2018年4月19日木曜日

君がこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にはいないでしょう


孝之へ

君がこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にはいないでしょう。


でももし私がまだ存命中にこの手紙を見てしまった場合、速やかにこの手紙を元のトイレットペーパーのストックを置いとく場所にしまってください。そしてしばらく忘れてください。私が死んだらまた思いだしてください。


もし私が危篤状態にあるときにこの手紙を発見した場合は、医師の判断を仰いでください。
意識を取り戻す可能性がぜったいにない、とお医者さんが断言したときだけこの手紙の続きを読んでください。
くれぐれも勝手な判断で「もう意識がないから読んでも大丈夫だろう」だなんて思わないでください。素人判断ほど危険なものはありませんから。
専門家の知識を甘く見てはいけません。だいたい君は六年前もちょっと調子の悪くなったHDDレコーダーを分解して、壊してしまったでしょう。あれだって早めに電器屋さんに持っていけば直ったかもしれないのに。君にはそういうことがあるから気を付けてください。


もしこの手紙を読んでいるのが孝之じゃない人の場合、ここで読むのをやめて、この手紙を孝之に渡してください。
「これ、トイレットペーパーのストックを置くところにあったよ。大丈夫、まったく読んでないから」
と言って手渡してください。「自分宛ての手紙をほかの人が先に開封した」と知ったらなんとなく嫌な気持ちになっちゃうでしょう。だからまったく読んでないことにして渡してあげてください。


もしこの手紙を読んでいるのが孝之じゃなくて、かつ私がまだ生きている場合は、この手紙を元の場所に戻してください。私が危篤状態にあるときの手順は先に書いたとおりです。


もしこの手紙を読んでいるのが孝之じゃなくて、かつ孝之のことを知らない人の場合、そして私のこともしらない人の場合、お願いがあります。

お手数ですが居間にあるパソコンを起動してください。パスワードは「password」です。
そのパソコンの「マイコンピュータ > ダウンロード > 仕事用 > 参考資料 > 2015年 > 3月」の中にある「画像」というフォルダを決して開封せずに削除してください。それが済んだら直ちにごみ箱を空にしてください。
理由は聞かないでください。こういうことは知り合いにはかえって頼みにくいので、よろしくお願いいたします。



2018年4月18日水曜日

【読書感想】恒川 光太郎 『夜市』


『夜市』

恒川 光太郎 

内容(e-honより)
妖怪たちが様々な品物を売る不思議な市場「夜市」。ここでは望むものが何でも手に入る。小学生の時に夜市に迷い込んだ裕司は、自分の弟と引き換えに「野球の才能」を買った。野球部のヒーローとして成長した裕司だったが、弟を売ったことに罪悪感を抱き続けてきた。そして今夜、弟を買い戻すため、裕司は再び夜市を訪れた―。奇跡的な美しさに満ちた感動のエンディング!魂を揺さぶる、日本ホラー小説大賞受賞作。

『夜市』『風の古道』の二篇を収録。
日本ホラー小説大賞受賞(『夜市』)で、レーベルは角川ホラー文庫。でもホラーではない。
二篇ともこの世のものではない存在がはびこる世界を描いているが、怖がらせるために書いているわけではなく、さらりと「こういう世界もあるんですよ」と提示しているだけ、というような筆致。

今市子『百鬼夜行抄』という漫画を思いだした。
あれも妖怪が出てくるが、ただ「いるだけ」だった。いくつかの条件が重なれば人間に害をなすこともあるが、それは彼らが邪悪だからではなく、それなりの理由があってやっていることだった。

人間と虫の付き合い方にも似ているかもしれない。人間には人間の世界があり、虫には虫の世界がある。基本的にはお互いに干渉しないが、人間がハチの巣に近づけばハチは攻撃してくるし、人間の家にゴキブリが侵入すれば人間はゴキブリを殺そうとする。ただしそれぞれの領域を侵さなければ特に何もしない。意識することすらない。

『夜市』や『百鬼夜行抄』で描かれる人間と物の怪たちの関係もそれと似ている。それぞれべつの世界を生きている存在。こちらが何もしなければ敵ではないし味方でもない。ふとした拍子にたまたますれちがうだけの隣人。



