今でも情景が目に浮かぶ。
すべて読み終えて図書館に返却した後、やっぱり手元に置いておきたくなった。本屋に行って買いそろえた。

他の本も読んだ。

「小説入門者に最適な一冊」として日本文学史に燦然と輝く『船乗りクプクプの冒険』をはじめ、

大怪盗の活躍と孤独を描いた『怪盗ジバコ』

ゴキブリを主人公にした『高みの見物』

ニッポンの悲しいヒーロー『大日本帝国スーパーマン』

どの話もばかばかしくて、それなのに品があった。主人公たちはそれぞれ活躍しながら孤独を抱えていて、そんなところも「大人の文学にふれた」ような気になれて好きだった。

中でも好きだったのは『ぼくのおじさん』と『父っちゃんは大変人』だ。北杜夫の小説にはヘンなおじさんが出てくる話が多い。たいてい、そのヘンなおじさんは北杜夫自身だ。『船乗りクプクプの冒険』にもキタ・モリオ氏が出てくるし、『高みの見物』にも作家や船医などそれらしき人物が登場する。

最近気づいたんだけど、氏の作品に出てくる「ヘンなおじさん」はぼくの理想の姿である。
ぐうたらで、ほらばかりふいて、子どもといっしょになって遊んでいるおじさん。「できる大人」とは対極のような存在。そういう人にぼくはなりたい。そしてじっさいなりつつある。

「かっこよくないおじさんってかっこいい」という歪んだ認識をぼくが持ってしまったのは、子どもの頃に北杜夫作品と出会ってしまったからなんだろうな。


2018年6月2日土曜日

動きのない文章


学生時代の先輩から「おまえのブログ読んでるんだけど、ぜんぜん動きがないな」と言われた。記者をしている人だ。
「動きですか」
「そう、部屋から一歩も出ずに書いてるんだな、って思う。記者の文章とは真逆。おまえが書いてるのはエッセイだからそれでいいんだけど」

ふうむ。
たしかにそうかもしれない。改めて自分のブログを読み返してみると、なるほど、出てくる動詞は「思う」「考えた」「読んで」とかばっかりで、「行った」「会った」「駆けめぐった」「羽ばたいた」みたいな動きのある動詞が少ない。ぜんぜん羽ばたいてない。


それもそのはず、じっさいほとんど出歩かないのだ。
平日は家ー保育園ー職場のトライアングル内からほぼ出ない。バミューダトライアングルもびっくりの不可出トライアングルだ。
仕事はデスクワーク。客先に行くこともあるが一直線に行ってまっすぐ帰る。こないだ新幹線で名古屋に行ったが、業務が終わるとコメダ珈琲で食事をしてすぐに帰宅した。同僚から「せっかく名古屋まで行ったのに」と言われたが、ぼくとしては十分楽しんだつもりだ。本場のコメダ珈琲に行けたし(自宅近くの店舗とまったく同じ味だったが)往復の新幹線の中でたっぷり本を読めたから。

休日は娘とパズルをするか、娘とトランプをするか、娘と本を読むか、娘と図書館に行くか、家族でファミレスに行くか、娘と銭湯に行くか、娘とプールに行くか、娘やその友だちと公園で遊ぶか、娘の友だちの家におじゃまするか、それぐらいしかやってない。車も持っていないので遠出もしない。自転車すらない。幸いなことにファミレスも大型本屋も銭湯も電器屋も百貨店も図書館も病院も動物園も徒歩圏内にあるから必要ない。こないだ電車で三駅のところにある博物館に行ったのがぼくの中では小旅行だった。

大学生の頃、原付を乗りまわしてあちこちに出かけていた友人から「おまえも原付買えよ。世界が広がるぞ」といわれた。
ぼくは「本を読まない人間はあんなものに乗らないと世界を広げられないのか。効率悪いな」と思った。「おまえが原付に乗って隣町に行っている間に、本を読めば他の国にもべつの時代にも行けるのにな」と。
今でもそう思っている。旅行に出かけたら見聞は広がるし発見もある。本を読むだけでは手に入らない知識も得られる。そうなんだけど、逆に本を読むことでしか手に入らないものもある。いやそっちのほうが多い。寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』は本を読んでいる人に向けてのメッセージであって、本を読まないことを正当化するものではない。読んでないから知らんけど。えらそうなこといって有名作品も読んでないんです。

