2018年4月4日水曜日

改札に引っかかった間抜けの末路


都会の通勤電車における三つの大罪といえば、「歩きスマホ」「傘の先を後ろに向ける」と並んで、「改札退場時に引っかかる」が挙げられることはご承知の通りだ。

ただ、歩きスマホや傘の持ち方とは違い、どれだけ気を付けていても引っかかってしまうのが詐欺と改札だ。
誰もが他人事ではない。「おれはぜったい大丈夫」とは思えない。ぼくも毎朝ラッシュ時に改札を通るときに「引っかかったらどうしよう」と戦々恐々としている。

誰もが陥りかねない罠なのに、改札に引っかかった人に対して周囲の人々がとる対応はあまりにも冷酷。
目の前の人が改札に踏み込んだ瞬間「ピンポーン!」と鳴る。このとき、その直後を歩いていた人が顔をしかめる確率は百パーセントであることが我々の調査でわかっている。ちなみに、二つ後ろを歩いていた人が顔をしかめる確率は八十四パーセントだ。

「あのマザー・テレサですら、前の人間が改札に引っかかったときに舌打ちをした」という話がまことしやかに伝えられている。この話が事実かどうかはわからないが(ぼくが今つくった話なのでたぶん嘘だろう)、さもありなんと思わせるだけの説得力があるのは、それだけ改札に引っかかった人に対して憎しみを抱くのが自然なことだからだ。もしかすると狩猟時代から備わる人間の本能なのかもしれない。それが何の役に立つのかはわからないが、本能とはそういうものだ。

イエス・キリストは云った。
「自動改札に引っかかったことのない者だけが、改札に引っかかった者に対して顔をしかめ、舌打ちをしなさい」

すると人々はあからさまに迷惑そうな顔をし、舌打ちをしながらイエス・キリストを避けて別の改札に並びなおした。


人種、性別、出自、身体的特徴。
すべての差別がなくなったとしても、「改札に引っかかった人差別」がなくなる日は来ないだろう。

改札に引っかかった人は一瞬にして周囲の注目を集め、冷ややかな視線を浴びることになる。
「後続に迷惑かけてんじゃねえよ」
「まあダサい」
「あら営業一課のハセガワさんだわ。すてきな人だと思ってたのに、幻滅」
「おやあれはハセガワくんか。仕事のできる若手だと思ってたのに、改札に引っかかるようじゃ大事な仕事は任せられんな」
と、たちまち彼の評価は暴落。よくて左遷、悪くて解雇。
状況的には痴漢で捕まったときと同じだ。いや、痴漢の場合は冤罪の可能性があるだけまだましかもしれない。



差別の原因は、「改札に引っかかった人は後退しないといけない」というルールだ。そのせいで著しい通行の妨げになる。

たとえば「料金不足で『ピンポーン』という音が鳴った場合はそのまま改札を出た後に差額を清算しなければならない」だったなら、後続の人たちに迷惑をかけることもなく、犯罪者のような扱いを受けることはないだろうに。

しかしこのシステムを導入すると、料金を清算せずに逃げるやつが現れる。

そこでぼくが提案する唯一のソリューションは、
「改札に引っかかったら床に穴が開いて、引っかかった犯人がそこに転落する」だ。
直後にまた穴がふさがれるようにすれば後続の人たちは滞りなく通過できるし、犯人も周囲から後ろ指をさされることがない。

被害者の便益と加害者の人権の両方を守れるすばらしい制度だと思うので、鉄道会社の人はぜひ導入のご検討を。


2018年4月3日火曜日

いとあざとし


四歳の娘は、ご飯が終わるとぼくの膝に乗ってくる。

ぼくが読んでいる本をのぞきこんで、わからないくせに「なるほど」などとうなずいている様はいとをかし。

しかしご飯がついたべたべたの手で服をさわってくるのは勘弁してもらいたい。


「ごはん終わったら手を洗ってきてね」

「ごちそうさましたら、はみがきしぃやー」

と告げると、娘はこう返す。

「いやや。ここにいる。だっておとうちゃんが好きだから」


ずるい。さすがは女の子。やり口が非常にあざとい。

そんなこと言われたら、ねえ。

もう、ねえ。

ずるいよ、ねえ。

そんなの言われて「早くお膝から降りて手を洗ってきなさい」と言えるお父ちゃんが世の中にいますかっての。

2018年4月2日月曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』


『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉
芸道百般』

桂 米朝

内容(e-honより)
ますます円熟する上方落語の第一人者、桂米朝の落語の世界。第七巻は、「芸道百般」。さまざまな芸能、芸事にかかわる落語集。いまや失われてしまった芸の中に、大道華やかなりし日本のいにしえを偲ぶことができる。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第七巻。

