2017年8月21日月曜日

バカが鉄の鎖もつけられずに闊歩している世の中/中川 淳一郎 『バカざんまい』 【読書感想】

中川 淳一郎 『バカざんまい』 

内容(「e-hon」より)
バカ馬鹿ばか。結局、この世はバカで溢れている。「日本代表勝てる」と煽るメディア、「お騒がせ」を謝罪する芸能人、上から目線で地方を語る東京人、バーベキューを礼賛したがる若者―。ウェブを介して増殖し続ける奴らを、ネットニュース編集者が次々捕獲、鋭いツッコミで成敗していく。読後爽快感220%、ネットに脳が侵されていない賢明な読者に贈る、現代日本バカ見本帳。

歯に衣着せぬ物言いのライター・中川淳一郎氏のエッセイ集。
「こいつもバカ」「あいつもバカ」とずばずばと時事問題をたたっ斬っていくので、読んでいるとまるで自分が賢い側にまわったかのように錯覚してなかなか痛快だ。そういう人間こそがいちばんのバカなんだろうけど。

しかし解せないのが、これが新書で出ていること。新書って多少なりとも論文やルポルタージュの形式をとっているものだと思っていたんだけど。この本は完全なエッセイ集(というかボヤキ漫談)なんで、ちったあ知見ってやつを広げてみようかと思って手に取った身からすると騙されたような気分。文庫で良かったんじゃないかなあ、新潮社さん。

互いを「バカ」と思い合い、いちいち一つ一つの行動に合理性を感じられなくなってしまうのだ。もうこの人達は一切の接触を断つべきである。
 しかしながら彼らが接触不可避となってしまうのがインターネットだ。特にツイッターに顕著なのだが、昨今考えが違い過ぎ「バカ」としか思えない人々同士の衝突が相次いでいる。好き好んで衝突しているとしか思えない場合が多いのだが、まったく意見の妥結点が見いだせぬまま「ブロックしてやったぞ!」「逃げた!」「論破した!」とお互いに勝利宣言してその不毛なやり取りが終わるのである。

ぼくも中川淳一郎さんと同じく「世の中バカばっかり」と思ってる人間だけど、なるほど、バカが多いのはこういうからくりか。
「成人式でヤンキーが暴れるのは、成人式が彼らにとって自分たちと違う階層の人たちにアピールできる最後のチャンスだから」という説を聞いたことがある。
小中学校ぐらいまではいろんな家庭環境・趣味嗜好の人が同じコミュニティにいるけど、高校、大学、社会人となるにつれ階層は分かれてゆき、彼らの人生が交わることはまずない。何かの拍子に接近したとしても、思想も会話の内容も趣味嗜好も違うから、共通の話題がなくて親しくなることはあまりない。

少し前に、小学校の同級生だった「中学生から不登校になって高校には行かずやんちゃしてて今は大工をしている子」と飲む機会があった。
思い出話でそれなりに盛り上がったのだけれど、タバコを平気で路上に捨てるとことか、あたりまえのように飲酒運転をして「捕まるやつは運が悪い」と放言しちゃうようなところとか、随所に「価値観が違いすぎるな」と感じるところがあった。
たぶん向こうは向こうでぼくに対して「なんだこいつ」と思うところがあっただろう。


価値観がぜんぜん違う人がいても彼らと会うことはほとんどないのでぼくの人生においてプラスもマイナスもないのだけれど、インターネットができてからこっち、そういうわけにもいかなくなった。
特にTwitterみたいな不特定多数と接する媒体を見ていると、「こんなヤバい思想の持ち主がよく社会生活を送ってられるな」と思うことがよくある。学校にも職場にもいなかった人種、未知との遭遇だ。
こんなバカが鉄の鎖もつけられずに闊歩している世の中は大丈夫か、と不安になる。

本来ならまず出会うことのなかったバカ(価値観がまったく違う人物)と出会えるツール、それがインターネットなのだ。
この本でもインターネットの話題が多くとりあげられている。



共感したのは、この一節。

 誰か次の国会で、議員の謝罪理由に「誤解を招くような」とか「世間をお騒がせし」とかいった字句の使用を禁止する法案、ぜひとも提出してくれませんか。
 この「やらかしちまったことを真正面から謝ったら負け」的な空気は、一体いつからのものでしょう。

