2017年10月29日日曜日

【DVD感想】カジャラ #1 『大人たるもの』



カジャラ #1 『大人たるもの』

内容紹介(Amazonより)
小林賢太郎の作・演出による、新しいコントブランド「カジャラ」。
旗揚げ公演となる「大人たるもの」がBlu-ray&DVDで登場!
●ラーメンズ・小林賢太郎の新作コント公演カジャラ♯1「大人たるもの」がBlu-ray&DVDで登場!
●出演は片桐仁/竹井亮介/安井順平/辻本耕志/小林賢太郎!
2009年の「TOWER」以降は本公演を実施していないラーメンズが揃って舞台に出演するのは7年ぶり!
●2016年7月27日から東京、大阪、神奈川、愛知で行われ、プレミアム公演となった模様を収録!

ラーメンズ・小林賢太郎氏が脚本・演出・出演を務めるコントユニット「カジャラ」の旗揚げ公演。

ラーメンズとしての活動は2009年を最後に休止中。小林賢太郎氏はニューヨークに住んで、NHKの『小林賢太郎テレビ』などを手掛け、片桐仁氏は役者や造形作家として活動しています。あとEテレ『シャキーン!』のジュモクさんとしてもおなじみですね。おなじみじゃないですか。あ、そう。ぼくは毎朝観てます。

そんなラーメンズが久しぶりにそろい踏みの舞台ということで楽しみに観てみたんだけど、うーん、「笑えるか」という点でみると正直いまいちだった。

コントというかちょっと笑いのある芝居、ぐらいの感じかな。


ベテラン芸人ならまずやらないベタ中のベタな設定「医者コント」をあえて数本用意していたり、時間の異なる2シーンを同時に演じてシンクロさせたり、実験的な作品をいくつか用意しているのに、それを突きつめることなくそこそこのところに着地させているのが残念。
たしかにどれもそこそこおもしろいし、細部の巧みさは感心すんだけど、小林賢太郎の舞台に求めてるのはそこそこじゃないんだよなああ。

いろんな創作表現の中でも「笑い」って特に年齢を重ねるごとに劣化しやすい部分だとぼくは思っていて、小林賢太郎も例外ではないんだろうな。『小林賢太郎テレビ』なんてほとんど笑える部分ないし。
それでも真正面から笑いにチャレンジする姿勢はすごいんだけど、だったらいっそおもいきってラーメンズとして活動再開してほしいなあとファンとしては思うばかり。
ぼくがこのライブでいちばん感心したのは片桐仁のコントアクターとしての質の高さだった。この人がいるだけで舞台の雰囲気がまったく変わるしね。
だからこそラーメンズというシンプルな枠組みで挑戦してほしい。

失敗してもいいからもっと鋭いものを、小林賢太郎に、というよりラーメンズには期待してるんだよ。



2017年10月28日土曜日

つまらない本を読もう


とある人が「世の中にはつまらない本が多い。誰だっておもしろくない本は読みたくない。だから読書離れが進んでる」と書いていた。

本好きのひとりとして、いやそれはちがうぞと思った。


うーん、どう説明したらいいんだろう。

そりゃおもしろい本を読みたいんだけど。おもしろくない本は読みたくないんだけど。

でも、つまらない本があるからおもしろい本を読む喜びがあるわけで。

本好きならみんなそれを知ってると思うんだけど。



たとえば野球観戦。

いちばん見たい展開ってどんなんかな。

僅差のゲームで終盤の逆転により贔屓チームが勝利、みたいな展開だろうか。見ていて気持ちいいよね。

でも全部がそんな試合だったら野球を観る楽しみは大幅に減少してしまう。

勝ったり負けたり、ときにはつまらないエラーで贔屓チームが負けたり、序盤に大差のついてしまうワンサイドゲームがあったり、そういう試合があるからたまに起こる逆転サヨナラゲームが楽しい。

