2018年3月15日木曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈五〉 怪異霊験』


『上方落語 桂米朝コレクション〈五〉
怪異霊験』

桂 米朝

内容(e-honより)
文化功労者・桂米朝演じる上方落語の世界。第五巻は、こわいこわい、そして不思議な落語を集める。江戸落語の怪奇物との味わいの違いをご堪能あれ。「猫の忠信」「仔猫」「狸の化寺」「狸の賽」「怪談市川堤」「五光」「景清」「紀州飛脚」「夏の医者」「べかこ」「ぬの字鼠」「天狗さし」「稲荷俥」「足上がり」を収録。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第五巻。

幽霊の類はさまざまな芸能で扱われるけど、ああいうものは目に見えないから恐ろしいのであって、姿を現してしまったら怖さも半減だ。
落語は基本的には言葉だけですべてを表現する芸能なので(上方落語は鳴り物や小道具も使うけど)、怪奇現象の類は落語の得意とする分野だ。


猫の忠信


浄瑠璃の演目である『義経千本桜 四段目』をパロディとして使っている噺。終盤の展開は『義経千本桜』を知らないとわからないが、全体としてはミステリ要素も含んでいて元ネタを知らなくてもおもしろい。

義太夫(浄瑠璃のひとつ)の稽古に行った次郎吉が、お師匠さん(女性)と常吉がいちゃついているのを目にする。急いで常吉の家に行っておかみさんに報告すると、なぜか常吉が家にいる。再び稽古場に行くと、やはりそこにも常吉が。父母を三味線の皮にされた猫が人間に化けていたのだ……。

常吉がふたりいることに気づいた次郎吉があっけにとられるが、ここで観客の頭にも疑問が湧く。その謎を丹念に解き明かしていく展開が実にスリリング。


仔猫


商家に、器量が悪くて言葉遣いの汚い女が奉公人としてやってきた。はじめは断ろうとしていた店の連中だったが、雇ってみると気配りができる上に働き者。あっという間に評判が上がる。だが彼女が夜な夜な外出しているということがわかる。はたして女の正体は……。

おなごし(女中)のユーモラスなキャラクターと、後に明らかになる正体とのギャップが大きく、かなり意外な展開を見せる噺。「こうなるだろうな」というこっちの予想をぐわんぐわん揺さぶられるストーリーがたまらない。
恐ろしいが救いはあり、女中や番頭の心の揺れ動きも丁寧に描かれていて、見どころの多い噺。


狸の化寺


村に黒鍬(土方工事を生業としている人たち)がやってきた。化け物が出るという噂の古寺に泊まることになり、夜になると果たして黒い影が現れる。みんなで追い詰めると化け物は姿を消し、阿弥陀如来像が一体増えている……。

ほとんどの怪談噺に共通して言えることなんだけど、タイトルでネタバレをしているのが残念だ。
これなんかも途中まではすごく雰囲気があって何が起こるんだろうとぞくぞくする展開なのに、題が『狸の化寺』だから「どうせ狸が出てくるんでしょ」とわかってしまう。
『狸の化寺』は笑いどころが少なく、サゲもわかりづらい(おまけに下ネタ)なので、先の展開まで読めてしまうと、もうほとんど聴きどころのない噺になってしまう……。


狸の賽


狸を助けに来た男のもとに狸が恩返しにくる。狸にサイコロに化けるように命じ、イカサマ賭博で一儲けしようとする男。狸のサイコロに「次は六だぞ」などと言ってはじめはうまくいっていたが、不審に思った周りの連中から数字を言うことを禁じられて困惑する……。

『ジョジョの奇妙な冒険』を読んだ人ならすぐにわかるだろう。そう、第4部で仗助が宇宙人の化けたサイコロを使って岸辺露伴とイカサマ対決をするくだりにそっくりだ。
『ジョジョ』の作者である荒木飛呂彦氏が『狸の賽』の噺を知っていたのかどうかはわからないけど、『狸の賽』では「イカサマをしていることがばれないかどうか」に主題が置かれ、『ジョジョ』では「イカサマをしていることはわかっているがそれをどうやって見破るか」ということを軸に話が展開するので、『狸の賽』を知った上であえて違う切り口を提示してみせたのではないか……とぼくは見ている。

スリリングな中盤からの「狸が天神さんの格好で立ってました」というばかばかしいサゲの落差がおもしろい。
サイコロの五を表現するのに使った「天神さんの紋」とはこれのことね。