とはいえ、「世間をお騒がせ……」のほうは、しかたないとぼくは思う。
不倫や覚醒剤使用した芸能人とかが謝罪会見とかやらされてるけど、世間に謝れと言われても「世間をお騒がせして申し訳ない」としか言いようがないだろう。だってテレビを観ている人には何の迷惑もかけてないんだもん。むしろ暇人のために話題を提供してあげたのだから感謝されてもいいぐらいだ。
ほんとに迷惑をかけてる家族や所属事務所の人には直接謝罪してるだろうし。

しかし「誤解を招いたのであればお詫びします」はほんとに見苦しい。そこまで嫌々頭を下げるのなら謝らなきゃいいのに、とさえ思う。
つい最近も大臣が大失言をした後に「誤解を招きかねない発言を撤回し、お詫びを申し上げる」と、謝罪になってない謝罪をしてたね。

こういう発言をした人がいたら、報道機関はちゃんと「自らの落ち度を完全否認」「謝意なし」と報道しなきゃだめだと思うよ。
で、当の議員から抗議されたら、ちゃんと「侮辱しているかのような誤解を招いたのであれば申し訳ない」と言ってやればいいね。


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2017年8月19日土曜日

競争力の高いバターになっとけ


「競争」って重きを置かれすぎじゃない?
ビジネスでも学業でもそうなんだけど。
競争なんか、しなくて済むならそれに越したことはない。


忍者が麻を使って修行する話、知ってる?
忍者が麻の種を植えて毎日その上を飛び越えてたら、麻はすごい勢いで成長するから、それにあわせて跳んでるうちにいつのまにか忍者も3メートルぐらいジャンプできるようになってるって話。
そんなわけないよね。嘘にもほどがある。ぼくは小学生のとき信じてたけど。
麻に対抗心燃やしたからって人間が3メートルもジャンプできるようにはならない。

その忍者の話を信じてるのか知らないけど、競争させたら成長すると信じてる人が多い。
いや、二流はそうかもしれない。他人よりいい点とるために勉強する。そういう人がいるのはまちがいない。
義務教育はそれでいい。全体のレベルを引き上げるのが目的だから。

でも一流の人は競争するから成長するわけじゃない。
学ぶことが楽しいから勉強する。絵を描くのが好きだから絵を描く。で、そういう人が業界を牽引する。彼らにとって競争なんて成長を阻害する要因でしかない。

スポーツは競争を楽しむためのものだから競争こそが選手を成長させるかもしれない。
だけど学問や芸術はそうではない。真理に近づくことやより善なるものや美を追求することが成長を促す。個ではなく全体の成長を。


前職を 辞めたのは、競争に対する考え方も原因のひとつだった。
ぼくは一応管理職という立場にあったんだけど、会社は社員たちをむやみに競争させようとしていて、ぼくはそれに反発していた。
みんなそれぞれ別の業務をやってるから競争させることに意味がない、競争させてそれを計測するのにもコストがかかる、競争させて足の引っ張り合いになったらトータルでマイナスになる、そもそも競争させないと仕事をしないようなやつはいらない、とかいろんな理由があって。
全員がゴールを狙うサッカーチームが勝てるわけない、と言って結局は会社を辞めた。

なんでもかんでも競争の原理を持ちこむのは、二流半を二流に引き上げるために一流の足を引っ張る行為だ。
大学が「競争力を高めるため」って理由で独立法人化させたのなんかまさにそれ。結果が出るかわからない研究、短期的に結果が出ない研究をする余裕をどんどんなくしていって、「競争力」だけの二流の大学ばかりになっていく。


そもそも「競争力」という言葉がばか丸出しだと思う。国際競争力をつけよう、とか。
競争は手段あるいは結果にすぎないのにそれを目的化しているのがほんとに愚かだ。

囲碁とかオセロとかビーチフラッグみたいなゼロサムゲームであればともかく、マクロ経済とか教育とか政治とかの世界で「競争力」という言葉を使うやつは、そいつら同士で追いかけっこをしすぎてバターになればいいのに。世界のバター市場で勝負できる競争力の高いバターに。