野球観戦にかぎらず、どんな趣味でも同じだと思う。

いいときだけでないからこそおもしろい。



「誰だっておもしろくない本は読みたくない」と書いた人は、ほとんど本を読まない人だと思う。

誰にとってもおもしろい本ばかりになったら、そのとき本は死ぬだろうな。


2017年10月27日金曜日

【ショートショート】ワイルド・アクタガワ


「いたぞ、野生の芥川賞作家だ!」

まさか。そんなはずはないと思いながらも脚は勝手に駆けだしていた。

そんなわけが。いるわけない。でももしかして。

地下鉄の階段をかけあがったところで人だかりができていた。おかげで勢いのままに見知らぬおばさんの背中にぶつかってしまったがおばさんは振り向こうともしない。

群衆が取り囲んでいたのは、くしゃくしゃの髪の毛、丸眼鏡、そして右手に万年筆を持った中年男性だった。
たしかに作家であることはまちがいないようだった。

「あれですか」
隣に立っていた男性に訊いた。
「たぶん」
男性はスマホの画面を作家に向けてムービーを撮りはじめた。

「おい何か書いてみろよ」
若い男が怒鳴った。

言われた作家は少しおびえた様子を見せたが、しかしためらうこともなく「何か書くものを」と言った。
若い男は紙を持っていなかったらしく、誰かいないかと周囲を見まわした。

「iPadならあるけど」
サラリーマンが言い、隣にいた上司らしき男に「ばか野生の芥川賞作家だぞ。タブレットなんか使えるわけないだろ」と頭をこづかれた。

「便箋でもいいの?」
百貨店の紙袋を提げた老婦人が尋ねた。
作家がうなずくと、老婦人はハンドバッグから鳥の絵がはいった便箋を五枚ほどまとめて作家に手渡した。

作家は便箋を手にすると「机が……」と言った。
さっきのサラリーマンが「これ下敷きにしてください」とタブレットを差しだし、上司に「ほら役に立ったでしょ」と得意げに笑った。

作家は背中をかがめるとタブレットの上に乗せた便箋にすごい勢いで何やら書きだした。
しばらく書くとくしゃくしゃっと便箋を丸めて投げ捨て、また新しい便箋に怒涛の勢いで書きつけた。

その様子を見ていた群衆から、おぉ……というため息が漏れた。
私も驚嘆していた。
万年筆を片手に猫背で原稿用紙(便箋だが)に向かう姿勢、ぼさぼさ頭、紙を丸めて投げ捨てるしぐさ、すべてが野生の芥川賞作家のそれだった。
といっても野生の芥川賞作家はとっくに絶滅したことになっているので、あくまでテレビで見ただけのイメージなのだが。

「これは期待できそうだな」
「もし本物の野生の芥川賞作家だったらやっぱり通報したほうがいいのかな」
「言うってどこに」「テレビ局とか」「やっぱり出版社じゃないの」

人だかりはますます大きくなっていた。もはや地下鉄の階段は完全にふさがれていて、下から「早く通せよ!」という声が聞こえてくる。


「おいおいおいおい」

ざわめきを切り裂くように、男の大げさな声が響いた。
さっき「何か書いてみろよ」と言った若い男だった。
手には、作家が丸めて捨てたくしゃくしゃの便箋が握られている。

「なんだよ『ぼくが目が覚めると異世界だった。それが冴えない中学生だったぼくが魔法を武器に戦うようになったきっかけだった』って。おまえ純文学じゃねえじゃねえか!」

隣に立っていた会社員も便箋を覗きこみ、すぐにがっかりしたような怒ったような顔になった。
「ほんとだこりゃライトノベルだ!」

「おまけにすごく子どもっぽい字」
老婦人は顔をしかめて、残りの便箋をひったくってハンドバッグにしまいなおした。

「まぎらわしいまねすんじゃねえよ!」
サラリーマンが怒鳴りながらタブレットを取りかえし「今度やったら二度と書けないようにしてやるからな!」と罵声を浴びせて立ち去っていった。

車道にまであふれていた人だかりはあっというまに雲散し、気づくとニセ芥川賞作家野郎も姿を消していた。警察が来る前に逃げだしやがったのだろう。



「野生の芥川賞作家はもういない、もういないんだ……」

いつからそこにいたのだろう、隣に立っていた老人が誰に言うでもなくつぶやいた。

「おじいさんは本物の芥川賞作家を知っているんですか」

私が訊くと、老人はこちらを向いて話しはじめた。

「ああ。わたしの若いころにはまだ、年に二回、新しい芥川賞作家が見つかっとった。多いときにはいっぺんに二人見つかるようなときもあった」

「二人も」

「そう。だがやがて年に一度になり、数年に一度になり、人々が危機感を抱いたときにはもう遅かった。芥川賞作家は完全に姿を消した。やはりあれは乱獲だったんだ。高く売れるからといって、若き才能を発掘しすぎたんだ。一度消えた芥川賞作家はもう甦らん……」

