2017年4月5日水曜日

「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」が教えてくれること

学校の国語の授業で「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」ってあったけど、そんなの作者本人じゃないんだからわかるわけないじゃない!

どうせ「締切早く終わらせなきゃ」とかでしょ!


……ってな批判をよく目にするよね。

言ってる本人は鋭い批判してるつもりなのかね。

たぶん何十年間も、何万人もの人が言ってると思うけど。

締切に追われる作者


それはそうと ぼくは「作者の気持ちを答えなさい」はいい設問だと思う。
「正解のない設問」に対して頭を使うのは、とても大事なことだ。

「作者の気持ちなんてわかるわけないじゃない!」と言って思考停止してしまう人間にならないためにも、こういう問いに対して頭を使う訓練を学校でやったらいい。



もちろん 作者の気持ちなんてわかるわけがない。
でもぼくらは想像することができる。
正解を出すことはできなくても、論理的に思考を組み立てて、他者を納得させるだけの解を導きだすことはできる。

「私は、作者は〇〇と言いたかったのではないかと思います。なぜならば、□行目に~という記述があるからであり、△行目の……という描写もそれを裏付けているように思います。またこの結論は直前で書いている××という記述とも矛盾しません」
という推論を述べ、それを明確に否定するだけの根拠を他者が文章中から見つけだすことができなければ、その解答は「とりあえず誤りとはいえない」ということになる。

ふつう、ぼくたちが生きる社会において信用されるのは、
この「とりあえず誤りとはいえない」解を導きだす作業ができる人であって、
他者の推論に対して「そんなの100%正しいとはかぎらないだろ! ぜったいに正しいっていう証拠を見せろよ!」とまくしたてる人ではない。



だから 「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」は、論理的な思考力を養ううえでとても優れた設問だとぼくは思う。

さらにみんなにアンケートをとり、「クラスの60%はAだと思い、20%はBだと思った。Cだと思ったのは1人だけだった」と結果を出せば、もっと多くのことを学べる。

「自分の考えは多数派に属しているものなのか、独創的なものなのか」を知ることはとても大事なことだ。どっちがいいとか悪いとかではないけど、知るだけは知っておいたほうがいい。

「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」のトレーニングは、相手をやりこめることを目的にしたディベートよりも、ずっとずっと学問やビジネスの役に立つと思うよ。

ディベート


それにさ。 妻から「なんであたしが怒ってるかわかる?」って聞かれたときに、「そんなの本人じゃないんだからわかるわけないじゃない!」って言って逃げるわけにはいかないんだよ、夫という弱い立場にあるものとして……。

正解はわからなくても、とりあえず今持っている手がかりを材料にして推論を組み立てて、いくつもの「これだけは言っちゃいけない」言葉を慎重に避けて、「とりあえず誤りとはいえない」答えを導きださなきゃいけないんだよ……。




【読書感想文】 つのがい 『#こんなブラック・ジャックはイヤだ』

つのがい 『#こんなブラック・ジャックはイヤだ』

内容紹介(Amazonより)
手塚先生ごめんなさい!禁断のB.Jギャグ
原作崩壊!?ゆとりのB.J、良い子なキリコ、パリピなロック達にピノコのツッコミが炸裂する!彗星の如く現れた新人イタコ漫画家、つのがいが天才的画力で描いた神をも恐れぬブラック・ジャックパロディ、ついに単行本化!しかも手塚プロダクション公認!!著者のSNSに公開された作品だけでなく、この本でしか読むことができない合計40ページを超える描き下ろし漫画(B.Jレシピや学園モノや手塚治虫タッチに目覚めるまでのエッセイコミックなどなど)も収録。そして巻末には、マジメに描いた美麗カラーイラストギャラリーのオマケもあります。

10年以上前に田中圭一の『神罰』を見たときは、「すげー! 手塚治虫の絵をここまでコピーできるなんて!」と驚いたけど(内容はヒドかったが。いい意味で)、それを上回るレベルの手塚治虫コピー漫画が出た。
いや、これぞ完コピ。
絵柄が似ているのはもちろん、コマ割り、手書き文字、テンポ、キャラの動きまでぜんぶ本物そっくり(特にピッチングフォームの酷似っぷりに驚愕した。そうそう、手塚キャラってリリースポイントが早いんだよね)。