もっとあちこち出かけていろんな人と出会ったほうが「ネタ」は増えるだろうな、とは思う。きっとおもしろいことを書けるんだろう。読む価値のあることも書けるんだろうな。
でもぼくは職業的な書き手じゃないから書くために生きることも生きるために書くこともしない。

とりえあず記者じゃなくてよかった、とは思う。ぼくが記者だったら取材に行くのがめんどくさくて捏造記事を書いてしまうだろうな。


2018年6月1日金曜日

【読書感想】トマス・ハリス『羊たちの沈黙』


『羊たちの沈黙』

トマス・ハリス(著) 菊池 光(訳)

内容(e-honより)
FBIアカデミイの訓練生スターリングは、9人の患者を殺害して収監されている精神科医レクター博士から〈バッファロゥ・ビル事件〉に関する示唆を与えられた。バッファロゥ・ビルとは、これまでに5人の若い女性を殺して皮膚を剥ぎ取った犯人のあだ名である。「こんどは頭皮を剥ぐだろう」レクター博士はそう予言した…。不気味な連続殺人事件を追う出色のハード・サスペンス。

有名サスペンス映画の原作。映画のほうは十年ほど前に観たが、ショッキングなシーンは印象に残ったが(スターリングとレクター博士のはじめての面会シーンとか、翌日の自殺の一件とか、脱走シーンとか)、細部についてはよく理解できなかった。
なぜレクター博士はスターリングに協力するのかとか、レクター博士の的確すぎる推理の理由とか。

で、原作を読んでみたのだけれど、レクター博士の行動原理についてはやっぱりよくわからない。
でもこれはこれでいいのだろう。わからないから彼の異常性は際立つし、また彼の頭脳の明晰さも光る。

映画だとレクター博士は超人的なひらめきで犯人を突き止めているような印象を受けたけど、小説ではレクター博士が犯人にたどりついた経緯がしっかり書かれている。「理解できないぐらいの突飛な発想をする天才」ではなく「地に足のついた天才」であり、説得力が増している。
だが、総合的に見ると映画のほうがわかりやすい。
登場人物たちの心情は伝わってこないし、文章はかなり癖がある。ストーリーとほとんど関係のない会話やエピソードも多い。何も知らない状態でこの小説を手に取っていたら途中で投げだしていたかもしれない。



レクター博士は、残忍、紳士的、醜悪、慈悲深い、優秀、非人道的、冷徹、凶暴、知性的、快楽的。ありとあらゆる性質を兼ねそろえたキャラクターだ。一言でいうと「超やべえやつ」。
改めて読んでみるとレクター博士の登場シーンはそう多くない。だが主人公スターリングよりも圧倒的な存在感を残している。

大柄な女性の皮を剥ぐ連続殺人犯、死体の喉に詰まっていた蛾の繭、過去の記憶の中にある屠殺牧場、被害者女性が閉じこめられている地下室など不気味な小道具がそろっているが、どれもレクター博士の存在の前ではかすんでしまう。
「女性の皮を剥いで自分が着る服を作りたい」という願望を持った異常殺人犯ですら、レクター博士に比べればまだ理解できそうな気がする。
なにしろレクター博士はその猟奇的殺人犯の内面をぴたりと言い当ててしまうのだ。

レクター博士の存在こそがこの本の魅力であり、また欠点でもある。読んでいても「バッファロゥ・ビルを追う」という本筋よりもレクター博士の動向のほうが気になってしかたがない。
読みながら「そういや映画でこんなシーンあったな」と思いだしながら読んでいたのだが、そのほとんどがレクター博士のシーンだった。レクター博士が脱走するシーンは強烈な印象に残っているのに、バッファロゥ・ビルの逮捕シーンなどはまったく覚えていなかった。

さまざまなフィクションにマッド・サイエンティストのキャラクターは出てくるが、そのマッドっぷりにおいて、そして存在感においてレクター博士の右に出るものはそういないだろうね。


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【読書感想】首藤 瓜於『脳男』



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2018年5月31日木曜日

トリケラトプスと赤い羽根共同募金


娘には、くだらないことにおこづかいを使ってほしいと思う。

娘はまだ四歳なのでおこづかいはあげてないけど、お年玉をもらったりしているので数千円の貯金がある。
そういうお金は、なるべくくだらないことに遣ってほしい。

本を買ったり鉛筆を買ったりしないでほしい。そういうお金はぼくが出してあげる。
お菓子も、食べすぎない程度なら買ってあげる。
子どものお金は、大人が思いもよらないような、眉をひそめるようなものに遣うのがいい。