歌舞伎、浄瑠璃、講談などを扱った噺が多いが、芝居の台詞があたりまえのように引用されていたりするので昔の人にとっての一般教養だったんだな。今だと『となりのトトロ』や『STAR WARS』の台詞が特に説明なしで用いられてもだいたい通じるようなものかな。ま、ぼくは『STAR WARS』観たことないんだけど。


軒づけ


浄瑠璃の稽古に励む若者たち。自分たちの浄瑠璃を聴いてくれる人がいないので、軒づけをしようと考えた。ところがまともに三味線を弾けるものがおらず、どの家に行っても迷惑がられてばかり……。

「軒づけ」とは、一軒一軒家をまわって軒先で浄瑠璃を披露することだそうだ。今でいうストリートミュージシャンのようなものだね。でも駅前とかでやるストリートミュージシャンとちがって知らない人の家の前まで押しかけて浄瑠璃を聞かせるわけだから、昔の人は積極的だったんだなあ。今だったら警察呼ばれるな。

ありがたいことに「軒づけ」という迷惑千万な風習はもうなくなったけど、で、選挙カーはいつなくなるの?


花筏


大坂相撲の大関である花筏が病気で巡業に行けなくなった。そこで花筏に顔が似ており、身体も大きい提灯職人の徳さんが代役をすることになった。相撲はとらなくていいという条件で高砂巡業に行くことになった徳さん。はじめはばれないかとびくびくしていたが、徐々に気が大きくなり、さんざん飲み食いするわ、はては夜這いまでするわで、実は元気なのではないかと疑念を持たれるようになり、地元の力自慢である千鳥が浜との取り組みを組まされてしまった。
一方千鳥が浜は、花筏が自分を殺そうとしていると父親から聞かされてすっかり怖気づいてしまう。
わざと負けようとする花筏(徳さん)と、花筏に殺されると思いこんでいる千鳥が浜の対戦がいよいよ始まり……。

大正時代に消滅した大坂相撲にまつわる噺。昔の相撲は地方巡業に行くと、その土地の力自慢と対戦していたそうだ。地元の強いやつが大坂の強い力士を破ったりしたら盛り上がるだろうなあ。今もやったらおもしろいだろうけど、力士の大型化が進んでいる今では危険きわまりないだろうな。
徳さんにとって思いもよらぬ方向に転がる展開、徳さんと千鳥が浜それぞれの心中描写、ぐっと引きこまれ盛り上がるクライマックス、そして冒頭の提灯職人を活かしたサゲと、完成度の高い噺。


蔵丁稚


芝居好きの丁稚、仕事をサボって芝居を観にいっていたことが旦那にばれて、蔵に閉じこめられてしまう。腹が減った丁稚は気を紛らわすためにひとりで芝居をすることにし、切腹のシーンを再現する。蔵の中を覗いていた女中が丁稚が本当に切腹しようとしていると勘違いしてあわてて旦那に報告。旦那もあわてて蔵に駆けつける……。

娯楽の少なかった時代、芝居の魅力に憑りつかれる人は今よりずっと多かったのだろう。
なんか見たことあるようなエピソードだな、と思ったらあれだ。『ガラスの仮面』の1巻だ。ラーメンの配達に行った北島マヤが途中でお芝居ごっこにはまってしまい、帰るのが遅くなってめちゃくちゃ叱られるやつだ。あとマヤも少しドラマを観ただけで台詞を完璧に覚えられたしな。一緒だね。千の仮面を持つ丁稚。


七段目


芝居好きの若旦那、商売をほったらかして芝居見物ばかりに興じている。二階に閉じ込められてしまった若旦那は、やはり芝居好きの丁稚をつかまえて一緒に芝居ごっこをはじめる。夢中になるあまり丁稚が階段から転げ落ちてしまう……。

