2016年7月28日木曜日

【エッセイ】褒めて伸ばす教育の功罪


3歳の娘と遊んでると、しょっちゅう痛い目に遭うんですよね。

ほら、こどもって手かげんも距離のとりかたも知らないから。

だから油断してると、すぐにみぞおちにパンチ入れられたり、飛び蹴りをくらったり、目つぶしをされたり、ジャーマン・スープレックスをくらわされたりするんですよね。最後のはウソですけど。


ものすごく痛いこともあるんだけど、向こうに悪気はないわけだし、こども相手に怒るのもおとなげないなと思って、ぐっとこらえるわけです。

でも、謝罪のできない子にはなってほしくないので、落ち着いたトーンで語りかけるようにしてたんです。
「お父ちゃんはすごく痛かったから、ごめんって言おうね」
って。

で、こどもがちゃんと「ごめんなさい」と言ったときは、 「わー、ちゃんとごめんなさいって言えたねー! えらいねー!」
と大げさなぐらい褒めてやるようにしてたんです。


ああこれぞ褒めて伸ばす教育だ。
見たか尾木ママ、ぼくは今、いい父親をしているぞとひとり悦に入っていたんです。

が。

子育てってうまくいかないものですね。

根気強く教えこんだおかげで、ぼくが痛がるととっさに「ごめん」と言える子になったんですよ。

でも、その後に必ず「ごめんって言えた!」とアピールしてくる子になったんです。

「ちゃんとごめんって言えたねー! えらいねー!」
と褒めすぎたんでしょうね……。


ぼくのあごに頭突きを決めた後、悶絶するぼくに向かって
「ごめーん。ごめんって言えた!」
と間髪を入れずにうれしそうに声をかけてくる娘。
3歳児とはいえ、そして我が子とはいえ、正直、イラっとします。


そして、我が子の将来が心配です。

政治家になったものの、公金の不適切な使い込みが明らかになって記者会見を開くことになったわが娘。

「心よりお詫び申し上げます……」
と深く頭を下げた後に、

「1、2、3……。ヨシっ、ちゃんと謝罪できた!」

と言わないかと、お父ちゃんは心配です。


2016年7月26日火曜日

【読書感想文】ロバート・A・ハインライン 『夏への扉』

ロバート・A・ハインライン 『夏への扉』

内容(「BOOK」データベースより)
ぼくの飼っている猫のピートは、冬になるときまって夏への扉を探しはじめる。家にあるいくつものドアのどれかひとつが、夏に通じていると固く信じているのだ。1970年12月3日、かくいうぼくも、夏への扉を探していた。最愛の恋人に裏切られ、生命から二番目に大切な発明までだましとられたぼくの心は、12月の空同様に凍てついていたのだ。そんな時、「冷凍睡眠保険」のネオンサインにひきよせられて…永遠の名作。

SF史に残る不朽の名作として語られる作品。
今さら読んでみましたが、いやあ美しい小説でした。

「美しい」といっても描写が巧みだとか純愛が描かれているとかではなく(猫に対する純愛は描かれているけど)、ストーリーに無駄も不足もない、疾走感を保ったまま最後まで一気に読ませてくれる小説だということです。
あまりにうまくいきすぎる、ご都合主義的なところもありますが。


SFとしては、今読むとちょっと物足りないところがあります。
『バック・トゥー・ザ・フューチャー』や『サマー・タイムマシン・ブルース』のようなよくできたタイムマシンものを知っている人間からすると、「え? もうひとひねりないの?」と思ってしまいます。

というのは、『夏への扉』があまりにいろんな作品に影響を与えすぎたからでしょう。
現代のタイムトラベルものは直接的にであれ間接的にであれほぼすべて『夏への扉』の影響を受けているといってもよいのではないでしょうか。


『夏への扉』が出版されたのが1957年なので、60年近くも前のこと。
この作品中で描かれる<未来>が、西暦2000年のことですしね。
しかし、ちっとも古びていません。
 逆に、よく言い当てているなと感心しました。
 たとえばこんな描写。