怪談市川堤


情婦や恩人などを殺して金を手に入れてきた次郎兵衛、やがて商売が成功し、過去のおこないを悔いるようになる。貧しい者には施しをし、神社仏閣にも寄進を惜しまない。そんな次郎兵衛が旅先で昔の女と出会い、いったんは詫びて一緒に住もうと提案するが、やはり今の地位を失いたくないという思いから殺してしまう。
その夜、殺したはずの女が現れて……。

怪談なので、笑いどころはほとんどない。サゲらしいサゲもない。「おそろしい執念よなあ」で終わり。
しかしどう考えても恐ろしいのは、幽霊よりも平気で次々に人を殺してしまう次郎兵衛。殺しすぎだ。しかもたいして恨みのない相手を。この極悪非道なキャラクターに比べれば、幽霊なんてぜんぜん怖くない。むしろ幽霊がんばれ! クズ人間をやっつけろ! と応援したくなるぐらい。


五光


旅先で道に迷った男。座禅を組んで一言も口を聞かない坊主に出会う。その後ふもとの村で一軒の家に泊めてもらうと、そこには原因不明の病気に苦しめられる娘。その晩、山中で見た坊主の姿が現れ、娘は呪い殺されてしまう。急いで坊主のもとに駆けつけると坊主も息絶える。娘に恋をして、その恋心だけで生きていたのだ……。

というホラーっぽい展開から、急激にしょうもないオチ。
この噺も落語によくある「タイトルでネタバレ」パターンで、花札の遊びかたの一種である「こいこい」の役「五光」がサゲに使われている。麻雀の役満みたいなもんだね。

ぼくは「こいこい」をやったことはあるけど、それでも「桐に鳳凰、桜、松に坊主に雨で五光だ!」って言われても「えーっとそうだったっけかな……」と思うぐらいですぐにはぴんとこない。
『スーパーマリオ』があるあるネタとして用いられるように昔はあたりまえのように通じたんだろうけど、今は厳しいだろうなあ。


景清


目を患った目貫師が、柳谷観音の賽銭を盗んで酒を飲んだために神罰が当たって盲目になってしまう。しかし友人の勧めもあってかつて平家の豪傑だった悪七兵衛景清が自分の眼をくりぬいて奉納したと伝えられる清水観音に百日間お参りをする。その帰り道、観音様が現れて景清の眼をおまえにやると言う。景清の眼が入ったために豪傑になった男が、大名行列に乱入する……。

後半は『犬の目』や『こぶ弁慶』にも似た展開だが、秀逸なのは前半。「おれはもう目が見えなくていい」とうそぶく男が、そうは言いながらも年老いた母に心配をかけまいと一心に百日参りをするあたりは人情噺として白眉の出来だ。
落語に出てくる人物って、粗忽なら粗忽、楽天的なら楽天的と一面的に描かれることが多いんだけど(短いからしょうがないんだけど)、『景清』に出てくる景清は多面性を持った人物として描かれているので、このへんが話に厚みを持たせている。


紀州飛脚


大きなイチモツを持った男が紀州に向かって走る途中、小便を狐に引っ掛けた。狐が仕返しをしようと女に化け、子狐が女の陰部に化け……。

と、あらすじを書くのも嫌になるぐらいのド下ネタ。枕からストーリーからサゲまで全部生々しい下ネタと、もうほんとにどうしようもない噺。
上方落語には「旅ネタ」というジャンルがあって、これはその中の「南の旅」に分類されるらしいが、めったに演じられることはないのだとか。あたりまえだ。


夏の医者


無医村で病人が出たので、山の向こうの隣村まで医者を呼びにいく。病人のもとに駆けつける途中でうわばみに呑まれてしまうが、医者が下剤を撒いて脱出。しかし薬箱をうわばみの腹の中に置きわすれたことに気づいて……。

めずらしく田舎を舞台にした噺で、全体的にのんびりした雰囲気が漂っている。うわばみに呑まれてからもぜんぜん慌てた雰囲気がない。
米朝さんがこの噺を演じるのを聴いたことがあるけど、直截的な暑さの描写はないのに真夏の昼下がりのけだるい感じがありありと伝わってきて、見事な話芸だと感心した記憶がある。


