2018年4月24日火曜日

昨日買った本はもう読んだの?


中学生のときのこと。
近所の本屋で文庫本を買った。商店街の中にある、店主のおっちゃんがひとりで店番をしている小さな本屋だ。

その日のうちに本を読み終わった。
翌日また本屋に行って、同じ作家のべつの本をレジに持っていった。
店主のおっちゃんはぼくの顔を見て言った。
「昨日買った本はもう読んだの? 早いね。この作家の本好きなの?」

「はぁ、まぁ」とあいまいに返事をしながら、内心では「やめてくれ」と思っていた。

この中学生が昨日どんな本を買ったか。店主に記憶されているのがたまらなく恥ずかしかった。
エロ本を買ったわけじゃない。ごくごくふつうの小説だ。決して恥じるような行為ではない。
おっちゃんも褒めるつもりで言ったのだろう。本屋として、中学生が毎日本を買いにきてくれることがうれしかったにちがいない。

だけど本を買う、本を読むというのはぼくにとってすごくプライベートな行為だ。
それを他人には把握されたくなかった。
トイレの前で「一時間前にもトイレに行ったのにまた行くの?」と言われるぐらい恥ずかしかった。
それからしばらく、その本屋からは足が遠のいた。

ぼくがAmazonで本を買うのが好きなのは、便利なだけでなく「店員に覚えられなくて済む」ということもあるんだよね。


2018年4月23日月曜日

【読書感想】瀧波 ユカリ『ありがとうって言えたなら』


『ありがとうって言えたなら』

瀧波 ユカリ

内容(文芸春秋BOOKSより)
決して仲のいい母娘じゃなかった。
だからこそ、今、お母さんに伝えたいことがある――。

余命宣告、実家の処分、お墓や遺影のこと、最後の旅行、そして緩和ケア病棟へ。
「母の死」を真正面から描いた、涙なしでは読めないコミックエッセイ。

『臨死!! 江古田ちゃん』で知られる瀧波ユカリさんのコミックエッセイ。「すい臓がんで余命一年」を宣告された母親の闘病と看取りを描いている。

紹介文にある「涙なしでは読めない」は真っ赤な嘘。でも嘘で良かった。べつにお涙ちょうだいのお話を読みたいわけじゃなかったので。

もうさあ、「人の死? じゃあ"感動"で"号泣必至"で"心あたたまる"だな!」みたいな超頭の悪い条件反射キャッチコピーのつけかたはやめましょうよ。涙を誘うことだけが本の価値だと思ってんじゃねえよバカ。この本まともに読んだのかよ、極力感情を抑えた描き方してんじゃねえかよ、そこが魅力なのに真逆の方向性のコピーつけてんじゃねえよ。

……と編集者への悪態はこれぐらいにしておくけど、漫画は良かった。感動的じゃないところが良かった。自分の親の死を感動のタネにしようとするやつなんて信用ならんからね。



この本でいちばん印象に残ったのは、古い服は捨てていいかと訊かれたお母さんが
「でも捨てろ捨てろと言われると悲しくなるわ。
 あんたにはわからないかもしれないけどね…」
とつぶやくシーン。
この気持ち、なんとなくわかる。
もう着ない服。合理的に考えたら捨てない理由はない。でも、生きているうちに自分のものを整理されるのは悲しい。

この発言をしたときのお母さんは、「あなたはもうすぐ死ぬ人なんだから」とまだまだ生きる人から線を引かれたように感じたんじゃないかな。
ぼくも自分の余命があとわずかになったとしても、身辺整理をしてすっと旅立つ、なんてできないと思う。きっと歯ブラシのストックを買いこんだり、寿命のある間に読みきれないほどの本を買ったりして、せいいっぱい現世を散らかしてから死んでゆくような気がしている。



この漫画で描かれているお母さんは、傍から見ているとあまり「いいお母さん」ではない。
攻撃的だし、過剰に自信家だし、素直じゃないし。個人的には付きあいたくないタイプだ。瀧波ユカリさんもたぶん同じように思ってる。母親だからつきあってるけど、そうじゃなかったら距離を置いている。きっと。
幼少期のことはこの漫画にはほとんど描かれていないけど、それでも母親との接し方にずっと困ってきた様子がひしひしと伝わってくる。
このお母さんはひょっとしたら"毒親"に近いかもしれない。それでも瀧波ユカリさんは付きあっている。母親だから。

