2017年6月26日月曜日

ぼくらと江戸っ子はべつの生き物 【読書感想エッセイ】堀井憲一郎 『落語の国からのぞいてみれば』

目次
数え年のほうがわかりやすい
昼と夜とで時間はちがう
死んだやつのことは忘れる
名前は個人のものではない
ゼニとカネは別のものである
五十両で人は死ぬ
みんな走るように歩いてる
歩くときに手を振るな
生け贅が共同体を守る
相撲は巨大人の見世物
見世物は異界の入り口
早く結婚しないといけない
恋愛は趣味でしかない
左利きのサムライはいない
三十日には月は出ない
冷や酒はカラダに悪い



落語通のコラムニストによる「落語を通して語る、現代と江戸時代の"違い"」。

ポイントは"違い"であって"比較"じゃないってこと。
どういうことかというと、そもそも比較できるようなものじゃないってのが筆者の主張。

たとえば数え年。

満年齢を数え年に換算することはできるけど、年齢の概念が今と昔ではちがうのだから換算することに意味がない、と書いてある。
 
 生まれたての赤ん坊は一歳。正月が来ると二歳。正月が来るごとに一つずつ歳を取る。それが数え年だ。
 この数え年の説明文を読むと、いつも違和感がのこる。それは満年齢が普通の数えかたで、数え年は昔の不思議な風習のように書かれているからだ。それはちがう。
 満年齢は「個人」を中心にした数えかた、数え年は「社会」からみた数えかた、そういう違いでしかない。
 戦国武将の年齢を調べてるときに気がついた。
 織田信長。
 彼は一五三四年に生まれて、一五八二年に死んでいる。
 さて、満何歳で死んだのでしょう。
 満年齢での死亡年齢を知るためには、これから信長の誕生日を調べ、殺された日を調べて、本能寺にお詣りに行って、冥福を祈って、おのれ光秀め、とひとことくらい言わないとわからないわけだ。
 本能寺の変はまだ有名だからいいですよ。調べやすい。徳川家康が天婦羅を食って死んじゃった日はいつなのか。かなり詳しい本を見ないとわからない。誕生日がわからない偉人も多い。誕生日がわからなければ、死んだ満年齢は正確にはわからない。
 つまり満年齢というのは、誕生日と死んだ日というきわめて個人的な情報にもとづくプライベートな年齢なのだ。数え年なら早い。1582-1534。信長は数え四九で死んでいる。引き算一発である。ま、引いて1足さないといけないですけどね。
 満年齢思想の背後には「まず個人が存在する」という思想がある。それは "キャラクターを持たなければいけないという病い" と連動してしまっている。

なるほどねえ。

大人になると、誕生日なんてどうでもよくなるもんね。仕事で知り合った人の誕生日なんかいちいち訊かないし。うっかり誕生日を聞いてたまたま「今日なんです」なんて言われてしまった日には、「うわ心底どうでもいい情報ゲットしちゃったよ」と思ってても「それはそれはおめでとうございます」なんて言わなくちゃいけないし、言われたほうも「30すぎたおっさんの誕生日の何がめでたいんだよ」と思いながらも「どうもありがとうございます」と言わなくちゃいけない。誰も得をしない。
生きている人の誕生日ですらどうでもいいのに、死人の誕生日なんか何の役にもたたない。せいぜい「あの子も生きていたら147歳か……」と数えるのに用いるぐらいだ。147歳は生きてねえよ。数えてるやつは何歳だよ。
命日は墓参りとか死亡推定時刻の特定に使ったりするけどね。

昔は、よほど身分の高い人以外は誕生日を意識しなかったらしい。
だから平民の出である豊臣秀吉の誕生日が一月一日なのは後から適当につけたから、とある。なるほど。
満年齢が公式に採用されるようになったのは1950年からということだけど、意外と最近だね。歳の数え方も、個人を尊重する戦後民主主義の賜物なんだね。

言われてみれば、数え年のほうが便利な気がする。競走馬は数え年で数えるらしいし(ただし生まれた年が0歳なので江戸時代の数え年とは1歳ちょっとちがう)。
「○○さんって何歳ですか?」
「30歳です」
「ほんとですか。私と同じだ。何月生まれ?」
「5月です」
「ああ、じゃあ学年でいったら私のほうがひとつ上ですね。私、早生まれなんで」
みたいなやりとりをいちいちしなくちゃいけないのはめんどくさいもんね、満年齢だったら。
学年にあわせて「4月1日になったら全員歳をとる」って制度にしたら、年齢の差=学年の差になって計算が楽になるね。