さらに後書き漫画を読んで驚いたんだけど、絵を描きはじめて1年ぐらいでこの精度にまで達したんだとか。信じられない。

内容はというと、ブラック・ジャック、ピノコ、キリコ、その妹、間久部緑郎(ロック)らが織りなすドタバタギャグ。
正直、ギャグだけ見ると水準が高いわけじゃないけど、手塚治虫の絵そのものだから何をやってもパロディとして成立していておもしろい。意味わかんないネタも多いんだけどね。

Amazonサンプル画像より

ぼくは、母が手塚治虫ファンだったので物心ついたときから『ブラック・ジャック』『火の鳥』『三つ目がとおる』『鉄腕アトム』『ドン・ドラキュラ』『ブッダ』なんかが手の届くところにあった(今思うとよく小学生に『奇子』や『きりひと讃歌』なんかを読ませていたものだと思う)ので、手塚作品の間や呼吸というものは体に染みついている。
そんなぼくから見ても、この漫画は手塚治虫作品だ。「っぽい」のではなく「そのもの」なんじゃないかと錯覚してしまうぐらい。

手塚治虫のトリビュート作品もいくつか読んだことがあるけれど、結局、手塚作品を題材にしているだけで、主張はその漫画家のものだった(まあトリビュートってそういうもんだからね)。
だけど、つのがい作品はその逆で、「つのがい氏のギャグ漫画を借りて手塚作品が主張している」ように感じる。まるで「イタコの口を借りて霊が語っている」ような憑依っぷりだ。

この本に収録されているギャグでない作品『おるすばんピノコ』なんて、もうほんと「手塚治虫の未発表原稿が出てきた!」といって発表したらファンでもみんな騙されるんじゃないかってぐらいの作品。手塚先生の息遣いを感じるようで(いや本物の息遣いも知らんけど)、ちょっと泣きそうになった。
ギャグだけじゃなくて『ルードウィヒ・B』とか『グリンゴ』とかの未完作品の続きも描いてくれないかなあ。


ひょっとしてつのがい氏の正体は七色いんこで、手塚治虫の代役をしているのでは……?



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2017年4月3日月曜日

【作家について語るんだぜ】 近藤 唯之


よく読んだ作家について語ってみるという企画をやってみようと思う。

題して【作家について語るんだぜ】。

で、記念すべき第1回目にとりあげるのは 近藤唯之 



誰それ、知らねーという声が聞こえてきそう。

一応作家ではありますが、小説家ではないからね。スポーツライター。
なぜ作家について語る企画の第1回がスポーツライターなのか。それは「昔どんなの読んでたっけ」って思ったときにぱっと出てきた手頃な人だったから。
手頃というのは、よく読んでいたけど今は思い入れが強くないから書きやすそう、と思ったということ。大好きな作家について書くと、どうしても書きづらいからね。



さて近藤唯之についてですが。
スポーツライターというか、プロ野球ライター。
スポーツ記者として報知新聞から東京新聞、さらに夕刊フジへと渡り歩き、記者をやりながら野球の著作を次々に出した。

Wikipediaの近藤唯之の項には62冊の著作が並んでいるが、そのうちタイトルに『プロ野球』という文字が入っているのが34冊。タイトルだけですよ。
タイトルに入っていない著作も『王貞治物語』『白球は見た』『背番号の運命』『運命を変えた一球』『ダグアウトの指揮官たち』とか、とにかくプロ野球の本ばかり書いていた。
プロ野球選手以上にプロ野球で飯食っていたんじゃないか。

ぼくは小学校3年生ぐらいからプロ野球を観るようなり、甲子園球場や(今は名称なき)グリーンスタジアム神戸にもときどき足を運んでいた。
そのころ出会ったのが、近藤唯之の文庫本。
野球と読書が好きだった少年からするとすごくおもしろくて、1985~95年くらいに出版された文庫本は全部持っていたんじゃないかなあ。



なんかね、すごくおっさんくさいんだよね。
内容も古めの話が多くて、当時現役だった落合とか清原とかの話もあったけど、それより古い話が多かった。この人が記者をやっていたのは1950~70年くらいだから、その時代のプロ野球の話が中心。三原脩とか榎本喜八とか大杉勝男とか上田利治とか。ぼくにしたら、自分が生まれるよりずっと前の話なんだけど。

