2017年8月3日木曜日

若い人ほど損をする国/NHKスペシャル取材班 『僕は少年ゲリラ兵だった』

NHKスペシャル取材班
『僕は少年ゲリラ兵だった』

内容(「e-hon」より)
沖縄戦に埋もれていた衝撃の史実、日本“一億総特攻”計画の全貌。なぜ、本来守るべき子どもたちを、国は戦争に利用していったのか。そして、戦場で少年たちは何を見たのか。どのように傷つき、斃れたのか。生き残った者たちは、なぜ沈黙し続けなければならなかったのか。そしてその先にあったのは、子どもも含めた「国民総ゲリラ兵化」計画だった―。

戦中日本に護郷隊という組織があったことをご存じだろうか。
沖縄に存在したゲリラ戦部隊で、10代を中心とする兵士が戦場で戦っていた。

太平洋戦争開戦時、日本では満17歳以上でないと召集されないとされていた。青年のもとに赤紙が届いて「まだこんなに若いのに……」と母親が悔やむ、なんてシーンをドラマや映画で観たことのある人も多いだろう。
だが戦況が悪化するにつれ、召集年齢は引き下げられ、1944年12月からは14歳以上であれば志願したものにかぎり召集できるようになった。

志願者にかぎるとはいえ――。

「護郷隊の幹部が村役場を訪れ、役場の人が自分を呼びに来た。召集の紙なんかはなかった。強制的だった。役場で幹部と合流し、国民学校へと向かった。校庭には東村のほか、大宜見村、国頭村、読谷村から集められた少年たちがいた。翌日、岩波隊長が訓示した。『あんたたち、帰ってもいいが、ハガキ一本でこれだ(手刀で首を切るしぐさ))』と言った。今考えたら脅しみたいなものだ」

じっさいはこんな召集の仕方だった。
戦時中、刀を持った軍、狭い村。「おまえも志願するよなあ?」と言われて断ることは不可能だっただろう。

ナチスドイツのヒトラーユーゲントやISIL(イスラム国)の少年兵が有名だが、幾多の戦争で少年は兵士として使われている。
洗脳しやすい、攻撃的である、敵を油断させやすいなど、"コマ"として使いやすい条件がそろっているためだろう。

『僕は少年ゲリラ兵だった』では、田舎の少年たちがゲリラ兵へと変貌してゆく姿が書かれている。
「敵を殺せ、10人殺したら死んでもよい」という短くてインパクトのある言葉を叩き込まれ、過酷な訓練漬けにされ、彼らは兵士となっていく(「10人殺したら死んでもよい」ということは「10人殺すまでは絶対に逃げるな」ってことだよな)。

元少年兵の証言として、
「射撃をすることがおとぎ話の英雄になったみたいだった。大人と対等に戦えるのが痛快だった」
「生まれなかったと思ったらそれでいい」
「(仲間が死んでも)何も思わなくなっていた」
なんてインパクトのある言葉が並ぶ。
しかしこういったことも戦争から70年たったからこそ言えたことで、これでもだいぶ薄まった言葉なんだろうね。



衝撃的だったのはこの文章。

 44年末、沖縄の9の離島に、それぞれ1人か2人ずつ学校教員の辞令を受け、本土から突然やって来て着任した謎めいた男たちがいた。戦時下の沖縄ではほとんど授業が行なわれることはなく、そのかわりに彼らは、子どもたちや住民に軍事教練をしたり、島の警察や行政に巧みに入り込み、米軍が上陸した際の準備などを指導したりしていたというのだ。
 彼らは全員が偽名で、教員としての姿も偽りのものだった。その正体は、「残置諜者(残置工作員)」と呼ばれる陸軍の特殊任務の命を受けた者たち――陸軍中野学校で諜報・謀略、そして特に遊撃戦の特殊訓練を受けていた軍人だったのだ。

