2018年3月13日火曜日

【読書感想】紀田 順一郎『東京の下層社会』


『東京の下層社会』

紀田 順一郎

内容(e-honより)
駆け足の近代化と富国強兵を国是とする日本の近代は、必然的に社会経済的な弱者―極貧階層を生み出した。しかし、多くの日本人はそれを形式的な慈善の対象として認識するのがせいぜいで、社会的存在として見据えようとせず、本質的には彼らを「落伍者」「怠け者」として切り捨ててきた。スラムの惨状、もらい子殺し、娼妓に対する恐るべき搾取、女工の凄惨な労働と虐待…。張りぼての繁栄の陰で、疎外され、忘れ去られた都市の下層民たちの実態を探り、いまなお日本人の意識の根底にある弱者への認識の未熟さと社会観のゆがみを焙り出す。

「昔は貧しかった」という話はよく聞くが、それは江戸以前の農家の話であったり、太平洋戦争直後の話であったりして、明治~大正の貧困の話はほとんど聞いたことがない。

歴史の教科書でもそのあたりの話となると、やれ文明開化だ、やれ大正デモクラシーだ、やれ鹿鳴館で踊っていた、やれ「どうだ明るくなつたろう」だ、やれ提灯行列だ、とやたらと景気のいい話が並んでいる。

小学校の図書館にあった『まんが日本の歴史』でも、その時期は「近代の幕開け(ババーン!)」みたいな感じでずいぶん明るく書かれていて、まるで明治から二・二六事件までの間は日本中がハッピーだったかのような錯覚にとらわれてしまう(バブル期もそんな風な語られかたをしている)。

でもいくら文明開化だといったってある日を境に日本中が近代国家に生まれ変わったわけではなく、医療福祉も貧弱だった時代、当然ながら貧困にあえいでいる人は今よりずっとたくさんいた。
時代の変化の波にうまく乗って富を築いた人がいた分、格差は江戸時代よりもずっと大きくなっていただろう。



ということで、都市化が進んだ近代の貧困層の生活についてさまざまな文献をあたって調べたのが『東京の下層社会』。
近代の都市(この本で扱っているのは主に東京・大阪)に存在した貧困社会の住宅事情、食生活、職業、教育、人身売買、売春などの事情について当時の声を拾い集めながら紹介している。


うーん、これは想像以上にひどい生活だ。
急速に発達する東京や大阪といった都市部にできたスラム街。強姦、子殺し、伝染病が蔓延し、主な食事は残飯。

料理屋や裕福な家庭などから残飯を仕入れて売るヅケ屋(残飯屋)の描写が強烈。

 それはさておき、ヅケ屋は各所の料理屋などからヅケを仕入れると、一日に二回、公園の溜り場へ出かけていく。片手には飯類を入れた容器、もう片方の手には副食物を仕込んだ容器をさげている。飯の容れ物にはお焦げであろうと五目であろうと一緒くた、一方副食物のほうには蒲焼の残りであろうと酢のものであろうと平気でゴッチャに混ぜ合わされ、「全く文字通りたまらない独特な代物」に「醸製」されてしまっている。

そりゃあこういうもの食ってたら伝染病も流行るわなあ。

「昔の人は丈夫だった」なんて話も聞くが、そりゃあこういう環境で生き残った人は強いわな。生存者バイアスというやつで。



娼婦の生活についての描写にも多くのページが割かれている。

 公娼制度は実質的には人身売買だが、建前上は明治五年(一八七二)の娼妓解放令いらい、楼主と娼妓は単なる金銭上の契約関係のみということになった。しかし、これがかえって苦界から足を洗おうとする女性に対する足枷となったことは、早くから識者によって指摘されてきた。つまり、逃げて警察の保護を求めようとしても、借金を踏み倒すものとみなされて、楼主に引き渡されてしまう。無論、遊廓側でも普段から抜かりなく鼻薬をきかせているから、駆け込んだ娼妓は文字通り〝飛んで火に入る夏の虫〟となる。警察と廓の癒着ぶりは、昭和初期に洲崎遊廓の管轄署に勤務していた警部が、退職後ただちに洲崎三業組合の書記に就職したという一事をもってしても明白であろう。事実、警察はあらゆる面で楼主側に味方した。
 娼妓になるためには所轄警察署の娼妓名簿に登録申請するのであるが、逆に廃業するには登録を抹消してもらえばよい。規則によれば、この抹消は娼妓の申請によってただちに実施されなければならないとしているが、実際には申請があると警察は貸借関係を調べるという名目で、必ず楼主に連絡してしまう。結果はいわずとも明らかであろう。楼主はヤクザを引き連れて乗り込んでくると、無力な娼妓を拉致してしまう。その上で半殺しの制裁を加え、他の遊廓へ売り飛ばす。