べかこ


 泥丹坊堅丸という落語家が旅興行先で御難(客が入らないこと)に遭い、宿屋に身を寄せていたところ、お城に呼ばれてお姫様の前で落語を披露することになる。城内でふざけて女中を驚かせたところ、侍に捕らえられて「明朝、鶏が鳴いたら解放してやる」と言われる。困惑していると絵の中から鶏が抜けだしてきて……。

「べかこ」といえば関西出身の中年以上の人間にとっては桂南光さん(旧芸名が桂べかこ)なんだけど、「べかこ」とは本来「あっかんべー」の意味なんだそうだ。この噺は「あっかんべー」ではなく「べかこ」でないと成立しにくい。
「落語家が城に呼ばれる」という意外性のある展開から、秀逸なサゲ。この本ではじめて知ったけど、よくできた噺だ。


ぬの字鼠


寺の坊主が和尚さんに叱られて柱にくくりつけられる。涙で「ぬ」の字を書くと、それが鼠の姿になって紐をかみ切ってくれる……。

「雪舟が幼少時代に涙で本物そっくりの鼠の絵を描いた」という逸話をもとに『祇園祭礼信仰記』という芝居ができており、その芝居を下敷きにしているそうだ。
雪舟の逸話以上のストーリーはこれといってないが、「坊主が実は和尚さんのほんとの子どもだけどそれを隠している」という設定がおもしろい。昔の坊さんは妻帯禁止だったからこういうことがあったんだなあ。


天狗さし


突拍子もないことばかり思いつく男が、天狗料理の店を出したら儲かるに違いないと考え、鞍馬山に天狗を獲りに出かける。現れた坊さんを天狗と勘違いし、捕まえて山を下りる……。

というばかばかしい噺。
終始うっかり者の男のキャラクターがいい。本題よりも、キャラクターを周知させるためのエピソード集がおもしろい。

そらあかんわ、大体お前はんの相談ごとちゅうのは、わしゃもうこりてんのやがな。去年も、銭儲けの話や言うて来たことがあったやろ。わしゃ忘れんで、あれ。わしとこへやって来て、良え銭儲け思いついた。なんや言うたら、十円札を九円で仕入れてきて十一円に売ったら儲かりまっしゃろう、て。……ようあんな不思議なこと考えたな、お前。ええ。どこぞの世界に十円と印刷してある札を、誰が十一円で買うねん、ちゅうたら、そら額面通り十円に売ったかて一円儲かるちゅうさかい、どこへ行たらその九円で仕入れることができるねんちゅうたら、それをあんたに相談にきた、とこない言う。そんなもんどこへ行たかて、十円札を九円で売ってくれるとこなんかあれへん言うたら、仰山買うたら安なりまっしゃろて……、ようあんなこと言うたな、お前、ほんまに。

実にばかばかしい。
そのばかばかしいことを大の大人がまじめにやってるのが為替相場なんだけど。


稲荷俥


お稲荷さんの狐を怖がる車屋。客がおもしろ半分で狐のふりをしたら、車屋はそれを信じて車賃をとらずに帰ってしまった。家に帰ってから、車に百五十円の大金があることに気づき、お稲荷さんからの授かりものだと信じこむ車夫。金を置き忘れたことに気づいた客は車夫の家に行くが、ずっと狐扱いされてしまう……。

ばか正直者の車夫と、ちょっとしたいたずら心のせいでピンチに陥る客のキャラクターがおもしろい。車が出てくるので明治の噺だが、明治はまだぎりぎり「狐が出るかも」という雰囲気のあった時代なんだろうな。


足上がり


番頭さんが丁稚をつれて芝居見物に行く。ところが店の旦那さんに、嘘をついて芝居に行ったことや店のお金を遣いこんだことがばれてしまう。そうとは知らぬ番頭さん、帰ってから丁稚相手に芝居の一幕を披露する……。

「足上がり」とは解雇のこと。今のように転職や再就職があたりまえの時代とは違い、江戸時代の足上がりは商人にとっては大事だったはず。ましてや苦労して番頭にまで昇りつめた者にとっては。
そこまでの重大事項である「足上がり」を知っている丁稚が、それを番頭に伝えぬまま芝居話に興じているところはかなり不自然。しかも小利口な丁稚だし。
ちょっと無理のある噺だな。


【関連記事】

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桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈二〉 奇想天外』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈三〉 愛憎模様』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈四〉 商売繁盛』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈五〉 怪異霊験』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉 事件発生』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』