まるで映画の導入みたいなシーンだが、こういうことが日本でもおこなわれていたことに驚く。
彼らは教師という信頼されやすい立場を利用して住民の中に入りこみ、いざというときに住民に対して玉砕を指導するつもりだったらしい。

これは沖縄の話だが、本土でも同じような計画がされていたらしい。もし8月15日で終戦していなければ、住民のふりをした軍人たちの巧みな指示のもとで女も老人も子どもも関係のない捨て身の攻撃がなされていたんだろうね。



今の日本は、若い人ほど損をする国だなあとつくづく思う(昔はそうじゃなかったとか外国はそうじゃなかったとは言わないけど。よく知らないから)。

医療費とか年金とか労働環境とか、どう考えても若い人のほうが損をしている。
今の年寄りより現役世代のほうが損をしているし、現役世代よりも学生や子どもが大人になったときのほうがもっと損をするだろう。


たとえば国立大学の学費。
1975年の授業料は、年間36,000円。
その10年後の1985年は7倍の252,000円。
2003年以降は50万円超えとなっている。(文部科学省 国立大学と私立大学の授業料等の推移

一方、物価はというと、2005年の物価を100とすると、1975年の物価は52~56。(総務省 消費者物価指数(CPI)時系列データ

つまり、30年で物価の上昇は2倍未満なのに、大学の学費は約15倍となっているのだ。実質負担は7~8倍になっているわけで、とんでもない値上がり率だ。おお、こわ。どうやら国は若者に学んでほしくないらしい。

また、国民年金保険料を見ると、1975年は1,100円。現在は16,490円。(日本年金機構 国民年金保険料の変遷
こちらも約15倍。
さらに給付される年齢は徐々に引き上げられ、給付額もどんどん減少していく。
40年前の7~8倍もの保険料を支払っているのに、もらえる額はずっと少ない


要するに、若い人からとるお金は増えていき、若い人に使うお金はどんどん減っていっている、というのが今の社会だ。たぶんこの先もずっとそうだろう。
30代のぼくとしては、「ぼくたちってなんてかわいそうな世代なんだ」と思うと同時に、「これから大人になる人たちはなんてかわいそうな世代なんだ」とも思う。

今の年寄りが悪いというつもりはない。
悪いのはこういう社会システムがおかしいと知りながら変えようとしない人たちで、その中にはもちろんぼくも含まれるから、自業自得だ。
まあ自分が国民年金で大損こくのは自業自得だからしょうがないんだけど、でも今の子どもやこれから生まれてくる人に対しては「今後きみたちからたんまり搾取することになってしまうんや。かんにんな」と申し訳なく思う。といってもぼくがそのためにやることといったらせいぜい延命治療を拒否することぐらいなんだけど。


で、今後日本が戦争をする可能性は十分にあるよね。いくら憲法で戦力放棄をうたっていたって、そっちのほうがお得となったら「緊急事態だから」といっていろいろと理屈をつけて戦争をするために憲法を ねじ曲げる 解釈する人はいくらでもいるし。
そうなったときに誰がいちばん被害を受けるかっていったら、まちがいなく若い人たちだ。
なんとかして若い人に損をさせようとする国が、「戦争の最前線に立つ」といういちばん損をする役目を若い人にさせないわけがない。まかせたぜ若人よ。クールで美しい国のために、プレミアムな役割を君たちに与えよう。


堤美果さんの貧困大国アメリカ三部作(『ルポ 貧困大国アメリカ』 『ルポ 貧困大国アメリカ II』 『(株)貧困大国アメリカ』)には、アメリカ軍がどうやって若者を軍にリクルートしているかが丁寧に描かれている。
手法としては、軍に入隊することを約束した者に奨学金を出すことで、貧しい若者に「軍に入隊する」か「低学歴で一生貧困生活を送る」かを選ばせる、というものだ。
競争相手となる移民も多く、自己責任論の強いアメリカでは、一度貧困状態に陥るとそこから脱出することはきわめて困難だ。
だから高額な授業料を出せない家庭の子たちは軍からの誘いを断ることができない。
こうして入隊した若くて学歴もコネもない軍人たちは、当然ながらもっとも危険な最前線へと派兵されることになる。