2017年8月18日金曜日

ビール飲みながら「おれが監督ならなー」と言ってるおっさんの話/小関 順二『間違いだらけのセ・リーグ野球』【読書感想】

小関 順二『間違いだらけのセ・リーグ野球』

内容(e-honより)
2015年のセ・パ交流戦の最中、パ球団がセ球団を叩いた結果、全セ・リーグ救団が「勝率5割以下」という前代未聞の事態が起こった。見渡せば、柳田、中村、中田らの魅力あるフルスインガー、大谷、金子らの豪快な投手はパに集中し、セの野球はどこか貧弱。このような事態を招いた原因はどこにあるのか?人気球団で補強に力を注ぐ巨人や阪神は、なぜさほど強くならなかったのか?ドラフト、FA、育成…あらゆる角度からセ・リーグの問題点をあぶりだす。

今はプロ野球を観ないけど、1993~2000年ぐらいはよく観ていた(当時は小学生~高校生)。
兵庫県に住んでいたこともあって、父に連れられて球場にも何度か足を運んだ。兵庫県にある2つのプロ野球の球場、阪神甲子園球場と、オリックスの本拠地だったグリーンスタジアム神戸だ。

当時の阪神といえばまさに暗黒時代で、なにしろその8年間の最高順位は4位、最下位は5回とほんとにどうしようもないチームだった。プロ野球ファン以外に名が知れるようなスター選手もいなかった(新庄剛志はいたが、彼がスターになるのはメジャー挑戦~日本ハムでの活躍があった後の話だ)。
一方、オリックスはといえば仰木彬が監督を務めてイチローが在籍していた時代で、93~99年はずっとAクラス。リーグ優勝2回、日本一1回。阪急からオリックスという名前にかわって以降、もっとも輝いていた時代だった。

しかし、球場の客の入りは成績とは正反対だった。
甲子園球場の阪神の試合は常に満員。グリーンスタジアムでのオリックスの試合は多くても7割ぐらいの入り。
グリーンスタジアムではD.J.(オリックスにD.J.という登録名の選手がいたのでややこしいけどここではディスクジョッキーのこと)によるハイテンションなアナウンスとにぎやかな音楽がゲームを盛り上げ、夏場は試合中に花火を打ち上げ、入場時に無料でグッズを配ったりと、さまざまなイベントを催していた。
甲子園球場にはそういったイベントは一切なし(花火は立地的にできないと思うが)。とにかくおまえらは野球だけ見てればいいんだよ、という感じ。ジェット風船はあったが、あれは観客が金を出して風船買って飛ばすだけなのでファンサービスではない。むしろファンから球場へのサービスだ。
手をかえ品をかえ観客を楽しませようとしてくれるグリーンスタジアムのほうが、ぼくは好きだった。

それでもグリーンスタジアムは、どれだけイチローがヒットを打とうが、いくら優勝争いをしようが、常に空席が目立つ状態。
グリーンスタジアムは立地が悪くて都市部からのアクセスが良くなかったのだが、それにしてもこの差はあんまりじゃないかと子どもながらに思っていた。

十数年前、かようにセ・リーグとパ・リーグの人気の差は大きかった。
セ・リーグの試合はかなりの割合でテレビで観ることができたが、今のようにインターネットもない時代、パ・リーグの選手が動く姿を観られるのはオープン戦とオールスターゲームと日本シリーズだけだった。



そして20年近い時が流れ、セ・パの人気の差は当時とは比べものにならないほど縮まっている(理由はパ・リーグの人気が高まったことよりもセ・リーグの人気が落ちたことのほうが大きいが)。
球場に足を運ぶファンだけに限定していうなら、パ・リーグのほうが人気があるといえるかもしれない。

そして、実力では今や完全にパ・リーグのほうがセ・リーグより上である。断言してしまっていいだろう。
昔から「人気のセ・実力のパ」と言われていたが、都市伝説に近いレベルの話だった。オールスターゲームはファンサービスのお遊びだし、日本シリーズは短期決戦だから本当の実力は測れないよ、と思われていた。
だが2005年からセ・パ交流戦がはじまったことで、その実力差は歴然となってしまった。

