2018年2月15日木曜日
ママは猟奇的
ときどき母と本の交換をする。「これ、おもしろかったよ」と自分が読んだ本を交換するのだ。
母はミステリやサスペンスが好きなので、こないだ清水潔『殺人犯はそこにいる』を贈った。
「ノンフィクションだけど、そこらのミステリ小説よりずっと手に汗握る展開だった」と。
一ヶ月後、母に尋ねた。
「『殺人犯はそこにいる』、読んだ? すごい本やったやろ?」
すると母は「途中で読むのやめちゃった」と言う。
「えー!? なんで? あの本を途中でやめられる? ぼくは中盤から一気に読んだけどな」
「いや、ノンフィクションとしてはすごくいい本だと思う。
でも、孫ができてから、ちっちゃい子がひどい目に遭う話は読めなくなったのよね。
うちの孫がこんな目に遭ったらと思うとつらすぎて……」
と。
母の変わりように驚いてしまった。
あんなにサスペンスやホラーが好きだった母が。学生時代から『雨月物語』を愛読し、猟奇的な殺人事件もののミステリばかり読んでいた母が。
人間、歳をとると変わるんだねえ。
しかしなによりショックだったのは、「孫ができてからちっちゃい子がひどい目に遭う話はつらすぎて読めない」と言う母が、ぼくが子どものときはそんなことを一言も言っておらず、残虐な物語もよく読んでいたこと。
我が子はええんかい。
2018年2月14日水曜日
【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈一〉 四季折々』
『上方落語 桂米朝コレクション〈一〉
四季折々』
桂 米朝
落語を聴くのが好きでよく落語を聴きながら寝るのだけど(すぐに眠れるのでおすすめ)、落語を読むのも好きだ。中学校の図書館で落語全集借りて読んでたなあ。
落語は聴くだけではわかりにくいことも多い。読んでから聴くことで理解しやすくなる。邪道といわれるかもしれないけど、読むこともおすすめしたい。
桂米朝さんは噺家としてももちろんだけど、なにより研究者として超一流。
落語の噺って昔は口伝で受け継いでいたから、噺家たちがやらなくなるとすぐに途絶えちゃう。
米朝さんは古い落語を探しまわり、音源があればそれを蒐集し、音源がなければいろんな人から聞いてまわって噺を再現し、それを自分でも高座にかけて後世に残した。さらにこうやってテキストとしても残したわけで、米朝さんが上方落語界に残した功績はとんでもなく大きい。米朝さんがいなければまちがいなく今の上方落語はなかった。
そりゃあ人間国宝にもなるね。
ぼくが米朝さんの噺をはじめて聴いたのは小学生のとき。母が「近くで桂米朝一門会やるから行こう。平日だから学校休んでいいよ」って行って、連れていかれた。
そこで落語のおもしろさを知って、『米朝落語全集』のカセットテープを買ってもらい、夜な夜な聴いていた。
大人になってからは寄席にも行っていろんな噺家の落語を聴いたけど、最高峰から入ってしまったので他の噺家の落語を聴いてもいまいち楽しめず、やはり米朝落語ばかり聴いてしまう。
聴きやすい、品がある、幅が広い、ということでどれだけ聴いても飽きない。
米朝さんは亡くなってしまったのでもう生の噺は聴けないけれど、『桂米朝コレクション』を読んでいると米朝さんの語り口が聞こえてくる気がする。
けんげしゃ茶屋
"けんげしゃ"とは"縁起を気にする人"の意味らしい。
これは読むほうが理解できるな。解説なしでこの噺を聴いたらわからない点だらけだろう。
縁起を気にする人の家に行って、わざと縁起の悪いことばかり言っていやがらせをする、という内容で、ちょっと悪ふざけが過ぎるなという印象。
それでもこれが笑いになるわけだから、人間って昔から俗悪なものが好きなんだなあ。「テレビのバラエティ番組はいじめの構造と一緒」みたいな批判がされるけど、落語にもこういう噺はあるわけで、今も昔もみんな人の嫌がることが好きなんだよ。
正月丁稚
正月の挨拶まわりに出かけた丁稚が縁起の悪いこと、余計なことばかり言うという噺。
『けんげしゃ茶屋』と似ているけど、嫌なことを言うのが金持ちの旦那ではなく丁稚の子どもなのでこっちのほうが罪がない。
正月の商家の様子や正月行事(門松、おせち、正月用の箸など)の由来がよくわかる噺なので、これは学問的にも後世に残したほうがいい噺だね。
池田の猪買い
上方落語には「東の旅」「西の旅」「南の旅」「北の旅」という旅ネタシリーズがあり、この噺は稀少な「北の旅」に分類される。
