2017年6月10日土曜日

ぼくが新聞をとりたいけどとらない理由



ぼくは新聞をとっていない。

でも新聞を読むのはけっこう好きで、実家に帰ったとき、病院の待合室や喫茶店に新聞があればほぼ必ず目を通す。
ネットでニュースを見られる時代になっても、やっぱり紙で読むほうが頭に入ってくるし。

じゃあなぜ新聞を購読しないのかというと、
  • 毎日読まなきゃいけないのがしんどい
  • ゴミ(古新聞)を捨てるのが面倒
  • 月額4,000円も払いたくない。もうちょっと安くしてほしい
ってな理由がある。

これって、新聞を週刊にしてくれれば解決するのにな。

毎週土曜日に発行。
その週にあったニュースのダイジェストと、少し深めの解説と社説。
これで2,000円なら購読する。

そもそも今の時代、新聞が毎日届けられる必要ってそんなにないと思う。
どうせ速報性ではネットやテレビには完敗なんだし。
テレビ番組表はテレビで見られるし。
これだけ情報があふれてる今、毎日1時間かけて新聞を熟読する余裕はない。
週に1回の発行にして、その分じっくり読ませる記事を書いてくれるほうがありがたい。


ぼくが新聞をとりたいと思ってるのにはもうひとつ理由があって、ときどき新聞紙がほしくなるから

娘の散髪をするときに下に敷く大きい紙がほしいとか、
台所の油汚れを拭きたいとか、
窓掃除をしたいとか、
濡れた靴を乾かしたいとか。

そういう「大きくていらない紙」ってのはけっこう貴重なんだよね。
週刊発行にしてくれたら、「届く量」と「古新聞として使う量」のバランスもとれるから、わざわざ古紙回収に出す手間も減ってちょうどいいんだけどね。



2017年6月7日水曜日

歴史を変えた読書感想文

読書感想文の宿題が好きだった。
だけど、生来のへそまがりの性格と本に対する偏執的な愛情がじゃまをしてうまく書けなかった。

高校2年生のとき、夏休みの宿題で読書感想文が課された。
周囲は「高校生にもなって読書感想文かよ」と愚痴をこぼしていたが、ぼくは燃えていた。
すごい感想文を書いてやるぞ、と。

当時、ぼくは月に30冊くらい本を読んでいた。
読書家としては「まあまあ多い」ぐらいのレベルだけど、井の中の蛙だった高校生は「こんなに本を読んでる高校生なんて他にいないんじゃないの?」と思っていた。

そんな読書家であるぼくが人と同じような読書感想文を書くわけにはいかない!





高校1年生のときは対談形式で書いた。
2人の登場人物をつくりあげ、彼らが1冊の本について語るという趣向だ。
今にして思うととりたててめずらしいスタイルとも思わないが、当時のぼくは「なんて斬新な手法なんだろう!」と思っていた。
2人の登場人物には詳細な背景を設定し、設定の新奇さを際立たせるため題材にはあえてオーソドックスな夏目漱石を選んだ。
「これはすごい。読書感想文の歴史を変えるかもしれない」と、自信満々で感想文を提出した。

まったく反響はなかった。
国語の教師は何も言わなかったし(たぶん読んでなかったと思う)、『文藝春秋』から「貴君の読書感想文を掲載したいのだがよいか」という連絡も来なかった。



だがぼくはくじけなかった。
翌年は、前年の反省を活かして『架空の本の読書感想文』を書くことにした。
対談形式で書くなんて表層的なことでしかない。根幹から読書感想文を揺るがすようなものを書かなくては!