 交流戦の原型は97年にメジャーリーグがスタートさせたインターリーグで、日本球界が導入したのは05年。それ以来、09年以外の10回はすべてパ・リーグが勝ち越し、通算成績は865勝774敗、勝率・528。09年までは僅少差のシーズンが多かったが、10年以降はパが大きく勝ち越すことが多く、ここ6年間の通算成績は438勝356敗(勝率・552)と、圧倒的な〝パ高セ低〟現象が続いている。

ちなみに『間違いだらけのセ・リーグ野球』が書かれたのは2015年だが、16年も17年もパ・リーグが勝ち越している。
13年やってセ・リーグが勝ち越したのは1回だけ。これはもう1軍と2軍ぐらいの力の差があるといっていいかもしれない。
ちなみに、日本シリーズでもセ・リーグは大きく負け越しており、2005~2016年の12年間でセ・リーグの球団が日本一になったのは3回だけだ。


セ・パの力の差が開いた原因のひとつとして小関順二氏が挙げているのが、若手育成に対する取り組みだ。

 実際に逆指名ドラフトが導入された93年以降、日本シリーズでパは勝てなくなった。そんな逆風を受けているとき高校卒の松坂が1年目から16勝5敗、防御率2・60という好成績を挙げ、最多勝、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、新人賞を獲得した。パ・リーグのスカウトをはじめとするフロントは何者かに強く背中を叩かれた思いがしたのではないか。「資金力があり人気があるセはこれからも有力な大学生や社会人を根こそぎ持っていく。当然、高校生への関心は遠のく。ならばそこに懸けるしかないだろう。高校生を獲ってファームの育成能力を挙げ、一軍の監督は若手を積極的に抜擢する。パ・リーグが生き延びる方法はそれしかない」

セ・リーグはFAと逆指名制度に守られたことで人気選手が集まったが、実績のある選手ばかりになったことで若手が台頭できるチャンスが減った。
一方、有力選手をセ・リーグに奪われたパ・リーグは、ドラフトで高校生を中心にした若手獲得に動き、結果として若手を育成する体制が整った。
……という説。

なるほど。今はそこまででもないのかもしれないけど、いっときのジャイアンツってほんとにえげつないぐらい他球団のエースや4番をかき集めてたからなあ。
落合、清原、広沢、石井、江藤、ローズ、小久保、ハウエル、ペタジーニ、マルティネス、ラミレス、小笠原、工藤、川口、野口、杉内……。
こうやって挙げてみたらほんとひどいな。
プロ野球人気が低迷した時期とちょうど重なってるから、ジャイアンツの補強戦略が球界全体に与えた負の影響は相当大きいのかもしれないね。そりゃこんなことやってたら人気はなくなりますよ。レベルの高い争いを期待できなくなるから、一流選手は海外に行くしね。

ニューヨークヤンキースとかレアルマドリードとかも同じことをやってるけど、スター選手を集めれば(その球団だけにとっては)目先の利益は増えても、長期的に見たらまちがいなくマイナスだよね。



「なぜセ・リーグはだめになったのか」という視点はおもしろかったのだが、残念だったのは、データに基づいた話になっていないこと。ほとんど筆者の主観によってのみ書かれている。

データは載っている。たとえば「ほら、パ・リーグのほうがこんなに盗塁が多いんですよ」というデータは示してある。
なるほど、と思う。
でもその後に「だからパ・リーグはセ・リーグよりも対戦成績で上回ったのだ」と書かれると、おいちょっと待てよと言いたくなる。
盗塁と勝利の関連性を示すデータがまったくないし、仮に相関関係があったとしても因果関係があるとはかぎらない。

「高卒選手のほうが日本代表に選ばれることが多い。だから高卒のほうが大成しやすい」なんて主張も書かれている。
これは因果関係が逆だ。日本代表に選ばれるぐらいの素質を持った選手だから高校時代からスカウトの目にとまっただけだろう。高卒でプロ入りしたらいい選手になるのではなく、いい選手だから高卒でプロ入りできたのだ。