日本ではそこまで露骨なリクルートは今のところ聞かないが、「教習所に通う金がないから免許を取るために自衛隊に入る」なんて話も聞くから、お金がないために自衛隊に入る人はある程度いるのだろう。
前述したように大学の授業料はどんどん高くなり、一方で給付型奨学金や無利息の奨学金は少なくなっている。親世帯の非正規率は上がっているから、奨学金を返せなくなる若者が増えているという。
ひとたび自衛隊員が不足したなら、リクルーターがこの層を狙わないはずがない。
「憲法九条を改正したら徴兵制が復活しますよ」なんて言って憲法に反対する人がいるが、それは誤りだ。赤紙なんか出さなくても金さえ出せば兵隊は集められるのだから。金を積めば"自主志願"する人はたくさんいる。

15歳で軍に入隊することになる時代は近いのかもしれない。



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2017年8月2日水曜日

五千円札と五円玉の謎




本屋で働いていたとき、業務のひとつに「銀行に行ってお釣りを用意する」というものがあった。

で、ふしぎなんだけど、お金の種類によって「必ず減っていくもの」と「必ず増えていくもの」があった。
いくつかの店舗で勤務したことがあるけど、どこも同じだった。

五千円札はぜったいに減っていく。
20枚くらい用意していても1日でなくなる。
つまり「会計時に五千円札を出す人」よりも「一万円札を出してお釣りとして五千円札をもらう人」のほうがずっと多いのだ。

きっと誰しも経験があるだろう。一万円札を出したら「すみません、細かくなってしまうんですけど……」と千円札9枚を返されたことが。
あの状況がしょっちゅう起こっていた。毎日銀行に行って五千円札を用意していたにもかかわらず。





ふつうに考えれば、硬貨と千円札(と二千円札)だけで支払いができない場合、五千円札があれば五千円札を出す。なければ一万円札を出す。したがって財布内の五千円札の数は0枚または1枚で、2枚以上になることはない。

全員がこの方法で支払っていれば、店舗のレジ内にある五千円札の量は短期的には増減するが、長期的にはほぼ一定のはずだ。
だが、ぼくが働いていた書店では五千円札は減る一方だった。

月末はまだわかる。給料日の直後なので、銀行で一万円札をおろしてそれを使う人が多い。だから五千円札がなくなる。
でも、お釣りとして渡した翌月の給料日前になるとかえってくるかというと、そんなことはない。五千円札はいつでも出ていくほうが多い。
5年ほど働いていたが「前日よりも五千円札が増えた」ということは一度もなかった。

「五千円札があるのに使わない客」がいるのか? なんのために? 五百円玉貯金は聞いたことがあるが五千円札貯金は聞いたことがないぞ? 一万円札の札束はあっても五千円札の札束をつくる人がいるとは思えないぞ?
ふしぎだ。


そこで、こんな仮説を考えた。
客単価が5,000~10,000円ぐらいの店を想定する。ちょっといいレストランとか安めの居酒屋だったら客単価はそれぐらいだろう。
ここでは、「お釣りで五千円をもらう客」<「五千円札を出す客」であると推定される。
たとえば会計が7,000円だった場合、「五千円札と千円札2枚」または「一万円札」を出す人が多いからだ。
ひとつは、「一万円札と千円札2枚」を出して五千円札をお釣りとしてもらうのは、少し計算がややこしいから。
もうひとつは、細かいお釣りがほしいから。飲食店なら割り勘にすることもよくある。この場合、「五千円札1枚をお釣りとしてもらう」よりも「お釣りでもらった千円札3枚+財布内にあった千円札2枚」のほうがありがたい。分けやすいから。

