2017年5月11日木曜日

子を持って はじめてわかる ありがたみ  借りて返せる 公共図書館


子を持って はじめてわかる ありがたみ
借りて返せる 公共図書館


しょうもない短歌を詠んだけど、図書館ってほんとにありがたいなあってつくづく思う。
子どもができてから。



正直、子どものえほんを読むようになるまでは図書館のことはちょっと否定的に見てたんだよね。

ぼく自身、中学生になってからは古本屋に入りびたってたこともあり、
「本は借りずに買って読まなきゃ血肉にならない。読者にとっても著者にとっても」
って思ってた。

「図書館が出版業界の経営を圧迫してるんじゃないか」とも。
(これはたぶん逆で、図書館はだいぶ出版業界を支えている。図書館で本を借りる人の多くは図書館がなくなっても買うようにはならないし、価値はあるけど図書館にしか買ってもらえない本も多い)



ぼくは趣味にも服にも食べ物にもお金をつかわない人間だから、本ぐらいにはお金をつかおうと思っていて、本屋やAmazonで目についた本は値段も見ずに買うようにしている。
(ただし学術系の本だけは注意している。めちゃくちゃ高額な本もあるから)

しかし子どもにえほんを読むようになってからは、そうも言ってられなくなった。

娘にも本好きになってほしいから毎週のように本屋に連れていって
「どれがおもしろそう?」
なんて選ばせていたんだけど、えほんって高いよね。
1,000円ぐらいはふつうで、大判のえほんやしかけえほんだと2,000円、3,000円は平気でする。
「どれでも好きなの選んでいいよ」といった手前、娘がうれしそうに持ってきたえほんを「いやこれはお財布に厳しいから……」といって棚に戻すのはしのびない。

えほんは短い。
2,000円で買ったえほんも5分で読みおわる。
「この5分で2,000円か……。時間単価24,000円って風俗店かよ……」
ってみんな思うよね。思わないか。

娘とえほんを読む時間はプライスレスだが、24,000円/h は高すぎる。

あとえほんは場所をとる。

ただでさえ狭い我が家なのに、えほん棚はどんどん増殖してゆく。

えほんのために広い家に引っ越さなくてはならなくなる。

えほん代と引っ越し代と家賃で破産する!



破産を回避するべく、近所の図書館に子どもを連れていった。

図書館に行くなんて学生のとき以来だ。



子どもは大喜びだった。

えほんの数が本屋よりずっと多いし、なによりすべてのえほんが子どもでも手に取れる高さに置いてある

これすごく重要。

えほん売場の充実している本屋でも高い書架が並んでいることが多い。
子どもにとっては "手の届かない場所にある本" は存在しないのと同じだ。


あと表紙を見せて陳列されているえほんが多いのも子どもには魅力的だったようだ。

以前も書いたけど(【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』)、
字が読めない子どもにとって背表紙しか見えないえほんはほとんど視界に入っていない
ジャケットだけで一度も聴いたことのないCDを選べと言われるようなものだと思う。

書店だと売場面積あたりの売上を考えなくてならないから、どうしても高い棚で陳列してしまうし、背表紙を向けて1冊でも多くのえほんを並べてしまう。


ぼくも書店で働いていたときは高い棚にえほんを並べ、書架に背表紙を向けて並べていた。
高い位置に置いたら子どもに届かないのはわかっているけど、子どもはお金を使ってくれないのだからしかたない。

もっといったら子どもが読むと商品がめちゃくちゃ傷むので、「えほんは全部高いところに展示して子どもには一切さわらせない本屋」が理想だとすら思っていた。
だって子どもがどれだけえほんを散乱させて、ときにはびりびりに破いたとしても、そのまま立ち去る親が多いんだもの。