特に、瀧波ユカリさんのお姉さんへの接し方はひどい(ちなみにこのお姉さんは江古田ちゃんの"おねいちゃん"そのまんまの姿)。いちばん近くにいるから、というのがあるにしても「世話をしてもらっている相手をそこまで悪く言えるのか……」と、げんなりしてしまう。
お姉さんが看護師で、そういう人の相手に慣れているように見えるのが救いだけれど。



ぼくの祖母のことを書く。
祖父が亡くなり、ひとり暮らしになった祖母はまもなく認知症を発症し、身のまわりのことがまったくできなくなった。
長男が引き取って一緒に暮らすことになったのだが、祖母は娘(ぼくの母)に対して息子夫婦の愚痴ばかりこぼしていた。

介護をしてくれている長男夫婦については愚痴ばかりで、遠く離れて暮らしている娘のことは褒めちぎっていた。「あんたは優しいけど息子はちっとも優しくない、私に意地悪ばかりする」孫のぼくにすら言っていた。
認知症の人に言ってもしょうがないと思ったのでぼくも黙っていたけど、すごく不愉快だった。
家に引き取って世話をしている長男や、血のつながりもないのに介護をしてくれている長男の嫁がいちばんがんばっている。
そんなことは誰が見ても明らかだ。それなのに祖母は被害妄想に襲われて長男夫婦の悪態ばかり。

認知症を患うまでは祖母は誰に対しても優しい人だった。
いつもにこにこしていて、絵に描いたような「いいおばあちゃん」だった。そんな人が長男夫婦の悪口ばかり言うようになったので余計に悲しかった。病気が悪いんだとわかっていても不快感は拭えるものではない。

ドラマや漫画だと「最期は仏のようになって死んでゆく」なんて描写があるが、あんなのは嘘だ。嘘じゃないかもしれないけどレアケースだ。
死にゆく人に他人を気づかう余裕なんてないし、攻撃しやすい人を攻撃する。



『ありがとうって言えたなら』には、死を前にしてなお穏やかにならない、それどころか攻撃性を増している病人の姿が描かれている。
瀧波ユカリさんのお母さんは余命一年だったから周囲は困惑しながらもなんとか耐えられたけど、この状態があと何年も続いていたら、べつの人までダウンしていたかもしれない。仕事しながら、子どもの面倒みながら、感謝してくれるどころか恨みごとしか言わない親の世話をして……なんて不可能だよなあ。ぼくなんか仕事と育児だけでもうまくできてないのに。

医療現場で働いている人にしたらこういうのって日常の光景なんだろうけど、そうじゃない人間にとってはいたたまれない気持ちになる描写だ。
自分の親もこんなふうになるんだろうか。そのときうまく接することができるだろうか。自分も最期は周囲につらく当たって恨まれながら死んでゆくんだろうか。

家族にうっすらと「早く死ねばいいのに」と思われながら死んでいくのってつらいなあ。
今の法律って、自由に生きることはある程度保証してくれてるけど、自由に死ぬ権利はぜんぜん保証されてないよね。高齢先進国として、もっと死にやすい世の中になってほしいな。

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2018年4月22日日曜日

ばかの朝食バイキング


もう三十代半ばになると「焼肉食べ放題」などと聞いても心が動かされないどころか「いいお肉をちょっと食べるほうがいい」と思ってしまうのだが、それでもホテルの「朝食バイキング」だけは心躍る。

ホテルや旅館の夕食は無駄に量が多いのであまり好きじゃないが、ホテルの朝食バイキングは大好きだ。朝食バイキングを食べるためにホテルに泊まるといっても過言ではない。いや少し言いすぎた。

あんなに楽しいイベント、大人になるとそうそうない。
なんたってなんでも取り放題なのだ。

しかも、朝食、というのがいい。
朝ごはんのために各種パンとご飯とベーコンエッグとスクランブルエッグとゆで卵と目玉焼きと納豆と海苔と焼き鮭と味噌汁とカレーとコーンスープとオニオンスープとソーセージとハムとトマトとサラダとチーズとバナナとオレンジとグレープフルーツとヨーグルトとシリアルとミルクとオレンジジュースとコーヒーと紅茶を用意しようと思ったら、三時ぐらいに起きなきゃいけないだろう。それを全部やってくれるのだ。たかだか千円ぐらいで。ホテルによっては無料のところもある。最高。これに心躍らないはずがない。