江戸時代の旅といえば徒歩の旅。
江戸から京都でも、大阪からお伊勢まででもみんな歩いた。

「たいへんだっただろうなあ」と思っちゃうけど、その感想もピント外れだと堀井さんは指摘する。
 
 歩くしかない時代には、歩く旅のことを、大変だとも、のんびりしてるとも、おもっていない。おもえないです。あたりまえだけどね。だって、歩くしかないんだもん。
 たとえばいま二十一世紀初頭、東京の日本橋から京都三条へ行くとする。とりあえず日本橋から近距離ながらタクシーに乗って東京駅八重洲口へ。新幹線のぞみに乗り、二時間少々で京都駅へ。地下鉄烏丸線で烏丸御池駅まで出て、烏丸三条から三条大橋まではバスに乗りましょう。そんなもんでしょう。オッケー。
 ただこれを三十五世紀から来た未来人に話したとして「あら。どうしてソゴンドブを使わないんですか」と言われてもどうしようもない。ソゴンドブ。いや、おれも知らないけどね。二十一世紀の人間だし。三十五世紀の移動方法は想像つかないです。でも三十五世紀の人間はソゴンドブで移動するのが当たり前になっていて、ソゴンドブって何かわからないけど、でもソゴンドブだと日本橋から三条まで四十五分で着くらしい。三十五世紀人に「ソゴンドブで移動しないとは、ずいぶん大変ですよねえ」と言われても、「ソゴンドブを使わないなんて、ずいぶんのんびり優雅な旅をなさるんですねえ」と言われても、おれはどうしようもない。
 そういうことです。


言われてみれば、移動手段も寿命も生活様式も金銭感覚もなにもかもがちがう中で、移動時間だけを比較してああだこうだいってもしょうがないよね。
もうまったくべつの生き物だというぐらいに考えたほうがいいのかもね。カタツムリが1日に数メートルしか移動しないのを「のんびりしてるなあ」ということに意味がないように。

この「異なる文化だから換算できない」という意識は、堀井さんもくりかえし書いているけど、気をつけてないと忘れちゃうよね。
ぼくらはすぐに換算してしまう。「日本円でいったら〇〇円だ」とか「人間でいったら〇〇歳だ」とか。そうするとよく考えなくてもわかったような気になっちゃう。
でも江戸の暮らしは江戸のものさしで見ないとほんとのところは理解できない。ブルキナファソのことを知りたいと思って、ブルキナファソの面積は日本の約70%で人口は約14%で物価は……と読んでもブルキナファソ人の感覚は何もわからないのと同じで。ブルキナファソってのはアフリカの国らしいです。

江戸時代の人々の感覚を知るには江戸時代に行って生活してみるのがいちばんだけど、今のところ現代日本と江戸時代の間に国交はないから、落語を聴くのがいちばん手っ取り早いのかもしれない。江戸しぐさを身につけるって方法もあるけどどうもあれはウソらしいし。いや、落語もウソだけどさ。





この本で解説されている「江戸時代の人の感覚」は、説明を読むとなるほどそうだよねとすとんと落ちるところがあって、江戸の暮らしを我がことのようにとらえればとらえるほど逆に「今の我々の暮らしってものすごくおかしなことをしてるんじゃないか」という気がしてくる。

もちろん今の暮らしのほうが圧倒的に便利になってるし自由に生きられるようになってるしいいことのほうが多いけど、学校を出て就職しなくちゃ社会からあぶれてしまうこととか、ひとりひとりが個性的に光り輝かなくちゃいけないこととか、世界でいちばんの相手を見つけて恋愛して結婚しなくちゃいけないこととか、自由を得た結果かえって不自由な生き方をしているような気がする。


繁殖適齢期になったら本人が好むと好まざるとにかかわらず周りの人たちがかかあを見つけてくる。相手が死んだらすぐに別の相手を見つける。今日食う分を稼ぐ。生きられなくなったら死ぬ。
動物としては江戸時代のやりかたのほうがずっと正しいよね。
「生きるうえでの目標」や「理想の自分像」や「運命の伴侶」についてあれこれ考えることこそが人間らしい営みだといってしまえばそれまでなんだけど、そうはいってもぼくたちは動物なんだから、動物的な生き方を捨ててしまっては滅びてしまう。
そうやって滅びつつあるのが今の日本の状況、かもね。

 
 



