2016年3月12日土曜日

【エッセイ】我々は梅干しを許さない!

梅干しが憎い。

嫌い、という程度では収まらない。
ぼくは梅干しを憎んでいる。
殺しても殺したりないぐらいだ。

ぼくは味の濃い食べ物が嫌いだ。
だから当然、塩味と香りの強い梅干しも好きになれない。

でも、それだけでは嫌いにはなっても、蛇蝎のごとく憎んだりはしない。
梅干しの憎々しさは、厚かましいところにある。

ぼくは梅干しにかぎらず、漬物全般が好きではない。味が濃いからだ。
たくあんも、しば漬けも、おしんこも、どれも好きではない。
だが彼らとは距離を置いて、ほどほどの付き合いをやっていけている。
それは彼らが、ぼくの食生活に干渉してこないからだ。

定食を頼むと、たいてい漬物が小皿に乗って出てくる。
もちろんぼくは箸をつけない。
どうせ食べないことに決めているのだから、はじめからその存在を意識すらしない。

ぼくが漬物に見向きもしないのと同様、漬物もまたぼくのことを無視している。
「ほら、漬物も食べなよ」
「このままだとおかずがなくなってごはんが余っちゃうよ」
そんなことは口にも出さない。

お互いに不干渉を決めこんでいる。
いってみれば、大人の付き合いというやつだ。
暴力団もテロ組織も詐欺師もセレブ妻も好きじゃないけど、ぼくの生活にかかわってこないかぎりはどうでもいい。いちいち憎んだりはしない。

ところが梅干しはそうではない。
なんとかして関わってこようとする。

お弁当を買う。
するとヤツ(梅干し)は、ごはんの真ん中にどっかりと腰を下ろしている。
ほんとにど真ん中。
ごはんが占める長方形のスペースの、対角線が交わるところにヤツはいる。すなわち、重心。
申し訳なさそうに弁当箱の隅に身を潜めている他の漬物のつつましさとは大違いだ。

憎い。なぜこいつはこんな偉そうにしているのか。


ぼくが買ったのは “トンカツ御膳弁当(税込864円)” である。
誰がどうみたって、主役はトンカツ。助演女優はごはん、キャベツがトンカツとの友情出演で、脇を固めるベテラン俳優がひじきと煮物。
梅干しなど、役名もない通行人Aにすぎない。
それがなぜ、偉そうに真ん中に陣どっているのか。
口うるさいベテラン女優に
「ちょっとなにあの赤い子!? なんでど真ん中に座ってるのよ! 事務所どこよ!?」
と怒られればいいのに。
そしてお弁当界から干されればいいのに。もう干してあるけど。

しかしまあ、その件については目をつぶろう。
たしかに梅干しは、主役をはれるほどの華やかさはないが、キャリアだけは長い。
押しも押されもせぬ大物女優のごはんと、苦しい下積み時代を支えあってきたという功績もある。
年功報奨的な意味で、ごはんの真ん中に配置してやるのもしかたない(たいした役でもないベテラン俳優が、エンドロールで最後にクレジットされるようなものだ)。


ぼくが許せないのは、その後の振る舞いだ。
梅干しを食べたくないから、箸でつまんで弁当箱の外に追い出す。
すると、梅干しが座っていたごはんの上に、赤い染みができている……!

なぜ静かに退場しないのか。

梅干しの出番は、
「塩分によってごはんが傷むのを防ぐ」
「その赤さによって弁当に彩りをくわえる」
というところで終わっているのだ。
もう十分にその役割を果たしたのに、なぜおとなしく去ってくれないのだっ。

これが若手なら、まだ致し方ない。
たとえば新進気鋭の個性派俳優・パクチー。
彼はそのアクの強さゆえに好き嫌いの激しい俳優でもある。
多くは取り除かれる運命にあるが、退場した後もその強い香りによって存在を主張する。
これは決して褒められたことではないが、パクチーが日本でデビューしてからまだ日が浅いことを考えれば、気持ちはわからないでもない。
なんとかして爪痕を残さなければ、その他多くの野菜たちの中に埋没してしまう。
その焦りが、パクチーにかのような行動をとらせたのであろう。
実際、そのおかげで今ではパクチーは嫌いな食べ物の代名詞として名を馳せ、名悪役として確固たる地位を築きつつある。
これもひとつの戦略だ。

だが梅干しはそうではない。
長らく第一線でやってきて、もう十分評価されている。
もういいじゃないか、梅干しよ。

あなたが日の丸弁当となって貧しい日本人の食生活を支えた時代はとうに終わったのですよ。
老害として若い人から疎まれながら生きるのはつらいでしょう。
後進に道を譲り、自身は若い才能の引き立て役にまわることもベテランの大事な仕事ですよと、ぼくは梅干しと浜村淳に対して言ってやりたい。

