2017年9月8日金曜日

天性のストーリーテラーの小説を今さら/劇団ひとり 『陰日向に咲く』【読書感想】

『陰日向に咲く』

劇団ひとり 

内容(e-honより)
ホームレスを夢見る会社員。売れないアイドルを一途に応援する青年。合コンで知り合った男に遊ばれる女子大生。老婆に詐欺を働く借金まみれのギャンブラー。場末の舞台に立つお笑いコンビ。彼らの陽のあたらない人生に、時にひとすじの光が差す―。不器用に生きる人々をユーモア溢れる筆致で描き、高い評価を獲得した感動の小説デヴュー作。

どうでもいいこだわり があって、「話題になっている本は読まない」というルールが自分の中にある。
本は自分の感性で選びたいという信念があって、話題になっている本を読むことは自分の感性を曲げて選んだようで、許せない行為なのだ。「読みたい」と思っても「話題の本だから」ということで手に取らないわけだから、そっちのほうが自分の感性に正直じゃないんだけど。

『陰日向に咲く』が2006年に刊行されたとき、ぼくは書店で働いていたのでこの本が飛ぶように売れていることを目にしていた。さらに数々の書評でも取り上げられ、ちゃんとした書評家たちが「タレントが書いたということとは関係なくおもしろい!」と絶賛しているのも読んでいた。
いったいどんな小説なんだろうと気になっていたものの、前述したように「話題の本は読まない」というルールを自分の中に課している手前、誰に対してかわからない意地を張って『影日向に咲く』を手に取ることはなかった。

その後、『週刊文春』で劇団ひとりが『そのノブは心の扉』というエッセイの連載を始めたので読んでみたらクソつまらなかったので小説に対しても興味を失った。


そして10年以上が経過。「もう話題の本じゃないから大丈夫だよね」と、誰に対してかわからない確認をとってから、読んでみた。今さら。



ちゃんとおもしろかった よね。ちゃんとおもしろかったってのも変な表現だけど、作者がテレビに出てる人じゃなかったとしてもおもしろいってことです。
ちょっと漫画的というか、ホームレスはホームレスらしく、ギャンブル狂はギャンブル狂らしくて、みんな思慮が浅くて、良くも悪くもわかりやすい小説。まあエンタテインメントで内面をじっくり掘り下げても重たくなるだけだし、これでいいんでしょう。
愚かな人間の描写はほんとに巧みで、デジカメの使い方がわからない女性の思考回路とか、ギャンブル狂の内面の浮き沈みとかの描かれ方は説得力があるねえ。

なによりストーリー展開がうまい。起承転結に沿って物語が進んで、丁寧な伏線があって、ほどよく意外なオチがあって、という創作のお手本のような作品。
劇団ひとりってバラエティ番組でも瞬発的におもしろいことを言うんじゃなくて、芝居に入ってきちんとストーリーを展開させてそこに起伏をつけてオトす、っていうやり方をとっている。演技のほうが注目されがちなんだけど、天性のストーリーテラーなんだろうね。


やっぱり10年前に 読んどきゃよかったな、って思う。
連作短編集で、メリーゴーラウンド方式っていうんですかね、ある短篇の端役が次の短篇では主人公になってるってやつ。伊坂幸太郎がよく使うやつね。
昔からある手法ではあるんだけど、伊坂幸太郎以後、雨後の筍のごとく増えて、今ではよほど効果的な使われ方をしないかぎり「メリーゴーラウンド回しときゃ読者が感心すると思うなよ!」と逆にうんざりする手法になってしまった。
『陰日向に咲く』もその手法が用いられているので、たぶん2006年に読んでたら「おもしろい手法!」と感心してたんだけど、今読むとそれだけで評価を下げてしまう。2017年に読むのが悪いんだけどさ。
あとちょっと大オチがあざとかったな。


いちばん残念なのは、ちょっときれいすぎるってことだね。文章も読みやすいし、ストーリーも無駄がないし、全体的にうまくまとまっている。
でも、『ゴッドタン』の劇団ひとりを観ている者としては、もっとクレイジーな部分を出してほしかったなと思う。
テレビでは「いきなり自分の服を破きだす」「自分のケツの穴につっこんだ指をなめる」みたいな狂気そのものを出している劇団ひとりなんだから(いちばん狂ってるのはそれを放送しちゃう制作者だけど)、表現規制の弱い本ではもっともっとイカれた部分を出してほしかったな。



