2017年10月20日金曜日

死者がよみがえる系ミステリの金字塔/山口 雅也『生ける屍の死』【読書感想文】

『生ける屍の死』

山口 雅也

内容(e-honより)
ニューイングランドの片田舎で死者が相次いで甦った。この怪現象の中、霊園経営者一族の上に殺人者の魔手が伸びる。死んだ筈の人間が生き還ってくる状況下で展開される殺人劇の必然性とは何なのか。自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか。

本格ミステリ、なのかな……?

殺人事件があり、きちんと伏線があって、ヒントが提示されていて、矛盾のない謎解きがある。

このへんは本格派なんだけど、「死者が続々と生き返る」「主人公も殺されるがよみがえって犯人を追う」という非常識な設定が設けられている。

めちゃくちゃ異色なのに本格派、というなんとも扱いに困るミステリ作品。
自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか。
内容紹介文にあるこの文章、パンクでかっこいいなあ……。



しかしこの本、テンポもいいしユーモアもあるのに、とにかく読むのがしんどかった。
小説を読んで疲れたのはひさしぶりだ。

疲れた理由としては、
  • 文庫本で650ページという分量。
  • 文章が翻訳調
  • 舞台がアメリカの葬儀会社と、なじみのない場所
  • 登場人物が多い。20人くらい出てくる。
  • 登場人物の名前がおぼえづらい。兄弟の名前がジョン、ジェイムズ、ジェイソン、ジェシカって、いやがらせとしか思えない……。
そしてもちろん、死者が次々によみがえること。

ふつう、推理小説って後半になるにつれて登場人物が減っていき(死ぬから)、容疑者が絞られていくんだけど、『生ける屍の死』では登場人物が減らないし(死んでもよみがえるから)、容疑者も絞られない。

これ、相当上級者向けだわ……。




しかし読むのがつらかった分、ラストの謎解きで得られるカタルシスは大きかった。

動機も「人がよみがえる世の中だから」という理由だし、犯行も「人がよみがえる世の中」ならではのやりかただし、謎解きも「よみがえった死者だからわかった」という手順を踏んでいる。

「――ちょっと待ってくれ。その前に、ジョンの心理をもう少し探ってみたいんだ。今度の事件が普通の殺人事件と違うのは、もとより死人が甦るということにつきる。これがあったから捜査は大混乱した。普通の事件では犯人の心理を読めば事件解決の道筋がつくんだろうが、この事件では、被害者を始めとする甦った死者たちの心の動きを掴まなければ真相は見えてこないんだ。俺は、ハース博士の示唆に従って、死者の心理を推察してみた。――同じ死者の立場でね。そうして考えてみると、ひとつおかしい点があることに気がついた。――それは遺言状の件だった」

設定は奇抜だが、その設定を十二分に活用している。

アメリカの葬儀会社を舞台にしている必然性もあるしね。これが日本を舞台にしていたらやっぱり違和感があっただろう。

「死者がよみがえる系のミステリ小説」としては、これを超えるものはそう出てこないだろうね。まずないだろうけど。




最後まで謎のまま残されるのが、物語の冒頭で語られる殺人事件の真相。

刑事の謎解きがすごい。

「いいか、お前の小賢しい奸計を俺が説明してやろうか? あの窓際の水槽のなかにつけられた砂時計、あれとケチャップを塗りたくられたピエロの人形のふたつがあったおかげで、お前のアリバイが成立した。しかしな、俺は暖炉の隅に捨てられていた萎れたサボテンの存在を見逃さなかった。あれこそ、お前のアリバイを破り、お前が殺人を犯したことを物語る重要な証拠……」

どんな事件だよ。

気になってしかたないぜ……(もちろんこれは推理小説に対するパロディなんだけど)。



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2017年10月19日木曜日

距離のとりかた

 我ながら気持ちが悪いと思うのだが、高校生のときにやっていたことがある。

 春。新しいクラスが発表されると、真新しいノートを一冊用意する。
 ノートに新しいクラスメイト全員の名前を書く。出席番号順に書いてゆく。

 名前と名前の間は10行ほどの間隔をとってある。このスペースを、数ヶ月かけて各人のパーソナルデータで埋めてゆく。

 何中学出身か。

 部活は何をやっているのか。

 誰と仲が良いのか。

 わかったことからどんどん書いてゆく。
 クラスメイトが立ち話をしていたら、会話の内容を盗み聴きしてはノートに書く。


 そして。

 ときどきノートを読み返しては、書いてある情報を頭にたたき込む。
 クラスメイトの田中くんが南中出身で、陸上部で高跳びをやっていて、渡辺くんと幼なじみで、将棋が強いなんて情報は、すべて頭に入っているのだ。
 田中くんとはまだ一度も話したことがないのに。