楼主(遊郭の経営者)と警察がグルになっていて、逃げだした娼妓が警察に駆け込むと連れ戻されてしまうのだとか。
ホラー小説なんかでよくあるパターンだけど、数十年前の日本でも同じことがおこなわれていたということに嘆息。それだけ娼妓が人として扱われていなかったんだろうね。

永井荷風の文章がたびたび引用されているが、永井荷風はやたらと娼婦を美化して書いていて、まるで好きでこの道に入ったかのような印象を与える。ずいぶん残酷な話だけど、きっと「エロいことして金がもらえるんだからいい商売だよ」が当時の男性の娼婦たちに対する標準的な認識だったんだろうな。



貧困の恐ろしいところって、一度落ちたらまずはいあがれないことだよね。

 しかし、親たちは容易に子供を入学させようとはしなかった。理由は簡単、授業料が払えない、弁当も持たせられない、着物もないというのである。そのほかにも頭髪は伸び放題、何日も入浴をしないので垢まみれ、下駄一足すら満足に揃わないという、想像を絶した状態であるから、無理に通学させたとしても他地区の子供たちから嫌われ、仲間はじきにされるのは目に見えている。もともと親の立場になってみれば、学校などへ通う暇があったら子守をしたり、廃品回収などで少しでも家計を助けてもらったほうが、どれほどありがたいか知れない……。

「教育はいちばん割のいいギャンブルだ」なんていわれるように、教育を受ければ貧困から脱出できる可能性は高まる。
だけど貧しい家庭ではその余裕がない。子どもはまともな教育を受けていないからいい職にもつけず、世代を超えて貧困は連鎖する……。


MVNOというのがある。いわゆる「格安SIM」だ。大手キャリアだと月額一万円近い料金が、格安SIMだと二千円ぐらいになる。少し手続きの手間がかかるだけで、サービス自体にはさほど変わらない。
お金に困っている人ほど格安SIMにしたほうがいいのだが、年収が高い人ほど格安SIMを使っている割合が高いという記事を目にした。
年収が高い人ほど、新しい情報を入手できるし、ややこしい手続きでも乗り越えて安いものを手に入れることができる。

仮想通貨にしても、裕福な人ほど早めに情報をつかみ、英語を解読して手続きをして入手している。そして彼らは大儲けし、テレビCMを見てようやく動きだすような人たちがババをつかまされることとなる(事実そうなった)。

金を稼ぐにも、節約するにも、悪い人に騙されないためにも、ある程度の資産が必要なんだよね。
「外食するより自炊したほうが安くつく」とわかっていても、調理器具一式をそろえられない人、台所付きの家に住めない人には自炊ができない。
「ネットカフェに泊まるより安いアパートを借りるほうが安くつく」とわかっていても、敷金・保証金・保証人を用意できない人はアパートを借りられない。


特にこれからは少子化で労働力がどんどん減っていくから若い人や子どもにお金を回していかなきゃならないのに、今の世の中を見ているととてもそうなっているようには思えない。
それどころか真逆の方向に進んでいるように見えるね。



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2018年3月12日月曜日

【DVD感想】『ズートピア』

『ズートピア』(2016)

内容(Amazonビデオより)
動物が人間のように暮らす楽園、ズートピア。誰もが夢を叶えられる人間も顔負けの超ハイテク文明社会に、史上最大の危機が訪れていた。立ち上がったのは、立派な警察官になることを夢見るウサギのジュディ。夢を忘れたサギ師のニックを相棒に、彼女は奇跡を起こすことができるのか…?「アナと雪の女王」「ベイマックス」のディズニーが夢を信じる勇気にエールを贈る感動のファンタジー・アドベンチャー。