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2017年9月7日木曜日

困ったときはステゴサウルスにしとけ


ステゴサウルス っているじゃないですか。いないけど。こないだいなくなっちゃったね。こないだっていうか1億年くらい前。
背中にへんな五角形がいっぱいついてるやつ。20個ぐらい。五角形が20個あったら将棋1式できるじゃない。2頭いたら対局できるね。
将棋やってたのかもね。そんでいらない駒を背中につけてたのかも。あ、もしかしてステゴサウルスって名前、捨て駒からきてるとか? ステゴマサウルスがなまってステゴサウルスになったとか。違うか。


まあ変な形状してるよね。
化石から形を再現した人も困っただろうね。頭部とか脚とか背骨とか組み立てて、
ん? なんか五角形のパーツが20枚余ったんだけど? これどこのパーツだ?
将棋の駒? ちがうよね。だって「と」とか書いてないもんね。
この五角形なんだろう。ホームベース? 絵馬? ペンタゴン?
んー。とりあえず背中に並べとくか。余らすわけにもいかんしな。

そんな感じであの形状になったんだろう。


地球に隕石が つっこんできて粉塵がまきあがって大氷河期がきたとする。
人間はもちろん、大型の動物はほとんど死に絶えるよね。その中には、もちろんキリンも。

そんで1億年して、またべつの知的生命体が地球上に繁栄して、そいつらがキリンの化石を見つける。
頭はここ、脚はここ、これが首で、
ん? 首の骨みたいなやつがいっぱい余ったぞ?
これ全部首の骨? まさかね。そんなことしたら首だけが長いアンバランスな生物になっちゃうもんな。

どこにつけたらいいんだろう。
んー。とりあえず背中に並べとくか。余らすわけにもいかんしな。



2017年9月6日水曜日

地に足のついたサイコホラー/堀尾 省太 『ゴールデンゴールド』【漫画感想】

『ゴールデンゴールド』

堀尾 省太

内容紹介(Amazonより)
福の神伝説が残る島・寧島で暮らす中2の少女、早坂琉花。ある日、海辺で見つけた奇妙な置物を持ち帰った彼女は、ある「願い」を込めて、それを山の中の祠に置く。すると、彼女の目の前には、“フクノカミ”によく似た異形が現れた――。幼なじみを繋ぎ止めるため、少女が抱いた小さな願いが、この島を欲望まみれにすることになる。

人から『ゴールデンカムイ』って漫画がおもしろいよ、と勧められてAmazonで検索窓に「ゴールデン」と打ちこんだら候補に「ゴールデンゴールド」が表示されてうっかりクリックしてしまい、でもこっちも評価高いなー、あらすじも怖そうでいいなーということで半ば偶然のような出会いで購入。

小さな島に住む少女が偶然拾った人形に願い事(「島にアニメイトができますように」)をすると、徐々に島が発展しはじめる。人形の存在を知る者は豊かになっていくが、それにあわせるように少しずつ性格が変わってゆく。
また、裕福になるものとそうでない者との間に対立が深まり、島は二分されてゆく――。

ってな感じが2巻までのあらすじ。ここから先どう展開していくのかは読めない。
じわじわと足元が崩れていくような恐怖に引きこまれてしまう。
こういうじんわりとした恐怖って漫画向きだよね。説明過多にならずに変貌を描けるから。


”フクノカミ” がいい存在なのか悪いものなのかは、今のところ明らかではない。まあいいやつではないだろうけど。
 ”フクノカミ” が直接何かをするということはない。周囲の人間にはたらきかけて、その人が本来持っていた欲望を引き出すだけ(2巻の後半では間接的に手を下してたけど)。
手垢にまみれた表現だけど、生身の人間がいちばん怖い、ってやつだね。

それにしても細部の描写がうまい。
狭い島での人間関係とか(「そらいけんよのう。世の中法律だけで回っとるんじゃないんじゃけえ」という言い回しの絶妙さよ!)、田舎の半端なヤクザの造詣とか、中学生同士の恋愛とも呼べないような恋模様とか、島の産物とか、細部のリアリティが不思議な力を持つ ”フクノカミ” の異質さを際立たせてくれている。
設定が突飛であるほど舞台や人物造詣はリアリティが必要だよね。『寄生獣』なんかはそのへんに成功してたから傑作と呼ばれるわけだし、名前を書くと人が死ぬノートを拾う人物が頭脳明晰・容姿端麗・冷血無慈悲な正義感の塊で警察幹部の息子では奇天烈ハチャメチャコント漫画になってしまう。