早打ちのほうが成績がいい、というデータも載せている。
初球を見逃さずにワンストライク目から打っていったほうが打率が高いのだそうだ。
著者の小関さんは「だから早打ちしたほうがいい!」と書いてるけど、これも相関関係と因果関係の読み違いだ。
「失投があったから早めに打った」+「失投だったからヒットになった」だけではないだろうか。ここから「早めに打てばヒットになる」という結論を導くのは大間違いだ。
また、チームプレイとして考えた場合、非力なバッターは初球はバントの構えで様子を見ろとか、じっくり見て相手に球数を投げさせろとかの指示を受けるから、遅打ちになる。「強打者だから早めに打たせてもらえる」+「強打者だからヒットやホームランが多い」だけかもしれない。

上に挙げたのは一例で、いろんなデータを出してはいるが、統計学的に意味のあるデータはほぼ皆無。
はじめに結論ありきで都合のいいデータをがんばって集めました、という感じ。
根拠を一切検証することなく「ほらね。だからパ・リーグのほうが強いんだよ」と言われても、結果を見てから「おれが監督ならあそこでピッチャー交代してたのになー」とビール飲みながらほざいてるおっさんと同じで、何の説得力もない。
だいたい「初球を見逃さずに早めに打てば成績が良くなる」ぐらいの単純な話なら、とっくに改善されてるだろうよ。


『マネー・ボール』のような科学的な分析が読めるかと思ってたのに、期待はずれだった。
野球って膨大なデータがあるから、データサイエンティストが本気で解析したらおもしろくなりそうな題材なのになー。


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2017年8月17日木曜日

パパ友の口説き方


「ママ友」の検索結果 約1300万件

「パパ友」の検索結果 約38万件


ということで どうも世のお父さん同士はあまり友だちにならないらしい。
(しかし「ママ友」も「パパ友」もネガティブな検索結果が並んでるな……)

ぼくには4歳の娘がいるが、パパ友はいない。
学生時代の友人に子どもが生まれたので子どもと一緒に遊びにいく、ということはあるが、子どもを介して友人になった人はいない。

毎朝娘を保育園に送っているので、他の保護者とも顔を合わせる。
保育園に通わせている人は基本的に共働きだから父親が送りにくる家庭もめずらしくない。
必然的によく顔を合わせるお父さんも決まってくる。
ぼくは常々まっとうな人間として生きていきたいと願っているからあいさつをする。「もうすぐ発表会ですね」とか「今日も〇〇ちゃんは元気ですね」といった言葉も交わす。
でもそれ以上の踏み込んだ話をすることはない。


休みの日には たいてい子どもと遊びにいく。しかし「この人(娘のこと)はお父さんとばかり遊んでいいのだろうか」と心配になる。
一人っ子だし、もっと同年代の子と遊ぶ機会をつくってあげたほうがいいんじゃないか。

あるとき、娘と公園に行ったら保育園の同じクラスの子とばったり会った。
子どもたちはおいかけっこをはじめて、そのとき娘はぼくが見たこともないぐらい速く走っていた。
犬を飼ったことのある人は知っていると思うが、犬は散歩のときリードを持つ人の速さにあわせて歩く。老人と散歩するときはゆっくり歩くし、若くて元気な人が散歩をさせると犬は「この人のときは走ってもいい」と思って速く走る。
同い年の子どもと全速力で走って遊ぶ娘を見て、「ああ、4歳の娘もぼくと遊ぶときは、老人と散歩する犬のように遠慮していたのだな」と気づいた。ショックだった(犬から見た老人の扱いをされていたことも含めて)。

もっと同じ年代の子と遊ばせてあげたい。しかし近所にはパパ友がいない。
ちくしょう! 娘よすまない、ぼくが社交的でないばっかりに……!