昔の旅といえば東の旅(お伊勢参り)が主流で、わざわざ北に行くことなんてほとんどなかったんだろうね。北といっても池田ってそんなに北じゃないんだけど(現在の行政区分では大阪市のふたつ隣が池田市)。
それぐらいの距離だから、交通機関のなかった昔ですら一泊で行ける距離(がんばれば日帰りでも行けない距離じゃないと思う)。それぐらい北には行かなかったんだろうね。
ま、これは現代でも同じだけどね。大阪の中心地に住んでる人はあんまり北に行かない。
この噺、いきなり「猪が淋病に効くらしいから買いに行く」というド下ネタな導入で、今ではこのくだりは改変されて語られることが多いらしい。そりゃそうだ。
だからこそこうやってテキストに残しておく価値がある。
と、池田への行きかたを説明するくだりがあるんだけど、ここに出てくる地名、今も全部そのまま残っている。あれは昔からあるのかーと大阪の住人としてはそれだけで楽しめる。お初天神も服部天神もあるしね。さすがに寿司屋と渡しはなくなったけど。
落語って町人のものだから基本的に町中しか出てこないんだけど、これはめずらしくお百姓さんや猟師も出てくる噺でもあって新鮮。個人的に好きな噺。
貧乏花見
江戸落語では『長屋の花見』という題で語られるが、元々は上方の噺。とにかくばかばかしくて何も考えずに笑えるご陽気なネタ。
上方落語は「ハメモノ」と呼ばれる三味線や鳴り物を使うので、陽気な噺は上方式のほうが聴いてて楽しい。
笑いどころの多い前半に比べて後半はトーンダウンする上に他人に迷惑をかけるという内容なので、今は途中で終わらせることが多いんだそうな。
百年目
米朝さんがしきりに「むつかしい(「難しい」の関西弁)噺」と書いているけど、複雑な心中描写が主題となっているのでたしかに演じるのは難しそうだ。
丁稚に小言ばかり言っている厳格な番頭さんがじつは遊び好きで、派手に芸者を引き連れて花見をしているとばったり店の旦那と出くわしてしまう。クビを言い渡されるのではないかとひやひやしていたが旦那から優しい対応をしてもらう――という噺。
人間の多面性がよく描かれていて、人情味もあっていい噺。くりかえし聴くほどにその良さがわかる。これは若い噺家にはなかなか語れないだろうね。
現代の会社にそのまま置き換えても通ずる噺だ。
愛宕山
大阪でしくじって京都に行かざるをえなくなった幇間(太鼓持ち)が、旦那さんについて愛宕山に登る、という噺。
「大阪出身の幇間が京都人の旦那についている」という設定がいい。
関西の人ならわかると思うけど、今でも京都と大阪の人って互いに相手を下に見ているところがある。大阪は「こっちは商売の中心や」というプライドがあるし、京都は京都で「大阪もんは雅なものを理解できしまへん」と思っている。このへんの感覚は21世紀でもあまり変わっていない。
愛宕山の前半には大阪VS京都の微妙な意地の張り合いがあらわれていて、関西人としてはとてもおもしろい。
ただし前半は当時の金持ち衆の遠出の様子が丁寧に描かれているのに対し、後半は「番傘を開いて谷底へと飛び降りる」「長襦袢を引き裂いてつくった紐を伝って戻ってくる」というめちゃくちゃなストーリー。特に「旦那が小判を谷底へばらまく」というのは、下品で京都人らしくない。
後半はあんまり好きじゃないな。
千両みかん
商家の若旦那が「夏にみかんを食べたい」と思うあまり寝込んでしまい、番頭がみかんを求めて奔走する噺。ちょっと設定に無理がある。特に年中みかんを食べられるようになった現代においては、自然に設定に入りこめない。
「みかんを持って番頭さんがばっくれる」というサゲはおもしろいのだが、「あんなに若旦那のために苦労していた番頭さんがそんなことするかね」という気がするし、それだったら千両持って逃げるだろうとも思う。いろいろと粗が目立つ噺だ。
蛇含草
『天狗裁き』とならんで、ぼくがいちばん好きな落語。
星新一のショートショートが好きだからこういう秀逸なサゲの噺が大好きだ。
餅を腹いっぱい食べて苦しくなった男が「うわがみが人間を呑んだ後におなかをすっきりさせるために食べる」といわれている蛇含草を食べたところ――という噺(これだけでも勘のいいひとならオチがわかるだろう)。
切れ味のいいサゲが注目されがちだけど、餅を食べるシーンでの意地の張り合い、腹いっぱいになって苦しんでいてもまだ餅を食べようとする男の卑しさなど、落語らしい人間の浅ましさが描かれているのもいい。
まめだ
これは小学生のときに買ってもらったカセットテープに収録されていたので、何度もくりかえし聴いた。