自分の中でなぜか『ズートピア』と『ラ・ラ・ランド』がごっちゃになっていて、「あれ? ミュージカルだって聞いてたのになかなか歌いださないな……」と思っていたらぜんぜん違う作品だった。おっさんにとってはカタカナ五文字はぜんぶ一緒なのよ。
その程度の認識なので当然ながらまったく予備知識もなく観たんだけど、おもしろかった。安定のディズニー。

肉食動物と草食動物が楽しく暮らしているズートピアで、突然肉食動物が凶暴になるという事件が発生。人口の九割を占める草食動物は恐怖から肉食動物を避けるようになる……。というストーリー。

「どんな夢でも叶う」という前向きなメッセージやかわいいキャラクターが前面に出ているので見落とされそうだが、これを人種対立の話として見るとなかなかおもしろい。

日本でもやはり外国人が犯罪をしたらその発生頻度を検証しようともせずに「これだから××人は……」という言葉を口にする人がいる。アメリカだともっと多いんだろう。表立って口にするかどうかはべつにして。


快楽的な差別はダメだと誰でもわかるが、わかりにくいのは差別の根源に被害者意識や恐怖がある場合だ。

ルワンダ虐殺という事件があった。
過激派のフツ族がツチ族を大量虐殺した事件だが、きっかけのひとつはラジオ局の報道だと言われている。ラジオで報道された内容は、ツチ族の力を低く見るものではなく、その逆だった。彼らはこう言った。「ツチ族は我々フツ族を攻撃するだろう」と。つまり「ツチ族は力を持った脅威であり、我々はその被害者なのだ」と煽った。
これにより過激派フツ族は「やられる前にやらねば」という意識を持ち、ツチ族、さらには穏健派のフツ族を殺すことになった。

自分を加害者だと思っているときには「これ以上はかわいそうだな」と加減をしても、自分が被害者だと思っている人には歯止めがかからない。なにしろかわいそうなのはこっちなのだから。
9.11のテロの後、アメリカは攻撃的になった。イラク戦争も多くの国民が支持していた。それは「自分たちがテロリストに狙われるかもしれない」という恐怖感、被害者意識があったからだろう。加害者だったらこうはいかなかった。

昔も今も、洋の東西を問わず、同じことが起こっている。
日本も韓国も白人も黒人も、みんな自分が被害者だと思っている。身の安全や権利が脅かされていると。そして"被害者"がいちばん恐ろしい。


『ズートピア』は、この「誰もが被害者になりたがる」心理をうまく描いている。
肉食動物たちを排除しようとする草食動物たちに差別意識はない。あるのは被害者意識と恐怖心だけ。
差別されている肉食動物もまた自分たちを被害者だと思っている。
被害者と被害者が対立し、互いを排斥する社会。よく見る光景だ。

『ズートピア』では対立を煽った真の黒幕が明らかになってハッピーエンドを迎えるが、現実の世の中であれば黒幕が捕まった後も被害者意識は残りつづけ、何かのきっかけで表面化することだろう。

そのことを知っている者としては、『ズートピア』の動物たちが共に手を取り合って歩んでいくラストシーンに拍手を送りつつも、「こんなふうにできたらいいんだけどなあ……」とため息をつくしかない。

いや、ここでため息をつくからだめなのか。
素直に「どんな夢でも叶う!」と信じてディズニーダンスを踊る人間ばかりになれば「誰もが被害者になりたがる社会」はちょっとは改善されるのかもなあ。


それはそうと、この映画でいちばんぼくが感心したのは「キツネが怒ったときに鼻の頭にしわが入る」シーン。
昔飼ってた犬も怒ったときにこれとそっくりな顔してたなあ……。


2018年3月11日日曜日

ツイートまとめ 2018年1月


ジョジョ


お年玉

おみくじ

リサイタル

相違点

差別

つらら

保育園

人間

課金

アラブ

バカ

ショー

映画化

風景

専門店

挨拶

絶滅

操作性

名前

松屋町

ゴミ

ザコ

BS

ちゃんちゃら

チャーリー・ブラウン

不安

コッペパン




2018年3月10日土曜日

フラッシュモブが嫌われる99の理由


フラッシュモブが嫌いという人は多い。
道端で、知らない人たちが突然踊りだすというドッキリ企画みたいなやつ。

「フラッシュモブ」で検索すると、フラッシュモブに対する憎悪があふれかえっている。
世の中の人はこんなにもフラッシュモブが嫌いなのか。

ぼく自身、フラッシュモブに恨みはないが、好きでもない。どっちかっていったら嫌いだ。
テレビで何度かフラッシュモブを観て「うわぁ……。これはキッツいなあ……」と感じたこともある。
旧友から「今度フラッシュモブやるんだけど一緒にやらない?」と誘われて「やめとくわ」と即答したこともある。