忸怩たる 思いいを抱えていたぼくだが、少し前にこんなことを書いた。

娘の保育園に行ったときに他の子の父親から「休みの日ってどこに連れていってます?」と訊かれたので、これはチャンスと思い「こないだプール行ったんですけど子どもは喜んでましたよ。今度子ども連れて一緒に行きませんか?」と誘ってみた。

言われたお父さんは「あーいいですねえ」とニコニコしながら言って、あれ? この後どうしたらいいんだ? 具体的な日程を決めたらいいのか? それとも今日は連絡先の交換だけにしておいて後日LINEとかでやりとりしたほうがいいのか? いやでも「いいですねえ」と言っただけで「行きます」って言ったわけじゃないしこれは断りかたがわからなくて困ってるパターンか? とかいろいろ考えているうちになんとなく次の会話がなくなってしまって、うやむやになってしまった。

コミュニケーション能力が低いばかりに千載一遇のチャンスを棒に振ってしまったのだが、あきらめきれなかったぼくは「あのお父さん(Nちゃんのお父さんとする)とプールに行く」という目標を立てた。

そこで、まずは娘に
「Nちゃんとプール行こっか。Nちゃんに、一緒にプール行こうって言ってみたら?」
と吹きこんでみた。

娘とNちゃんの間で「プールに行こう」という約束ができる
 ↓
Nちゃんが家でお父さんに「〇〇ちゃんとプール行きたい!」と言う
 ↓
Nちゃんのお父さんが、今度会ったときにぼくに「娘が行きたがってるんでプール行きましょう」と言う

という展開を期待したものだ。
自分では声をかける勇気がないので子どもたちを経由して、しかも向こうから誘ってもらおうという巧妙かつ意気地なしの作戦だ。好きな女の子から告白されるのを待って自分からは何のアクションも起こさなかった学生時代からまったく成長していない。


その後も 何度かNちゃんのお父さんと会う機会があったのだが、いっこうにプールの話が出ない。
うちの娘のところで止まっているのか、それともNちゃんで止まっているのか。なにしろ4歳児なのであてにならない。大人でも報連相はむずかしい。
もしかしたらNちゃんのお父さんのところまで話は届いているのに「あいつと出かけるのイヤだな」と思われているのかもしれない……。

くよくよ考えていても結論は出ない。
ここは直接的に誘うにかぎる。

ある日、保育園に娘を送った後、少し前をNちゃんのお父さんが歩いているのを見つけた。
小走りでNパパに近づく。すっと横に並び、たまたま出くわしたかのように「あ、おはようございます」と声をかけた。

そして、前から準備していた台詞を、まるで今思いついたかのように言う。
「ああそういえばですね、こないだプールの話したじゃないですか。あれ以来、娘がNちゃんとプールに行きたいって毎日のように言ってるんですよ。どうでしょう、今週末にでも一緒に行きませんか?」
娘が毎日のようにプールに行きたいと言っている、というのはもちろん嘘だ。また娘を利用させてもらった。

で、
「いいですよ。行きましょう」
「じゃあLINE交換してもらっていいですか」
と、事前に脳内シミュレーションしていたやり取りを経て、見事一緒にプールに行く約束をとりつけることに成功した。


学生時代に 好きな女の子を誘ったときぐらい周到に準備したのが功を奏した。
休みの日は家族でゆっくりしたいのに誘ったら迷惑じゃないだろうかとか断られたらその後保育園で顔を合わせたときに気まずいなとか思い悩んでいたが、杞憂に終わった。
プールに行くときも「ダサいと思われたくないから新しい服を着ていこう」と前日から準備をして、何があるかわからないから一応銀行でお金おろし、気持ちは完全に初デート前日の高校生だった。


プールでは娘たちも楽しんでいたし、「また一緒に遊びに行きましょうね!」と言って別れたのだが、その日からまたべつの悩みが生まれた。

次はどう誘ったらいいのだろうか。

前回はこっちから誘ったから、次は向こうが誘ってくるのを待ったほうがいいのだろうか。
いやでも待つだけの姿勢では自然と疎遠になってしまうかもしれない。
かといってすぐにまた誘うのも「しつこい人だな」と思われるんじゃないだろうか。
どれぐらいの間隔を開けるのがベストなんだろう。1ヶ月ぐらいだろうか。
前回は「プール」という夏らしいイベントがあったけど、次は何を誘ったらいいのだろう。公園遊びとかは平凡すぎるだろうか。