古くからある噺だと思っていたけど、新作落語なんだね(といっても1966年作だけど)。
膏薬を売って生計を立てている売れない歌舞伎役者。ある日いたずらをする狸を地面に叩きつけてから、膏薬が一日にひとつずつなくなっていくことに気づく……というストーリー。
笑いどころは少ない上に、あまり罪のない狸を殺してしまうかわいそうな噺なので、演者の腕がないとただただ残酷な噺になってしまいそうだ。
サゲの「狸の仲間から、ぎょうさん香典が届いたがな」も、笑えるというよりしんみりしてしまう。
かけとり
大晦日にツケの請求がやってくるので、相手の好きなものを並べ立ててうまく追いかえす――という噺。
よくできているんだけど、時事ネタなどわかりづらいくだりが多すぎる。力士の名前とか、芝居風の言い回しとか。サゲも、聴くだけだったら意味不明だろう。
ツケで買って月末、年末にまとめて払うという「かけとり」の風習もなくなったし、近いうちに消えゆく落語かもしれないな。
風の神送り
「風の神送り」とは、インフルエンザなどが流行ったときに「風(風邪)の神様に見立てた人形を川に流す」という風習のこと。明治に入って廃れたそうだ。
こういう何から何まで今とは違う風習を扱った落語は、かえってわかりやすい。まったくべつの世界の話として聴けるから。
話の主軸は、風の神送りをするためにカンパを募る、というくだり。吝嗇な金持ちに悪態をついたり、流行り病のおかげで稼げているやぶ医者が出ししぶったり、さまざまな人間模様が描かれていて興味深い。
特に金持ちのお妾さんと一緒に風呂に入る描写(当時の風呂は混浴だった)は新鮮でおもしろかった。そういえば上方落語には風呂が出てくる噺が少ないな。江戸落語にはけっこうあるみたいなんだけど。
サゲにも使われている「弱身につけこむ風邪の神」ということわざは、まともな医学がなかった当時にしては的確。
ぼくもブラック企業に勤めていて慢性的な睡眠不足だったときはしょっちゅう風邪ひいてたなあ。結局、風邪の予防には十分な睡眠がいちばん効果だよね。「どうしても休めないあなたに」なんて云って風邪薬の宣伝してる現代より、昔の人のほうが正しく理解していたのかもね。
その他の読書感想文はこちら
2018年2月13日火曜日
卵どろぼう
オヴィラプトルという恐竜がいる。名前は「卵どろぼう」という意味だ。
最初に化石が発見されたときにそばに卵の化石もあったため、卵を盗んで食べる恐竜にちがいないと思われてこんな名前になった。
ところが後の調査で、オヴィラプトルの近くにあった卵の中にはオヴィラプトルの子どもがいたことがわかった。つまり彼らは卵を盗んでいたのではなく、自分の卵を温めていたのだ。
しかし「卵どろぼう」の名で定着してしまった彼らは、今もそのまま「オヴィラプトル」という卵どろぼう呼ばわりされている。
ひどい冤罪だ。冤罪が明らかになった今をもってなお、彼らの汚名は雪がれていない。
オヴィラプトル濡れ衣問題は、法治国家の限界を表しているようにも見える。
「疑わしきは罰せず」の原則が無視され、"容疑者"になっただけで犯人扱いされてしまう現実。
法に定まった罰以上に社会的な制裁を課されてしまう実情。
一度汚名を着せられたら、それが濡れ衣であっても永遠に拭えない社会。
こうした社会の危険性に対し、数千万年の時を超えて「卵どろぼう」が警鐘を鳴らしている。
2018年2月12日月曜日
ツイートまとめ 2017年11月
パスワード
百歩譲ってサイトごとにパスワード変えるとしてもだよ、せめてIDは全サイトで同じものを使わせてくれよ……。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月1日
なぞなぞ
3歳の女の子にあいさつしたら「1が1個のはもう終わった」と言ってて、なんのことかさっぱりわからなかったんだけど、よくよく聞いてみると「10月は終わって今日から11月」と言いたかったのだとわかった。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月1日
宗派
どんなイカれた葬式でも「そういう宗派だから」と言われれば人は受け入れてしまう説。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月2日
締め
説教の最後に「そういうとこやぞ」ってつければ整合性なくても収まりがいい。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月2日