この仮説はまちがってないと思う。
つまり、この店では五千円札が増える一方で、減ることはめったにない。

その分のしわよせが書店にまわる。
書店で5,000円を超える買い物をする客はめったにいない。99%が5,000円未満だ。
客は飲食店で五千円札を使っていることが多いので、財布に五千円札がある可能性は50%よりずっと低い。
そこで、一万円札か千円札で支払いをし、書店のレジからは五千円札がなくなっていく。

うん、これはありそうだ。





もうひとつの謎。

書店のレジにある硬貨は、五千円札ほど顕著ではなかったが、徐々に減っていっていた。
この理由はなんとなくわかる。

自動販売機やバスの運賃など、「硬貨は使えるけど紙幣は使えない/使いにくい」状況というものがある。
こうしたところで硬貨を使う分、店頭では紙幣を使うことが多くなる。
また、世の中には小銭は募金箱に入れたり、自宅で小銭貯金をしたりしている人もいる。結果、店舗で流通する硬貨は少しずつ減っていくことになる。

ここまではいい。
だがふしぎなのは、なぜか「五円玉だけはぜったいに増えた」ということだ。
五千円札が前日より必ず減っていたのとは逆に、五円玉は前日より必ず増えていた。
書店においては、五円玉を出す客のほうがお釣りで五円玉をもらう客より多かったのだ。

これは五円玉だけで、一円玉や五十円玉は少しずつ減っていっていた。

謎だ。
書店の五円玉が少しずつ増えていくということは、どこかに五円玉が少しずつ減っていく店もあると思うのだが、それがどういう店なのかも検討がつかない。

この謎はいまだ解けない。
「こういう理由じゃないか」という推理を思いつく人は、ぜひ教えてほしい。



2017年8月1日火曜日

性格分類

【坊や】

おこりんぼ
わすれんぼ
あまえんぼ
あばれんぼう
あわてんぼ
くいしんぼう
けちんぼ
きかんぼう

【店舗】

うっかり屋
しりたがり屋
さびしがり屋
がんばり屋
のんびり屋
しっかり屋
めんどくさがり屋
めだちたがり屋
はずかしがり屋
てれ屋
わからず屋

【動物】

泣き虫
弱虫
一匹狼
天邪鬼
なまけもの

2017年7月31日月曜日

くだらないでこそ喧嘩する


ぼくは妻がいて、ということは何年か前に結婚して、結婚前に8年交際して、で、その8年交際した妻という女性こそが、じつは今ではぼくと一緒に暮らしている女性なんです。
(「その女性が、今ではぼくの妻です」というオチの話をしたかった絶望的に話が下手な人)



ということで妻とは結婚前に8年付き合ったんだけど、その間、喧嘩らしい喧嘩を一度もしなかったのね。
どっちかが立腹することはあっても、その場で「あなたのこういうところが気に入らないから直してほしい」と伝えて、相手が謝罪するなり改善案を示すなりして、引きずらないように解決してきた。
だから「これこそが大人の付き合いってもんだよ。感情をぶつけあうなんてガキのやるもんだ。ぼくらは理性的な人間だから喧嘩とは無縁だ」って思ってた。

結婚式の準備をするまでは。


誰かが「結婚式はぜったいに揉める。そこで相手の人間性がわかる。それを見て、結婚を思いとどまるかどうか決める最後のチャンスだ。だからお金が許すかぎり結婚式はやったほうがいい」っていってたけど、いやあ真理だね。誰の言葉だったかは忘れたけど、言葉の内容はちゃんと覚えている。身に染みて痛感したから。


結婚式の準備もはじめは円満に進んだ。
なぜってぼくらの価値観はきわめて近かったからね。8年も付き合って、同じものを見て、同じ言葉で笑って、同じものを避けてきたからね。相手の好きなもの、嫌いなものをよく知っている。
結婚式の準備程度で揉めたりするわけないよね。