2016年3月10日木曜日

【考察】本屋大賞を嫌いな理由 その2

「本屋さんが選ぶいちばん売りたい本」こと『本屋大賞』についてふたたび。


ぼくは何年間か本屋で働いていたけど、すっごい激務で、朝は6時に出勤していた(開店が10時くらいなので朝のんびりしていると思われがちだが、荷出しに時間がかかるので本屋の朝は早い)。

6時出勤で郊外店だったので電車ではまにあわず、車通勤を余儀なくされていた。

休みも少なく、勤務時間は長く、通勤は車だったので、本屋で働いていた期間はぼくの人生の中でもっとも本を読まなかった時代だった。
本屋を辞めて読書量は格段に増えた。

ぼくのまわりの店員もそんなんだったから、書店員が選ぶ本屋大賞なるものをぼくはまったく信用していない。

言っておくぞ!
本屋は本読めてないからな!

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
  
「本屋大賞 感想」で検索すると、いろんな書評がヒットして、かつそのほとんどにAmazonへのリンクが貼ってあるの、ほんとステキ。

本屋大賞候補作・受賞作は大手書店が独占しちゃうせいで本屋に行っても売り切ればっかりだから、これほんと助かる。

ほんと、本屋大賞って本屋にとって害毒です。


【関連記事】

元書店員が本屋大賞を嫌いな理由

2016年3月9日水曜日

元書店員が本屋大賞を嫌いな理由

「本屋さんが選ぶいちばん売りたい本」こと『本屋大賞』


性懲りもなくまだやってんのか本屋大賞。

本屋の店員だった立場からすると、そして紙の本を愛するものとしては、この賞は嫌いです。
早くなくなればいいと思います。

本来は多くの人に本屋を好きになってもらうために創設された賞であり、『博士の愛した数式』を掘り起こした功績はきわめて大きいものでした。
でもその意図が成功していた幸福な時代ははじめの1、2回だけで、今は本屋の復興(というより延命)のために生まれた本屋大賞が、本屋をつぶそうとしています。


もはや面白い本の発掘ではなく単なる作家の人気投票になっているという批判は、まったくもってそのとおりです(このへんの批判については海堂尊氏の2年前のブログ記事『読まずに当てよう、本屋大賞』がおもしろいので興味ある人はぜひ読まれたし)。


ですが本屋大賞が抱える問題はもっと根深く、出版制度にも関わります。

まず、基本的に本屋が本を仕入れるとき、返品フリーの条件で仕入れます。
1,000円の本を780円で仕入れ、売れたら220円の儲け、売れなくても返品すれば780円まるまる戻ってくる。これが本屋の基本ビジネスモデルです。

このシステムは功罪両方ありますが、その是非についてはここでは触れません。大事なのは『売れなくても仕入れ金がまるまる返ってくる』ということです(実際には入荷・返品作業にともなう人件費がかかるけど)。
いいかえれば、食品や衣料品にくらべて、本の場合は過剰発注のリスクが圧倒的に低いということです。


さて、本屋大賞は大賞発表の2ヶ月以上前に10作品がノミネートされます。
さっきも書いたように作家の人気投票と化しているので、ある程度目端の利く書店員なら本など読まなくても「これはノミネートされるな」ということは10作品中7作ぐらいはわかります。

ノミネートされたら(またはされそうなら)、本屋はノミネート作品を大量に確保します。大賞発表と同時に受賞作フェアをするためです。
大賞をとった作品は飛ぶように売れます。
大賞をとるのは10作中1作だけですが、返品フリーなので10作すべて大量に仕入れます。並べる場所がないので大賞発表までは倉庫に積みます。


本屋は返品をしても損をしませんが、出版社の懐は痛みます。
お金をかけて刷った本が大量に返ってきて、出版社の倉庫を圧迫し、おまけに本屋に返金しなければならないのですから。
だから出版社は、極力余計な増刷はしません。売れる分だけ刷るのが理想です。


本屋は売れる以上に仕入れる。
出版社は売れる分だけしか刷らない。


このひずみのしわ寄せがどこにいくかというと、小さな本屋です。
複数の本屋から同一の注文があった場合、大きな本屋(売り場の広さではなく権力がある大手チェーンのこと)に優先的に配本されるので、小さな本屋に人気作品はまわってきません。
本屋大賞ノミネート作品など、小さな本屋が注文しても99%無視されます。

百歩譲って、まだ大賞作品はよしとしましょう。
小さな本屋が売れなくても、大きな本屋が売るのですから。

でも、大賞に漏れた9作品はどうでしょうか。
大きな本屋の倉庫に2ヶ月以上も眠り、落選が決まると、一度も店頭に並ぶことなく返品されるのです。
その2ヶ月間、小さな本屋がいくら注文をしても入荷しなかったのに(そして落選が決まってから大量に入荷したりする)。


ここでもう一度考えてみましょう。
出版社は、客のニーズの分だけしか刷らない。
大きな本屋は、客のニーズ分以上に入荷して倉庫で眠らせる。
はい、その差分はどうなるでしょう?