特に『夜市』は、短篇でありながら見事な怪異譚だった。
半醒半睡のような雰囲気、徐々に登場人物の過去が明らかになる構成、意外な展開、そして余韻の残るラストと、短い中に小説のおもしろさがぎゅっと詰まっていた。

 首を売っている店もあった。台の上に、ライオンや象、ムースやバッファロー、そして明らかに人間と思われる男と女の首が並んでいた。その店の主は葉巻カウボーイで、ライフルを分解して暇をつぶしていた。
「ねえ、あの人間の首は、つくりものよね」
 いずみが青ざめて裕司の袖をひいた。裕司はそれには答えなかった。
 鳥を売っている店があったが、鳥かごの中の鳥はどれも、足が三本あったり、鱗に覆われていたりして、図鑑や動物園も含めて、いずみが一度も見たことのない鳥ばかりだった。
 棺桶を売っている店があった。店の前には腐敗した死体が三つ立って、いずみにはわからない言葉を呟いていた。腐敗した死体たちからはひどいにおいがした。並んでいる棺桶の一つからうめき声が漏れたので、いずみは小さな悲鳴をあげた。

いきなりこんなわけのわからない世界に入るので、なるほど奇妙な味わいの幻想的な物語ね、と思っていたらストーリーもしっかりと組み立てられていたので思わずうなった。

ぼくはファンタジーというジャンルがあまり好きでないのだが、それは「ファンタジー世界をいかに精巧に構築するか」に重点が置かれていて、肝心の物語がおもしろくない作品が多々あるからだ。
世界感はすばらしいのに、お話は「少年がある日冒険の旅に出て、個性的な仲間と出会い、いろいろ苦労しながら悪いやつをやっつけてバンザイ」だったり。それだったら『オズの魔法使い』のほうがよっぽどおもしろいわ、と思っちゃうよね(いや『オズの魔法使い』は名作だけどね)。
宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』とかつまらなかったなあ。RPGゲームを文章化しただけみたいだった。「どんな本でも最後までは読んでみる」をモットーにしているぼくが途中で投げだした、数少ない本のひとつだ。いくらジュブナイルとはいえ……(『ブレイブ・ストーリー』の悪口を書きだすと長くなるので省略)。

ゲームのシナリオだったらある程度単純なほうがいいんだろうけど(複雑にしすぎるとゲームそのものの味わいを邪魔する)、小説でそんな単純なストーリーは読みたくない。
ファンタジーで終わらせない仕掛けのある小説が読みたいのだ。
貴志祐介『新世界より』や森見登美彦『四畳半神話体系』は、そのあたりに見事に成功していた。あれはおもしろいファンタジーだったけど、ファンタジーだったからおもしろかったわけではない。ファンタジーで、かつ、おもしろかった。

『夜市』も、まず蠱惑的な世界に目がいくが、物語はその世界観に頼りきりでない。めちゃくちゃな世界のようで、登場人物の行動には整合性がある。伏線の回収もじつにさりげないし、トリックの種明かしを物語のラストに持ってこない構成もいい。主題はそっちじゃないもんね。
すごく疲れているときなんかにやけに明確なストーリーのある夢を見ることがあるが、そんな感じの読書体験だった。まるで白昼夢。


「奇跡的な美しさに満ちた感動のエンディング!」というチープすぎる宣伝コピーをのぞけば、他に類のない、完成された小説だった。


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【読書感想】森見 登美彦『四畳半神話大系』



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2018年4月17日火曜日

【読書感想】ジョージ・オーウェル『一九八四年』


『一九八四年』

ジョージ・オーウェル

内容(e-honより)
“ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。

言わずと知れたディストピア(暗黒郷)小説の名作。
古典的名作にありがちなことなんだけど、前半は少し退屈。これは『一九八四年』が悪いわけではなく、『一九八四年』を下敷きにした作品が数多く生まれているために、設定自体が目新しいものではなくなっているから。
「はいはい、強大な権力を持った独裁者によって監視カメラが張りめぐらされた世界ね、それはもうわかっているからそこの説明にページを割かなくていいよ」
と思っちゃう。