でもさ、やったことある人ならわかるけど、結婚式ってめちゃくちゃ決めることあるんだよね。
そりゃあさ、場所とか予算とか衣装とかは大事だから、いろいろ考えて決めるよね。
でもさ、「引き出物にかけるリボンの色はどれにします?」とか「歓談中の音楽はどうします?」とか「司会者の前に飾るお花についてなんですけど……」とかすっげえ細かいことまでいちいち相談されたら、さすがにむかついてくんのね。
うるせえよ、いちいち訊いてくんじゃねえよ、人間なんだからちょっとは自分で考えろよ、とか思うわけ。引き出物のリボンの色が青でも赤でも文句言わねえよ、って。
ぼくもいい大人だから、式場の人に「うるせえよ」とは言いませんよ。その人はいい結婚式にしようと思ってがんばってくれてるんだろうしさ。でも文句を言えない分、腹の中に鬱憤がたまってくる。

どうでもいいから一応1秒だけ考えたふりして「じゃあ……赤で」とか適当に答えてたんだけど、ぼくの妻(まだ結婚してなかったけど)はまじめな人だから、ひとつひとつに真剣に考えてんの。
「テーブルクロスの色はどうします?」って言われて3パターンぐらい見せられて、クロスのサンプルを手に取って眺めて、中空を見てちょっと想像して、また別のサンプルを手に取って、また考えて、さっきのやつもう一回手に取って、そんでこっちに向かって「うーん……。どうする?」って、それだけ考えてまだ決められへんのかーい!
ってなわけでその時点でかなり腹立ってきてね。他人の結婚式行って「いい式だったねー、テーブルクロスの色も2人のイメージによく似合ってたし」「ご祝儀3万円出してあのテーブルクロスの色はないわー」って思ったことあんのかよ、って言いたくなったけど、すんでのところでこらえたのね。

もうこんなことに1秒だって頭を悩ませたくないと思って、一番左のやつを指さして「ぼくはこれがいい」って言って、決めたのね。紫のテーブルクロス。べつに茶色でもグリーンでもなんでもよかったんだけどね。

その後またあれこれ決める時間が続いてね。招待状のデザインはどれにするかとか、司会者の胸につけるコサージュはどうするかとか、心底どうでもいい決断を迫られてね、「一刻も早く終わらせたい」って思いながらいろいろ決めていってた。
そしたら妻が言った。

「さっきのテーブルクロスだけどさ、やっぱりグリーンのほうがいいな」


そんでね、もうキレちゃった。
ふだん声を荒げることとかないんだけどね。付き合って8年、一度も声を荒げたことないんだけどね、自分でもびっくりするぐらいガラの悪い声で「ハァ!?」って言葉が出た。
「ただでさえどうでもいいことにこれだけ時間使ってんのに、一度決めたことを覆す? それやってたら永遠に終わらんやん。一生テーブルクロスとコサージュについて悩みながら過ごす気か!? ふざけんなよ」
みたいなことが口をついて出た。
「一回紫のに決めたんだから、ぜったい変えない!」と宣言した。

ちっちゃい人間だな、って思うよね。
ぼくもそう思う。ていうかそのときも思った。
ちっちゃいことで怒ってんなーって自分を客観的に見ていた。どっちでもいいよって言えよ、って思ってた。たかがテーブルクロスじゃないか。
でも、たかがテーブルクロスで揉めないといけないことに腹が立った。
8年喧嘩せずにやってきたのに、最初の喧嘩がテーブルクロスの色をめぐってかよ、って。

すっごくくだらないことに腹を立てて、くだらないことに腹を立てていることに腹が立った。





で、結婚して数年たった今だからわかるんだけど、人間ってくだらないでこそ喧嘩するんだよね。
住居選びのこととか仕事のこととか子どものこととか、重要なことをめぐっては意見が食いちがうことはあっても意外と感情的な衝突にはならない。
大事なことだから落ち着いて理性的に話そう、相手の意見もちゃんと聞き入れようって気になるんだよね。

でも「牛乳をこぼしたのは誰か」「トイレのスリッパをそろえないのはなぜか」みたいな些末な問題だとそういう意識ははたらかない(どちらも我が家で大喧嘩に発展したテーマだ)。
ちっちゃな問題だからどっちが悪くてもいいからさっさと頭を下げてしまえば済む話なのに、相手に対して「どうでもいいことなんだからさっさと非を認めろよ」と思ってしまい、結果、話し合いはこじれてしまう。