特にこれといったおもしろい展開もなく、ただ芝居ごっこをするだけ。芝居の元ネタを知らないと退屈な噺だ。


蛸芝居


とある商家、旦那はおろか番頭、丁稚、女中などみんなが芝居好きで、なにかというとすぐに芝居の真似事がはじまってしまう。やってきた魚屋も芝居に熱中してしまい、さらには買ってきたタコまでが芝居をはじめて……。

これも『蔵丁稚』や『七段目』と同じく「芝居好きの人物が芝居の真似事をしているうちに熱演してしまう」タイプの噺だが、ユニークなのは「一家そろって全員芝居好き」という点と「タコまでが芝居をはじめる」という後半のナンセンスさ。
どんな会話をしても芝居になってしまうという展開、ラーメンズのコント『映画好きの二人』を思いだした。


動物園


早起きはしなくてよく、重いものも持たず、責任もなく、人としゃべらず、ごろごろ昼寝をしているだけで金がもらえる仕事がしたいという男。持ちかけられたのは、死んだ虎の皮を着て移動動物園の檻の中にいるという仕事。
これは楽だと快適に過ごしていたら「ライオンと虎の対決ショー」が始まると聞いて大あわて……。

わりと有名なストーリーだが、それだけよくできた噺だからだろう。「死んだ虎の毛皮を着て人間が虎のふりをする」という実際にあってもおかしくなさそうな絶妙な設定や、ライオンと対決しなければならない緊張感、その緊張が一気にほぐれる秀逸なサゲまで、どこをとっても無駄がない。

「移動動物園」は今もあって家畜や小動物が中心だが、かつてはカバやゾウを連れて移動していたこともあったらしい。ゾウなんかトラックで運べたのかな。自分で歩かせていたのかもしれない。さすがにトラやライオンはないかな。


あくびの稽古


歌、踊り、浄瑠璃など何を習ってもうまくできず長続きしない男、「あくび」を教えてもらいにいくのでついてきてほしいと友人に頼みこむ。さまざまなシチュエーションでのあくびのしかたを教える先生、なかなかうまくできない男。付き添いで来た友人はすっかり退屈してしまいあくびをする……。

『あくび指南』とも。ロバートのコントってこういう設定が多いよね。変なスクールがあって、うさんくさい講師(秋山)が他のふたりに何の役にも立たないことを教える、っていう構成。


くしゃみ講釈


女と逢引きをしていたら講釈師に邪魔をされた男、仕返しをしてやろうと一計を案じる。胡椒をくすべてくしゃみをさせ、講釈をできないようにしてやろうというものだ。
ところが記憶力が悪いため「八百屋で胡椒を買う」ということが憶えられない。兄貴分は、のぞきからくりの演目『八百屋お七』に引っかけて憶えれば忘れないと説くが、男は八百屋まで行ったもののどうしても思いだすことができないため店先で『八百屋お七』を演じることになる。
胡椒が売り切れていたため、やはりくしゃみが出るという唐辛子を買ってきた男。講釈場に乗りこんでいって唐辛子を火鉢にふりかけると、はたして講釈師はくしゃみが止まらなくなる……。

逢引きを邪魔されるくだり、兄貴分から悪知恵を授かる会話シーン、八百屋に行ってくりひろげられるドタバタ、それぞれに笑いどころが多く、また『八百屋お七』や講釈の『難波戦記』を披露するシーンがあるなど、見どころの多い噺。これを演じるのはたいへんだろうなあ。
いかめしい講釈が続いた後にくしゃみの連発、という緊張と緩和も見事。よくできた噺なのだが、それだけにサゲがいまいち腑に落ちないのが残念。
サゲの直前で講釈師が「何か故障でもおありか?」と尋ねるのだが、これの意味が今ではまずわからない。「何かご不満でも?」という意味なのだそうだが、こんな用法他に聞いたことがない。かといって他の言い回しでは「故障」と「胡椒」を引っかけたサゲにつながらないしなあ……。
他のパターンもあるらしいが、どれもいまいち鮮やかに決まらないんだよね……。


蟇の油(がまのあぶら)


往来にて立て板に水の調子で演説を披露してがまの油を売っていた男、酒を飲んでべろべろになったところでもうひと稼ぎしようとするが、今度はろれつが回らずうまく話すことができない……。