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2018年3月14日水曜日

【読書感想】みうらじゅん『正しい保健体育II 結婚編』


『正しい保健体育II 結婚編』

みうらじゅん

内容(Amazonより)
童貞時代を生き抜くためのスタンダードにして、性教育の金字塔との誉れも高い授業が、ここに再始動!
<結婚編>と銘打った本書『正しい保健体育II』では、夫婦生活や子育て、そして老後といった「ゆりかごから介護まで」の諸問題を、みうら先生が深くやさしくレクチャーします。
結婚を幕開けに移り変わりゆくライフステージを、文化系男子はどのように過ごすべきか!?未婚、晩婚、少子高齢化時代の日本を救う新たな伝説の書、誕生!!

前作の『正しい保健体育』がべらぼうにおもしろかったので読んでみたが、うーん、期待はずれ……。前作が良すぎたせいもあるんだけど。

前作ではふざけながらも真正面から「性」に向き合っていて、みうらじゅんらしい「セックスとのつきあいかた」が書かれていたんだけど、『結婚編』ははぐらかしばかりで、どうも真剣に向き合っているように思えなかった。

「結婚は介護してくれる人を見つけること」「スリルを求める浮気はしたほうがいい」なんてマッチョな思想と、みうらじゅんのふざけきった文章があんまりなじまない。みうらじゅん自身は不倫して離婚して二十歳近く若い女性と結婚したから、まさにこの思想を体現しているんだけど。

『正しい保健体育』は「童貞はどう性と向き合うべきか」という明確な軸があったんだけど、『結婚編』にはそういった視点がなく、何を語ってもどうも収まりが悪かったなあ。




通して読むと何が言いたいのかわからないけど、部分部分で見るとみうらじゅんならではの独自の哲学がくりひろげられていて感心するところもあった。

「モテる」と「モテモテ」は違います。「モテモテ」というのは、品のない男にしか
できないことだからです。
 君たちの多くは女性を好きになります。顔を好きになったり、会話をすることが楽しか ったり、会えないときも彼女のことを考えたりします。
 しかし「モテモテ」の人は違います。そんなことを考えていては、「千人斬り」などできません。それどころか、相手の女性のタイプなどを気にすることもないのです。とにかく次から次へと手を出していくから、「モテモテ」になるわけです。

この文章、「モテモテ」でない男の憎悪と偏見がよく出ているなあ。やはり「モテモテ」とは縁遠いところにいるぼくとしても、うなずかざるをえない。
こういう人、いるよね。女と見ればあたりかまわず手を出そうとする人。
「女性経験人数が多い」ってのはだいたいこういうタイプだよね。確率が高いわけじゃなくて、母数が多い。10,000人に声をかけるから、成功率1パーセントでも経験人数100人というタイプ。
経験人数が多い、ってのはモテるかどうかよりも「どれだけ多くの女性に声をかけたか」で決まるんだろうね。

そう考えると「モテモテ」もあんまりうらやましくないな。やっぱり「自分からは何もしないけど美女が言い寄ってくる」タイプのモテ方が理想だよね。少女漫画とAVの中にしかないやつ。




みうらじゅんの考える少子化の原因について。
「セックスレス」という横文字の言葉こそが少子化の原因だと。

 おわかりでしょうか。これは誰かが仕掛けたことです。洗脳なのです。国益のために誰かがこの言葉を流行らせています。昔ながらの「最近、女房とご無沙汰だよ」という言い方だったら、ここまで少子化は進まなかったでしょう。
 クンニリングスが流行ったのも、その言葉があったからです。「陰唇しゃぶり」だったら、ここまで男はクンニをしたでしょうか。フェラチオも同様です。「陰茎くわえ」では、女性も好んでしたいとは思わなかったことでしょう。
 言葉にだまされているということに気がつけば、それが政府の陰謀だと気がつけば、夫婦のセックスが減ることはありません。その言葉のかっこよさに加えて、「外でやってる」という見栄の相乗効果で、セックスレスは流行ってしまいました。

めちゃくちゃな陰謀論だ。
でもこれはこれで一理あるかもしれない。
言葉の持つ力ってあなどれないよね。違法残業をサービス残業と言い換えたり、強制わいせつをセクハラと言い換えたり、軽い言葉にすることで罪の意識も減るということはたしかにある。