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2017年6月23日金曜日

言わなくていいことを


書店の社員として働いていたときのこと。

あるとき、大学生のアルバイトを事務所へ呼びだした。
ふだんはバイトに対して強く叱ることのなかったぼくだが、このときだけはつとめて厳しい顔で接した。

「なあ、おまえなんで呼ばれたかわかるか?」
ぼくはわざとぞんざいな口調で言った。

バイトくんは一瞬目を泳がせながら考えていたが、自信なさそうに首を振った。
「いえ、わかりません……」

「そうか……」
ぼくは深くため息をついた。

「この前、給与の計算をしていて気がついたんだけどな」
そこまで言ってから、立ったままのバイトくんに目をやった。おどおどとした顔をしている。

たっぷり間をとってから、ぼくは言った。

「最近よくがんばってるから、今月から時給を50円アップしようと思う。その報告です」


バイトくんは一瞬ぽかんとした顔をしていたが、やがて膝からくずれおちるようにしてしゃがみこんだ。

「ちょっとーやめてくださいよー、そういうドッキリ」

 「はっはっは。怒られると思った?」

「ぜったい怒られると思いましたよ。犬犬さん、ふだん怒らないのに今日はめちゃくちゃ怖い顔してるからすげー怖かったっすよー」

 「ごめんごめん。ちょっとしたイタズラをしたくなって」

「もー。あやうく言わなくていいことを白状しちゃうとこでしたよ」

 「え?」

「いや、何もないです」


もう少し泳がせとけばよかった。

2017年6月19日月曜日

圧倒的スピンオフ作品……!『中間管理録トネガワ』【読書感想】


萩原天晴/原作 橋本智広/漫画 三好智樹/漫画

『中間管理録トネガワ』

内容(「e-hon」より)
帝愛グループ会長・兵藤和尊の命で、債務者たちによる「死のゲーム」の企画を任された幹部・利根川幸雄!! 早速、企画会議を開く利根川を待っていたのは、受難…!! 煩悶…!! そして絶望…!! 会長と黒服の間で苦悩する利根川を描く、悪魔的スピンオフ、始動……!!

福本 伸行『カイジ』シリーズのスピンオフ漫画。
原作の連載がストップしているから場つなぎ的に連載しているのかな……と期待せずに読んだら存外におもしろかったので5巻まで一気に買ってしまった。原作は買ってないのに。
いやあ、笑った。

スピンオフが成功するかどうかの鍵として "原作に対する愛情" があるかどうかが重要なんだけど、まったく問題なし。絵柄、コマ割、セリフ回しなどどれをとってもカイジ。福本伸行本人が描いた『中間管理職トネガワ』も同時収録されているけど、何も知らされなかったらどっちがご本人が描いたものなのかわからない。

「圧倒的〇〇」「悪魔的〇〇」といった "福本節" も元々がシリアスとギャグのスレスレだから、ギャグに仕立ててもちっとも違和感がない。というかぴったりハマる。
「なっとらん…! まるで……! 手洗いとは……ただ泡を立て水で流せばいいという単純なものではないっ…!」
たいしたことは言ってないのに、あの口調で語るだけでギャグになってしまうのは原作の力か。

実はたいしたことを言ってないのにね

原作では冷徹な悪人として描かれていた利根川を、上司を立てて部下を想い組織を守ろうとする優れた中間管理職として描いているのも見事。
だめな部下にもあたたかい目を注ぎ、できる部下には少し嫉妬し、上司の前ではついいい恰好をしてしまう。そんな人間味のある主人公を中心に据えたことで、一見無個性な黒服たちも回を重ねるごとに活き活きと輝いている。
トネガワさん、いい上司だなあ。

5巻まで読んだけど失速しない。もうパロディの枠を超え、独自のキャラも増えて『トネガワ』オリジナルのストーリーが回りだしている。
原作がちっとも進まないから追い抜いてしまうんじゃないだろうか、というのが心配点だね。

ちなみに、別のスピンオフ作品 『1日外出録ハンチョウ』 も同じくらい高いクオリティでおすすめ。



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2017年6月18日日曜日

【読書感想エッセイ】 大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』

大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』

内容(「e-hon」より)
昭和6年。文士と親しく交流する女優の母と相場師の父との間に鬼六は生れた。純文学を志すが挫折、酒場経営で夜逃げ、一転中学教師を経て、SM作家として莫大な稼ぎを得る。しかし、映画製作や雑誌の発行に乗り出し破産。周囲は怪しげな輩が取巻いていた…。栄光と転落を繰返す人生は、無限の優しさと赦しに貫かれ、晩年に罹患した病にさえも泰然としていた。波瀾万丈の一代記。