組織に反抗的な思想を持つ主人公が、体制から自由闊達な美女と出会う。さらには革命組織が彼らに接触してくる。「なるほど、この二人が手を取り合って組織と闘って、最後に希望ある未来が示されるのね」と思っていたら……。
いい意味で裏切られた。いや、いい意味、なのかな? このとことん救いのない展開、ぼくは好きだけど。
清々しいまでに絶望しか残らなかった。ジョージ・オーウェルの『動物農場』を読んだときは「これは悲惨な社会だ」と思ったけど、『一九八四年』に比べたら動物農場なんて天国みたいなもんだね。


愛情省に舞台を移した後半以降の息詰まる展開は特に読みごたえがあった。

「一〇一号室だ」将校が言った。
 すでに蒼白になっていた男の顔が、ウィンストンにはとても信じられない色に変わった。はっきり、見間違えようもなく、緑色に変わったのだ。
「何をされても構いません!」男は喚いた。「何週間も食べ物を貰えないで、もうわたしは餓死寸前です。終わりにして、死なせてください。射殺してください。絞首刑にしてください。禁固二十五年の刑にも服します。他に秘密の正体を暴露すべき人間がいますか? 誰か言ってくだされば、何でもお望みのことを申し上げます。誰であろうと、その連中に何をなさろうと構いません。わたしには妻と三人の子どもがいます。一番上の子だってまだ六歳になっていません。でも妻と子全員を捕らえ、わたしの目の前で喉をかき切ってくれて結構です。黙って見ています。でも一〇一号室だけはどうか!」
「一〇一号室だ」将校が言った。

この短い文章を読むだけでぞくぞくする。「一〇一号室」の恐ろしさたるや。
ただ、終盤で「一〇一号室」で何をするのか判明するのだが、明らかになってしまうと「なーんだ」という感じだった(怖いけど)。何をされるかわからないほうが恐ろしかったな。

愛情省でのウィンストンの思考の変遷は、人間の意志や信念が暴力の前ではいかにもろいかを教えてくれる。平和な世の中ではどれだけかっこいいことを言っていても、いざ痛みを前にしたらかんたんに転んでしまうんだろうね。少なくともぼくはあっさり転ぶ自信がある。

だからこそ権力者は自身の力に対して抑制的でないといけないんだけど、権力者自身が権力を拡大させたいという欲求に逆らうのはほぼ不可能だろう。
そのために憲法があるんだけど、そのことの意味をよくわかっていない権力者も多いよねえ。



『一九八四年』の登場人物はそう多くないが、オリジナルの概念は多い。イングソック、永久戦争、真理省、二重思考、存在するかどうかわからないゴールドスタインなど、どれもよく考えられている。すべてビッグ・ブラザーが人民を統治するための仕組みだ。たしかにこれだけの武器を備えていたら完璧に支配することもできるかもしれない、と思わされる。

特に感心したのがニュースピークという概念。

「分かるだろう、ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭せばめることにあるんだ。最終的には〈思考犯罪〉が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。その語の意味は厳密に定義されて、そこにまとわりついていた副次的な意味はすべてそぎ落とされた挙あげ句く、忘れられることになるだろう。すでに第十一版で、そうした局面からほど遠からぬところまで来ている。しかしこの作業は君やぼくが死んでからもずっと長く続くだろうな。年ごとに語数が減っていくから、意識の範囲は絶えず少しずつ縮まっていく。今だってもちろん、〈思考犯罪〉をおかす理由も口実もありはしない。それは単に自じ己こ鍛たん錬れん、〈現実コントロール〉の問題だからね。しかし最終的には、そうしたものも必要なくなるだろう。言語が完璧なものとなったときこそが〈革命〉の完成。ニュースピークは〈イングソック〉であり、〈イングソック〉がニュースピークなのだ」