 おお。
 おのれのことながらなんて気持ちが悪いんだ。書きながらゾクゾクしてきた。
 どう考えても、他人との距離の取り方がわからない人間だ。
 精神科に行ったらちゃんとした病名をつけてもらえるやつだ。保険証用意しなくちゃ。

 あと、席替えのたびにクラス全員の座席表を記録して、自宅の机に置いていた。
 自宅の机の前で、教室でのふるまい方をシミュレーションしていたのだ。
 おお。なんて不安定な人格なんだ。鳥肌が立ってきた。
 親が知ったら「うちの子大丈夫かしら」と神主さんに相談するタイプのやつだ。

 そこそこ友人たちと仲良くやれていたと自分では思っていたけど、はたしてちゃんと人付き合いできていたのだろうか。今になって不安になってきた。


 まあ思春期って誰しもそんなことしちゃうよね。
 よくあることさっ。

と己を慰めた後で、もらった名刺の余白をその人のパーソナルデータで埋め尽くしている自分に気づく。

 誰か、いい神主さんがいたら紹介していただきたいものだ。

2017年10月18日水曜日

思想の異なる人に優しく語りかける文章 / 小田嶋 隆『超・反知性主義入門』【読書感想】


超・反知性主義入門

小田嶋 隆

内容(e-honより)
他人の足を引っ張って、何事かを為した気になる人々が、世の中を席巻しつつある…。安倍政権の政策から教育改革、甲子園、ニッポン万歳コンテンツにリニアまで、最近のニュースやネットの流行を題材に、日本流の「反知性主義」をあぶり出してきた「日経ビジネスオンライン」好評連載中のコラムが、大幅な加筆編集を加えて本になりました。さらに『反知性主義 アメリカを動かす熱病の正体』の著者、森本あんり・国際基督教大学副学長との、「日本の『宗教』と『反知性主義』」をテーマにした2万字対談も新たに収録。リンチまがいの炎上騒動、他人の行動を「自己責任」と切り捨てる態度、「本当のことなんだから仕方ない」という開き直り。どれにも腹が立つけれど、どう怒ればいいのか分からない。日本に漂う変な空気に辟易としている方に、こうした人々の行動原理が、最近のニュースの実例付きで、すぱっと分かります。エッセイ集として、日本の「反知性主義」の超・入門本として、お楽しみ下さい。

いっとき「反知性主義」って言葉流行ったね。

ぼくは「本ばっかり読んでても何も身につかない。会って話すことが重要だ!」「東大生は頭でっかちで社会では何の役にも立たないぜ。経験こそがすべてだ!」みたいな、「先人の知恵を否定する態度」みたいな意味かと思ってたんだけど、どうもそうではないみたいね(そういう面もあるみたいだけど)。

既存の権威主義的な論理体系に対するカウンターというか、当然のこととして受け入れられているものに疑問を投げて再定義しなおそうとする、むしろ科学的なアプローチだったりが本来の意味らしい。

ところが「反知性主義」という言葉が独り歩きしてしまい、単なる「バカ」「自分の考えを理解できないやつら」ぐらいの意味になってしまった。

まあ字面からはそう読み取れてしまうよね。


小田嶋さんの『超・反知性主義入門』は本来の意味での反知性主義に近い。

ばかなやつらを啓蒙しようという感じではなく、「みんな同じようなこと言ってるけど、おれはこっちの面から見てみたらこんなふうに見えたよ」ってなぐらいの温度感。

とはいえ世の中には「違う考えの人間がいることが許せない」人たちがけっこういるから、日経ビジネスオンライン連載時はずいぶん炎上したみたい。

そんなに過激なことを言っているようには読めないんだけどなあ。

「おれはこう思うよ?」ぐらいなんだけど。

これぐらいの意見でも多くの批判がぶつけられるなんて、職業的に物を書く人にはやりづらい世の中になったねえ。同情する。



謝罪会見について。

 「反省しているか?」「反省しています」 と、トントンと話が進めば、謝罪はそんなに難しい作業ではない。なのに、理詰めで来るから、話が複雑になってしまう。というのも、謝罪は、そもそも理詰めの情報交換ではないからだ。謝罪は、むしろ、情報のやりとりを一時的に棚上げにする手続きだ。理屈を外れた、どちらかといえば、「話をズラして曖昧にする」ことを目的としたコミュニケーションだ。とすれば、理屈っぽい質問は、謝罪の前提を台なしにするだけではないか。