そうです、倉庫で眠っていた分の本は、客のニーズがあったにもかかわらず買えなかった(小さな本屋が売りたくても売れなかった)ということになるわけです。



こういうことが続くと、一部の客は「また買いたい本が品切れで買えなかった。Amazonで買おうかな。電子書籍なら品切れもないし」と考えます。
一方出版社は「本屋が無駄に仕入れるから大量の返品が発生して損をする。電子書籍なら倉庫の場所もとらないし、返品も発生しないし、コスト0で増刷できる(おまけに取次や本屋の取り分がなくなって利益率が増える)」と考えます。

おやおや、読者と出版社の利害が一致してしまいました。

「本屋なんかないほうがお互いにとっていいよね!」

というわけで、本屋大賞こそが(そうでなくてもどうせ時間の問題だけど)本屋の衰退を加速させるのです。


というわけで紙の本と本屋を愛するものとしては、時代にそぐわない本屋大賞がなくなることを願うばかりであります。
少なくともノミネート制度はなくして!直木賞も!

2016年3月8日火曜日

【読書感想文】谷岡 一郎 『「社会調査」のウソ』

谷岡 一郎 『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ』

内容(「BOOK」データベースより)
世の中に蔓延している「社会調査」の過半数はゴミである。始末の悪いことに、このゴミは参考にされたり引用されることで、新たなゴミを生み出している。では、なぜこのようなゴミが作られるのか。それは、この国では社会調査についてのきちんとした方法論が認識されていないからだ。いい加減なデータが大手を振ってまかり通る日本―デタラメ社会を脱却するために、我々は今こそゴミを見分ける目を養い、ゴミを作らないための方法論を学ぶ必要がある。

著者はめんどくさい人だなあ、というのが第一の感想。あたりかまわず正論をふりかざす正義感に燃えた中学生みたいな人だから、身近にいる人は迷惑してるだろうなあ。ま、それはそれとして本の内容はおもしろい(困った人だからこそ、かもしれない)。

これは2000年発刊の本だが、今でもメディアが報じる社会調査の質は変わっていない。
統計や分析の仕方をまったく知らない。あるいは、知っていてわざと誤った解釈をする。

この本で紹介されている、新聞や研究機関にはびこるさまざまな「社会調査のウソ」の例をいくつか……。

◆データをもとに、誤った解釈を導きだす。
(例:「ジャンクフードを食べる頻度が多い子は非行に走りやすい」というデータから、ファストフードやスナック菓子は「キレやすくなる食事」だと決めつける。実際はおそらく、育児に無関心な親がジャンクフードを子どもに食べさせているだけで、そういう子が非行に走りやすいのは当然のことだ)


◆データがそもそも誤っている。
(例:選挙の1年後に「誰に投票しましたか」と訊ねると、当選した人に入れたと答える人が7割。ところが1年前の実際の得票率は、有権者数の3割程度。人はすぐ忘れるし、かんたんに嘘をつく)


◆結論ありきで調査をする
(「中学生の4割がナイフやエアガンを所持していた」という新聞記事。調べてみると、平日に繁華街で調査をしている。部活にも塾にも行かずに平日に繁華街にいる中学生を対象に調査しているわけだから、「今の中学生は怖い」という結論を出すために調査をしている)


◆ある方向に誘導するための質問の工夫をしている
(「自衛隊は必要だと思いますか」という質問の前段階として「自衛隊の平和活動は海外でも評価されていますが……」といった説明を混ぜる)


単なる無知、調査不足、意図的な嘘、嘘とはいえないまでも作為的なデータのとりかた……。
原因はさまざまだが、メディアの中には嘘が満ち満ちている。



これをもってして、
「報道機関は腐っている」
「これだからマスゴミは」
と断じるのはたやすい。

でも、「純真なおれたちを騙すなんて!」と憤るのは、大人と子どもの境のお年頃の中学生ならいざ知らず、いい大人としてはあまりにもお人好しすぎる。

人間が意図をもって企画、集計、発表をしている以上、何のバイアスもかからない中立公正な調査などというものは存在しない。

NHKだって研究機関だって省庁だって、自分のところが非難されるような調査結果が出たら、そっとふたをするか、せいぜい無難な形にデータを切り貼りしてから発表するかぐらいだろう。
それがまともな人間のやることだ。