まず見事なお手本を見せておいて、その後に失敗例を見せるという「オウム」パターン。
ただし『子ほめ』や『時うどん』のような「オウム」と違うのは、一回目と二回目を演じるのが同一人物という設定。
うーん、「いつもはうまい人が酔っているせいでうまくできない」だと「うっかり者が生半可な知識でやろうとしたせいでうまくできない」ほど笑いにつながりにくいな。「まあ酔ってるからしょうがないね」と思ってしまう。
かといって、この長くて流暢に並びたてる台詞を「一度聞いただけでやってみる」とするには無理があるしなあ。

本筋よりも、昔の大道芸について語ったマクラのほうがおもしろい。

 お客がぎーっちり立って、ここでおかしなこと言うてたら、折角ついた客が離れる。逃げるというときには、また足止めという手があって、客の足をピタッと釘づけにする方法がある。
「ちょっと言うとくけどな、懐中物気ィつけてや。ふところ、財布。こン中にスリが三人おるで。……うそやない、うそやない。長年ここで商売してんねん、わしのにらんだ眼に狂いはない。誰やちゅうことは言わんけど、スリが三人おる。手ェ組んで仕事してんねん。取られてから言うてきても知らんで、気ィつけや。スリが三人おるで、ええか。こういうて逃げた奴がそれや」
 ……ほな、皆動けんようになってしまう。もうボチボチあっちへ行こかいなあ思てても、今動いたらスリやと思われるさかい、しゃあないさかいほとぼりのさめるまで、阿呆みたいな顔してボーと、こう立ってんならんちゅうことになるんでっさかい。


軽業


伊勢参りの帰りにある村に立ち寄ったふたりの男。さまざまな出し物をやっていたので見物することに。「一間の大鼬(いたち)」や「天竺の孔雀」「目が三つ、歯が二本のタゲ」「取ったり見たり」といった見世物に金を払うが、どれもインチキばかり。
これなら騙されないだろうと軽業興行を見物。しかし軽業師が綱から墜落してしまう……。

軽業のくだりは視覚的に見せる部分なので、活字で読んでもさっぱりわからない。
前半の「ものものしい看板」と「ばかばかしい正体」の落差がおもしろい。詐欺なんだけどだまされたほうが思わず笑ってしまような商売も、昔はほんとにあったのかもしれないと思わせる魅力があるね。


看板の一(ぴん)


サイコロ賭博をしている若い衆が、金を持っているところからまきあげようと隠居の爺さんを連れてくる。爺さんが親をするが、サイコロが筒の外にこぼれ落ちていて一の目が丸見え。みんな一に張るが、爺さんは「これは看板の一だ」といってサイコロをふところにしまう。はたして出た目は五。「これに懲りたらしょうもないことを企むなよ」と言い残して立ち去る爺さん。
それを真似しようと考えた男、みんなを集めて同じ手で引っかけようとする。サイコロをこぼしたふりをして全員に一に賭けさせるところまではうまくいったが、筒をあけたら一が出てしまう……。

これは江戸落語を米朝さんが関西に輸入(?)した噺だそうだ。
前半で「ん? 看板の一を見せたところで当たる確率は六分の一のままでは?」と思ったのだが、やはり思ったとおりの展開に。
ということは爺さんは「看板の一」のほかにもうひとつトリックを使っていたんだろうな。むしろそっちのイカサマのほうがメインで、「看板の一」は本命のトリックから目をそらさせるためのミスリードだろう。
「だまされた!」と思ったら、まさかもうひとつもトリックがあるとは思わないもんな。じつに巧妙なやり口だ。どんな手を使ったかはわからないが。


抜け雀


流行らない宿屋にやってきた汚らしい身なりの客。毎日毎日酒を呑んでばかり。宿屋の主人が酒代の催促に行くと、実は金を持ってないことが判明。私は絵師なので代金の代わりに絵を描いてやろうといい、屏風に雀の絵を描いて立ち去ってしまう。
翌朝、屏風から雀が抜けでて飛んでいるところを見た宿屋の主人はびっくり。たちまち評判になり、この雀を見ようと大勢の客が押しかけるようになった。
しばらくして現れた老人が「このままだと雀はもうすぐ死ぬぞ」と言い、屏風に鳥籠を書きそえてやると雀たちは籠に入って休むようになった。
またしばらくして、雀の絵を描いた絵師が現れ……。