でも嫌いな人が多いということは、好きな人も多いということだ。じゃなかったらとっくに消滅している。
好きな人もいるのに、嫌いな人はとことん嫌い。それがフラッシュモブ。

フラッシュモブはなぜこんなに嫌われるのか、考えてみた。




 迷惑


自室でやるなら好きにしたらいいけど、フラッシュモブやる人たちって公道とか空港とか人の多いとこでやりたがるでしょ。

あれがなければ、大半の人にとってはフラッシュモブは「好きでもないけどどうでもいい」存在なんだと思う。なのに無関係な人を巻きこむせいで「うっとうしい。嫌い」という印象を持たれてしまう。選挙カーと一緒。

もしぼくがフラッシュモブの現場に遭遇したらわざとど真ん中を歩いて台無しにしてやろうと企てているんだけど、残念ながらまだその機会には恵まれていない。




 だまされる


「フラッシュモブ」で検索すると、「フラッシュモブでプロポーズされたから嫌すぎて振った」とか「結婚式で大嫌いなフラッシュモブをやられたから離婚した」なんて話が出てくる。
嘘か真かわからないけど、嫌な思いをした人の気持ちはわかる。

フラッシュモブにかぎらず、「サプライズ」が嫌な人は少なくないと思う。
要は「だます」って行為だからね。

上手な詐欺師はだまされたことにすら気づかせないと聞く。周囲の人が「おばあちゃん、あの人にだまされたのよ」っていくら言っても当のおばあちゃんは「そんなことはない」って認めない、なんて話も。
そんな詐欺は、だまされた本人がいい思いをしてそれに見合った対価を払ったのだと思えば、法律的にはアウトでもさほど憎むべき罪とは思わない。

でもそれはよほどうまいことやった場合の話であって、まあたいていだまされていい気はしない。

よほどセンスのいい人がスマートにやるなら「こりゃ一本取られた!」って気持ちよくなれるけど、そうじゃないかぎりはだまされたら腹立つよね。

まして、はじめてフラッシュモブを考案した人ならともかく、今さらフラッシュモブやったって「何こんな使い古された手段でサプライズ気取ってんの。きんもー☆」だよね。

頭を使わずにお手軽にサプライズをしようという浅はかさが嫌われる原因なんだろうな。




 赤の他人が楽しそうにしている


フラッシュモブって、わけわかんない人混ざるでしょ。
ぼくが「フラッシュモブやらない?」って誘われたときも、名前も聞いたことがない人のプロポーズという名目だった。

赤の他人が楽しそうに踊っていて、踊れないのは自分ばかりなり。
こんな状況、楽しいわけがない。

フラッシュモブが嫌われるのって、一応「ターゲット(だまされる人)のためにやる」ということになってるのに、踊ってるやつらがいちばん楽しそうだからだよね。
いや、やったらじっさい楽しいと思うんだよ。達成感もあるし、仲間内の結束も感じられるし、「他人を驚かせたい」ってのは人間の根源的な欲求だと思うし(うちの四歳の娘もよく背後から「わっ!」と言って驚かせようとしてくる)。

だからこそ、楽しく踊る輪の中に入れない人は疎外感を味わうことになる。

あれ、みんながつらそうにしていたらそこまで嫌われないだろうね。
たとえば二時間ぐらい休みなく踊るとか。踊ってるやつらが次々にぶっ倒れていって、救急車で運ばれるやつも現れて、あたり一面死屍累々。
そしたらサプライズをしかけられた側も「私のために苦しんでるわ!」って嗜虐的な悦びを感じてくれるかもよ。