政治家の仕事のひとつに「名前をつける」という行為もあるとぼくは思う。
「もはや戦後ではない」だとか「国民所得倍増計画」だとか、むずかしい言葉を使わずに直感的に施策をイメージさせるのは政治家にとって大事な資質だろう(考えたのは政治家本人ではないかもしれないが)。

「働き方改革」だとか「プレミアムフライデー」だとか、結局何が言いたいのかわからない、それどころか何かをごまかそうとしているようにしか思えないフレーズを聞いていると、最近はうまいネーミングをつける政治家(または官僚)が少ないのかもなあと残念に思う。

ああいう能力は女性政治家のほうが長けてるのかもしれないね。田中真紀子、蓮舫、辻元清美あたりは寸鉄釘を刺すようなフレーズ選びがうまかったもんなあ(ただし攻められると弱いのも彼女らに共通する特徴かもしれない)。

ワードセンスのいい政治家が現れてほしいなあ。で、鮮やかなコピーで高齢化に対する危機感を高めてほしい。


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2018年3月13日火曜日

【読書感想】紀田 順一郎『東京の下層社会』


『東京の下層社会』

紀田 順一郎

内容(e-honより)
駆け足の近代化と富国強兵を国是とする日本の近代は、必然的に社会経済的な弱者―極貧階層を生み出した。しかし、多くの日本人はそれを形式的な慈善の対象として認識するのがせいぜいで、社会的存在として見据えようとせず、本質的には彼らを「落伍者」「怠け者」として切り捨ててきた。スラムの惨状、もらい子殺し、娼妓に対する恐るべき搾取、女工の凄惨な労働と虐待…。張りぼての繁栄の陰で、疎外され、忘れ去られた都市の下層民たちの実態を探り、いまなお日本人の意識の根底にある弱者への認識の未熟さと社会観のゆがみを焙り出す。

「昔は貧しかった」という話はよく聞くが、それは江戸以前の農家の話であったり、太平洋戦争直後の話であったりして、明治~大正の貧困の話はほとんど聞いたことがない。

歴史の教科書でもそのあたりの話となると、やれ文明開化だ、やれ大正デモクラシーだ、やれ鹿鳴館で踊っていた、やれ「どうだ明るくなつたろう」だ、やれ提灯行列だ、とやたらと景気のいい話が並んでいる。

小学校の図書館にあった『まんが日本の歴史』でも、その時期は「近代の幕開け(ババーン!)」みたいな感じでずいぶん明るく書かれていて、まるで明治から二・二六事件までの間は日本中がハッピーだったかのような錯覚にとらわれてしまう(バブル期もそんな風な語られかたをしている)。

でもいくら文明開化だといったってある日を境に日本中が近代国家に生まれ変わったわけではなく、医療福祉も貧弱だった時代、当然ながら貧困にあえいでいる人は今よりずっとたくさんいた。
時代の変化の波にうまく乗って富を築いた人がいた分、格差は江戸時代よりもずっと大きくなっていただろう。



ということで、都市化が進んだ近代の貧困層の生活についてさまざまな文献をあたって調べたのが『東京の下層社会』。
近代の都市(この本で扱っているのは主に東京・大阪)に存在した貧困社会の住宅事情、食生活、職業、教育、人身売買、売春などの事情について当時の声を拾い集めながら紹介している。


うーん、これは想像以上にひどい生活だ。
急速に発達する東京や大阪といった都市部にできたスラム街。強姦、子殺し、伝染病が蔓延し、主な食事は残飯。

料理屋や裕福な家庭などから残飯を仕入れて売るヅケ屋(残飯屋)の描写が強烈。

 それはさておき、ヅケ屋は各所の料理屋などからヅケを仕入れると、一日に二回、公園の溜り場へ出かけていく。片手には飯類を入れた容器、もう片方の手には副食物を仕込んだ容器をさげている。飯の容れ物にはお焦げであろうと五目であろうと一緒くた、一方副食物のほうには蒲焼の残りであろうと酢のものであろうと平気でゴッチャに混ぜ合わされ、「全く文字通りたまらない独特な代物」に「醸製」されてしまっている。