「名人の描いた絵から生き物が出てくる」というのは古今東西よくある怪異譚なんだけど(落語の『ぬの字鼠』もそうだね)、それだけで終わらせずに絵師が残した「ぜったいに売ってはいけない」という言葉やもうひとりの絵師による「この雀は死ぬぞ」という謎めいた言葉など、ミステリアスさを持続するアクセントが効いており、中盤以降は笑いどころがほとんどないのに聞き入ってしまう。

サゲの「親に籠(駕籠)を描かせた(舁かせた)」は『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』から来ているらしいが……、ま、今ではさっぱりわからんね。


一文笛


秀というスリが鮮やかな手口で財布を掏り、スリ仲間に自慢をする。足を洗って堅気になった兄貴に「わしは金を掏られて困るような相手を狙ったことはない。金に余裕のあるやつや悪人からしか掏ったことはない」とうそぶく。
ところが、兄貴から聞かされた話によると、秀が貧しい子どもに恵んでやるためにおもちゃの笛を掏ったことが原因で、その子が泥棒の疑いをかけられ、父親から厳しく責められたことを悲観して自ら井戸に飛びこみ、意識不明の重体だという。
自分のやったことが原因で子どもが危篤状態にあることを知った秀は、匕首で自分の右手の指を切り落とし、二度と盗みはやらないと誓う。
だが子どもを助けるためには高い金を払って入院させないといけないと知り、最後のスリだとして腕は確かだが強欲な医者から金を掏る……。

米朝さんがつくった落語。米朝さんといえば古典落語が多いので創作はめずらしいが、実によくできた噺だ。
意外性のある導入、鮮やかなスリの手口、スリでありながら魅力的な秀というキャラクター、子どもが危篤に陥りスリが自らの指を落とすというスリリングな展開、安易に悪事を讃えない倫理性、人情味のある終盤、そして全体の雰囲気を壊さないサゲ。落語の魅力がぜんぶ詰まったような噺だ。

「長屋の者が気がついてじきに引き上げた。息は吹き返したけど気がつかん、ずうと寝たきりや。おい、子供が可哀そうやと思うたら、たかだか五厘か一銭のおもちゃの笛、何で銭出して買うてやらんねん。それが盗人根性ちゅうのや。お前、何ぞ良え事でもしたように思てたんと違うか。ええ、最前偉そうな事ぬかしたな。この金が無かったら困るような人の懐中はねらわん、それが何でお前にわかるねん。どんな恰好してようと、誰が持ってようと、その金がどんな事情のある金か、回りまわってどこの誰がどない迷惑するか、一ぺんでも考えたことあるのかい。生意気なほげた叩くな」

兄貴が秀にするこの説教、染みるなあ。特に「お前、何ぞ良え事でもしたように思てたんと違うか」が。これ言われたら針のむしろだわ。これは歳を重ねてないとできない説教だ。

前半の「煙草入れを掏ることができなかったから売ってほしいと持ちかけてくるスリ」のくだりはめちゃくちゃ鮮やかだ。と思ったら講談の『仕立屋銀次』などから拝借したものらしい。
こういう、いいものはどんどん取り入れることができるのが落語の強みだよね。著作権の意識のない時代の芸能なので、いいものはどんどんパクる。

著作権がなければ文化の発展速度はめちゃくちゃ上がるだろうね。ある程度は保護したほうがいいけど、著作権は作者の死と同時に消滅するぐらいでいいんじゃないかな。


不動坊


長屋に住む利吉のもとに家主がやってきて、縁談を持ちかける。相手は講釈師・不動坊火焔の妻であるお滝。不動坊火焔が病気で死んでしまったので、葬式代などを立て替える代わりに嫁にもらうということで話がまとまった。
嫁がくるということで浮かれている利吉、銭湯に行って新婚生活の妄想にふけっているうちに、同じ長屋に住む独身男たちの悪口を言ってしまう。それを聞いていた独身男たち、利吉を脅かせてやろうといたずらを企てる。軽田道斎という講釈師をけしかけ、道斎に幽霊の恰好をさせて利吉の家の屋根に昇り、屋根の上からサラシで道斎を吊りおろす。
ところが利吉は幽霊に扮した道斎を見ても怖がらず、逆に道斎が金で買収されてしまう。さらにサラシが切れてしまい道斎が下に落ちて……。