さらに巻末にわざわざニュースピークの説明文まで設けている。

 上述したことから理解されようが、ニュースピークを使って非正統的な意見を表明することは、それがきわめて低級なものの場合は別として、ほぼ不可能であった。もちろん、正統に反する非常に粗雑な邪説、一種の涜とく神しんのことば、を口にすることが不可能であったわけではない。例えば、「ビッグ・ブラザーは非良い  ungood  」ということはできたであろう。しかしこのように発言したからといって、正統派の耳には自明すぎる愚の骨頂としか響かず、この発言を筋の通った議論で裏づけることなどとても無理だったろう。裏づけるのに必要な語が手に入らなかったからである。イングソックに有害な思想はことばを伴わない曖あい昧まいな形で心に抱くしかなくて、また、それを名指そうとすれば、様々の邪説全部を一ひと括くくりにし、それらを明確に定義づけないまま断罪だけする実に雑ざつ駁ぱくな用語を使うより他ないのだった。

すごく単純に言ってしまうと、ニュースピークでは単語の数を極力減らして(たとえば「cut」という動詞をなくして「knife」を名詞としても用いる)、不規則動詞やあらゆる例外をなくすことで、文法体系をできるかぎりシンプルにする。そうして人々に複雑、抽象的な思考をできなくするのだ。

監視カメラや盗聴器では行動は制御できても思考まではコントロールできない。だが言語を抑制すればおのずと思考も制限される。語彙の少ない人は思考も狭く浅くなってしまう。
だから、できるかぎり文法をシンプルにするというニュースピークは(人民の反逆を抑えるという観点では)きわめて有用な語法だ。
中学生のとき、「過去形なんて全部 -ed でいいだろ。複数形はすべて -s、比較級・最上級はすべて more ~、most ~ でいいだろ」と思っていたけど、多くの英語学習者を苦しめている不規則活用たちも思考に深みを持たせるためには必要なんだろうなあ。


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政治はこうして腐敗する/ジョージ・オーウェル『動物農場』【読書感想】




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2018年4月16日月曜日

【読書感想】本多 孝好『正義のミカタ』


『正義のミカタ』

本多 孝好

内容(e-honより)
僕、蓮見亮太18歳。高校時代まで筋金入りのいじめられっ子。一念発起して大学を受験し、やっと通称スカ大に合格。晴れてキャンパスライフを満喫できるはずが、いじめの主犯まで入学していた。ひょんなことから「正義の味方研究部」に入部。僕は、元いじめられっ子のプライドに賭けて、事件に関わっていく。かっこ悪くたっていい、自分らしく生きたい。そう願う、すべての人に贈る傑作青春小説。

いじめられっ子である"ぼく"がある男に助けられ、連れていかれた先は「正義の味方研究部」。そして"ぼく"も正義の味方として活躍することに……。

舞台は大学なのになんと幼稚な展開……。これはハズレを引いたかなと思いながら前半を読み進めていた。
終始青くさいし、ご都合主義だし、正義といいつつ法ではなく暴力で解決しているし、こんなの今どき少年マンガでも支持されないでしょ、と思いながら。

中盤以降は意外なキャラクターが犯罪グループを組織していることがわかったり、正義も一筋縄ではいかないことに主人公が気づいたり、完全無欠に見えた登場人物が屈折を抱えていることがわかったりするんだけど、そもそも「正義の味方研究部」に対してずっと嘘くせえなという思いがぬぐえなかったから後半の落差もあまり効いてこなかった。


「正義」について語るのは難しい。どうしたって偽善っぽさはついてまわる。「悪」は誰にとってもよく似ているのに対し、「正義」は立場ごとに姿を変える。
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読めばわかるように、ハーバード大学の賢い人たちが話し合っても一律に定義できない。定義できないことこそが正義の本質と言えるかもしれない。
『正義のミカタ』でも、貧困にあえいでいる家庭の子が(それほど被害者を生まない)犯罪に手を染めて金を稼ぐのは悪いことなのか、という問題が提示されている。犯罪は犯罪なんだからダメでしょ、とは思うけど、貧困家庭で生まれた子どもはずっと貧困のままで格差が再生産されつづいてゆくのが正しいのかというと、それもまた首をひねらざるをえない。