そうかもしれん、って思ったやろ。そういうとこやぞ。
モータライゼーション
高齢ドライバーの主張「車がないと生活できない」って鵜呑みにしないほうがいい。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月2日
ほんとにどこにも行けない山間部もあるだろうが、15分に1本バスが来てスーパーも銀行も駅も行けるのにそう言ってるうちの親みたいな人もいる。
「車がない生活は想像できない」だけの人も多いんじゃないか。
クッパ
マリオで毎回クッパがピーチ姫をさらう理由が「結婚したいから」なのがファンタジーすぎるって言ってる人がいるけど、IS(イスラム国)の兵士は女を拉致して「結婚するか殺されるか選べ」とかやってるからな。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月2日
ちゃんと現実に則してるよ。
原始
原始鳥居@金剛山 pic.twitter.com/enN4zousBP— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月3日
絶対値
政治の話をするときって、主義主張の方向性よりも温度感が近いかのほうがまともに議論できるよね。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月4日
たとえば原発反対度1の人は賛成度1の人とは議論できるけど、反対度10の人とはまともな話にならない。
原発でも改憲でも現政権に対しての姿勢でも、賛成度10の人と反対度10の人っていっつも喧嘩してて、傍から見ていると「おまえらわざわざ喧嘩しにいっててほんとは仲いいんじゃねーの。つきあっちゃえよー!」って言いたくなるもんね。 https://t.co/nLABWHRkdW— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月4日
どんぐり
4歳の娘に「プラって書いてあるものやビニール袋はプラごみ、それ以外は一般ごみだよ」と教えたら「じゃあどんぐりはプラごみ?」と質問されたの、おまえはなにを聞いてたんだって言いたくなるし、そもそも捨てるなら毎日どんぐり拾って帰ってこないでくれ。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月4日
新技術
ドローンが落ちてけが人が出たら全国ニュースで、自動車でひかれて人が死んでも地方ニュースにもならない。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月4日
よっぽど新しい技術が憎いのだろうか。
でおうた
大阪の保育園に通っているからかわかんないけど、娘は「あるーひー 森のなかー くまさんにー でおうたー」と歌う。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月5日
逃走中
今度の『逃走中』の舞台は国会! リミットは1年! せまりくる野党の追及をかわし、最後まで逃げ切って莫大な私益を手にするのは誰だ……!? / “政府、重要文書「原則1年」保存 森友、加計批判で新指針案 - 共同通信 47NEWS” https://t.co/j8MLEhkWXx— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月8日
コメント
ブログ書いててコメントがないのを寂しいと思ってたけど、よく考えたらぼくも好きなブログ見るときはいちいちコメント残したり「いいね!」したりしない。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月9日
わかりやすいリアクションはないけど毎回読みにきてくれる、がいちばんいい読まれ方かもしれない。
下劣
「目的は崇高だけど手段は正しくない」はいちばん迷惑な存在だけど(過激な環境保護団体とか)、その逆の「目的は下劣だけど手段は崇高」は見ていておもしろい。昔24時間テレビのゴミ拾いのじゃましようぜっていって某掲示板の住人が事前にゴミを拾い集めちゃった話とか。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月10日
死にたい