でもこの人の本がおっさんくさかったのは、古い時代の話を書いていたからだけじゃない。

とにかく文章が浪花節。
なにかあるとすぐに「男の人生」とか「男の涙」とか「悔しさをぐっとこらえた」とかのど根性フレーズが出てくる。
ただのスポーツのはずなのに、近藤唯之の手にかかるとこれは巌流島の戦いかというぐらいに一世一代の大勝負になってしまう(もちろん真剣にやってるわけだけど)。

これはもうスポーツノンフィクションではなく、活劇小説といっていいぐらい。
じっさい、資料にあたらずに記憶に頼って書いていた部分も多いらしく、まちがった情報も多い。でもそんなことは大した問題じゃない。小説なんだから!



この人は多筆で、1年に2冊くらいのハイペースで本を出していた(しかも新聞社の仕事もしながら)。
当然ネタの使いまわしも増えるわけで、宇野が星野に「またぶつけちゃいました――」と言った話とか大下弘の「月に向かって打て」なんか、何度読んだことか。
しかも記憶にもとづいて書いているわけだから、書くたびにエピソードの細部が微妙に変わっていってる。このへんは野村克也の本も同じことが起こっているらしく、スポーツについてたくさん本を書くと、どうしても「少しずつ内容を変えて伝わる」口承文学現象が起こるのは避けられないようだ。



プロ野球を題材にしているけど、サラリーマン小説といっていいかもしれない(スポーツの本なのに、PHP研究所から多く本を出していたし)。
特にこの人は(当時はそれほど多くなかった)転職を二度も経験したことから、トレードについてはいろいろと思い入れがあるらしく、「トレードの悲哀」みたいなことをよく書いていた。
今のようにFA宣言をして選手が自由に球団を選べる時代じゃなかったので(日本プロ野球でFA制度が導入されたのは1993年から)、昔のトレードは「新天地で活躍」というより「島流し」みたいな雰囲気が強かった。「望まれて行く」というより「必要なくなって追い出される」という感じ。
特に落合博満がロッテから中日に移籍したときなんか "1対4" という破格のトレードだったから、「4人のうちの1人」にされた選手の心中はつらかっただろうなあ。

そういう話を浪花節で語るもんだから、読者の気分はもう『プロジェクトX』(ぼくが読んでいた頃は『プロジェクトX』の放送開始前だけど)。
「男は、思った。古巣を見返してやる、と――」なんてナレーションが聞こえてきそう。

サラリーマンになった今読み返したら泣いちゃうかもしれないなあ。
全部処分してしまって手元にないんだけど、また買いなおしてみようかな……。


2017年3月28日火曜日

やっぱりデモより広告のほうが効率いい

自腹を切ってデモの不毛さを検証してみた

という記事を少し前に書いた。

  • デモって非効率でしょ?
  • WEB広告を使えば同じ労力と費用でもっと効果挙げられるんじゃない?
  • じっさいに広告費使って配信してみたら、2,000円で数百人に記事を読んでもらえたよ
  • 「考え方を知ってもらって共感者を増やす」という目的のためにはデモは効果薄いでしょ

って内容。

その記事も、1,000円使ってTwitterで広告配信してみた。


広告で配信された回数が5,773回、広告以外で見られた回数が2,531回。
ぼくの不人気Twitterの投稿はふだんは200~300インプレッションぐらいなので、広告によってだいぶ接触が増えたことがわかりますね。

配信した結果、賛同・批判それぞれ意見をいただいた。
けっこう拡散もしてもらえた。

おもしろかったのは、ぼくはデモをやる人を応援するつもりで「もっといい方法があるよ!」という記事を書いたんだけど、彼らからはぜんぜん支持されなかったこと。
「デモに参加してきました!」というツイートを書いている人からは批判されて、政治的なツイートをほとんどしない人からは「そのとおり! デモを見ても嫌いになるだけだからやめればいいのに!」という意見をもらった。
あと、なぜか反対の立場の人(つまり政権擁護派)からもけっこう支持された。タイトルだけ読んで「デモ反対ってことはこいつは政権支持者だな」と思われたのかな。