これは今年のお正月に娘が買ったトリケラトプスだ。1,500円した。

いい。すごくいい。大人だったらこんなものは買わない。
買うにしても、もっと小さいやつか、もっと精巧なやつか、もっと安いやつにする。
でかくて、ちゃちで、そこそこの値段がするトリケラトプスを大人は買わない。

娘が「このトリケラトプス買う!」といったとき、「えー、これ買うのー」と思ってしまった。でもまあいいかと思いなおした。
お金の価値もよくわかっていない四歳児が買わなくて誰がこのトリケラトプスを買うんだ。このトリケラトプスは今、うちの娘に買われるために作られたのだ、と。


思えばぼくも子どものときはわけのわからないものにお金を遣ってきた。
今でもいちばん意味わかんないのは、小学一年生のとき、赤い羽根共同募金に全財産(八百円ぐらい)を寄付したときだ。競艇場でおっさんが帰りの電車賃までレースにつっこんでしまうように、ぼくも全財産を募金箱につっこんだ。もちろん競艇場のおっさんと同じく何も得られなかった。赤い羽根はもらったけど、あれは寄付しなくてももらえる。

べつに善意でやったわけではない。何もわかっていなかっただけだ。先生に「おこづかいの中からいくらか入れてね」といわれたから、「ふーん。そういうものか」と思って全財産を入れただけだ。
ぼくが「これ全部入れる!」と高らかに宣言したとき、母親は当惑していた。「いいの?」「ほんとうにいいの?」と六回訊かれた。悪いことをするわけじゃないから止めるわけにもいかず、困っただろうな。


大人になった今、ぼくはものを買うときに「値段」と「機能」しか見ない。デザインとかブランドとかはほぼ気にしない。同じ機能で安いほうがあれば迷わず安いほうを買う。
だから買い物はべつに楽しくない。歯みがきと同じ「作業」だ。

自分ができないことだからこそ、値段も機能も気にしない娘の買い物を見て「ばかなもの買ってるなあ」と思うのは楽しい。


2018年5月30日水曜日

姉妹都市のような関係でいましょう


例によっていわし氏、花泥棒氏ととりとめもない話をしているうちに「姉妹都市ってなんで姉妹なんだろうね」という話になった。

「都市は女性名詞だから、とか? フランスあたりが発祥の概念なのかな?」という説が出たが、調べてみると元々は英語の「sister city」らしい。英語ということは女性名詞説ではなさそうだ。

本気で検索したらすぐにわかるのかもしれないけど、あっさり答えを出すのもつまらない。あれこれ考えてみるうちに、なんとなく以下のような仮説にたどりついた。

姉妹は縁を切ることがないからではないだろうか。
夫婦や親子や友人関係は、絶縁に至ることがある。「離縁」「勘当」「絶好」という言葉があるのがその証拠だ。
でも、あえて兄弟姉妹の縁を切る人はまずいない。仲が悪いきょうだいはいくらでもいるが、それでもきょうだいはきょうだいだ。そもそも大きくなればきょうだいとは距離を置くのがふつうだから、わざわざ縁を切る必要があまりない。

だったら「兄弟都市」でも良さそうなものだけど、兄弟には上下関係がある。
「兄貴分」「弟分」「父兄」「貴兄」「子弟」「弟子」なんて言葉が表すように、兄は目上で弟は下の存在だ。
でも「姉妹」には上下関係がない。「姉」と「妹」に、「年上の女きょうだい」「年下の女きょうだい」以上の意味はない。ないっていったらおおげさかもしれないけど、ない。

友好関係を築こうという相手に上下関係は持ちこまないほうがいい。
とはいえ上下関係がないからといって「双子都市」にしてしまうと、「うちのほうが歴史ある都市なのになんであそこと双子扱いなんだよ」と反発する住民もいるだろう。

そこで「めちゃくちゃ深い付き合いをするわけではないけどそこそこのつながりを保っていきましょうね」というメッセージをこめて「姉妹都市」になったんじゃないか、というのが酔っ払いたちの出した答えです。


ということで、告白されて「姉妹都市のような関係でいましょう」と言われたあなた、フラれたと思ってまちがいないです。