老人は遠い昔を思いだすように、そっと目を閉じた。


2017年10月26日木曜日

現代人の感覚のほうが狂っているのかも/堀井 憲一郎『江戸の気分』【読書感想】

『江戸の気分』

堀井 憲一郎

目次
病いと戦う馬鹿はいない
神様はすぐそこにいる
キツネタヌキにだまされる
武士は戒厳令下の軍人だ
火事も娯楽の江戸の街
火消しは破壊する
江戸の花見は馬鹿の祭典だ
蚊帳に守られる夏
棺桶は急ぎ家へ運び込まれる
死と隣り合わせの貧乏
無尽というお楽しみ会
金がなくても生きていける
米だけ食べて生きる

落語通の堀井憲一郎氏が、落語というフィルタを通して現代社会について考えた本。
江戸の人の視点で眺める現代というか。落語に出てくる江戸の人に向かって「今から200年後、あんたたちの子孫はこんなふうに生きてるぜ」と説明するというか。

 近代人は、病気をすべて「外のもの」として捉えるのがいけないやね。
 外のものがやってきて、自分のからだを侵食していくから、これをまた外に排除してくれ、医者だったら排除できるだろう、と考えているのは、近代人の異常性だとおもう。これは江戸時代から見なくても、ふつうに異常です。
 たしかにそういう病いもある。ウイルス性の病気など、薬で体外に出せば治る病いもあるけど、もっとよくわからない身体の不都合はいっぱいある。たとえば、ガンはどう考えても外から来てないだろう。内で自分で作ってる。それを外からやってきた毒みたいに扱おうったって、それは無理だとおもうんだけど、もちろん現場の医者は痛いほどそのことは知ってるだろうけれど、近代人はそうは考えないですね。ガンを外に出してくれ、と考えてしまう。あまつさえ戦おうとしたりする。

現代人は昔の人よりもずっと正しい医学の知識を持っていると思っていて、それはじっさい正しいんだけど、根本的な考え方でいうとひょっとしたら江戸人のほうが正鵠を射ているのかもしれない。

健康的な生活をしていると「健康=正常」で、病気になることは突発的なエラーが起こっているような気になるけど、はたしてそれは正しいのだろうか。

こないだ読んだ山口雅也『生ける屍の死』(感想はこちら)にこんな台詞が出てきた。
「死じゃよ。生命のない物質から生命が発生したという事実にもかかわらず、彼らは死という言葉で生を説明しようとしない。自然界においては、死とは平衡状態のことであり、生命活動に必要な外からの補給がなくなったときすべての生命が達する自然な状態なのじゃよ。だからな、論理的に言えば、生の定義は『死の欠如』ということになろう」
死んでいる状態こそが自然な状態であり、動的に活動している生の状態こそが異状なのだ、という解釈だ。

さすがにそれは極端な考え方だが、ぼくも歳をとって身体のあちこちにガタがくるようになると「どこかしら悪いほうがふつうで、絶好調のときのほうが例外的」と思えるようになってきた。

江戸時代だったら視力が悪いのも矯正できないし虫歯になっても治せないし、たぶん今よりずっと「身体が悪くてあたりまえ」という感覚は強かったのではないだろうか。
死も今よりずっと身近に存在していたから、身体についての理想的な状態は今よりずっとハードルが低かっただろう。「とりあえず目が見えて耳が聞こえて立って歩けて生きてたらオッケー」ぐらいのものだったかもしれない。

江戸にかぎらず人類の歴史としてはそっちのほうがずっと長かったわけで、今の「具合が悪かったら病院へ」の時代のほうがずっと異常な時代なのだろう。

あと何十年かしたら「毎日身体チェックをして病気になる前にその芽をつぶす」時代が訪れるだろうから、「病気を治す時代」なんてのは長い人類の歴史においてたった100年ぐらいので終わるかもしれないね。