前半は利吉の浮かれ具合が笑いを誘い、後半は独身男三人衆+軽田道斎のドタバタ劇が大笑いを生む。
嫁さんが来ることで舞いあがる利吉、嫉妬から嫌がらせをしようとする男たち、自分をふった女に仕返ししようとするも金に目がくらんでしまう講釈師、それぞれの人間くささが出ていて楽しい。


【関連記事】

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈一〉 四季折々』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈二〉 奇想天外』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈三〉 愛憎模様』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈四〉 商売繁盛』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈五〉 怪異霊験』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉 事件発生』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』


 その他の読書感想文はこちら


ツイートまとめ 2018年2月


どっちもどっち

京都検定

呪う権利


加齢

誰だ!

期待


冗談

誤植

雛壇

軍団




パパ

服育

隠語

ろくでもない



ピョンチャンオリンピック









ロワイヤル

ギャンブル

年寄り

おにぎり

ぜんぜん

1toZ

区別



不具合

ドラえもん

元号表記

睡眠導入剤

裁量労働制

オリジナル曲

落語

沖縄

善意の第三者

評価基準


2018年3月31日土曜日

赤川次郎という作家の評価について


2018年の今、赤川次郎という作家の評価について書いてみる。

若者向けミステリーの旗手であり、長者番付作家部門の常連であり、『三毛猫ホームズ』シリーズや『セーラー服と機関銃』などメディアタイアップ作品は多数で、全盛期には年間十冊以上のペースで新刊を出していた……。

と、1980年代には圧倒的な人気を博した赤川次郎氏。


1990年代の古本屋にもっとも多くの本が置いてあった作家は、ダントツで赤川次郎だろう。
つまり「よく読まれるが手元に置いておくほどでもない本」を量産していたのが赤川次郎という作家だった。

中学生時代、ぼくの書架にも五十冊以上の赤川次郎作品があった。が、今は一冊もない。いつの間にか処分してしまった。処分したときのことを覚えてすらいない。
五十冊以上読んだのに作品の内容はまったく覚えていない。タイトルも覚えていない。今思いだしてみたら『上役のいない月曜日』というタイトルだけ浮かんだ。内容は少しも覚えていない。



1990年当時、いわゆる「ライトノベル」という言葉は今ほどの市民権は得ていなかったが「ライトミステリー」という言葉はあった。そして「ライトミステリー」は「赤川次郎作品」とニアリーイコールだった。
多くの人が読んでいるのに「読んでます」とは公言しにくいジャンル、それが「ライトミステリー」であり「赤川次郎」だった。

ある程度の量の本を読む人にとっては
「ああ赤川次郎ね……。売れてるみたいね。よく知らないけど。ああいうのでも読書好きになるきっかけになるのであれば、まあいいんじゃない?」
みたいな位置づけだった。
十年前のケータイ小説みたいな扱い。


現在、赤川次郎作品のことはほとんど論じられない。あれだけ売れていたにもかかわらず、書店からはすっかり姿を消した。文学界からもミステリ界からも、徹底的に無視されているかのように。
商業的に赤川次郎の及ぼした影響はすごく大きいのに、文学的価値はゼロであるかのような扱われ方。あと西村京太郎も。

これは、1990年代後半の音楽界における小室哲哉の扱われ方によく似ている。すさまじく売れるのに評価されない。いや、売れるからこそ評価されない。
「薄っぺらい」「大衆受け」というラベルを貼られ、売れれば売れるほど業界内の評価は下落していく。


正直、ぼく自身も生意気な学生時分は「赤川次郎を読んでいるなんて人には言えない」と思っていたけど、五十冊以上も読んでいたということはやっぱりおもしろさを感じていたんだろう。
それだけ読んだにもかかわらず何も記憶に残っていないというライトさは、それはそれですごい(皮肉ではなく)。1983年の流行語に『軽薄短小』という言葉があるが、赤川次郎の作品はまさに軽薄短小。

時代に即していた、という点ではもう少し再評価されてもいい作家なんじゃないかな、と少しだけ思う。文学ではなくカルチャーとしてでもいいから。