結婚式は、くだらないことの集合だ。
指輪の交換もケーキ入刀も無理やりケーキ食わすやつも余興も新婦の両親への手紙も退場したはずの新郎新婦が出口で待ち構えてて美味しくなさそうなクッキーを押しつけてくるやつも、ぜんぶやらなくてもどうってことない。
しかしそのくだらないことにこそ意味があるのではないだろうか。結婚生活はくだらないことの積み重ねだ、しかしくだらないことにこそ気を付けなければならない、ということを結婚式は教えてくれるのかもしれない。



2017年7月29日土曜日

省略の美を味わえるSF風時代小説/星 新一 『殿さまの日』【読書感想】


星 新一 『殿さまの日』

内容紹介(Amazonより)
ああ、殿さまなんかにはなりたくない。誤解によって義賊になった。泣く子も黙る隠密様のお通りだい。どんなかたきの首でも調達します。お犬さまが吠えればお金が儲かる。医は仁術、毒とハサミは使いよう。時は江戸、そして世界にたぐいなき封建制度。定められた階級の中で生きた殿さまから庶民までの、命を賭けた生活の知恵の数々。――新鮮な眼で綴る、異色時代小説12編を収録。

ずっと昔に読んだ本だが、また読みたくなったので押し入れから引っぱりだして読んでみた。
星新一といえばショートショート。
ぼくは文庫だけでなく全集も持っているぐらいの星新一ファンなので、当然ながらショートショートは何度も読み返した。
星新一といえばショートショート、ショートショートといえば星新一、というぐらいに短篇のイメージが強いが、『城のなかの人』『明治・父・アメリカ』『人民は弱し 官吏は強し』『明治の人物誌』などの歴史・時代ものもおもしろいのだ。
誰も知らない昔の話をするのに妙に感情がこもっていると、「まるで見てきたみたいに書くなあ」と嘘くさく感じてしまう。
その点、星新一の平易にして理知的な文章は歴史を語るのにぴったりとあう。淡々とストーリーを説明するその語り口は、落語の状況説明部分を聞いているようで心地いい。
遠い未来も江戸時代も「誰も見たことがない」という点では一緒で、ディティールを想像力でどう補うか作家の腕が試される。じつは時代小説とSFは近い位置にあるのかもしれないね。


"省略の美"という言葉がある。余計なものをなくして、見る人の感性や想像力にゆだねる美しさのことをいう。『殿さまの日』は"省略の美"を存分に味わえる作品集だ。
へたな小説は描写が多い。書かなくてもわかることまで事細かに書く。
星新一の文章からは、感情をあらわす表現が極力そぎ落とされている。登場人物はまるで何も考えていないかのように、己の心中を語らない。でも、だからこそ読み手は想像力をはたらかすことができる。
演劇では、悲しいことを表すために大げさに涙を流したり、ときには「悲しい」とセリフで説明したりする。けれどそれはいわゆる"安い芝居"だ。涙の一滴も流さずに、声も上げずに、表情も変えずに悲しさを表現するのが一流の演出だ。

表題の短篇『殿さまの日』では、地方藩の領主のある一日が書かれている。起きて、着替えて、武道の稽古をして、家臣からの型通りの報告を受けて、書物を読んで、床に就くまで。
ほんとに何も起こらない。平々凡々たる一日。
この"つまらない一日"を、一切の感情描写を省いた文章で綴っている。そんなのおもしろいのかと思うかもしれないが、ちゃんと殿さまの退屈と諦観と幸福感と悲哀と家臣を思う気持ちが伝わってくる。殿さまが感情をいちいち表に出してたはずないしね。
まさに一流の演出。省略の美学。