えほんをめぐっては書店員と子どもの利害は対立する。



図書館は売上を考えなくていいから、ぜいたくにえほんを陳列している。

ぜんぶ低い棚に入っているし(大人にとっては選びづらいぐらい)、表紙を見せてあるえほんも多い。

子どもにとっては「ぜんぶ自分で手に取って選べるえほん」だからうれしくないはずはない。


なによりうれしいのはお金を気にせず本を読めることだ。

ぼくは「本にはお金を出すべき」と思っているので、学術書を借りるとき以外は図書館は利用してこなかった。
(その考えは今でも変わっていない。えほんを借りるついでにぼくが読む本も借りることはあるけれど、「エンタメ作品」「出版されて間もない本」は借りないことにしている。それらは著者のためにお金を出して買うべきだと思っている)


えほんは、大人向けの本よりずっとお金を食う。
いくら本にお金を使いたくても限度がある。

子どもと書店に行くと「2冊までね」なんて制限を設けて選ばせるんだけど、図書館だとそれをしなくていいのがうれしい。
うちの近所の図書館は1人15冊まで借りられる。しかも0歳児から市民権が与えられているので娘と行けば30冊まで借りられる。

本は浴びるほど読んでほしいので、週末に10冊ぐらい借りて毎晩1~2冊ずつ読んでいる。


冒頭で
「子を持ってはじめてわかるありがたみ 借りて返せる公共図書館」
という名歌を紹介したけれど、
この「返せる」という部分が重要だ。

えほんは場所をとるので「返せる」ということがありがたい。
「無料であげます」だったら、毎週10冊なんてとてももらえない。



えほんは図書館で借りるようになったけど、書店で子ども向けの本を買わなくなったわけじゃない。

今でも月に1回ぐらいは児童書コーナーに行っている。

なぜなら図書館には一部の本がないから。



図書館には、しかけえほんがない。
飛び出すえほんとか、さわって遊ぶタイプのえほん。
その手の本は破れやすい、汚れやすいので置かないのだと思う。

当然のことながら、めいろとかぬりえとかの書きこむ系の本もない。

くもん出版とか学研とかが出しているひらがなドリルとかも置いていない。

そういった本を書店は買い、読み物のえほんは図書館で借りる。
うまく使い分けができていると思う。




図書館って、圧倒的に近い人が有利だよね。

今ぼくは歩いて5分のところに図書館があるから毎週通ってるけど、遠くだったらたぶん行ってない。
車や電車に乗ってまで行くのはおっくうだし。

今までほとんど利用したことがなかったのは、図書館の近くに住んだことがなかったから、というのも大きい。

図書館の場合、「近くまで寄ったから」という理由だけでは借りに行くことができない。
なぜなら返却のことも考えないといけないから。

ぼくの住む町の図書館は返却期限が14日後なので「14日以内に返しにこられるだろうか」ということを考えて借りないといけない。
これが遠くに住んでいる人からすると大きなハードルになる。

図書館の近くに住んでも遠くても住民税はいっしょなので、考えてみればずいぶん不公平だ。
ぼくなんか月間40冊くらい本を借りてるわけで、これをもし買ってたら5万円くらいになっている。
近くに住んでいるおかげて月5万も得してる。いいんだろか。図書館の遠くに住んでいる人にゼリーとか贈らなくていいんだろか。


遠近による不公平さを埋めるために移動図書館なんてのもある。
本をいっぱい積んだ車が各地をまわるやつだ。

でもあそこにある本は図書館の蔵書のごくごく一部にすぎないし、借りる日も返す日も細かく定められていてすごく不自由だ。

それにぼくだけかもしれないけど『ショーシャンクの空に』で図書係の囚人がカートに本をいっぱい乗せて独房を巡回するシーンがあったから、「移動図書館で本を借りるのは囚人」というイメージがぼくの中にはある。

そんな理由もあって(?)、移動図書館では遠近格差の1/10も埋められない。

せめて「返却は近くのコンビニでしてもいい」ぐらいになったら多少マシなんだろうけどね。



ぼく自身本を読むのが好きだ(というより何か読んでないと落ち着かない)から、娘にも本を好きになってほしい。
寝る前に娘が「お父ちゃん、これ読んでー」とえほんを持ってくるのはすごくうれしい。

でも正直「めんどくさいな」と思うこともある。

早く寝たいときもあるし、なにより「またこの本かよー!」ってのがいちばんつらい。

子どもは同じ本をくりかえし読んでもらいたがるけど、同じ本を毎日のように読まされるのはほんとうに苦痛だ。
もう一字一句おぼえているのに、それでも子どもは読んでもらいたがる。

