2017年10月14日土曜日

うまい炭水化物を食わせる店


ご飯が大好き なので、うまいご飯を食わせる店があったらいいのにと思う。

最高級の新米を、ちょうどいい火加減で炊いたご飯。

できたら釜で。直火で。高級炊飯器で炊いたほうがおいしいのかもしれないけど、気持ち的にはやっぱり釜のほうがうまそうだ。

つやつやでふっくらとした炊きたてのご飯。メニューはそれだけ。

ご飯だけの店。ザ・めしや。
いや、ザ・めしやはすでにあるか。



さすがに ご飯好きでも、ご飯だけではそんなに食べられないからご飯のお供もほしい。

海苔、納豆、岩海苔、ちりめんじゃこ、鮭フレーク、食べるラー油、生卵、塩、肉そぼろ、バター醤油(ご飯とめちゃくちゃあうからね)なんかを置いといてほしい。全部市販のやつでいい。

ご飯のお供は食べ放題。

ご飯は一杯五百円。おかわりは二百五十円。

ご飯もお供も原価は安いし、調理の手間はほとんどない。ご飯を炊くだけ。

あとは客がつくかどうかだけだけど、職場の近くにあったらぼくなら週三で通う。

ご飯一杯五百円は高いが、外食で一食五百円と思えば安い。

なんといっても毎日のように食べても飽きないのがご飯のいいところだ。


どうなんでしょう、うまい炭水化物を食わせる店。

商売的にはかなりうまみがあるんじゃないかと思う(ご飯だけに)。


2017年10月13日金曜日

kawaii清純派


海外では「kawaii」がエロい言葉として使われている、という話を聞いた。

インターネットのおかげで海外の人もかんたんに日本のポルノにアクセスできるようになり、ポルノで「かわいい」という言葉がよく用いられているのを見て「これはエロい意味にちがいない」と思われているらしい。

なるほど。おもしろい。


逆の例でいうなら、ソープとかデリバリーとかヘルスとかも、本来エロい意味のない言葉なのに、日本においては風俗業界隈で用いられることが多いために淫猥な響きを持つようになってしまった。
そういえば「風俗」だって本来はまったくエロい言葉じゃなかったよね。


ということは、今やアダルト産業でしかまずお目にかかれない「清純」なんて言葉も、海外の人にとっては正反対の意味を持つようになるかもしれないね(もしかしたらもうなっているかも)。

2017年10月12日木曜日

3人のおかあさんと男女の違い


娘(4)の日記。

読んでいただければわかるように(読めねー!)、おままごとが最近の流行りらしい。

4歳になって「今日、保育園で何をしたか」を説明できるようになったんだけど、「おままごとをした」と「おにんぎょうであそんだ」が多い。


おままごとは誰が何の役をやったの? と訊くと、
「M(自分)はバブーちゃん(赤ちゃん)、Rちゃんがおねえちゃんで、NちゃんとSちゃんとKちゃんがおかあさん」
とのことだった。

複雑な事情のありそうな家庭環境だ。

女の子ばかりなので、みんなおかあさんをやりたがって、おとうさんをやる子がいないらしい。

「男の子はおままごとしないの?」と訊くと、「Kくんだけはやってくれるけどほかの子はプラレールとか車とかであそぶ」のだそうだ。


保育園では特に男女の区別もなく育てていると思うのだが、自然と男女グループに分かれていくのはおもしろい。


そういえば、ぼくはレゴが好きなので娘ともよくレゴであそぶ。

ブロックで家や車をつくるのだが、興味深いのはその後で、娘はつくった家や車でおままごとをはじめる。

レゴの人形を持ってきて「こんにちはー。あそびにきましたよー」などと言いはじめる。

ぼくはレゴを組み立てたりばらしたりするほうが楽しいのだが、娘は組み立て作業よりもおままごとに興じている時間のほうが長いぐらいだ。

ぼくがこどものころは、友人と「レゴでつくった車をぶつけあって先に壊れたほうが負け」「レゴの人形の首をならべて首タワーをつくる」とかやっていたので、ずいぶんと遊びかたがちがうものだ。

レゴ人の首

3歳までは男も女も同じように走りまわるだけだったのだが、4歳くらいから別々の道を進みはじめるんだねえ。


2017年10月11日水曜日

星新一のルーツ的ショートショート集/フレドリック ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』


『さあ、気ちがいになりなさい』

フレドリック・ブラウン (著), 星 新一 (訳)

内容(e-honより)
記憶喪失のふりをしていた男の意外な正体と驚異の顛末が衝撃的な表題作、遠い惑星に不時着した宇宙飛行士の真の望みを描く「みどりの星へ」、手品ショーで出会った少年と悪魔の身に起こる奇跡が世界を救う「おそるべき坊や」、ある事件を境に激変した世界の風景が静かな余韻を残す「電獣ヴァヴェリ」など、意外性と洒脱なオチを追求した奇想短篇の名手による傑作12篇を、ショートショートの神様・星新一の軽妙な訳で贈る。