時代小説なのに妙に都会的でドライな雰囲気が漂っていて新鮮だ。

 その担当の家臣があらわれ、武具庫の点検をおこない、さだめ通りの数がそろっていたことを報告する。殿さまは言う。ごくろうであった。武具はきわめて重要である。点検は念には念を入れねばならない。見落としを防ぐため、ある日数をおき、もう一回やってみる慣習があるように聞いているが、どうであろうか。
 家臣は、ははあと頭を下げる。これですべてが通じたのだ。そんな慣習など、これまではない。しかし、あからさまにそれをやれと命じると、叱責した印象を与えないまでも、相手は自分の不注意を感じかねない。すべては質問の形で、それとなく言わねばならない。わたしは事情をなにも知らないのだ。だから勉強しなければならぬ。そのための質問だ、という形をとるのがいいのだ。わたしはそれでずっとやってきた。なんでもいいから質問していると、しだいに事情がわかってくるものだ。また、そうなると、いいかげんな報告はできないと家臣たちも思ってくれる。しかし、とことんまで質問ぜめにしてはならない。家臣の説明がしどろもどろになりかける寸前でやめておく。そうすれば相手の立場も保て、つぎの報告の時は形がととのっている。やりこめるのが目的ではないのだ。


部下の顔を立てつつ的確に指示を出す方法。現代のビジネス書に載せてもいいぐらいの内容だね。
星新一は作家になる前は製薬会社の二代目社長だったからね。二代目社長だと、古株の社員のプライドを守りながら指示を出す必要があるわけで、これはその頃に身につけたテクニックかもしれないね。ま、星新一が社長になってすぐに会社はつぶれたけど。


ところで冒頭にこんな一文がある。
 その驚きで、殿さまは目ざめる。朝の六時。夏だったら六時の起床が慣例だが、冬は七時となっている。まだ一時間ほど寝床にいられる。
当然ながら江戸時代に「六時」「一時間」という言い方はない。「六ツ」「半刻」と言っていたはずだ。
わざと現代的な感覚を持ち込んでSFっぽさを出しているのかな? と思ったけど、おかしな文章はそこだけで、以降はふつうの時代小説の文体だった。
まちがえただけなのかな。




ぼくが好きだった短篇は『ああ吉良家の忠臣』

吉良義央(吉良上野介)が斬られたことにより、首をとられるとは武門の恥であるとしてお家断絶・領地の没収を命じられた吉良家。
一方、斬った側の赤穂浪士たちはよくぞ殿の仇を討ったとして町人たちからもてはやされている。世の掟を破った側が人気を博して被害者側がつらい目に遭う。この不遇な状況に憤る吉良家の忠臣の孤軍奮闘を狂歌をまじえてユーモラスにえがいた話。

忠臣蔵は江戸時代から人気だったらしいけど、掟に背いて討ち入りを果たした四十七士がよくやったと称えられ、乱心した浅野内匠頭に斬りつけられた上に後日その部下から殴りこまれるという一方的な被害者である吉良家はお家断絶。
そりゃあ忠臣からしたらやりきれないだろうな。

星新一らしいシニカルな視点だね。南極に置いていかれた犬が自力でアザラシやペンギンを食べて生き延びた"美談"を、食べられる海獣側から見たショートショート『探検隊』を思いだした。


ぼくは「ひねくれ者」と言われることがときどきあるんだけど、自分では「多角的にものを見ることができる人」と前向きに受け取っている。
くだらない話をしているときにみんなが正面から見ているものを裏から見たり下から見たり内側から見たりすると、くだらないことを思いつくことが多い。そういうものの見方は星新一の小説に教わった。仕事ではあんまり役に立たないんだけどね。


この『殿さまの日』、もう絶版になっている。
ぼくの持っている文庫本も古本屋で買ったもので、昭和58年発行だ。
星新一の小説って古びないからずっと読まれてほしいんだけどなあと思っていたら、電子書籍で手に入るようになっていた。

いい小説が細々と読まれつづける。いい時代になったものだ。殿さまも感心することだろう。



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