 しかし、最近そういったオフィスでは、製図工の見習いなど置かず、たいてい、一種の半自動的な製図機を用いて仕事の能率をあげていた。癪にさわる機械ができたものだと思ったが、その製図機の写真を見たとき、ぼくはなにかはっとした。この製図機なら、機会さえ与えられれば、二十分とかからずに、操作法をマスターしてみせるぞと思った。というのはほかでもない ─ ─ その製図機は、三十年前のある日、ぼくが考えついた製図機のアイデアに、じつによく似ていたからである。製図者が椅子にすわってキイを押すだけで、イーゼルの上の任意の箇所に、直線なり曲線なりを描き出すことができるところなど、まるで、ぼくのアイデアを模倣したとしか思えないほどなのだ。

 文化女中器は(もちろん、これはのちにぼくが改良を加え完成したセミ・ロボット型でなく、市販第一号時代のである)どんな床でも、二十四時間、人間の手をわずらわせずに掃除する能力を持っていた。そしておよそ世の中には、掃除しなくてよい床など、あるはずがないのだ。
 文化女中器は、一種の記憶装置の働きで、時に応じてあるいは掃き、あるいは拭き、あるいは真空掃除器とおなじように塵埃を吸収し、場合によっては磨くこともする。そして、空気銃のB・B弾以上の大きさのものがあれば、これを拾いあげて上部に備えつけた受け皿の中に置き、あとで、彼らよりいくらか頭のよい人間様に、捨ててよいかどうかを判断してもらうこともできるのだ。こうして、文化女中器は一日二十四時間、静かに汚れを求めて歩く。曲がり角であろうとどこだろうと、塵ひとつ見落とさず、すでにきれいになっている床は素通りして、一刻も休まず汚れた床を求めてまわるのだ。もし部屋に人がいる場合には、しつけの行き届いたメイドよろしく、主婦にスイッチをひねって、掃除してもいいよといわれないかぎりは、決して部屋に入ってこない。動力が切れるころになると、自動的に所定の置場へ出かけていって、動力をチャージする─ ─ ただしこれも、永久動力につけ替える以前のことである。

それぞれ、CADオペレーターやルンバに驚くほどよく似ていますよね。
1957年(まだ日本でカラーテレビの放送が始まる前ですよ!)に書かれたものとしては、ものすごく正確な予言だと思いませんか。

さらに感心するのは、作中に登場するこうした機械にハードウェア・ソフトウェアの概念が取り入れられていることです。
すべての部品を1台の機械に入れてしまうのではなく、マシン自体には最低限の機能だけ持たせておいて、部品を取り替えることで、バージョンアップも修理もかんたんになるという発想。


わくわくさせてくれるストーリーもさることながら、60年前の想像力がふんだんに表現されている細部の描写もおもしろい本です。

あと猫が活躍するという、めずらしい小説でもあります。
犬とちがって、猫ってあまり活躍するような生き物じゃありませんからねー。


2016年7月23日土曜日

【読書感想文】角田光代・穂村弘 『異性』

角田光代・穂村弘 『異性』

内容(「BOOK」データベースより)
好きだから許せる?それとも、好きだけど許せない?男と女は互いにひかれあいながら、どうしてわかりあえないのか。「恋愛カースト制度の呪縛」「主電源オフ系男女」「錯覚と致命傷」など、カクちゃん&ほむほむが、男と女についてとことん考えてみた、話題の恋愛考察エッセイ。

歌人・穂村弘と小説家・角田光代が、それぞれ男と女の立場から恋愛についてつづったエッセイ。
交互に連載していたらしいので、お互いの書いたものにコメントしつつ「いや私はこう思うよ」「ぼくはこう思うんだけどあなたはどう?」といったやりとりも見られる。

往復書簡のような形が新鮮。
この形式を考案したのは編集者かな。内容にもあってるし、すばらしい発明。
書いている人たちも楽しかったんじゃないかな。

学生時代に好きな女の子と交換日記のやりとりをしていたんだけど、そのときの愉しさを思い出した。


えー内容だけど、ぼくは穂村弘さんのエッセイが大好きなので穂村パートは楽しく読めた。でもふだんのエッセイより腰が引けているというか、マトモなことを書いているのが残念。
妄想が暴走して、読んでいる側がなんだそりゃもうついていけねえ、ってなるのが穂村弘さんのエッセイのおもしろさだ。
でもこの連載では、半分は角田さんに語りかけるように書いているので、あまりにとっぴなことは書かれていない。
女同士の会話って「意見」とか「思いつき」よりも「共感」のほうが重視されることが多いけど、まさにそんな会話を聞いてるみたい。
「あーあるある」って話に終始しているのがもったいなかったなあ。もっと勝手な”決めつけ”を読みたかった。