「政治闘争は極右でも極左でもない中道の人をどれだけ味方につけるかで決まるのに、デモは中道に訴えかける手段としては適切でない」
と考えてたんだけど、やっぱりそのとおりの結果になったなーという感想。
やっぱり政治に関心の薄い人にはデモは響かないんじゃないかな。

とはいえ、これまでがんばってきたデモを「それ効果薄いんじゃね?」って言われたら自分を否定されたようで腹立つのは当然だろうから、その点は反省点。
「デモに関するツイートをしている人」を対象に広告配信したんだけど、むしろ「デモや政治に関心のない人」をターゲットにしたほうがよかったかもしれない。

人間誰しも自分がやってきたやり方を改めるのはむずかしいので、今デモをがんばっている人に「やり方を変えろ」と言うつもりはない(言ってもムダだろうしね)
でも、これからデモに参加しようかなーとか、自分もデモを主催してみようかなーとか考えてる人には、「もっといいやり方があるのでは?」と考えてほしいですね。

個人が情報発信できる手段がなかった100年前と同じやり方に固執する必要はないよ。



こんなご意見がありました。


いただいたご意見の紹介と、それに対するぼくの見解。
たくさんのご意見をいただきました。

「デモをやってマスコミを動かせば多くの読者に届くよ」
→ たしかにいくらかはマスコミを動かせるだろうけど、かけた労力と費用に対して、効果が薄いよね……。
1万人のデモが、1人の「保育園落ちた日本死ね」に負けてる現実を考えると、メディアを動かすより自分がメディアになるほうがいいんじゃないかと思う。
小さなメディアがたくさん動けば、マスメディアも動かざるをえないだろうから。


「デモのほうが多くの人に知ってもらえる」
→ それはそうかもしれない。でも、知ってもらえたとしても必ずしもプラスにはたらくとはかぎらないよね。
自宅や会社の前でデモの声が大音量で聞こえてきたときに、賛同して仲間になってくれる人より「うっせえな」って反感持つ人のほうが多いんじゃない?
ま、広告もうっとうしいからそこはどっこいどっこいかもしれないw


「デモはゼロコストだからデモのほうがいい!」
→ どういう計算をしたらゼロになるんだろう。仮に道具を一切使わずに徒歩でデモ会場まで行ったとしても、確実に時間は消費するわけだから機会損失は発生する。
まあ賃金労働のできない子どもなら、デモのコストはゼロと言えるのかな。


「デモを使って金儲けするな!」
→ これはまったくの検討外れ。ぼくは儲けてないどころか損してる。3,000円くらい使っただけ。ブログにAdsense貼ってるから一応収益はあったけど、50円くらい。金儲けできたらいいけど、その仕組みはぼくには思いつかないなー。
まあ損してるっていっても、デモに参加することに比べればぜんぜん大したことないけどね。
「ぼくだったらもっとうまく運用する」って書いたのが、「そんなこと言って自分の懐を肥やす気だろ」と思われたのかな。書かないほうがよかったね。
万が一ぼくに運用の依頼があったなら、思想的に100%共感できるところだったらタダでもやるし、共感できないところならナンボ積まれてもやらん、と言いたいところだけど、まあ額によるかな……。


「個人が広告なんかやったって誰も読まないよ」
→ これは大間違いで、この批判をしてきた人がまさに、広告を介してぼくのブログにやってきた人だった。広告の影響を受ける人は自分でもそうと気づかないことが大半だということを、彼は皮肉にも自ら証明してしまった。
ちなみにぼくのブログのアクセス数は以下の通り。
(Google Analyticsより)
3/26が広告配信した日(広告費1,000円分)。
1,000円でこの結果。
業界のことを知らない人が思っている以上に、人は広告を見て行動するのです。