ふうむ。

云われてみれば、謝罪って理性的な話し合いとはもっとも遠いところにあるコミュニケーションかもしれない。

きちんと事実経緯を述べて、原因究明と再発防止策を講じて、被害に遭った人に対して相応の賠償をしたとしても、謝罪する人間が偉そうにふんぞりかえって鼻くそをほじっていたらきっと許してもらえない。

逆に、終始しどろもどろで「すみません、すみません」の一点張りであっても額に汗かいて深く頭を下げていたら「誠意がある」ということでその場は流してもらえたりする。


ぼくも客商売をしていたときに謝罪をする機会がよくあったけど、こちらに全面的な非があるときはむしろ楽だった。

すみません、すみません、と一方的に謝罪しつづければそのうち相手は怒りの矛を収めてくれる。

こちらも誠心誠意謝ることができる。

たいへんなのは、クレームをつけている側に落ち度があるときだ。

店側は、どうしても「納得してもらおう」と説得を試みてしまう。

そうすると相手の怒りは静まらないどころかどんどんヒートアップする。

これも、謝罪を要求している側が求めているのは理屈ではないからなんだろう。



政治には関心があるが選挙は嫌いだという小田嶋さんの主張はおもしろかった。

 選挙カーの中で候補者の名前を連呼しているウグイス嬢に悪気が無いことはわかっているし、助手席から白い手袋をした手を振っている候補者が仕方なくそうしていることも知っている。でも、それにしても、ほかにやり方はないのか、と、私は毎回、選挙がはじまる度に、どうしてもそう思ってしまうのだ。
 ビールケースに立つ候補者の姿も、間抜けなタスキも、走って逃げ出したくなるような土下座芝居も、そういうことがあってこその選挙だと思い込んでいる人々のために展開されている一種の小芝居にすぎないものではあるのだろう。でも、それらが若者を政治から遠ざけていることに、そろそろ思い当たる人があらわれても良い頃合いではないか。

いわれてみれば、たしかに選挙ってクソダサいよなあ。

スマートなイメージで売っている人でも、選挙では拡声器持って大声を張りあげて、選挙カーの中から身を乗りだして必死に手を振って、握手したりバンザイしたりとぜんぜんスマートじゃない。

雨の中傘もささずに立って演説したり、真夏の選挙では真っ黒に日焼けしたり、ド根性主義が跋扈している。

うん、クソダサい。

ぼくはほとんど選挙公報を読むだけで誰に投票するかを決めているから、拡声器も選挙カーも握手もバンザイもずぶ濡れも日焼けもまったくもって「どうでもいいこと」なんだけど(というよりマイナス要因でしかない)、世の中には「意味のない努力」を重視して投票する人もいるんだろうね。

「あのセンセイは毎日立って演説しているからがんばっとる」「あの人は演説の時、日陰に入っとったから気に入らん」みたいな人が。

「高校野球は炎天下に汗水たらして全力疾走している姿が感動を呼ぶ」タイプの人が。

たぶん個人レベルではいわゆるドブ板選挙に反対している人もいるんでしょうが、きっと党本部が許さんのでしょうね。

「んまー、〇期当選の〇〇先生でも毎日演説やってらっしゃるのに新人のあなたが演説しないんですって!?」みたいな圧力がかかるんでしょう。

そういや堀江貴文さんが「自分が出馬したとき、かけずりまわるドブ板選挙なんてぜったいやるものかと思っていたのに、終盤戦になったら声をからして叫んだり応援にきてくれる人たちに頭を下げて握手したりしている自分がいた」ってなことをどこかに書いていた。