目を覚まして「そろそろ朝飯でも食いにいくか」と部屋を出た段階では、まだ浮き足立ってない。それどころか少しおっくうだったりする。「めんどくさいけど、朝食付きのコースにしちゃったしな」ぐらいの気持ちだ。

でもずらりと並んでいる料理を見たら、たちまち血圧が上がる。「これ全部食べ放題!?」わかっているのに、いちいち喜ぶ。
もうぜんぶ食べたい。端から端までぜんぶ食べたい。ふだんそんな好きじゃない料理も、今日ばかりは食べたい。ミルクとオレンジジュースとグレープフルーツジュースとコーヒーをぜんぶ飲みたい。

そうはいっても現実的にぜんぶは食べられないので、まずは方向性を決めることになる。
すなわち、和か洋か。
まずご飯を盛るか、パンを手にするかでその後の方向性が決定する。ご飯はコーンスープやオレンジジュースとは合わないし、パンなら納豆や海苔はあきらめることになる。
まあたいていは洋食だ。
なぜなら、
・洋食のメニューのほうが選択肢が多い(和食なら、ほぼ味噌汁・海苔・鮭・納豆あたりに決まってしまう)
・食後のデザート→コーヒーという流れに自然に移行できる
・ご飯は家でもおいしく炊けるが、買ってきたパンは焼きたてパンに遠く及ばない
からだ。

まずはパンをとる。二個とる。スクランブルエッグとサラダをとる。ヨーグルトをとってシリアルをかける。オレンジジュースを入れる。
ふだんならこれで十分だが、そこはバイキングのおそろしさ。ここで引き下がってはもったいない。ソーセージとコーンスープとチーズとジャムとミルクとトマトも皿に盛る。


席について、自分の皿を眺めて思う。とりすぎた。

必ずとりすぎる。ちょっととって足りなかったらまたとりにいけばいいのに、それができない。一巡で済まそうとしてしまう。で、とりすぎる。

多すぎたな、これ全部食べられるかな、と不安になる。
そんな後悔すら楽しい。
後先考えずにとったので、スクランブルエッグと目玉焼きがあったり、ベーコンとソーセージがあったりする。
そんな失敗すら楽しい。
ばかみたいな皿だな、と思う。
己のばかさすら愛おしい。

いろいろとりすぎて、でもバイキングで残したらあかんと思うから無理して食べて、苦しい。
オレンジジュースもミルクもコーヒーも飲んで、おなか痛い。
ばかのバイキングだな、と思う。毎回思う。でも楽しい。毎回楽しい。

2018年4月21日土曜日

子どもをのびのびと遊ばせる先生


小学校四年生のときの担任は、三十代の男の教師。T先生。
ことあるごとに子どもたちを連れてどこかへ出かけたり、雪が積もったら授業をつぶして一日中雪遊びをさせたり(めったに雪が積もらない地域なので)、しょっちゅう冗談を言って生徒を笑わせたり、「子どもをのびのびと遊ばせる」ことに情熱を注いでいる人だった。

いい先生じゃないか、と思うかもしれないがぼくはT先生が苦手だった。
当時はうまく言葉にできずに「なんか好きじゃない」ぐらいにしか思えなかったけど、今ならなんとなくその理由がわかる。

T先生は「理想の子ども像」を強く持っていた。
彼は、勉強が嫌いで、野山で走りまわって遊ぶことが好きで、元気で明るく冗談に大笑いする子どもたちが大好きだったんだと思う。いわゆる「子どもらしい」子どもが好きだった。そして、そうでない子どもたちは好きではなかった。

ぼくは野山で走りまわることは好きだったが、勉強や本を読むことも好きだったし、明るくもなかったし、ひねくれたところがあったのでみんなが笑う冗談を「くだらない」とばかにするようなところもあった。
T先生はぼくのことを好きではなかったと思う。表立って態度に出すことはなかったが、自分が好かれていないことぐらい四年生になれば理解できる。