「○○さんが書けば、広告なんか打たなくてももっと多くの人に読んでもらえる」
→ これはまったくそのとおり。すでに十分影響力を持ってる人にとっては、広告配信をするメリットは比較的小さい。でもぼくのような影響力を持たない人間にとっては、金さえ出せば有名人と同じ影響を与えられる広告という手段は大きな意味を持つ。
それに、自然な流入と広告では流入の質がまったく異なるんだよね。
たとえばTwitterのフォロワー数の多い人が何かつぶやけば多くのフォロワーにリーチできる。でもそのほとんどは、もともと彼の思想に賛同している人だ。言ってみれば身内。「やや賛成」「どちらかというと反対」「そもそも無関心」の人にはアプローチできない。だが重要なのはむしろその層だ。
上のグラフの新規セッション率を見ればわかるように、ぼくが広告によってリーチできたのは、90%以上が「これまでぼくのブログを読んだことのない層」。これは非常に重要なことだ。
「大賛成」の人と「大反対」の人は何をやってもまず変えられないから、票取りゲームにおいては放っておいてもいい。世の中を変えるために必要なのは、その中間の人。アメリカの大統領選を見ても、大事なのは「民主党支持」と「共産党支持」の間で揺れている州でしょ?
政治の戦いというのは、囲碁でいうところの「生き死にが確定していない石」をどれだけとるかが重要になる。
仲間内に向けて書いて、身内が「いいね!」をしても、「生き死にが確定していない石」はとるのにはあまり役に立たないと思う。


「WEB広告ではインターネットを見ない人にアプローチできない」
→ たしかにそうだね。インターネットにほとんどふれない人はまだまだ多い。
でもぼくの記事が政治家や記者の目に留まって、間接的にリーチできる可能性は十分にあると思わない?
ぼくは一例としてWEB広告を挙げただけで、デモより費用対効果の高い手段はほかにもいっぱいあるしね。
それにそんなことを言ったら、デモだって大きな駅前や国会議事堂前に行かない人には直接アプローチできないよ?


「素人が広告配信してもうまくいくはずない」
→ そうだろうね。だから知識のある人が一括してやってもいいし、やり方を教えてあげてもいい。効率を上げるためにはばらばらにやるより、数字にもとづいたルールを決めたほうがいい。今まで実践する人が多くなかったからルールを決めるのは容易じゃないだろうけど、難しいからってあきらめてしまうのはもったいなくない?


「みんなが記事を書いて広告配信できるわけじゃない」
→ そのとおり。だから全員がやる必要がない。
インターネット環境がない人、まとまった文章を書けない人、1,000円の広告費を出すぐらいなら半日つぶれるほうがいいという人はこれまでどおりデモをやればいい。
でも選択肢を多く持つことはマイナスにならないと思わない?


「クリックしまくってこいつに高額な料金の請求がくるようにしてやろう!みんなもクリックしてやれ!」
→ はっはっは。ぼくが使った広告はインプレッション課金(配信ごとに課金される方式)なのでクリック数は請求に関係ないんだよ。
ていうかリツイートは広告扱いにならない、って前回の記事の中で書いたんだけどなあ……。拡散してくれてありがとう! おかげでタダでフォロワーが増えたよ!


「とにかく団結することが大事だ! インターネットでは団結できない!」
→ 文化祭やっとけw
デモって参加したことないけど、参加したらいくばくかの達成感があってきっと楽しいんだろうね。
団結することやデモをすることが目的になっている人には何も言いません……。
60年代の大学闘争も、大部分はそういう人だったらしいね。



敵陣営の嫌がることをしよう


たとえば内閣を退陣に追い込みたいと思ったら、政権が嫌がることをすればいいわけでしょ?
ぼくが政権の人間だったら、「野党支持者がデモを組んで団結すること」なんかぜんぜん怖くない。そんなことしたって野党支持者はほとんど増えないから。
「ほんのちょっと風向きが変わって無党派層が『なんか今の政権おかしくない?』と思うようになること」のほうが圧倒的にイヤ。

そのために必要なのって、大声でシュプレヒコールを叫ぶことじゃなくて、過激なツイートでもない。
1960年代に大学闘争がさかんだったけど、火炎瓶投げてゲバ棒振り回してるやつ見て、彼の思想に共感すると思う?
今のデモとはぜんぜんちがうと言われるかもしれないけど、無関心層からしたら、徒党組んで路上で大声あげてるやつも同じように見えるよ。

必要なのは、何ヶ月も何年もかけて、少しずつ少しずつ、考えにふれてもらうことだと思う。
いくつかの2ちゃんねる系まとめサイトが思想的に偏っていることが問題視されている。ぼくも見たことあるけど、あれは吐き気がするぐらいひどい。だけど広告戦略的にはすごく賢い。いいところはちゃんと見習うべきだ。

THINK AGAIN !