「父親が読んでくれる、という行為を欲しているのであって本の内容自体はどうでもいいのでは?」
と思い、えほんを読むふりをしながらそのとき読んでいた『予想どおりに不合理』って本を読み聞かせてみた。
そしたらすぐに「わかんないよー。わかるのにしてー」とクレームを入れられた。
ちゃんと聞いているのだ。



図書館でたくさん本を借りたら、毎日ちがうえほんを読むことができる。
これなら大人も楽しめる。

えほんを読むのが苦痛なときもあるけど、20年後に
「1時間24,000円払えば、あなたの娘が3歳の時代に戻っていっしょにえほんを読むことができます」
と言われたら迷わずに払うだろう(そのときよほどお金に困っていなければ)。
それぐらい価値のある経験をする機会を、今は与えられているのだ。

娘が父といっしょに本を読んでくれるのはあと何年だろう。

この貴重な時間を少しでも無駄にしないよう、まだしばらくは図書館様のお力を貸していただこうと思う。




2017年5月9日火曜日

【読書感想】会ったこともない人の借金を押しつけられる制度 / 吉田 猫次郎 『「連帯保証人」 ハンコ押したらすごかった、でもあきらめるのはまだ早い! 』



吉田 猫次郎
『「連帯保証人」 ハンコ押したらすごかった、でもあきらめるのはまだ早い! 』

商品内容(e-honより)
住宅ローン、事業資金の融資、遺産相続から賃貸住宅まで。お金や住居を借りる際について回る「連帯保証人」という制度。大きな責任を負う危険性はほんとんど知られておらず、2011年現在、連帯保証人に一度でもなったことのある人は、全国の1000万人以上いると推察されています。その何割かは、おそらく既に地獄の苦しみを味わっています。著者は数多くの連帯保証人問題に取り組んでおり、自身も被害者の一人。多くの体験談と事例を挙げて連帯保証人制度に警鐘を鳴らすとともに、問題に巻き込まれた際の解決策を伝授する一冊です。

吉田 修一『怒り』 を読んだときに「親父が連帯保証人になったせいで息子の自分まで多額の借金を背負わされて……」という記述が出てきた。

え? そんなことある?

だって連帯保証人って時点ですでに他人なのに、さらにその息子にまで借金が押しつけられるなんて……。

吉田修一、連帯保証人制度のことをろくに調べずに書いたんじゃないの?

って思ってこの本を読んでみた。


 恐ろしいことに、保証債務は相続されます。たとえば、あなたのお父さんが他人のためにひっそり連帯保証人になっていたら、お父さんが亡くなった後、その連帯保証契約はあなたやあなたの兄弟など、法定相続人に相続されてしまいます。
 相続人は、相続開始のときから、被相続人の財産に属した一切の権利・義務を承継します(民法896条)。また、保証債務も相続の対象になると解釈されています。
 これらマイナスの財産は、プラスの財産と違い、遺産分割協議書で相続人を自由に選ぶことができず、法定相続分に従って相続することになります。日頃から、自分の法定相続人が誰なのか、よく認識しておく必要がありますね。
「知らない債権者が突然やってきた!」「よく聞いたら、死んだ父が他人の連帯保証人になっていて、その人が自己破産したらしい。それで法定相続人である僕たちのところに債権者が……」と、そんな悲劇は後を絶ちません私は数え切れないほど、連帯保証人の相続人からつらい話を聞いてきました。


吉田修一先生、ごめんなさい。あるんですね……。

「相続放棄」という手続きをすればいいらしいんだけど、それをしなければ借金が、それも赤の他人の借金が突然自分にのしかかるということが起こりうる。

会ったこともない人の借金を肩代わりさせられるなんて、どう考えてもこの制度おかしくない?