そりゃあこういうもの食ってたら伝染病も流行るわなあ。

「昔の人は丈夫だった」なんて話も聞くが、そりゃあこういう環境で生き残った人は強いわな。生存者バイアスというやつで。



娼婦の生活についての描写にも多くのページが割かれている。

 公娼制度は実質的には人身売買だが、建前上は明治五年(一八七二)の娼妓解放令いらい、楼主と娼妓は単なる金銭上の契約関係のみということになった。しかし、これがかえって苦界から足を洗おうとする女性に対する足枷となったことは、早くから識者によって指摘されてきた。つまり、逃げて警察の保護を求めようとしても、借金を踏み倒すものとみなされて、楼主に引き渡されてしまう。無論、遊廓側でも普段から抜かりなく鼻薬をきかせているから、駆け込んだ娼妓は文字通り〝飛んで火に入る夏の虫〟となる。警察と廓の癒着ぶりは、昭和初期に洲崎遊廓の管轄署に勤務していた警部が、退職後ただちに洲崎三業組合の書記に就職したという一事をもってしても明白であろう。事実、警察はあらゆる面で楼主側に味方した。
 娼妓になるためには所轄警察署の娼妓名簿に登録申請するのであるが、逆に廃業するには登録を抹消してもらえばよい。規則によれば、この抹消は娼妓の申請によってただちに実施されなければならないとしているが、実際には申請があると警察は貸借関係を調べるという名目で、必ず楼主に連絡してしまう。結果はいわずとも明らかであろう。楼主はヤクザを引き連れて乗り込んでくると、無力な娼妓を拉致してしまう。その上で半殺しの制裁を加え、他の遊廓へ売り飛ばす。

楼主(遊郭の経営者)と警察がグルになっていて、逃げだした娼妓が警察に駆け込むと連れ戻されてしまうのだとか。
ホラー小説なんかでよくあるパターンだけど、数十年前の日本でも同じことがおこなわれていたということに嘆息。それだけ娼妓が人として扱われていなかったんだろうね。

永井荷風の文章がたびたび引用されているが、永井荷風はやたらと娼婦を美化して書いていて、まるで好きでこの道に入ったかのような印象を与える。ずいぶん残酷な話だけど、きっと「エロいことして金がもらえるんだからいい商売だよ」が当時の男性の娼婦たちに対する標準的な認識だったんだろうな。



貧困の恐ろしいところって、一度落ちたらまずはいあがれないことだよね。

 しかし、親たちは容易に子供を入学させようとはしなかった。理由は簡単、授業料が払えない、弁当も持たせられない、着物もないというのである。そのほかにも頭髪は伸び放題、何日も入浴をしないので垢まみれ、下駄一足すら満足に揃わないという、想像を絶した状態であるから、無理に通学させたとしても他地区の子供たちから嫌われ、仲間はじきにされるのは目に見えている。もともと親の立場になってみれば、学校などへ通う暇があったら子守をしたり、廃品回収などで少しでも家計を助けてもらったほうが、どれほどありがたいか知れない……。

「教育はいちばん割のいいギャンブルだ」なんていわれるように、教育を受ければ貧困から脱出できる可能性は高まる。
だけど貧しい家庭ではその余裕がない。子どもはまともな教育を受けていないからいい職にもつけず、世代を超えて貧困は連鎖する……。


MVNOというのがある。いわゆる「格安SIM」だ。大手キャリアだと月額一万円近い料金が、格安SIMだと二千円ぐらいになる。少し手続きの手間がかかるだけで、サービス自体にはさほど変わらない。
お金に困っている人ほど格安SIMにしたほうがいいのだが、年収が高い人ほど格安SIMを使っている割合が高いという記事を目にした。
年収が高い人ほど、新しい情報を入手できるし、ややこしい手続きでも乗り越えて安いものを手に入れることができる。

仮想通貨にしても、裕福な人ほど早めに情報をつかみ、英語を解読して手続きをして入手している。そして彼らは大儲けし、テレビCMを見てようやく動きだすような人たちがババをつかまされることとなる(事実そうなった)。

金を稼ぐにも、節約するにも、悪い人に騙されないためにも、ある程度の資産が必要なんだよね。
「外食するより自炊したほうが安くつく」とわかっていても、調理器具一式をそろえられない人、台所付きの家に住めない人には自炊ができない。
「ネットカフェに泊まるより安いアパートを借りるほうが安くつく」とわかっていても、敷金・保証金・保証人を用意できない人はアパートを借りられない。


特にこれからは少子化で労働力がどんどん減っていくから若い人や子どもにお金を回していかなきゃならないのに、今の世の中を見ているととてもそうなっているようには思えない。
それどころか真逆の方向に進んでいるように見えるね。



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2018年3月12日月曜日

【DVD感想】『ズートピア』

『ズートピア』(2016)