角田パートのほうは、うーん......。
ぼくが男性だからなのかもしれないけど、共感もできないし、かといって「この感情をそんなふうにとらえるのか!」っていうような切れ味もなく、穂村パートへの前振りになってしまっているような感じ。

角田「男ってこうだよね」
穂村「いや、それはそうじゃなくて、こうなんだよ」
角田「なるほど、そうだったのか!」
ってな流れが多かったなあ。

ぼくが穂村弘びいきになっているだけかもしれないけど。



いちばん大きくうなずいたのはこんな話(穂村パート)。

 思うに、恰好いいとかもてるとかには、主電源というかおおもとのスイッチみたいなものがあって、それが入ってない人間は、細かい努力をどんなに重ねても、どうにもならないんじゃないか。
 その証拠に、お洒落やマナーの本を書いたり教えたりいている人自信が特に恰好よいわけではない、ってことはよくある。その人たちは、確かに知識もセンスもあるんだろう。お金も時間もかけているんだろう。でも、そんなもの何にもなくたって、恰好いい人は遥かに恰好いい。もともと輝いている彼らは、何故自分が恰好いいのか、その理由を深く考えたこともなさそうだ。逆に云うと、だから、その種の本を書くことはできないだろう。
 高校生の私は、「恰好よくなるための本」を何冊も熟読した。でも、くすんだ存在感は変わらない。無駄無駄無駄。だって、主電源が落ちてるんだから。

そうそう!

これ、ずっと思ってた。
マナーにうるさい人ってなんか卑しいし、ファッションについてあれこれ語る人って微妙にかっこよくない(「すごく」じゃなくて「なんか」「微妙に」だめなんだよね)。

たぶん、王室に生まれ育った人ってマナーに無頓着だと思うんだよね。
その人にとってはそれが自然に身に付いているもので、意識するようなことではないから。

同じように、自然にかっこいい人(顔立ちがいいとかじゃなくて身のこなしが優雅だとか内面の魅力があふれているような人)は、お洒落についてあれこれ語らない。
うるさいのはむしろ、自分を実物以上に良く見せようと必死な″おしゃれ成金″の人たち。

ちょっと高級めのスーツ屋なんかに行くと、店員がみんな「なんか惜しい」。
いいスーツを着こなしているし髪型もキマっているのに、どうもかっこよくない。
素敵だな、と思えるような店員を見たことがない。
「ほら、ばっちりキマっているおれってかっこいいでしょ」ってな心持ちが透けて見えてしまう。

そうかあ、あの人たちはみんな″主電源″が落ちていたのかあ。

2016年7月21日木曜日

【エッセイ】レッサーパンダの悲哀


レッサーパンダは、かわいい。

これは異論の余地がない。

つぶらな瞳、平安貴族みたいなちょっと変な眉、寄り目なところ、ちょろりと出た舌、豊かな表情、ずんぐりむっくりした胴体、ぼてっとしたしっぽ、どこをとってもかわいい。

どんなへそまがりな人が見たって、かわいい。

しかも、体長は約50センチ、体重は3~4kg。
これはちょうど人間の赤ちゃんと同じくらいだ。
おまけによちよち歩きで歩く。

もう、人間にかわいがられるために神が創ったとしか思えない。



なのに。

なのに。


レッサーパンダは不遇の扱いを受けている。

かつて、日本では「パンダ」といえばレッサーパンダのことを指したらしい。
ところが、ジャイアントパンダがやってきて、そいつがすっかり人気者になったために、「パンダ=ジャイアントパンダ」になってしまった。
ぬいぐるみやキャラクターも、ジャイアントパンダのほうが圧倒的に多い。