そういえばぼくの父親も「家を建てるときに、同僚とお互いの連帯保証人になった」と言っていた。

あの連帯保証は今も有効なんだろうか。

怖くなってきた……。今度会ったときに訊いてみよう……。



さらに連帯保証人には、もっとむちゃくちゃな制度があるんだとか。

 私は26際のサラリーマン時に初めて親の連帯保証人になり、当初は500万円程度から始まりましたが、いつのまにか私の知らないところで追加融資されており、私はそれに対して最高1800万円まで連帯保証するという取り決めになっていたことがあります。こういうのを(連帯)根保証といいます。
 根保証は、たびたび借入と返済を繰り返す短期借入金などの保証人になるときに手続きの手間が省けて便利な面があります。いちいち融資のたびに保証人を呼ばなくても、上限だけをいくらと決めておいて、その範囲内でなら何度融資を繰り返しても保証人としての効力は生きているというのが根保証です。反面、根保証の仕組みをよく知らないまま保証人になってしまうと、私みたいに500万円の保証人になっただけのつもりがいつの間にか1800万円も保証していたということにもなりかねません。なお、根保証には極度額と有効期限が定められています。有効期限を過ぎて更新がないと、根保証の「根」がなくなり、残債務に対して連帯保証を追うのみとなります。
 包括根保証はもっとひどいものです。これは2005年4月施行の民法一部改正により今はなくなりましたが、極度額も有効期限も決まっていない無制限な連帯根保証のことで、信じがたいことに、2004年以前までは日本中の銀行で普通に使われていました。

「500万円だけなら」と思って連帯保証人になったら、自分の知らないところでその借金が1800万円になっているってことだよね。

おそろしすぎる……。

しかも包括根保証だと限度無制限ってことだから、「知らない間に何億円もの借金の連帯保証人にされている」ってこともありうるわけだよね。

ぜったいに連帯保証人にはなるもんか!



この本の作者も書いてるけど、連帯保証人になることには何のメリットもないんだよね。

自分は1円も借りないのに、人生を狂わされるほどの借金を背負わされることがある。

「いい人のほうが損をする」こんな制度、早くなくなってほしいなあ。



 その他の読書感想文はこちら


【DVD感想】『カラスの親指』





『カラスの親指 by rule of CROW's thumb』(2012)

内容(Amazonビデオより)
悲しい過去を背負ったままサギ師になったタケ(阿部寛)と、成り行きでコンビを組むことになった新米サギ師のテツ(村上ショージ)。そんな2人の元に、ある日ひょんなことから河合やひろ(石原さとみ)と河合まひろ(能年玲奈)の美人姉妹、それにノッポの石屋貫太郎(小柳友)を加えた3人の若者が転がり込んでくる。彼らもまた、不幸な生い立ちのもと、ギリギリのところで生きてきたという。これをきっかけに始まる他人同士のちょっと奇妙な共同生活。やがて、タケが過去に起こしたある事件が、彼らを一世一代の大勝負へ導くことになるが、この時は誰一人、それを知る由もなかった…。社会のどん底で生きてきた5人の一発逆転劇。そして驚愕の真実が明かされる…。

Amazonプライムで鑑賞。
道尾秀介の小説を映画化したもの。
詐欺で悪人から大金を騙しとる、っていういわゆる「コン・ゲーム」の王道のようなストーリー。

コン・ゲームって、小説だとジェフリー・アーチャーの『100万ドルを取り返せ!』とか伊坂幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』、映画だと『オーシャンズ』シリーズや『ラスベガスをぶっつぶせ!』なんかが有名だね。

そういう作品をいくつか見ているので『カラスの親指』も

「予想外のハプニングがあり、失敗したかにみえてもじつはそれも計算通りで、最終的にはうまく金をとるんだろうなー」

と思ってたらまさにそのとおりの展開だった。

……と思いきや、もうひとひねりあった。


だまされたー!
と気持ちよく叫びたいところだけど……。

んー、この展開はいただけない。

完全にやりすぎ。ご都合主義が過ぎる。
「最後に大どんでん返し」をやりたいあまりリアリティを捨ててしまった。

「たまたまうまくいった」の10乗みたいな確率のストーリーを「全部私の筋書き通りです」って言われてもなあ……。

さらっと「当たり馬券を用意してただけです」とか言ってるけど、どうやって当たりの万馬券を用意するんだよー!
これは一例だけど、ほかにも穴だらけだった。

しかも無駄金使って大芝居を打つ動機が弱いし。
このへん、原作小説ではちゃんとつじつま合わせてるのかな?