T先生の授業の進め方も「勉強ができない子向け」だった。問題を出して、答えられないであろうを指名し、間違った答えを引きだす。そこから「なぜ間違えたのか」「どういうところに気を付ければ間違えないか」といった指導をしていた。勉強のできない子にとってはありがたいやりかたかもしれないが、勉強の得意な子からするとつまらない授業だった。ぼくは後者だった。
ぼくが指名されることもあったが「誰にでもわかるかんたんな問題」を問われるのが不満だった。ぼくは「じっくり考えないとわからない難しい問題」を出してほしいのに。そして優越感に浸りたいのに。
つまらないので国語の教科書を先に読み進めたりしていると厳しく怒られた。「クラスがひとまとまりになって和気あいあいと授業をする」という形から外れるのを、T先生は何より嫌った。

休み時間に本を読んでいるとT先生は「天気がいいから外に遊びにいっておいで」と言う。
ノートを切ってつくったお手製のすごろくで遊んでいると「すみっこでこそこそそんな遊びをしてないでドッジボールでもしてこい」と怒られた。


T先生は塾を目の敵にしていた。
ことあるごとに「塾なんか行かなくても学校の勉強だけで十分」と口にしていた。
今はどうだか知らないけど、当時は塾に通うことを嫌う教師は多かった(学校の教師にしたら、自分の存在を否定されるような気持ちになるんだろう)。その中でもT先生は特に塾のメリットを否定していた。

ぼくは塾に通っていなかったが、四年生にもなるとクラスの何人かは塾に通っていた。ぼくの友人は塾に通っていたが、個人面談の場で「塾なんか辞めさせたほうがいいですよ」と言われたらしい。
彼らに対してT先生はことさら冷たく当たっていた。勉強のできない子がかんたんな問題を解けたときは大げさに褒める一方、塾に通う子らが難しい問題を解いても褒めなかった。彼らは居心地が悪かっただろう。


快活で勉強が苦手な子からは、T先生は大人気だった。そしてクラスの空気を支配するのはそういう子どもたちだ。だからT先生のことを悪く言いにくい雰囲気があった。
口うるさくて怒りっぽい先生のことなら「あいつむかつくよな」と言えたのに、「T先生嫌いだな」というと友だちから「なんで? めっちゃ遊ばせてくれるしおもしろいやん」と返ってくるので不満すらこぼしにくかった。

T先生は親からの評判はあまりよくなかったらしい。
まあ、授業時間をつぶして遊ばせてばっかりいたので、教育熱心な親からしたら気に入らない教師だっただろう(ぼくが通っていた小学校にはそういう親が多かった)。

でもT先生からしたら「もっと勉強させてほしいと願う親」の存在は、自分のやりかたを改める理由にはならなかっただろう。いや、それどころか「理解のない親から『子どもらしさ』を守らねば」と、自身の行動を正当化する材料になるだけだっただろう。

でも勉強をさせてほしいのは親だけじゃない。勉強したい子どももいる。
勉強が好きな子どももいるということは、T先生にとってまったく想像の外、想像すらしたくないことだったのだろうな。


2018年4月20日金曜日

味噌のポテンシャル


今さらながら味噌にはまっている。
第一次味噌ブームが起こったのは奈良時代のことだから、1300年ほど遅れてブームに乗っかっていることになる。


きっかけは料理研究家の土井善晴さんのエッセイだった(→ 感想)。
土井さんが「おかずが足りないときは味噌をそのまま食べればいい」と書いていたのでやってみたら、思いのほかうまかった。

"味噌汁"や"味噌煮"でその能力の高さは知っていたつもりになっていたが、味噌の実力はまだまだそんなもんじゃなかった。なんたるポテンシャル。

ご飯に乗せて食べてもうまい。
味噌茶漬けにしてもうまい。
味噌おにぎり、最高。海苔と味噌の相性ばつぐん。

味噌のおにぎりって梅ぼしや鮭や昆布と並ぶぐらいの定番商品になってもいいと思うのに、コンビニで「みそ」のおにぎりを見たことがない。「豚肉の味噌炒め」とか「味噌焼きおにぎり」とかはあるけど、味噌だけで主役を張ったおにぎりがない。
もっともっと評価されてもいいと思うよ、味噌おにぎり。

肉にも魚にも野菜にもご飯にも麺にもあう。
味噌は万能。ベビースターラーメンみそ味以外は全部おいしい。