悪意がない


なんといってもフラッシュモブが嫌われる最大の要因はこれだよね。
悪意がない。よかれと思ってやってる。これがいちばんタチ悪い。

以前、駅前のそんなに広くない歩道橋で、道いっぱいに広がって「盲導犬のために募金お願いしまーす」ってやってた。子どもとか使って。
すげーじゃまだったんだけどさ。でも本人たちはまったく悪いと思ってないの。崇高な目的のためなら人に迷惑かけていいと思ってんの。通行人も、盲導犬募金の人に注意しにくいから、じゃまだなと思いながらせまい隙間を我慢して通ってるの。
道をふさいでるのが派手な着物を着たら新成人だったら、誰か注意するなり警察に通報するなりするんだろうけどね。

善意の人って困るよね。やましいところがないから行動にブレーキがかからない。
会社経営者でも、金儲けのためにやってる人はそこまで悪いことをしない。「社会貢献」「人材育成」とか唱えるやつ、そしてそれを本気で信じているやつは際限なく悪いことをする。
「若いときの苦労は自分のためになる。だから残業が多くたって文句を言うな」ってやつはいっぱいいるけど、「おれの資産を増やすためにおまえら一日十六時間働け!」と言うやつはいないでしょ。

たぶんフラッシュモブが大好きな人に「やられて嫌な人もいるんですよ」って言っても伝わらないんだろうね。善意でやってるから。善意から出た行動なら「気持ちがうれしい」と言ってもらえると思っているから。



ぼくがフラッシュモブに誘われたとき、上に書いたようなことを言って「悪いこと言わんからフラッシュモブなんてやめとけ」って説得しようかな、と一瞬思った。

でも「やったことないからだよ。一回やったらフラッシュモブのおもしろさがわかるよ!」なんて悪意のないとんちんかんな答えが返ってきそうだなーと思って結局何も言わなかった。

善意につける薬はない。


2018年3月9日金曜日

服をおろす日


衣服に興味がないんだけど、半年に一回ぐらい服を買いに行くのね(「穴の空いてない靴下がなくなった」などの理由で)。

ふだん服を買わないから、たまに買い物にいくと一度にどかっと買う。気分は完全に「召し使いを連れてショッピングに来た大金持ちのお嬢様」。「あれもいるわ、これも買っとこうかしら」と財布を気にせずどんどんカートに放りこむ。ユニクロだけど。

靴下十足、パンツ八枚、シャツ七枚、みたいな感じでばかみたいに買う。

特に靴下は同じ柄をまとめて買う。
同じ柄の靴下がいっぱいあると洗濯のときにいちいち相方探しをしなくて済む。あと片方に穴が空いても、残った靴下同士を組み合わせてまだ使える。これぞできる大人のライフハック。

服を買うときはお嬢様モードになってるから「よっしゃいったれー!」と気分が高揚しているのだが、家に帰った途端に何もかもが面倒になる。


ああいやだ。なんだよこの服たち。
この服、サイズを合わせたり、タグを切ったり、タンスにしまったりしないといけないのか……。思っただけでげんなり。

サイズがちがったり欠陥があったりしたら早めに返品しないといけない。だからすぐにチェックしたほうがいい。
わかってるけど、めんどくささのほうが勝って放置してしまう。

ああ嫌だ嫌だ。服を買うのは嫌いじゃないが、買った服をおろすのは大嫌いだ。

買った服は袋に入れたままタンスの上に放置する。
「いつかめんどくさくなくなったらおろそう」
当然ながらそんな日は来ない。今日めんどくさかったんだから明日になったらもっとめんどくさい。来週になったら換気扇の掃除と同じくらいめんどくさい。

冬に買った服が夏になってもまだタグがついたまま。たまに目が留まるが「ま、そのうちね。ここぞというときにおろすからさ」と思いながら目を背ける。

ところが「ここぞというとき」なんて、既婚・子持ちのおっさんにはない。「子どもと公園で遊ぶから汚れてもいい服を着る日」はあっても「新しい服を着なきゃいけない日」はない。
結婚式とか家族写真を撮るとかのイベントのときはスーツだし。


つくづくもったいないことしてるなあと思うんだけど、こんな性分にもひとつだけいいところがある。
今の気候にふさわしい服がすべて洗濯中のときにしかたなく半年前に買った服をおろすんだけど、買ったときのお嬢様気分なんかすっかり忘れているから

「おっ、この服なかなかいいじゃん。これは自分では選ばない色だなー(自分で選んだんだけど)。たまにはこういうのもいいかも」

と、福袋気分で楽しめるところ。