イエス・キリストは言いました。
「今までに過ちを犯したことのないものだけが、この盗人の女に石を投げなさい」と。

データそのものの改竄は論外としても、ある情報から都合のいい解釈を導きだすことは、やってあたりまえだと思っておいたほうがいい。
今の日本のマスコミが堕落しているとは思わない。どの時代の、どの国のメディアだってやっているに決まっている。

恥ずべきは、歪んだ調査結果を出す研究機関ではなく、稚拙なデータ集計に騙される己なんじゃないだろうか。
歪められたデータから、本来あった姿を想像することのできない自らなんじゃないだろうか。

「情報操作を糾弾するのではなく、自分だけが騙されないようにする」
それがいちばんの得策。
賢い人はとっくに知っているかもしれませんが。

2016年3月7日月曜日

【エッセイ】男子における「かっこいい」の信憑性に関する考察

 気をつけて
振り込め詐欺と
「かわいい子」

もはや、こんな標語を県警がつくってもおかしくないぐらい、女が別の女を形容するのに使う「かわいい子だよ」は信用ならないということは定説になっている。

同じく、男子のいう「かっこいい」もまったく信用ならない。
でかいバイクとか、格闘技とか、B'zとか、男子のいう「かっこいい」は、よく見ると「ん? かっこいいの? 短パンじゃん」としか思えないことが多い(単なるB'zの悪口じゃないか)。

かくいうぼくも、若い頃はかっこよさをはきちがえてずいぶん無茶をしたもんだぜ。



8歳のときだった。
当時のぼくは、ごくごくふつうの男子小学生で、つまり学校では体育と休み時間と給食のことしか考えていなかった。

給食では、毎日必ず瓶に入った牛乳が出た。
主食がパンの日はもちろん、ごはんのときでも牛乳が出た(それでよく学校は『食育の重要性』とか語れるな)。

牛乳瓶には紙のふたがついており、その上に、きっとほこりがつくのを防ぐためだろう、薄紫色のビニールがかけられている。

 

どういういきさつかは覚えていないが、あるとき、同じ班の友人とぼくは、その薄紫ビニールを食べることができるかどうかという話になった。
友人は、これは食べ物じゃないから食べられないと言った。
ぼくは、いいや食べることができる、だからこれは食べ物と見なしていい、と言った。

ぼくは聡明な少年だったので、
「任意の対象が食べられないという主張に対する反証を示すためには、実際に食べてみせるのがいちばんである」という科学的実証主義に基づいた行動を起こした。

つまり、ビニールを食べた。
口に入れ、そのままごくんと飲みこんだ。

その後、口を開けて友人に口内を見せ、たしかに飲みこんだことを明らかにした。
決定的な例証を挙げることで、見事、論争に勝利したのである。
やったぜ科学の子。

ぼくの班は騒然となった。
すげえ!
ほんとにビニール食べたぞ!

騒ぎを聞きつけて、他の班の子らもぞくぞくと集まってきた。
ほんとかよ。
おれ見てなかったよ。
もう一回食べてみてくれよ。

もちろんぼくは引き受けた。

再現性・検証可能性があってこそ、はじめて科学と呼べるのだ。

友人からビニールをもらい、口に入れた。
慣れてきてコツをつかんだので、さっきよりもかんたんだ。
ごくり。

おおぉー!
男子の間から歓声が上がる。

今にして思えば、「おおぉー! ゴリラがうんこ投げたぞー!」ぐらいの珍奇な行動に対する歓声だったのだろうが、当時のぼくにはそれが称賛の声に聞こえた。

羨望の眼差しを感じる!
羨望の眼差ししか感じない!

「もう一個!」
「二個いっぺんはどうだ!?」

次から次へと差しだされる紫のビニール。

颯爽と大階段を降りてくるタカラジェンヌのエレガントさで、ファンから手渡される紫のビニールを受けとり、ひとつまたひとつとのどの奥に押しこんでゆく、ぼく。

ぼくは今、最高にかっこいい……!

みんな見てくれ!
男子も女子も!
ぼくは! 今! 誰も食べないビニールを!
食 べ て い る !!



誰も成しえないことを成しとげて、その場の全員の注目を一身に集める。
そんな経験、ぼくの人生において二度と訪れることはないだろう。

翌日腹痛で学校を休んだことさえのぞけば、まちがいなくあれはぼくの人生の中で最も光輝いていた瞬間だったと今になって思う。
(しかし今考えると、のどに詰まったらと思うと相当危険なチャレンジだった。はらいたくらいで済んでよかった)

そして、男子の考えられる「かっこいい」はまったく信用おけないということも、今になって思う。