江戸の経済成長の話も興味深かった。

 ただ江戸期の後半は、商品経済が農村に入り込んでゆき、この制度と現実が乖離していく。「米だけでは、もう、何ともなりませんずら」ということになってゆくのだが、政府は「いやいやいや、米さえ獲れて、それをきちんとまわせば、世は安泰じゃろ」という方針を最後まで崩さなかった。となると、あまり金銭が出回ってもらっては困るし、世の中が発達してもらっても困るのである。高度に発達した資本主義社会の端っこから見てるとこれは意味のわからない風景だが、当時は本気である。民のことを考え、世間の安定を考えて、そうしていたのだ。
 つまり国総がかりで「金は不浄のものである」と示していた。政府が強く「金からものを考えるな」と言ってる社会での金銭感覚を、いまのわれわれが想像しようとしても、まあ、無理である。「発展しないことが善」というのを信じるところから想像を始めるしかない。
 金がなくても生きていける、それが江戸の理想の世の中である。
 この理念は、昭和の中ごろまではまだ残っていた。それを昭和の後半から末期にかけて、みんなで懸命に押し潰していった。何とか押し潰しきったとおもう。それがいいことか悪いことかは判断がつかない。社会全体が「金」でものごとを測ると決めたのだから、社会の端まで徹底的にそれで染めていったばかりである。ひとつ価値を社会の隅々まで広めないと気が済まないのは、うちの国の特徴であり、病気であり、また強みでもある。


江戸時代の人口は、戸籍がなかったので正確にはわからないけど、1600~1750年の間で1.5~2.5倍くらいの増加らしい。
昭和時代が約60年で倍になっているから(しかも大戦で多くの国民が死んだにもかかわらず)、150年で2倍くらいというのはだいぶ緩やかだ。1年で1.0046倍ずつ増えていけば、だいたい150年で2倍になる。
ということは年に0.5%経済成長すれば経済成長ペースが人口増加ペースを上回るわけで、単純に考えると人々の暮らしはよくなることになる。

なるほど、それなら革新的な政策を打ちだして経済成長をしようとするより、社会の安定(ひいては幕府の安定)をめざすのも納得できる。
0.5%ぐらいだったらやれ軍需だアベノミクスだと言わなくても自然に達成できそうだし。



ぼくは経済のことはさっぱりわからないけど、肌感覚としては、インフレもデフレも経済成長もなくて「今ぐらいの状態がずっと続いてくれる」のがいちばんいい。

それなら将来の備えもしやすいし。

日本はどんどん人口が減っていくわけで、もう経済成長を捨てて大きな実害が出ないようにちょっとずつ日本をシュリンクさせていきましょう、ってな方向にもっていけないもんですかね。

グローバル競争とかもういいじゃない。さっさと負けを認めて競争からおりましょうよ、と言いたい。

未来のための撤退戦、ってのはできない相談なんでしょうかね。

やっぱりあれですかね。江戸時代みたいに鎖国するしかないんですかね。


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2017年10月25日水曜日

ズゾゾゾゾゾゾゾォ


少し前にこんなことを書いたんだけどさ。



身のまわりの機械製品を考えたとき、親しみを感じるものとそうでないものがあるな、と思った。

たとえば電気髭剃りには、あまり親しみがわかない。
長く使っていたら愛着は湧くけど、電気髭剃りに名前をつけて友人やペットのように接している人は、たぶんそう多くない。
「わたしは髭剃りをブラウンって名前で読んでます。こないだ壊れたときは庭に埋葬しました」ってあなた、あなたは少数派です。



ロボット掃除機に親しみを覚える人はけっこういる。
「うちのルンバちゃん」みたいな言い方をする人もいる。
ぼくの家にはロボット掃除機がないのでわからないけど、たぶんペットに近い感覚なんだと思う。イヌやネコとまではいかなくても、飼ってるザリガニに対して湧くぐらいの親しみは湧くんじゃないだろうか。


親しみが湧くかどうかは、使う頻度とはあまり関係がない。

ふつうの人がいちばん接する時間の長い電化製品はテレビだと思うが、テレビ自体をペットのようにかわいがっている人はちょっとアレな人だ。テレビのことを「テレビのジョン」って呼んでるあなたのことです。

最近はしゃべる家電も増えているが、それも親しみとはあまり関係ない。
うちの湯沸かし器は「ノコリヤク5フンで、オフロガワキマス」「オフロガ、ワキマシタ」としゃべるが、それに対して「おうおう、ういやつじゃ」とは思わない。返事もしない。昭和の関白亭主のように黙って風呂に入る用意をするだけだ。


たぶん、ポイントは「自走するかどうか」なのだと思う。
だから、アイボやC-3POのように犬や人の形をしている機械はもちろん、ロボット掃除機のように楕円形の機械に対しても親愛の情を持つのだろう。

だって想像してみてほしい。
もしもロボット掃除機が部屋の片隅からぴくりとも動かず、超強力な吸引力を発生させて「ズゾゾゾゾゾゾゾォーーーーー!!!」と部屋中のごみを一気に吸いこむ方式をとっていたとしたら。

怖くてしかたがない。