パパ友をつくるってこんなにたいへんなプロジェクトだったのか。
そりゃなかなか作れんわ。


2017年8月16日水曜日

官僚は選挙で選ばれてないからこそ信用できる/堀井 憲一郎 『ねじれの国、日本』【読書感想】


堀井 憲一郎 『ねじれの国、日本』

内容(「e-hon」より)
この国は、その成立から、ずっとねじれている。今さら世界に合わせる必要はない。ねじれたままの日本でいい―。建国の謎、天皇のふしぎ、辺境という国土、神道のルーツなど、この国を“日本”たらしめている“根拠”をよくよく調べてみると、そこには内と外を隔てる決定的な“ねじれ”がある。その奇妙で優れたシステムを読み解き、「日本とは何か」を問い直す。私たちのあるべき姿を考える、真っ向勝負の日本論。

建国記念日、天皇制、中国との関係、戦争のとらえかた、神道といった日本人なら誰もが知ってるのに外ではあまり話題にしにくい ”デリケートな話題” を通して日本の抱える「ねじれ」について語った本。
堀井 憲一郎さんに対して「どうでもいいことを大まじめに考える人」というイメージがあったんだけど(悪口じゃないよ)、まじめな話題をまじめに語る本も出してるのか、と意外だった。



太平洋戦争について。
 ただ二度目のとき、つまり明治維新から近代国家と呼ばれる、いかにもわれわれの身にそぐわなそうな衣装を装備したときには、度合いがわからず、かなりの無茶をやった。日本のラインを守ろうとして、でもその守るラインをどこに置けば適当なのかがわからず、やみくもに外側に防衛ラインを置き、だから結果として、少なくとも周辺の国からは、日本は天皇を戴いてそのまま世界へ押し出していった、というスタイルに見えた。もちろん押し出していってるわけだけど、ただわれわれの理屈は、ずっと身内だから、アジアだから、大東亜共栄圏だから、という内向きの方向でしか述べられていない。そんな理屈だけで外地でやったさまざまな非人道的が許されるわけではないが、心持としてはずっと内向きである。そんな気持ちのまま、海外に進出していったから問題が大きくなったわけでもあるのだけれど。要は、日本の中に抱えてる何かを守ろうとして、防衛ラインを大きく構えすぎた、ということである。
日本が戦争に至った経緯をいくつかの本で読んだけど、感じるのは「このままじゃまずい」という焦りなんだよね。その時代に生きていなかったから想像するしかないんだけど、「外国に攻めていって大儲けしてやろう」という雰囲気ではなく、「何もしなければやられる」という逼迫した空気が戦争に駆り立てたんだろうと思う。
アジアの国が次々に欧米の植民地になっていくのを見ていたら「日本だけは大丈夫でしょ」とは到底思えなかっただろう。
やったことはまちがいなく侵略戦争なんだけど、少なくとも国内のマインドとしては防衛のための戦争だったんだろうなあ、と想像する。

次に戦争をするときも同じだろうな。他国からどう見えるかはべつにして、国内の意識としては自衛のための戦争。今でも「日本が何もしなければ××国に蹂躙される」って鼻息荒く主張してる人がいるけど、そういう人は仮に日本が先制攻撃したとしても「やらなければやられていたからこれは自衛戦争だった」と言うのだろう。
まあこれは日本だけじゃなく世界共通の考え方だけど。
子ども同士の喧嘩で、双方ともに「相手が先に叩いてきた」って主張するのと同じだね。



 近代国家システムを作るときに、もっとも大事だったのは何かというと、廃藩置県だ。それぞれの小国がそれぞれ、小国として独立していた全エリアを、強引に”日本”という一つのものにまとめたところ、でしょう。
 だからいまの日本で「地方分権」を唱える政治家を私は、まず信用しない。
 いまのわが国の政体は、地方分権国家だった江戸のシステムでは近代社会では徹底的に搾取される側にまわってしまうので、急ぎ必死で、命がけでそれこそいろんなものを捨てて殺して、実際に戦争までやって、「地方分権を続けてるとおれたちは国丸ごと滅んでしまう」という血塗られた叫びによって作られた国家であり政体なのだ。
(中略)
 地方分権を唱えてる連中は、まず「金と経済の話」しかしていない。金も経済も同じことだから、つまり、金の話しかしていないわけだ。
 おそらく経済がすべてに優先して大事だということなのだろうか。それは一般人の感覚であって、政治家が理念として掲げるようなものではない。
これも同感。
地方分権を主張する政治家の話って、結局、「おれの好きなようにやらせろ」しか言ってないんだよね。
ほんとにいい政策なら全国的にやったほうがいいし。