「死にたい」と思わせない世の中にするのではなく「死にたい」と言えない世の中にする。ブラックジョークが過ぎる。 / “官房長官 座間事件受け不適切サイト対策強化を指示 | NHKニュース” https://t.co/Bo2JmsReSh— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月10日
知恵
子どもが楽しく遊んでいるのを切り上げさせたいとき、「帰ろっか」は聞き入れてもらえないが「あと○回やったら帰ろう」はわりと受け入れられる。ぼくが学んだ局所的な知恵です。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月11日
労働者
労働基準法を学んだジャイアン「労働者は資本家であるかあちゃんの奴隷じゃないっつーの!」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月12日
労働闘争をはじめたジャイアン— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月12日
「人民のものは人民のもの。資本家のものも人民のもの」
のろけ
怪談師が語るのろけ話「女の子が死んじゃったよってニュースをやってるんです。それを見てぞっとしました。その女の子ってのが……今の妻です」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月13日
ぬくもり
やはりロボットに戦わせるのは人と人とのつながりが希薄になるので良くない。直接会って傷つけあうことで人のぬくもりが感じられる。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月14日
「ロボット兵器」の規制 国連で議論 | NHKニュース https://t.co/6PtGLbnhJJ
4横綱
日馬富士がやられたか……。ククク……だがヤツは4横綱の中で最弱……。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月17日
非インスタ映え
よく行く銭湯が、11月26日は「いい風呂の日」ということでアヒルのおもちゃをいっぱい風呂に浮かべるらしい。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月19日
風呂だから当然写真撮影はできないわけで、TwitterとかInstagramとは無縁のイベントってなんかうれしい。行ってこよう。
捏造記憶
武田鉄矢は、いつ「ぼくが教師やってたときは……」って捏造記憶語りだしてもおかしくないな。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月20日
結束力
クラス対抗○○とか班行動とか、結束力を高めさせようとするイベントをなくせば学校のイジメは減ると思う。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月21日
喫煙者と非喫煙者をむりやり同じテーブルに座らせるようなことしたら、そりゃイジメも起こるよ。
漢字能力
近年、若者の漢字能力が低下している。例えば、中高年の大半が読めた「上九一色村」という字を正しく読めた若者はほとんどいなかった。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月21日
紙の本
ちょっと前にどっかの出版社のえらいさんが「図書館のせいで本が売れない」って言ってたけど、あと十年もすれば紙の本を買ってくれるのは図書館だけ、ってなことになってそう。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月23日
鳩
少女と鳩と少女と鳩。 pic.twitter.com/Y1L5OZiigY— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月25日
悪趣味
なんちゅう悪趣味な模型だ。 pic.twitter.com/HC56Oh2KqA— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月25日
プラシーボ
娘が「疲れたから歩けない」と言うので、ヤクルトを飲ませて「ヤクルトにはお薬が入ってるからすぐ疲れがとれるよ」と言うと、「元気になった!」と走りだした。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月26日