『正義のミカタ』は「正義」のあり方をテーマにしているんだけど、最後は「君なりの正義を考えてみましょう」みたいな感じで放りだしてしまったのが残念。正義の形が多様であることなんてわかってるんだよ。これだけ長々と書いて結論それかよ。
さんざん青くさいことを書いておいて、最後は「みなさんで考えてみましょう」みたいな国語の教科書的逃げ方ってのはちょっとずるくないか。どうせなら最後まで青くさくあってほしかった。
登場人物にもっと真正面から正義を語らせてほしかったな。ハーバード大学の講義とちがって間違っててもいいのが小説という表現手段の強みなんだから。


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2018年4月15日日曜日

やらないと失うこと


娘が水泳教室に通いはじめた。

水泳教室の間ただ待っているのもひまなので、ぼくも横のレーンで泳ぐことにした。
これまでもときどき泳ぎにきていたが、根気がないので長続きしなかった。娘と一緒ならサボれないのでちょうどいい。

水泳教室の時間は一時間。
初回は、その間に900メートル泳いだ。へとへとに疲れた。
その次の週は1050メートル、その次は1150メートル……と順調に泳ぐ距離を伸ばしていき、9回目となった前回は1600メートル泳ぐことができた。
回を重ねるごとに自己記録が更新されていくのが楽しい。

何をするにしても、ぐんぐん上達していく段階、知識が増えていく段階は楽しい。
しかしぼくは知っている。この楽しさはそろそろ終わるということを。



ジムに通っている知人が「筋肉が落ちることが恐ろしくて、二日以上ジムを休むことができない」と言っていた。
そうなのだ、ある段階を過ぎると「新しく得るのが楽しい」から「今あるものを失うのが怖い」になってしまうのだ。

ぼくは寝る前に柔軟体操をしている。十三歳のときからやっていて、三十代になった今でも脚を百八十度開脚することができる。
もはや習慣になっていて、やらないと気持ち悪くて寝られない。どんなに疲れていても、泥酔していても、柔軟体操だけはやらないと気持ちが悪い。
はじめのうちは自分の身体が日に日に柔らかくなることが楽しかったけど、今は何の楽しみもない。やらないと苦痛だからやっている。ニコチン中毒者が義務的にタバコを吸うのと同じように。



歳をとると、「やると成長すること」が減り「やらないと失うこと」が増えていく。
柔軟体操も、歯みがきも、筋トレも、ニュースを見ることもそうだ。人によっては、ゲームだったり、料理をつくることだったり、子どもを塾に通わせることだったりするだろう。

ぼくにとっての「やらないと失うこと」の最たるものは読書。
もちろん本を読むことは楽しいが、それ以上に義務だ。本を読むのをやめて知識のインプットが止まることが恐ろしくてたまらない。だから、どんなにおもしろい本でも読みかえすことはほとんどない。そんな時間があったら新しい本を読まなくてはならない。

日々のトレーニングは自信になる。
筋トレをしている人は「筋トレをすると自信がつく。ポジティブに生きられるようになる」と言う。
ぼくは筋トレをしないがその言葉には納得する。読書がぼくにとっての筋トレだからだ。

毎日本を読んで、新しい知識をとりいれる。
それが心の平穏を保つことに役立つ。腹の立つヤツに出会っても「でもぼくはこいつよりたくさんの本を読んでるしな」と思える。失敗をしても「いやいやでも多くの本を読んできたから大丈夫だ」と思えば落ち込まない。
得た知識が役に立つかどうかはどうでもいい。重要なのは「本を読んで新たなことを知った」という事実だからだ。

高校球児は「自分たちはどこよりも練習してきた。それが自信になっている」と語る。
自信のためには練習の中身は重要でない。一日千回素振りをするような、見当はずれの努力でもかまわない。自信を植えつけるために必要なのは、効率の良い一日十回の素振りではなく「千回やった」という事実なのだ。



ぼくたちを動かしているものは「やりたいこと」でも「やらなきゃいけないこと」でもなく、「やらないと失うこと」なんだろう。