内容(Amazonビデオより)
動物が人間のように暮らす楽園、ズートピア。誰もが夢を叶えられる人間も顔負けの超ハイテク文明社会に、史上最大の危機が訪れていた。立ち上がったのは、立派な警察官になることを夢見るウサギのジュディ。夢を忘れたサギ師のニックを相棒に、彼女は奇跡を起こすことができるのか…?「アナと雪の女王」「ベイマックス」のディズニーが夢を信じる勇気にエールを贈る感動のファンタジー・アドベンチャー。

自分の中でなぜか『ズートピア』と『ラ・ラ・ランド』がごっちゃになっていて、「あれ? ミュージカルだって聞いてたのになかなか歌いださないな……」と思っていたらぜんぜん違う作品だった。おっさんにとってはカタカナ五文字はぜんぶ一緒なのよ。
その程度の認識なので当然ながらまったく予備知識もなく観たんだけど、おもしろかった。安定のディズニー。

肉食動物と草食動物が楽しく暮らしているズートピアで、突然肉食動物が凶暴になるという事件が発生。人口の九割を占める草食動物は恐怖から肉食動物を避けるようになる……。というストーリー。

「どんな夢でも叶う」という前向きなメッセージやかわいいキャラクターが前面に出ているので見落とされそうだが、これを人種対立の話として見るとなかなかおもしろい。

日本でもやはり外国人が犯罪をしたらその発生頻度を検証しようともせずに「これだから××人は……」という言葉を口にする人がいる。アメリカだともっと多いんだろう。表立って口にするかどうかはべつにして。


快楽的な差別はダメだと誰でもわかるが、わかりにくいのは差別の根源に被害者意識や恐怖がある場合だ。

ルワンダ虐殺という事件があった。
過激派のフツ族がツチ族を大量虐殺した事件だが、きっかけのひとつはラジオ局の報道だと言われている。ラジオで報道された内容は、ツチ族の力を低く見るものではなく、その逆だった。彼らはこう言った。「ツチ族は我々フツ族を攻撃するだろう」と。つまり「ツチ族は力を持った脅威であり、我々はその被害者なのだ」と煽った。
これにより過激派フツ族は「やられる前にやらねば」という意識を持ち、ツチ族、さらには穏健派のフツ族を殺すことになった。

自分を加害者だと思っているときには「これ以上はかわいそうだな」と加減をしても、自分が被害者だと思っている人には歯止めがかからない。なにしろかわいそうなのはこっちなのだから。
9.11のテロの後、アメリカは攻撃的になった。イラク戦争も多くの国民が支持していた。それは「自分たちがテロリストに狙われるかもしれない」という恐怖感、被害者意識があったからだろう。加害者だったらこうはいかなかった。

昔も今も、洋の東西を問わず、同じことが起こっている。
日本も韓国も白人も黒人も、みんな自分が被害者だと思っている。身の安全や権利が脅かされていると。そして"被害者"がいちばん恐ろしい。


『ズートピア』は、この「誰もが被害者になりたがる」心理をうまく描いている。
肉食動物たちを排除しようとする草食動物たちに差別意識はない。あるのは被害者意識と恐怖心だけ。
差別されている肉食動物もまた自分たちを被害者だと思っている。
被害者と被害者が対立し、互いを排斥する社会。よく見る光景だ。

『ズートピア』では対立を煽った真の黒幕が明らかになってハッピーエンドを迎えるが、現実の世の中であれば黒幕が捕まった後も被害者意識は残りつづけ、何かのきっかけで表面化することだろう。

そのことを知っている者としては、『ズートピア』の動物たちが共に手を取り合って歩んでいくラストシーンに拍手を送りつつも、「こんなふうにできたらいいんだけどなあ……」とため息をつくしかない。

いや、ここでため息をつくからだめなのか。
素直に「どんな夢でも叶う!」と信じてディズニーダンスを踊る人間ばかりになれば「誰もが被害者になりたがる社会」はちょっとは改善されるのかもなあ。


それはそうと、この映画でいちばんぼくが感心したのは「キツネが怒ったときに鼻の頭にしわが入る」シーン。
昔飼ってた犬も怒ったときにこれとそっくりな顔してたなあ……。


2018年3月11日日曜日

ツイートまとめ 2018年1月


ジョジョ


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リサイタル

相違点

差別

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風景

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ちゃんちゃら

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