もちろん、架空であることは誰にも伝わらない。
国語教師だって題材となっている本をいちいち読むわけじゃないから、ぼくの書いたものが架空の小説の感想だということには永遠に気づかない。
完全に自己満足だったが、ぼくは情熱に満ちあふれていた。
「誰にも伝わらない孤独な闘いを通して読書感想文の虚無性を描く、架空の読書感想文を書くという行為こそが痛切な風刺文学だ!」

架空の小説家による架空の小説。"風明社出版" という架空の出版社までつくりあげた。
誰も知らない、ぼくの頭の中にすら存在しない小説。


何を書いてもいいのだからかんたんだな、と思っていたが、架空の本の感想文を書くのは思っていたよりもずっとたいへんだった。
なにしろとっかかりが何もないのだから。
仕方ないので、ある程度架空の本のストーリーを作り、自分で作ったストーリーに対する批判をこめたスタンスで書いた。
何度も書いては直し、消してはまた書いた。
そして1週間後、どうにかこうにか架空の読書感想文を書き終えたぼくは思った。「ふつうに書いとけばよかった……」と。


文芸誌からの「歴史を変えた読書感想文を掲載させてください」という依頼は、まだない。


2017年6月6日火曜日

部活

「おまえらやる気あんのか!?」

「おまえらって言いましたけど自分自身のことはともかく他人の内面なんかわかるわけじゃないじゃないですかだいたい自分の内面だってわかるわけないし答えたところで検証しようがないんだから答えるだけ無意味だしそもそも何のやる気なんだって話だしやる気なんて数値化できるもんじゃないけど仮に数値化したとして0か100の間のどこにあったらやる気あるといえるのか定義されてないし仮に70以上がやる気あるとしてもふだんは90のやつが今日は75だったらそれやる気あるといえないと思うしじゃあ相対化して平常の125%以上だったらやる気あると定めたとしたら平素はやる気出さないほうがいってことになっちゃうしやる気があれば結果を出さなくても評価するってことにしたらそれこそ甘えなんじゃないかと思うし結局おまえらはやる気がないという結論に落としこみたいことが見え見えなわけでそれだったらおまえらにはやる気が感じられないっていう主観的な話として提示すれば身体的コミュニケーションの齟齬の問題として何らかの具体的解決を図れる可能性はあると思うし……」

「うわすげえやる気あった」


【読書感想文】 スティーヴン・ミルハウザー 『ナイフ投げ師』

スティーヴン・ミルハウザー/著
柴田元幸/訳
『ナイフ投げ師』

内容(「e-hon」より)
自動人形、空飛ぶ絨毯、気球飛行、百貨店、伝説の遊園地…ようこそ“ミルハウザーの世界”へ。飛翔する想像力と精緻な文章で紡ぎだす、魔法のような十二の短篇。語りの凄み、ここに極まる。表題作『ナイフ投げ師』でO.ヘンリー賞受賞。

ファンタジー小説、なのかな……。

本屋で「変なタイトルの本だな」と思って手に取った。
作者のことは何も知らない。
新書サイズだったのではじめは小説とすら思わなかった。ヨーロッパに実在した職業について書かれた本なのかな、と思った。


人生において「うまく解釈できない」ことってある。

ぼくの場合、小学1年生ぐらいのときの体験がある。
布団で寝ていたら誰かが部屋に入ってきた。顔は見えない。男だということだけはわかる。男は部屋の片隅にあったタンスをごそごそと探っている。
直観的に「これはお父さんじゃない」と思った。「たぶん泥棒だろう」と思ったが、ぼくは何も言わずにじっと見ていた。こわいとは思わなかった。
男は黙って部屋を出ていった。
……という記憶。

後から考えると泥棒とは思えない。行動が大胆すぎる。
寝るときは常夜灯をつけていたから暗くて顔が見えないというのもおかしい。
たぶん夢か空想だったんだろう。
でも夢とは思えないたしかな実感があった(これはもう感覚としか言いようがない)し、今でもしっかりと覚えている。