デモをやってる人たちって、本気で勝とうとしているように思えない。
戦略がぜんぜん見えない。
徒党を組んでのデモは、表現の自由が失われて通信も制限されたときの最後の手段としてとっておけばいいんじゃないかな?


2017年3月26日日曜日

【読書感想文】 ハリイ・ケメルマン 『九マイルは遠すぎる』

ハリイ・ケメルマン 『九マイルは遠すぎる』

商品の説明(Amazonより)
アームチェア・ディテクティブ・ストーリーの定番。 ニッキィ・ウェルト教授は『九マイルは遠すぎる、まして雨の中ともあれば』と言う言葉を耳にし、この言葉を頼りに前日起きた殺人事件の真相を暴き出す!! 難事件を次々に解き明かしていく、教授の活躍を描く傑作短編集8編。

安楽椅子探偵とかアームチェア・ディテクティブとか呼ばれる推理小説の、古典的名作。
動き回って証拠を集める探偵じゃなくて、聞いた情報をもとに、頭の中だけで事件を解決しちゃうってやつ。

推理小説界では有名なジャンルだけど、意外と安楽椅子探偵ものの作品って少ないよね。
どうしても現実味がなくなるからかな?
現在主流の社会派ミステリとは相容れないんだろうね。

ミステリは好きだけど、アームチェア・ディティクティブものはあんまり読んだことがない。今思い出せるのは阿刀田高の『Aサイズ殺人事件』ぐらい。あれはすごくおもしろかったけど、あれもコメディ要素が強かったな。
あとは小説じゃないけど、古畑任三郎の『ニューヨークでの出来事』の回は完全にアームチェアだったね。そういや古畑には、逆に犯人が現場に一歩も足を踏み入れない『頭でっかちの殺人』なんてのもあったなあ(「アームチェア・マーダラー」と呼んでいた)。

現実味には欠けるけど、フィクションとして楽しむなら「現場に足を一歩も踏み入れずに推理してしまう名探偵」というのはすごく魅力的だよね。超天才って感じで。



さて、『九マイルは遠すぎる』について。


表題作は、「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、まして雨の中となるとなおさらだ」という一文だけから推理を広げて、やがて大きな事件を突き止めるというお話。
期待して読んだんだけど、がっかり。
推理に穴がありすぎる。他にも可能性がいっぱいあるじゃないか。それにその街のことを知らないと推理に参加できないし。推理小説としてぜんぜんフェアじゃないよ(九マイルっていわれてもどれぐらいの距離か日本人にはぴんとこないしね!)。
しかもラストがあまりにもうまくいきすぎていて、いくらなんでもそりゃないだろって突っ込まずにはいられない。

しかしアームチェア・ディティクティブものの先駆け作品ということを考慮に入れれば、こうした不備は許容すべきなのかもしれない。

この作品は、ニッキィ教授という探偵のキャラクターを紹介するイントロダクションのような短篇と思ったほうがいいかもしれないね。
というのは、それ以降の短篇はおもしろいものも多かったから。



脅迫状にわざとらしく指紋がべったりとついていたのはなぜなのか? (『わらの男』)

チェスの駒の配置から殺人事件を解き明かす(『エンド・プレイ』)

お湯を沸かしている音を聞いただけで盗難事件を推理する(『おしゃべり湯沸かし』)

など、推理の妙を存分に味わえる。
論理的推論の積みかさねで真実を明らかにしていくのは、パズルを解くような快感があるね。

こういう「頭の中でぜんぶ考えました」系の小説ってあんまり評価されない傾向があるんだけど(特に直木賞選考委員とかにね!)、でも小説のおもしろさってこういうところにこそあるのかもしれないなとも思う。
社会派の真実味のあるミステリって、迫力という点では結局ノンフィクションには勝てないわけじゃない。清水潔『殺人犯はそこにいる』より鬼気迫るフィクションある?

ノンフィクションも社会派ミステリも好きだけど、"小説家"として「すげえな」って思うのは、取材に基づかずに一から十まで脳内でストーリーを作り上げられる人のほう。

"推理"のおもしろさをめいっぱい味わえて、純度100%の"小説"だから、これぞまさに"推理小説"を代表する作品だね!



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