一応ちゃんと伏線は張ってあってフェアではあるけどね。

でもフェアだったらなんでも許されるわけじゃないぜ!

2時間40分もある長編映画だったけど、無茶などんでん返しを入れるぐらいなら、2時間ですっぱり終わってほしかった。

終盤まではけっこう楽しめただけに残念。



冒頭の競馬場のシーンはよかったなあ。

詐欺師3人の騙しあい。

あのシーンがいちばん「おお!」ってなった。



村上ショージの演技が笑っちゃうぐらいへただった。

「ぱっとしない詐欺師」の役だからへたでもあんまり気にならなかったんだけど、セリフが聞きとれないところも。

ラストの重要なセリフまで棒読みだったけど、あそこで豹変してシリアスな演技をしてたら全体の印象も大きく変わったんだけどな……。



時間がたっぷりあるのに、セリフで説明してる箇所が多くて疲れてしまった。

阿部寛が聞かれてもいないのに自分の過去をべらべらしゃべる。
あまりにあけっぴろげだから「これも嘘なんだろうな」と勘ぐっていたら、全部ほんとだったのでびっくりした。

詐欺師なのにオープンすぎる!
しかも隠したい過去なのに。

そのへんが「詐欺師として一流にはなれない」という人物描写なのだとしたらアリだけど、たぶん何も考えてないだけ。

原作小説の地の文で説明してることを、何も考えずにセリフにしちゃったんだろうなー。



公開時のキャッチコピーは

「衝撃のラストには、衝撃のウラがある。」

だったそうだけど、そろそろこういう

「驚愕のラスト!」
「ネタバレ禁止! あなたもきっと騙される」

みたいな映画、やめにしない?

あと「映像化不可能と言われた〇〇がまさかの映画化!」も。
(『イニシエーション・ラブ』とか『アヒルと鴨のコインロッカー』とか)

中にはよくできているものもあるけどさ。

でも監督の自己満足に思えちゃう。

よく映像化したなーとは思うけど、でもべつに映像化する必要なかったんじゃない?


「観客をだますタイプの作品」って映像には向いてないんだよね。

小説だと
  • 「読者はすべての文を読む」という了解があるので伏線やトリックが見過ごされにくい
  • すべてを描写する必要がないので、都合の悪い情報は隠すことができる
  • かんたんに読み返せるので「あーそういうことか」って思ってもらえる
という利点があるから、自然に、かつフェアに読者をだますことができるんだよね。

でも映像作品は
  • 画面の情報量が多いので伏線の提示がさりげなさすぎると観客に気づかれない
  • 読者に与えたくない情報まで画面に映ってしまう
  • かんたんに見返せないので、観客が「そんな伏線あったっけ?」ってなる
こういう事情があるから、読者をだますタイプの作品には向いてないと思うんだよね。
(難しいからこそ『シックス・センス』のようにうまくはまったときは衝撃も大きいんだけど)

「やってやれないことはない」ぐらいだったらやらないほうがいいと思うんだよなあ。

映画には映画の長所があるんだからさ。

小説では表現しづらいスピードとかリズムとかスリルとかを表現するのには向いてるんだし。

作品ごとに適したメディアは違うから、無理に映像化・アニメ化・コミカライズ・ノベライズしないほうがいいと思うなー。

2017年5月5日金曜日

なぜバイクはかっこいい(とされるん)だろう?