この記憶は、今でもぼくの中に「うまく解釈できないこと」として残っている。



そういう「うまく解釈できないこと」を集めたような短篇集。


スリルと狂気に満ちた見世物を見たときに感じる自分の中の狂気にとまどう『ナイフ投げ師』。

久しぶりに会った友人は大きな蛙を妻にしていたが、何食わぬ顔をしてその場をやり過ごそうとする『ある訪問』。

大人に隠れて夜中に集まり、けれど何もしようとしない少女たち。彼女らの目的は?『夜の姉妹団』。

真夜中に女の子と遊ぶ夢か現実かわからない体験『月の光』。


夢幻のような感覚の小説が並ぶ。
本を読んでいるのに、白昼夢でも見ているような気分になる。

ファンタジー小説と呼ぶのをためらってしまうのは、幻想的でありながらも「味わったことがあるような感覚」があるからだ。
この感覚は、どこかで体験したことがある。でもいつどこでかは思いだせない。
もどかしい。そして懐かしい。

いつか見た夢 のような味わいの短篇集だった。


中でもぼくが気に入ったのは『新自動人形劇場』。

精巧かつ自動で動く人形による劇場が流行している未来。
人形の精密さはもちろん、観客の様子や人形職人の生活を丹念に描写することによって、見たことのない自動人形劇場の魅力がありありと伝わってくる。
どんどん精巧さを競った結果に原点回帰した朴訥な自動人形が復古するという流れもいかにも "ありそう" で、ほんとうに自動人形劇場が流行った時代があったのかな? という気持ちになる。
この説得力あふれる筆致は唯一無二のものだなあ。


小説って人物を描くことが多いけど、ミルハウザーの小説にはあまり「個を持った人物」が出てこない。ストーリーも起伏豊かとはいいがたい。
理想的な百貨店を描写した『協会の夢』、
斬新かつ進化を遂げつづける遊園地の顛末をつづった『パラダイス・パーク』、
地下道のある町を落ち着いた筆致で語る私たちの町の地下室の下』など、
「人」よりももっと遠い視点で「場」や「状況」を見つめた作品が多い。


小説を読んでいてこんなことを思うことはめったにないんだけど、短編映画にしても雰囲気豊かな名作になりそうな作品集だなあ。



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2017年6月2日金曜日

多くの人に読んでもらいたいけど読まれるのが怖い


ブログを書く動機っていろいろあると思うけど、基本的には以下の2点に尽きると思う。

  • 書きたい
  • 読んでもらいたい

すごくシンプルだけど、まあこういうことでしょう。
「お金を稼ぎたい」で書く人も、分類すれば「読んでもらいたい」だよね。読んでもらわなきゃお金にならないんだから。


ぼくは他の場所でブログを書いていたのでもう10年以上書いているけど、最近になって「書きたい」と「読んでもらいたい」のバランスをとるのって難しいなあと思う。

せっかく書くからには読んでもらいたい。
誰にも読んでほしくないんだったら日記に書くわけだし(ちなみにぼくは20年ずっと日記をつけつづけている)。


ぼくのブログの読者は多くないけど、書いた内容によっては急に人が集まることがある。
多くの人に読んでもらうのはうれしい。でもちょっと困る。
批判的な意見も多く集まるからだ。

それが1%だったとしても、1万人に読まれたら100人から批判されることになる。
これがつらい。なかなか慣れない。
1人に批判されるだけだったら「世の中には変なやつもいるね」とスルーできるけど、100人に非難されたら世界中から石をぶつけられているような気分になる。

コメントとかいちいち見なきゃいいじゃんと思うかもしれないけど、やはり読んだ人のリアクションは気になるから見てしまう。


結局、虫がいい話だけど「自分の書いたことを好意的に受け止めてくれる人だけに読んでほしい」ってのが本音なんだよね。
そんなことはありえないってわかってるんだけど、それを望んでしまう。

Facebookとかだとそれに近いことができるよね。良ければ「いいね!」だし、悪くてもふつうはいちいち批判しないし。
だからFacebookは居心地がいいんだろうね。
ぼくも「ぜったいに否定されたくないこと」はFacebookに書くし。家族のこととか。

でも一方で「そんな生ぬるい環境にいたらだめだ!」という思いもあって、Facebookだけに安住の地を求めることはできないんだよねえ。