ヤクルトに入ってるプラシーボという成分が効いたらしい。
あひる風呂
あひる風呂行ってきた。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年11月26日
手前のジェット風呂に流されて、棲み家を追われたあひるが奥にかたまってた。 https://t.co/UXKlRjPucR
ライナスの毛布
スヌーピーでおなじみ『THE PEANUTS』にライナスという男の子が出てくる。
いつも青い毛布を持っている男の子。あの毛布は「ライナスの毛布」という名でも心理学用語になっている。
ぼくも「ライナスの毛布」を持っていた。というか今でも持っている。
三歳ぐらいのとき、さびしがりやで、ひとりでは泣いて寝られなかった。そこで母がパジャマを与えると、それを握りしめて寝ていたらしい。
母は古くなったパジャマを切ってぼくに与え、それ以来ぼくはパジャマのを持って寝るようになった。
ただぼくがライナスとちょっとちがうのは、布切れそのものではなく、それについているボタンに執着するようになったことだ。
パジャマの切れ端が汚くなったので母がとりあげると幼いぼくは大泣きした。代わりにべつの布切れを与えてもやはり泣いたが、その端にボタンを縫いつけてやるとうそのように泣きやんだそうだ。
ボタンをさわることで、安心した。
五歳くらいになると「ボタンのついた布を持っていないと寝られない」というのがなんとなく恥ずかしいことだと思うようになったので家族以外には隠していた。引き出しに布をしまい、夜になると引っぱり出してきてボタンをさわりながら眠った。
母には何度も「そんなの恥ずかしいからやめなさい」と言われた。自分自身、いつまでもボタンに頼っていてはいけないと思い、「もうやめる!」と宣言したこともあった。
けれどボタンをさわらずに寝るのはどうしようもなく寂しく、結局一日たつとまたボタン付きの布を引き出しから引っぱり出してしまうのだ。
小学生になっても、ボタンのついた布切れを持って寝ていた。
五年生のとき、林間学校という五泊六日の野外活動がおこなわれた。
布切れを持っていくかどうか迷ったが、ばれたら恥ずかしいことと、旅先でなくしてしまったらたいへんだという思いがあり、置いていった。
これが失敗だった。
帰ると、お気に入りの布切れがない。
母に訊いても「知らない」と云う。だが、それは嘘だった。留守中に、母が捨てたのだ。なぜなら、布切れが入っていた箱もいっしょになくなったのだが、後日母が「箱が見つかったよ」と持ってきたからだ。箱の中身だけが自然になくなるはずがない。
ぼくは泣いて母に抗議した。「泥棒!」と何度もののしった。母とは三日ぐらい口を聞かなかった。
母のことは嫌いではないが、このときのことはいまだに許していない。母が認知症になって「わたしの財布がない。盗んだんでしょ」とか言いだしたら、「ぼくが大事にしていたあの布切れを盗んだ人がよくそんなこと言えるね」とねちねちと責めたててやろうと思っている。
母の誤算は、小学校五年生は家庭科の授業でボタン付けを習っているということだった。
ぼくは母の裁縫道具箱からちょうどいい大きさのボタンを手に入れ、ハンカチの端にボタンを縫いつけた。
そして前と同じようにボタンをさわりながら寝た。
勝手に布切れを捨てた母に抗議するかのように、ボタンをさわる回数を増やした。
寝るときだけでなく、自室で本を読んでいるときにもボタンをさわるようになった。
部屋を開けるときは、再び母に捨てられないよう、机の引き出しのさらにその奥に布切れを隠した。
大学生になってひとり暮らしをするようになったときは、ボタン付きの布も持って行った。
いつしかボタンをさわらなくても寝られるようになっていたが、やはりボタンをさわっていると心の底から落ち着いた。
ボタン付きの布切れは、今でも持っている。
結婚して妻といっしょに住むときに持ってきた。引き出しの奥底に隠している。
今ではほとんどさわることがない。一年に一回ぐらいだろうか。ちょっとさわるだけで、さわりながら寝ることもない。
けれどさわるとやっぱり安心する。温泉に入ったときのようにリラックスした脳波が流れる。
幼いころからボタン付きの布切れとずっとつきあってきたから、ライナスの毛布を奪って逃げるいたずらをするスヌーピーのことはどうも好きになれない。
登録:
投稿 (Atom)