それだけではない。

それまで「パンダ」だった動物は、大熊猫の登場により、「LESSER(小さいほう、劣ったほう)」という不名誉な冠称をつけられて呼ばれることになった。

彼の心中の悔しさたるやいかに。

せめて、「レッドパンダ」とかにしてやれよ……。



中学生のとき、同級生にスガくんがふたりいた。
一方のスガくんは体格が良くてけんかも強かった。
もうひとりのスガくんは、学年でいちばん背が低く、そのせいもあってみんなから低く見られていた。

みんな、背の低い大きいほうのスガくんのことを「小スガ」と呼んでいた。小さいほうのスガだからコスガなのだ。

じゃあ大きいほうは「大スガ」かというと、そんなことはない。
彼は単に「スガさん」と呼ばれていた。

今思うと、「小スガ」は残酷な呼び方だったと思う。
ごめんよ小スガ。



世界史で出てきた「小ピピン」。
新約聖書に出てくる「小ヤコブ」。

彼らも、かわいそうだ。
歴史に名を残すはたらきをしたのに、「小」がついているせいで、どうしても小物感が拭えない。

しかも彼らはべつに小さかったわけではないのだ。
近い時代に同名の人物が歴史に名を残していたため、区別するために後から生まれたほうが「小ピピン」「小ヤコブ」と呼ばれているのだ。

もっと他にあっただろう。
「新ピピン」とか「続ヤコブ」とかさあ。

彼らならきっと、レッサーパンダの悲哀を深く理解できるんだろうなあ。




2016年7月20日水曜日

【読書感想文】荻原 浩『オロロ畑でつかまえて』

荻原 浩『オロロ畑でつかまえて』

内容(「BOOK」データベースより)
人口わずか三百人。主な産物はカンピョウ、ヘラチョンペ、オロロ豆。超過疎化にあえぐ日本の秘境・大牛郡牛穴村が、村の起死回生を賭けて立ち上がった!ところが手を組んだ相手は倒産寸前のプロダクション、ユニバーサル広告社。この最弱タッグによる、やぶれかぶれの村おこし大作戦『牛穴村 新発売キャンペーン』が、今始まる―。第十回小説すばる新人賞受賞、ユーモア小説の傑作。

ぼくは、創作物を見て笑うことはあまりありません。
テレビやマンガでも「ふふっ」ぐらいの笑いが出たらいいほう。
文章ではせいぜいにやにやするぐらい。

それも、今までに笑わされた文章といえば、東海林さだおのエッセイとか、原田宗典のエッセイとか、土屋賢二のエッセイとか、穂村弘のエッセイとか、岸本佐知子のエッセイとか、要するにエッセイでしか笑ったことがありません。
今まで、いろんな小説を読んできましたが、小説で笑ったことってほぼありません。
子どもの頃に読んだ、北杜夫の『船乗りクプクプの冒険』くらいでしょうか。
特に「爆笑必至」みたいな煽り文句の書かれた小説がおもしろかったためしがありません。

笑いってアドリブ性に大きく依存していると思うんですが、小説だとそれがまったく期待できないからでしょうかね。
ユーモア小説とか言われるほど、作者の狙いが透けて見える分、笑えなくなってしまうんんでしょうね。


なので、内容紹介に「ユーモア小説の傑作」と書かれている『オロロ畑でつかまえて』も、(笑いに関しては)まったく期待せずに読みました。

案の定、笑いませんでした。
特に前半の、ド田舎ぐあいを大げさに描いて笑いをとりにいくところは、40年前の笑いのとりかたじゃないかと思ってうすら寒くなりました。

でも中盤からは、笑いに関してはどうでもよくなりました。
ストーリーがおもしろかったからです。

伏線を丁寧に回収して、登場人物それぞれのエピソードをしかるべきところに着地させる手法は見事です。
これがデビュー作だということで、荒っぽさも目立ちましたが(青年団の人々は最後まで誰が誰だかわからなかったぜ)、荻原浩の、ストーリーテラーとしての才能は十分に感じることができました。


この人は脚本家としての才能のほうがあるんじゃないかとふと思いました。
『オロロ畑でつかまえて』も、 映像化したほうが映えるんじゃないかなあ。