こういうサイコホラー的な漫画って終盤はエスカレートしすぎて現実味がまったくなくなってがっかりさせられることが多いんだけど(どの作品とは言わんけど)、この現実感の絶妙なバランスを保ったままストーリーがうまく着地してくれることを願う。



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2017年9月5日火曜日

むずかしいものが読みたい!/小林 秀雄・岡 潔 『人間の建設』【読書感想】

『人間の建設』

小林 秀雄・岡 潔

内容(e-honより)
有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才に雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性…主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。

日本最高の天才数学者と呼ばれる数学者の岡潔氏と、日本有数の思想家・批評家である小林秀雄氏による対談(発表は1965年)。
まったく専門分野の異なるトップランナー同士の対談ってわくわくするね。お互い噛み砕いてわかりやすく語ってるんだろうけど、難解すぎてさっぱりわかんねえ。50年以上前の対話だから、ってのもあるんだろうけど。

そうはいっても、今の時代にも通ずる話も多い。
「なるほど、そういうものですか」と素直に拝聴できる。すごい人が語っているという先入観がそうさせるのかもしれない。

 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。
小林 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。たとえば野球の選手がだんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。選手には、勝つことが面白いだろうが、それもまず、野球自体が面白くなっているからでしょう。その意味で、野球選手はたしかにみな学問しているのですよ。ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですな。

ぼくがこの『人間の建設』を手に取ったのも、まさにときどき難しい本を読みたくなるから。本を選んでいるとしばしば、「これはぼくには十分に理解できねえだろうな」と思う本を読みたくなる。
それは己の成長のためとか高尚な動機があるからじゃなくて、シンプルに「むずかしいものが読みたい!」って欲求に応えているだけだ。

言われてみれば、学校って「勉強が嫌いな生徒に勉強をさせる」ためのシステムで動いてるよなあ。進学校はどうだか知らないけど、ぼくが通っていた公立学校はそうだった。
程度の差こそあれみんなそれぞれ「勉強したい」「むずかしいことに挑戦したい」という欲求を持っているはずなのに、それを伸ばすようなやり方はとられていない。
「勉強ってつまんねえだろ。でもやらなきゃいけねえんだよ、やれオラ」ってやり方をやってるから勉強嫌い養成機関になってしまうのだろう。
大勢をいっぺんに教えようと思ったらそういうやり方をとるしかないのだろうか。もう少し「勉強好きな子向け」のやり方に変えられないものだろうか。


ぼくには4歳の娘がいるけど、勉強を「やりなさい」と言わないように気を付けている。数字やカナのドリルを買い与えて「これやってもいいよ」と言うと、娘は嬉々としてドリルをやっている。あっという間に1冊終わらせて、またドリルやりたいと言ってくる。
これが自然な姿なのだろう。わからなかったことがわかるようになる、できなかったことができるようになる。おもしろいに決まっている。
もし「必ずドリルは1日3ページやらなきゃいけません!」ってなノルマを課したら、子どもはすぐに勉強嫌いになるだろう。

ぼく自身、母親からは「この本読んでいいよ」と言われ、父親からは「これおもしろいんじゃない?」と算数や論理学のパズルを与えられたので、読書も算数も好きになった。
だから娘に対しても勉強のおもしろさを忘れないでほしいと願っているのだけれど、どこかで勉強を強制される日が来るわけで、いつか勉強のおもしろさを忘れてしまわないかと不安でしかたがない。




数学の世界というとガッチガチの論理の世界で一分のゆらぎも許されないようなイメージがあるけれども、意外とそうでもないという岡潔さんの話。

 矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです。人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。
小林 近ごろの数学はそこまできたのですか。
 ええ。ここでほんとうに腕を組んで、数学とは何か、そしていかにあるべきか、つまり数学の意義、あるいは数学を研究することの意味について、もう一度考えなおさなければならぬわけです。そこまできているのです。

数学にも感情が必要なんてほんまかいな。感情からいちばん遠いところにある学問のような気がするが。
とはいえ、今の時代に教育を受けた人の中にも地動説や進化論を否定している人がいるわけで、論理や知性というものには限界があるという話はわからんでもないような。
ぼくは数字を扱う仕事をしているけど、専門家同士の話でない場合は数字を出さないほうが納得してくれるケースも多いしなあ。「これやったらアクセスが増えるんスよ。コストも下がりますし。結果、良くなることが多いスね」みたいな適当なトークのほうが、詳細な表やグラフを持っていくより効果的だったりする。