ショートショートの神様・星新一が「大きな影響を受けた作家」と語るフレドリック・ブラウンのベスト短篇集。訳は星新一。

収録されている12作はいずれも1940年代。
アメリカは戦争中にSF小説を楽しんでいるんだから、そりゃあ戦争に負けるわなあ。余裕が違いすぎる。


どの作品も、ぜんぜんテイストが異なり、それぞれに奇想天外な設定が与えられている。

悪魔の復活をいたずら坊やが防ぐ『おそるべき坊や』

あらゆる電気や電波を奪う宇宙人が現れる『電獣ヴァヴェリ』

自身の無意識にはたらきかける新発明をめぐる顛末『ユーディの原理』

18万年生きている人物が語る、いくつもの人類の歴史『不死鳥への手紙』

どれも奇抜な設定だが、スムーズな話運びと期待を裏切らないスマートなオチで楽しませてくれる。



星新一ファンとして、特に印象に残ったのが以下の2篇。

『みどりの星へ』
緑のない星に不時着した男が、緑の地球に戻れる日だけを夢見ながら生きる。ついに男のもとに救助がやってくるが――。
という、なんとも星新一っぽいストーリー(というか星新一がこっちに影響を受けてるんだけど)。
切れ味のいいオチではないが、静かに狂気を感じさせる後味。
世界初の有人宇宙飛行より10年以上前にこういう小説が書かれてたのかと思うと、人間の想像力ってたいしたものだなと思うね。


『ノック』

 わずか二つの文で書かれた、とてもスマートな怪談がある。
「地球上で最後に残った男が、ただひとりの部屋のなかにすわっていた。すると、ドアにノックの音が……」

ではじまる作品。

星新一ファンなら誰しも『ノックの音が』を連想するね。15篇すべて「ノックの音がした」で始まる意欲的なショートショート集だ(『人形』はめちゃくちゃ怖かったなあ)。
なるほど、『ノックの音が』はこの作品にインスピレーションを受けて書かれたのか……。

『ノック』は、この短い怪談にユニークな背景を与えて思わぬ解釈を与える、というもの。
宇宙人が出てくるし、展開はコミカルだし、初期の星新一作品のような味わいだった(何度も書くけど星新一がこっちに影響を受けてるんだけど)。


SFあり、サスペンスあり、コメディあり、ブラック・ユーモアありとバラエティに富んだ作品集で、まるではるか遠くの恒星のように70年たった今でも輝く作品だねえ。



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2017年10月10日火曜日

四歳児だから流せる悔し涙


娘と 図書館に行ったら、保育園のおともだちのSちゃんと出会った。

いっしょにえほんを読むことになり、たどたどしく文字を読む子どもたち。

その様子を見ていたSちゃんのおかあさんが言った。

「わー、○○ちゃん(うちの娘)、もうカタカナ読めるんですかー。うちの子はまだひらがなも半分くらいしか読めないのに。すごいねー!」

読み書きぐらいはちゃんとできるようになってほしいと思ってぼくが毎日教えたので、うちの娘は文字を読むのは上手になった。
たぶん同い年の子の中では、かなりすらすら読めるほうだと思う。親ばかだけど。


その後もえほんを読んでいたのだが、Sちゃんの様子がおかしいことに気がついた。

さっきまではにこにこしながらえほんを見ていたのに、急にだまりこみ、ふくれっつらをしている。

明らかに不機嫌だ。

きっと、自分のおかあさんがよその子を褒めた(しかも自分ができないことを引き合いにだされて)ことに傷ついてしまったのだろう。

だがうちの娘はそんな様子を気にすることもなく、それどころかさっき褒められて調子づいたらしく、ますます元気よくカタカナを読みあげている。

さすが4歳児、まったく空気を読んでくれない。

ついにSちゃんは気持ちがいっぱいになってしまったらしく、目にじわりと涙を浮かべてしまった。




なにも 娘の自慢をしたくてこんなことを書いたわけではない(自慢したい気持ちもあるがそれはまたの機会に)。

自分が読めないカタカナを同い年の子が読めたこと。
それを自分のおかあさんが褒めたこと。
その悔しさをどう表現していいかわからないこと。
いろんな感情が混然一体となり涙となってあふれだしたSちゃんをなぐさめながら、なんて美しい涙なんだろうとぼくは感激したのだ。


4歳のときにカタカナが読めるかどうかなんて、大人からしたらどうでもいいことだ。

どうせあとちょっとしたらみんな読めるようになっているのだから。

周囲の目を惹く美貌を持って生まれたとか、4歳にして3ヶ国語を自在にあやつるとかならともかく、カタカナを読めるようになるのが半年かそこらちがったってこの先の人生には何の影響もない。 

それでもSちゃんはこらえきれずに涙を流すぐらい悔しさを感じた。

たぶん「おかあさんが褒めた」ことが小さな彼女のプライドをもっとも傷つけたのだと思う。

おかあさんは「そうはいっても自分の子がいちばん」と思ってるからこそよその子を褒めたのだが、幼い彼女にはそこが理解できなかったのかもしれない。


こんなにもひたむきな気持ちを持つことは、大人になったぼくにはもうできない。

劣等感や悔しさや嫉妬心を抱くことはあるが、自分の中でそれなりの理屈をつけてやりすごしてしまう。
「○○だからしょうがないよね」「でもぼくは□□があるし」「そもそもそこで勝負しようとは思わないし」
己を傷つけずに済む理屈は、三十数年も生きていればなんとでも見つけられる。

悔しさに対して涙がでるほどまっすぐ向きあうことがぼくにはできない。

4歳児が流した悔し涙は、逃げ方だけがうまくなったおじさんの心には深く刺さった。



数日後、Sちゃんのおかあさんと出会った。

「うちの子、あの日帰ってすぐにひらがなの勉強はじめたんですよ。以前買ったドリルにずっと手をつけてなかったのに。今日も朝からドリルやってました」

との報告を受けた。

ああ、いいなあ、とぼくは思った。

悔しさを克服するためにすぐ行動に移す。

すごくシンプルなことなんだけど、それって今しかできないことかもしれない。