あれはお祭りなんだろうね。お祭りの熱狂が人をおかしくさせるんだろう。

だって尋常じゃないもの。声をからして叫んでるやつに理性的な判断ができるとはとうてい思えないもの。それでもやらずにはいられないんだろうね。

まあお祭りだからそれでもいいのかもしれないけど、合理性を捨てた選挙で勝ち上がった政治家が合理的で効率追求型の政治をできるかっていったら、まあ無理だよね。

選挙のやり方をもっとスマートにすれば、政治ももうちょい見栄えのするものになるんじゃないかとわりと真剣に思う。まあべつに見栄えを良くする必要もないけど。



小田嶋隆氏の文章って、その内容に同意できないことはあっても、論旨の組み立て方にはいつも感心させられる。内田樹氏もそうだけど。

難解な言葉を使わずに、軽やかな飛躍もまじえながら、論理的に文章を組み立てている。

だから結論には同意できなくても「ふむ。その考え方はよくわかる」と毎回思う。


世の中には弁の立つ人が多いけど、こういう語り方をできる人ってすごく少ないよね。

世の中を敵味方に分けて相手を言い負かすことを考えている人ばかりだ。

必要なのは、敵を攻撃することや、味方の同意を得ることではなく、「立場や思想の異なる人に優しく語りかけてほんの少しだけでも自分の考えを知ってもらう」ことだよねえ。

オダジマさんの語りにはそういう姿勢を感じる。



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2017年10月17日火曜日

正義は話をややこしくする


大学1年生のとき、サークルの同級生たちとしゃぶしゃぶを食べた。

ある程度食事も進んだとき、友人Hが言った。

「てめえ肉ばっか食ってんじゃねえよ、おれの食う分がなくなるだろうが。ぶっころすぞ!」

その言葉はKという男に向けられたものだった。

Kが野菜をほとんど食べずに肉ばかり食べていたのを腹に据えかねて、Hが注意したのだ。

Kはべつに自己中心的な人間なわけではなく、ちょっと周囲の反応に無頓着なだけで、だから「肉を食べたい」という欲望そのままに肉ばかり食べていたのだ。

Kは温厚な人間だったので、少しひるんだ様子は見せたものの「ごめん、気を付けるわ」と言って特にいさかいにはいたらなかった。




さて。

ぼくは、Hの発した「てめえ肉ばっか食ってんじゃねえよ、おれの食う分がなくなるだろうが。ぶっころすぞ!」という言葉にしびれていた。

「肉ばっかり食いやがって」という気持ちは、よくわかる。

Hが怒鳴る前からぼくもうっすらと「Kのやつ、肉ばっかり食ってるな」と思っていた。

だがぼくはそれを口には出さなかった。

それはぼくが「ええかっこしい」だったからだ。

「おれの食う分が少なくなるから肉ばっかり食うなよ」と口にするのはあさましいと思い、なんでもないようにふるまっていただけだ。

内心では、Hと同じように「肉ばっかり食うなよ」と思っていたにもかかわらず、細かい人間に思われたくないというプライドがじゃまをして、注意することができなかっただけだ。

あまりにも度を越したら注意したかもしれないが、だとしても「みんなの食う分がなくなるから控えてくれ」と言ったと思う。

「おれの食う分がなくなるだろうが」という物言いはぼくにはできなかっただろう。


だがHはきちんと自分の主張を明確にしたうえで、Kに対して要求をつきつけた。

そしてKは素直にその要求に従い、問題は解決した。




Kのように私益のために直截的な怒りをぶつけられるのは、ある種とても誠実な態度といってもいいのではないだろうか。


人は、公益のためなら相当強気になれる。

「地球環境を汚す二酸化炭素を大量に排出する企業はつぶれろ!」とか「こどもたちの健康を害する喫煙者は出ていけ!」とか、大義名分があれば過激な主張もできてしまう。

だが「おれの嫌いなデザインの服をつくっている企業はつぶれろ!」とか「あたしの飯がまずくなるから喫煙者は出ていけ!」なんてことを、顔や名前を出していう人はほとんどいない。

私利私欲のために強い主張をするのは気が引けるのだ。

それは、立場が強いものが弱いものに言うときでも同じである。

企業の経営者は「会社を大きくするためにみんなもっとがんばろう」とか「必死に働くことが自分のためになるのだ。若いときは休みを削ってでも働いたほうがいい」なんて偉そうなことを言うが、「おれの役員報酬を増やすためにみんなもっとがんばろう」とは言わない。