数学だって最終的には人が納得しないことには公理として通用しないわけだから、意外と感情に訴えかける必要があるのかも。
数学者の知性を上回る感情的説得ってどんな手段なのか、さっぱり見当もつかないけど。



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2017年9月4日月曜日

VBAで魔法呪文のマクロを組んでみた


魔法使いは呪文を唱えることが多い。「チンカラホイ!」とか(『のび太の魔界大冒険』より)。
なぜ唱えるのだろうか。ぼくは魔法を使ったことがないのでよくわからない。

わざわざ呪文を口にすることにはデメリットがいくつかある。
まず、発動までに時間がかかる。
スポーツ漫画だと「トルネードアロースカイウイングシュート!」と言いながらシュートを打ったりするが(『キャプテン翼』より)、どう考えても時間の無駄だ。「トルネードアロースカイウイングシュート!」と叫ぶためには相当長い”溜め”をつくることが必要で、PKのときならともかく、ゴール前でそんなことを叫んでいたらあっという間にボールを取られてしまうだろう。

また、相手に察知されるというマイナス面もある。野球でピッチャーが「スライダー!」と叫びながら球を投げたら、打たれる可能性はまちがいなく高まる(ときどき嘘を混ぜれば効果的かもしれないが)。



かようなデメリットがあるにもかかわらず魔法使いが呪文を唱えるのは、そうしなければならない理由があるからだろう。

それはつまり、魔法というものは魔法使いの内なる力ではないということを意味する。
内なる力の発動であれば心の中で思うだけで十分だ。ピッチャーが黙ってスライダーを投げるように。
わざわざ言語化するのは他者に対して指示を与えているからだ。
たぶん精霊みたいなものが近くにいて、そいつに対して「こういう魔法を使いたいからよろしく!」というメッセージを発する、それが呪文なのだ。

構造としては、コンピュータを操作するときにコマンドを打ちこむことで望むとおりの動作をさせるのと同じだ。
つまり、魔法使いとは精霊を思い通りに動作させるプログラマーであり、呪文はプログラミング言語にあたるわけだ。



魔法は科学と対極にあるものとして語られることが多いが(『のび太の魔界大冒険』でも魔法が使える世の中では科学が迷信扱いされていた)、はたしてそうなのだろうか。

魔法を使いこなすためには、同一の条件下で同一の呪文を唱えたときは同一の動作が確認されなければならない。あるときは火が出て、あるときは氷が出て、あるときは相手を回復させるような呪文は使い物にならない。ドラクエシリーズには「パルプンテ」という何が起こるかわからない呪文があるが、これを常用するユーザーはまずいないだろう。
少なくとも呪文を唱えることによって何が起きたかという結果が確認できて、さらに「この呪文を唱えれば10回中8回以上は××という効果が生じる」といった傾向が把握できないと役には立たない。

すなわち魔法を有用なものとして使うためには検証可能性や再現性、測定可能性が求められるわけで、これはまさしく科学のアプローチそのものである。
魔法とは科学なのだ。



呪文が精霊に対するコマンドである以上、命令の内容は客観的・普遍的なものでなければならない。
たとえばドラクエシリーズにおける呪文”メラ”は「敵に対して小さな火球をぶつける」といった説明がなされているが、これはゲームユーザーに対する簡略化された説明であって、実際はこんな指示では魔法は発動できないはずだ。

まず”敵”のような漠然とした概念では場所を特定できないから、座標を用いて火球をぶつけるオブジェクト(対象)を指定してやる必要がある。
「呪文詠唱者を起点として真北から方位角132度の方向6.1メートルの位置」といった一点に定まる座標の指示を与えなければならない。
方位角や距離を正確に把握するためには三角法に対する正しい知識と素早い計算能力が必要になるから、魔法使いは相当数学に強くないとやっていけない。


さらに”小さな火球”といった曖昧な表現では精霊はうまく対応できないから、サイズ、温度、継続時間といった指標を設定する必要がある。
ただし”敵”は毎回変わるのに対して”小さな火球”は毎回同じものでもかまわないから、マクロのようなものを組んで毎回の発動を簡素化することができる。
一般にはそのマクロの名前が呪文と呼ばれるのだろう。
(ドラゴンボールに出てきた「タッカラプト ポッポルンガ プピリットパロ」のように極端に長い呪文はマクロではなくコードをそのまま読みあげているものだと予想する。神龍の召喚のように数年に一回しか使わないコマンドはマクロとして登録する必要性があまりない。)


ということで、VBAでメラのマクロを組んでみた。