いや、わかるんだけど。みんなで足並みそろえてやってたら決定が遅くなるし動きづらくなるんだけど。でもそれをなんとか調整するのが政治家の仕事でしょ、って思うんだよね。おれはおれの好きなようにやるよ、ってのはビジネスの世界では通用しても政治でそれやっちゃだめでしょ。みんなが「うちの町内だけで通用する法律作ってやっていくことにしました」っていったらめちゃくちゃになるのは目に見えてる。

だって各自治体が好き勝手やっていいんなら、日本全体の便益を増やすよりも、隣の自治体から奪ってくるほうがはるかに手っ取り早いもん。みんなそうするよ。で、99%の自治体が損をする。ふるさと納税制度の失敗を見たら明らかじゃない。

最近EUは失敗だったとか言われてるけど、個別の国で見たら失敗なのかもしれないけど、トータルで見たらやっぱり成功だと思うんだよね。実際、中国みたいな「これからの国」はほとんどないにもかかわらずEU全体として経済成長してるわけだし。
EU圏内の他国に対する防衛費を抑えられるってだけでとんでもないメリットだろうと、防衛費が年々上がっていく国に住んでいる者としてはつくづく思う。



ついこの前、「官僚は選挙によって選ばれたわけではないから官僚主導で物事が決まるのはおかしい。政治家が手綱を握って官僚をコントロールしなければならない」と主張している人(それなりの学者)がいて、その主張を読んでぼくはもやもやしたものを感じていた。
たしかに官僚は選挙に選ばれてるわけじゃないよなあ……。だからといって政治家が手綱を握るってのはどうも納得いかないような……。
で、ちょうどこの本にそのもやもやへのアンサーが書いてあった。
 国際政治方面は、日ごろの日本の思考法ではどうにもならないので、それ専門に通用するプロを鍛え上げて、そちらに任せるしかない。政治家はあまり外交部門にかかわらないほうがいい。政治家というのは、何も国民の中の優秀な人がなるのではなく、そのへんのおっさんのうち、押しが強くて、金を持っていて、調整が好きな人、がなるものなので、頭脳はべつに明晰でなくていいし、知識も豊富でなくてもつとまるのである。だって、そういうシステムを採用しているから。だから、政治家主導、なんて考えなくていいですからね。あれはほんとに、馬鹿って言われたから、おれ馬鹿じゃないもん、と必死で弁解してる馬鹿の姿そのもので、政治家は馬鹿だと言われることくらい我慢しなさい。与太郎だって我慢してるのに。そもそも政治家とは、考える人ではなくて、調整して、賢者の意見を聞いて、どれを採るか決断するのが仕事です。東アジアのボスは古来そういう姿しか認められていない。
 官僚は優秀な人たちを採用しつづけたほうがいい。
ああそうか、官僚は選挙で選ばれてないからこそ信用できるんだ。
選挙で選んだら、声がでかくて自分をよく見せるのがうまいやつだらけになるだろう。そういうやつが実務能力に長けているかどうかは、みなさんご存じのとおりだ。

政治家は優秀な実務家じゃない。
内閣と官僚を対立軸で語ること自体がおかしいんだけど、あえて比較するとして、選挙で選ばれた人気者と、優秀な大学を出て厳しい試験を突破してその道一筋で厳しい環境でやってきたプロフェッショナルである官僚。
どっちが政策運用において信用できますかっていったら、どう考えたって官僚だ。
選挙が人気投票になっても国家がちゃんと運営されるのは官僚が優秀だからだ(あとたぶん政治家の秘書も優秀だと思う)。

ぼくは選挙に行くけど、票を入れる人の実務能力なんてまったく知らない。政策に共感した人に入れるだけだ。みんなそうだろう。



『ねじれの国、日本』。個別の内容については同感できないこともあったけど、目をつぶって意識していないことについて考える機会を与えられるってのはなかなか心地いいね。
ふだん使わない筋肉を使った後のほどよい疲れみたいな感覚を味わった。


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