人気SM小説作家として財をなしながら、趣味の映画制作や将棋雑誌の刊行に財産をつぎこんでは破産するという激しい浮き沈みの人生を送った団鬼六の生涯を描いた本。

団鬼六の人生は豪放磊落すぎて、平凡な小市民であるぼくからするとうらやましいとも愚かだとも思わない。べつの動物を見ているような気がする。

 鬼六は自分が変態エロ小説を書いていることが三枝子にばれることをただひたすら恐れていたらしい。だから家で執筆活動をすることはできない。必然的に原稿を書く場所は学校ということになる。そのような事情で、現役中学教師が学校でSM小説を執筆するという伝説ともいえる事態が発生することになる。休み時間に用務員室で書いている分にはまだよかったが、毎月の連載物なので締め切りに追われることもある。すると鬼六は教室で「今日は自習」と一言大きな声を張り上げて、自分は教壇の机に向かって『花と蛇』をやおら書きはじめる。三崎の太平洋を望む小高い丘の上の中学校で、そんな奇跡のような光景が繰り広げられるのだ。

こんなむちゃくちゃなエピソードがごろごろ出てくる。

この本を読んだ後に団鬼六の代表作『花と蛇』を読んだが、なんとも美しくて驚いた。
いや、もちろんSM官能小説だから書かれていることは下劣な内容なんだけど、なんとも不釣り合いな美しい日本語でつづられているのだ。
豪奢な帯は薄皮をはがされるようにキリキリ引き剥がされていき、静子夫人の身体はコマのように廻ってその場に顛倒する事になる。その瞬間、着物の裾前は大きくはね上って下着の裾が濃淡の花を散らしたように晒け出た。そして、その中に陶器のような光沢を持つ夫人の脛のあたりがはっきりのぞくと、女たちはさらに凶暴な発作に見舞われたように夫人の上にのしかかっていく。
(団 鬼六『花と蛇1 誘拐の巻』より)

1950年代に発表されたものだから、ということをさしひいてもこの流麗な文章はSM小説には美しすぎる。
でも文章が美しいことって、官能小説にとってはあんまりいいことじゃないような気がする。汚い言い方をすると「勃たない文章」なのだ。AVに美しい風景や感動的な音楽があってもじゃまでしかないように、官能小説に美しすぎる文章は妨げにしかならないように思う。だって美しい小説を読みたくて官能小説を手に取るわけじゃないんだもの。

でもそこはさすがというべきか『花と蛇』は、文章は華麗だけどストーリーはとことん俗悪だ。男にとってのご都合主義にあふれ、リアリティも意外性もない。
このへんのバランス感覚が見事で、団鬼六が本当に書きたかった純文学の道では成功しなかったけど大衆文学・官能小説が売れたのは、持ってうまれたエンタテインメント性のためなんだろうね。

たとえば『赦す人』にはこんな一説がある。

 ペンネームも決まり、いよいよ『花と蛇』を書きはじめるに当たり、鬼六は生まれて間もない長男秀行を背負って城ヶ島に渡ったという。そして太平洋を望む岩場に立ち尽くした。容赦のない荒波が足元の岩で砕け、何重もの白い飛沫となって散っていく姿を眺めながら、鬼六は背の乳飲み子にこう囁きかけたという。
「お父ちゃん、これからエロを書くからな」
 長男坊を背に太平洋に向かってそう誓う鬼六はこのとき三十二歳。
 足元に砕け散る波に向かって叫んでいた。
「エロ一筋でお前を育てていくからな!」
 すべてをかなぐり捨てたエロ小説家、団鬼六誕生の瞬間である。

これを読んでぼくはこう思った。
「いやいや、ぜったいに "盛ってる" やろ!」

話がおもしろすぎる
まちがいなく嘘だ。

いや、著者である大崎善生さんが嘘を書いたのではないと思う。彼は、きっと団鬼六本人から聞いたとおりに書いたのだと思う。
そして団鬼六自身も嘘をついた自覚はないにちがいない。このエピソードを何度も語っているうちに、聞き手を楽しませるために少しずつ脚色を加えてゆき、この形になったのだろう。本人もこれこそが真実だと思っていたことだろう。
そういう「相手を楽しませるために嘘をついてしまう」タイプの嘘つきという人は存在する。そして彼らに才能があれば一流のエンターテイナーになる。団鬼六はこういうタイプの人だったのだ。知らんけど。

そしてそういう人だったからこそ、いろんな人が周りに集まり、悪いやつらには利用され、各方面には迷惑をかけながらも「しょうがない人だな」と呆れられながら赦されたのだろうな。