バイクのかっこよさがわからない。

男の50%はバイクを見て「マジかっこいいぜ」と言い、残りの50%はぼくのようにバイクのかっこよさがわからない。たぶん。

洗濯機を見ても
「うおーこれマジいかす洗濯機だぜ!」
「あのマシンまじシブいっすねぇ」
なんて思わないように、
バイクを見ても「大きいな」「高そうだな」以上の感想は出てこない。
「大きくて高そう」なバイク



ま、それはべつにいい。

バイク愛好家を否定したいわけじゃない。


話は変わるけど、ぼくは鍵が好きだ。

「うわ、この鍵かわいいなあ」とか
「引っ越す前の鍵のほうがエロチックでよかったな」とか思う。

自分でもヘンだと思うし、この嗜好を他人に理解してもらおうとは思わない。

理解されたいとは思わないけど否定されたくはない。

だからバイクの良さも自分が理解できないからといって否定するつもりはない。


多くの人がバイクをかっこいいと言っているからには、バイクにはかっこよさがあるんだと思う。

バイクのかっこよさをぼくも理解したい。

いいものをたくさん知っているほうが人生は愉しい。



まず、思いつくのは「速い」ということがある。

速いものはかっこいい。

多くの男の子は新幹線に夢中になるし、ウサイン・ボルトもチーターもかっこいい。

洗濯機の回転はそんなに速くない。時速にしたら20kmぐらいじゃないかな。知らんけど。

だからバイクはかっこよくて洗濯機はかっこよくない。


しかもバイクは重い。100kgを超えるものもめずらしくない。

力 = 重さ × 速さ

速くて重いバイクは大きなパワーを持っている。

パワー。これはかっこいい。

[パワー] は、[マッハ] [ターボ] [バリアー] に次いで、小学3年男子の好きな言葉第4位だ(2017年 ぼく調べ)。
ちなみにマッハもターボも速さに関する言葉だから、実質パワーが1位といってもいい。

"強いはかっこいい"
これに異論を唱える人はいない。
  • バイクにはパワーがある。
  • パワーはかっこいい。
  • だからバイクはかっこいい。
この三段論法、一見スジが通っているように思える。

でも、速いのはバイクだけじゃない。

バイクが速いといったって、じっさいに走るスピードはせいぜい時速100kmぐらいだ(理論上はもっと出るのかもしれないけど)。

軽自動車だって在来線の電車だってそれぐらいのスピードは出る。しかもバイクよりずっと重い。

でも、軽自動車や電車はバイクほど「かっこいい」と言われない。

パワーでいったらバイクよりずっと大きいのに。



バイクにあって軽自動車や電車にないものはなんだろう、と考えてみてひらめいた。

"不安定さ" じゃないだろうか。


バイクは不安定だ。

すぐに倒れそうに見える。このあやうさこそがバイクの魅力じゃないだろうか。


あやういものはかっこいい。

マフィア一味にも、死線をくぐりぬけた戦士にも、結核を患っている少年にも、あやしい魅力がある。


死と隣り合わせのものがかっこよく見えるのにはちゃんと理由がある。

死のすぐ近くに身を置くというのは、裏返せば「それでも死なない」という強い生命力の証明になるからだ。


パワーが大きくて不安定。

これぞバイクのかっこよさの理由だ。


ということは。

めちゃくちゃ回転が速くてときどき爆発する洗濯機を作ったら、

「うお、このマシンまじかっけー!」

と言われるかもしれないね。

2017年5月4日木曜日

ぼくの考えた地獄



鋭いかぎ爪のついた大きな金棒を持った鬼が背後から追いかけてくる。

人がすれちがえるかどうかという細い道を走って逃げる。

道の脇には煮えたぎった血の池。



逃げた先には扉があるが、扉の前には多くの亡者たちが立ち並んでいるので通れない。

ぐんぐん背後にせまってくる鬼。

もうだめだと思った瞬間、目の前に突如として階段が現れる。



あわてて階段をかけあがる。

息が苦しい。ぜえぜえ言いながら階段を走ってのぼる。

もう限界に近いが、この階段の先には安全な場所がある。そこへは鬼はやってこない。

やっとのことで階段をのぼりきった。

安全な場所へと駆けこもうとするが、そこにも亡者たちが立ちふさがっていて通れない

あなたはついに鬼に追いつかれてしまい、身を引き裂かれる苦しみを味わうことになる……。




これが、駅の階段のすぐ先やドアの前など、人通りの多いところで立ち止まる人が落ちると言われている
大叫喚混雑地獄」です。