たぶん本心は後者だと思うのだが、どんな強欲な経営者でもそれを口に出すのは気恥ずかしいのだろう。

おそらく自分自身にも嘘をついて「社会のため」「会社の未来のため」といった、より公共性の高いものを持ちだしてくる。





こうした公共的な道徳を持ちだしてくる態度は、話をややこしくする。

たとえば騒音問題。

「おれがうるさく感じるからやめてくれ」と主張すれば、解決に持っていくことはさほど難しくないのではないだろうか。

「あなたは何デシベルまで許容できますか」と訊いて、だったら夜間は〇デシベル以下に抑えましょう、といった具体的な方策を立てることができる。

だが「みんな迷惑してるんですよ」とか「赤ちゃんが安心して眠れないじゃないですか」なんて公共的な道徳を持ちだしてくると、そうかんたんにはいかなくなる。

「みんなが許容できるデシベル数」は誰にもわからない。「うちはいいけど赤ちゃんのいるお隣はどうでしょう……」なんて言いだしたら、騒音をゼロにしないかぎりは「みんな」が騒音に悩まされる可能性はなくならない。

「世界中の貧しい人たち」だとか「未来を担うこどもたち」だとか「この地球に生きる動物たち」だとか、会ったこともないものを持ちだして主張をはじめると、その問題は永遠に解決されることがない。

だって彼らは実在してないんだもの。実在してないものが納得して許容する日は永遠に来ない。





だからぼくは、私的に怒る人でありたいと思う。

自分の怒りを、自分の要求を、自分のものとして伝える人でありたい。

誰かの怒りを代弁するして正義を主張するのは話をややこしくするだけだ。

「みんなが迷惑するから」ではなく「おれの食う分がなくなるから」肉の食いすぎを注意する人でありたいと思う。



2017年10月16日月曜日

テクニックではカバーできない衰え/阿刀田 高『脳みその研究』【読書感想】


『脳みその研究』

阿刀田 高

内容(e-honより)
昔から大ざっぱな性格の定雄は、人の名前を覚えるのが苦手だった。ところが定年を前に、急に記憶力がよくなり、却って不安を抱いてしまう。かわりに何か大事な能力を失っているのではないだろうか…。意表をつく表題作をはじめ、シチリアの夜を描く「海の中道」、母への憧れが生み出す「狐恋い」など珠玉の9篇。


「短篇の名手」を誰かひとり挙げるとするなら、ぼくなら阿刀田高を挙げる(星新一はショートショートの神様なので別格)。

奇抜なアイデア、スリリングな展開、無駄のない構成、スマートなオチ。どれをとっても一級品だ。

中高生のときは古本屋で阿刀田高の短篇集を買いあさり、50作以上あった短篇集のほぼすべてを所有していた。今でも実家にある。

阿刀田高の小説とはなんとなしにしばらく遠ざかっていたのだが10年ぶりぐらいに読んでみた。


あれ。つまんない。

いや、うまい。すごくうまいのだ。
無駄のない構成も、ほどよく散りばめられた教養知識も、テンポのよい文章も健在。
リズムよく読める。
さすがは短篇の名手。

でも、オチまで読んでがっかり。

ぜんぜん切れ味がない。読者の予想を裏切ってくれない。中にはだじゃれのオチもあって、そこまでの話運びがうまいだけに期待を裏切られたがっかり感も大きい。

短篇集だから一作ぐらいはあたりもあるだろうと思って最後まで読んだが、どれも期待外れだった。

最近の作品のレビューを読んでみると、どうやらこの作品にかぎらず衰えが目立つらしい。旧年からのファンたちの嘆きの声ばかりが並んでいる。



小説家にかぎらず、クリエイティブな仕事ってだいたい歳をとるごとに斬新な着想は衰えていく。

そのかわり経験を重ねてテクニックは上がっていくから、技巧を凝らすことで作品の完成度は高くなったりする。

阿刀田高にもそういう時期があって、たいしたことのないアイデアでも阿刀田高が巧みに味付けすることで一級品の仕上がりになっていて、これを他の作家が書いたらきっと凡作だったはずだ、さすがは短篇の名手だとうならされたものだ。

しかし名手のテクニックではカバーできないぐらいアイデアの枯渇が進行してしまったのだろう。

なんちゅうか、引退間近のスポーツ選手を見るような寂しさを感じるな……。



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