それにしても。
大崎善生さんは他にも『聖の青春』『将棋の子』など、将棋の本をいくつか書いている。いや、将棋の本というのは正確ではない。「将棋に関わる人の本」、もっといったら「将棋に人生を狂わされた人の本」だ。
『聖の青春』では命を削って将棋に人生を賭けた棋士・村山聖の生涯を、『将棋の子』ではプロ棋士を目指しながら夢破れた男たちの姿を書いている。そして『赦す人』で書かれるのはやはり、将棋にはまって財産を投げだしてしまう団鬼六の姿だ(団鬼六は将棋そのものというより棋士に対してお金を使ったわけだけど)。

将棋というものは人生を狂わせてしまうほど魅力があるものなんだなあ。

ぼくはそこそこの将棋好きで、アプリで将棋ゲームをしたり詰将棋を解いたりはする。
だけど人との対戦は嫌いだ。オンラインの対局ですらしたくない。コンピュータ相手の将棋しか指さない。
それは、将棋で人に負けるとめちゃくちゃ悔しいからだ。スポーツで負けることの比にならないぐらい悔しい。
ひとつには、将棋は頭脳戦だということ。そして運が入りこむ余地がまったくないこと。ついてなかったな、という言い訳ができない。将棋で負けたら「おまえはバカだ」と言われているように感じる。全人格を否定されているようだ。

小学生のときは友だちと将棋を指すと、たいてい喧嘩になるか、負けたほうが不機嫌になるかで、いずれにせよ終わった後は気まずい空気になった。
高校生ぐらいになるとある程度は「負けっぷり」も意識して、負けても笑って「いやああの手はまずかったなあ」なんて余裕をかますことができるようになったけど、それでも内心はおもしろくなかった。

だからプロの棋士はすごいと思う。棋力はもちろん、精神力が。「あんな嫌な思いをする道を選ぶなんて」と思う。
強くなれば強くなるほど負けるのが悔しくなるという。遊びの将棋で負けても人間性を否定されたような気がするのだから、プロの将棋ならその口惜しさたるやいかほどだろう。

ぼくのように心のせまい人間にとって、将棋は人間とやるもんじゃない。
観戦するか、文句を言わないコンピュータ相手に「待った」をくりかえしながらなんとか勝つぐらいにしとくのがいいね。



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2017年6月16日金曜日

レトロニム


レトロニム、という言葉があることを知った。

Wikipediaには

ある言葉の意味が時代とともに拡張された、あるいは変化した場合に、古い意味の範囲を特定的に表すために後から考案された言葉のことを指す

とある。
これだけ読んでも意味がわからないけど、

  • 携帯電話が主流になったので、それまで電話と呼んでいたものを「固定電話」と呼ぶようになった
  • 新幹線ができたので、それまでは鉄道と呼んでいたものを「在来線」と呼ぶようになった

といった類の言葉、といえばわかると思う。
「白黒テレビ」「アナログ時計」「地上波放送」など、新しい技術が普及すると古いものは名前を変えることを余儀なくされる。


中にはレッサーパンダのようにひどい例もある。
レッサーパンダはもともと単に「パンダ」と呼ばれていたが、ジャイアントパンダが人気になって「パンダ」といえばジャイアントパンダを指すようになってしまったため、わざわざ「レッサー(小さいほうの)」という言葉を付けられて呼ばれるようになってしまったという。

ぼくの通っていた中学校でも同じことが起こっていた。
シマという苗字の男子生徒が2人いて、身体が大きくて喧嘩が強いほうのシマくんは「シマくん」と呼ばれ、学年でいちばん背の低かったシマくんは「コジマ」と呼ばれていた。
レッサーパンダの件といい、つくづく弱者には厳しい世の中だ。


しかし、おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
どんなものであっても繁栄は長くは続かない。

自動車が普及したことで、それまでただ単に「車」と呼ばれていたものは「人力車」になってしまった。
しかし今ぼくらが「車」と呼んでいるものだって、きっと近いうちに「ガソリン車」とか「手動操縦車」とか「タイヤ車」とか呼ばれるようになるのだろう。

世の中が便利になることはありがたいことだけど、ちょっと寂しい気もする。
年寄りが「昔はよかった」というように、ぼくも歳をとったら「有人店」で「経口摂取食品」や「液体酒」を飲み食いしていた日のことを懐かしむことだろう。

だがノスタルジーで世の中の変化は止められない。
古いものは追憶の彼方へと消えてゆく。

もっと先の人たちにとっては、「太陽系地球」で「肉体生活」をしていた「ホモサピエンス人」のつまらない感傷など、想像することすらないだろう。