2016年1月14日木曜日

あたらしい道徳の話 ~キャバクラ編~


ブランド品のバッグやアクセサリーを安く買いたいなら、年明けすぐと3月下旬が狙い目なんだそうだ。

クリスマスやホワイトデーに、男たちがキャバクラ嬢にブランド品を贈る

もらったキャバクラ嬢はすぐに古物商やネットオークションで売る

一気に中古市場に供給が増えるので値くずれを起こす

だから、クリスマスとホワイトデーの直後は未使用のブランド品を安く買えるのよ。
あたしはいっつもこの時期オークションで買うの。

と、友人の女性が教えてくれた。



この話を聞いて、ぼくは思った。

ほぼ見返りがないと知りながらプレゼントを贈る、男性の博愛の精神。

不要なものでも無駄にしたくないという、キャバクラ嬢の清貧の心。

少しでも安く買おうという、友人女性の倹約の気持ち。

この話には、日本人の美徳があふれている。
道徳の教科書に載せたいぐらいのお話だ。

2016年1月13日水曜日

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その4

2歳の娘が、なかなかおひるねをしてくれない。
そんなとき、ぼくは娘をだっこして墓地へと足を運ぶ。
都会の喧騒とは無縁の墓地の散歩は、幼児にとっても気持ちがよいのだろう。5分も歩いているとすぐに眠りに落ちてくれる。

その日もぼくは娘を抱いて、墓地を歩いていた。
おひるねしたくないとぐずっていた娘もやがて眠けに襲われ、すやすやと寝息をたてはじめた。
そこで異変に気づいた。

あれ。
寝息がもうひとつ聞こえる。

娘のすうすうという愛らしい寝息にかぶさるように、少し離れたところから、ぶおぅぶおぅという規則正しい音が聞こえてくる。

いた。
寝息の発信源は、墓の前で熟睡しているおっちゃんだった。

……墓の前で!?


ぼくの住んでいる地域では、外で寝ているおっちゃんは決して珍しくない。
彼らはホームレスとはちがう。
一応家はあるらしく、服はさほど汚くない(決してきれいでもないが)。ひげも伸びていないし、散髪もしている形跡がある。
昼間だけ公園でチューハイを飲んでいるか寝ているかしているから、きっと夜は家に帰っているのだろう。
そんな半野良のおっちゃんらが多い地域に住んでいるぼくでも、墓場を寝床にしているおっちゃんがいるとは思わなかった。


あまりにも豪快に眠っているので、ひょっとしたら墓に埋めわすれた死体なんじゃないかと思った(土葬かよ)。
しかしまちがいなく寝息は聞こえてくるし、よく見たら新聞紙を布団に、リュックを枕にして万全の体制で寝ている。

死体ではないにせよ、人間ではなく、夜は墓場で運動会をして、昼は寝床でぐうぐうぐう♪のタイプのおっちゃんなのかもしれない。

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【エッセイ】墓地散歩のすすめ その3


2016年1月12日火曜日

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その3

ぼくの行きつけの墓地には、殉職した警察官の墓コーナーがある。

ここは他の墓よりも見ごたえがある。
というのは、墓の側面に死因を書いてくれているのだ。
「君ハ昭和○○年○月○日ニ□□ノ路上ニテ暴漢ニ襲ワレ非業ノ死ヲ遂ゲル」
ってなぐあいに。
ぼくのように無関係の墓を見るのが好きな人に親切な設計だ。

警察官の殉職といっても、そのすべてがジーパン刑事のようにドラマチックなわけではない。
パトロール中に車にはねられて死んだとか、警らをしていて風邪をひき肺炎をこじらせて死んだとか、それって殉職にカウントするの?みたいな死因もある。
だが、華やかさ(といっていいのかわからないが)に欠ける死だからこそ、よりその文章が現実感をともなって胸を打つ。
映画や小説ではほとんど描かれることのない、交通事故や肺炎による警察官の殉死によって我々の暮らしは支えられているのだ。
この殉職墓コーナーは、警察のPRのためにももっと広く知られてもいいと思う。


ところで疑問が一点。
殉職した警察官にも、ほとんどの場合は家族がいたはずだ。家があれば、墓もあるだろう。
殉職した場合、そっちには入らないのだろうか?
それとも分骨して、殉職墓コーナーと家の墓と、半分ずつ入れるのだろうか。
だとすると魂の行方はどうなるのだろうか?
霊魂も半分に引き裂かれるのか?

ってな疑問を、知り合いの坊さんに訊いてみた。

「魂の居場所には現世的な場所なんか関係ないね。だから墓がふたつあったって、両方に魂は存在するのさ」
と坊さんは云った。
なるほど。
もっともらしい答えだ。

でも、ちょっと待ってくれ。
魂の居場所に現世の場所が関係ないんだったら、そもそも墓なんかいらなくない?


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【エッセイ】墓地散歩のすすめ その2

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その4


2016年1月11日月曜日

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その2


ぼくの行きつけの墓地はかなり古い墓地なので、最近の墓に混ざって、明治や大正時代の墓も並んでいる。
明治時代に墓ができたわけだから、その子どもどころか孫ですらもうこの世にいない可能性大だ。
墓石が削れたり傾いたりしているが、だからといって勝手に修復したり撤去したりできないのが墓管理の難しいところだ。
今にも隣の墓にもたれかかりそうな絶妙なバランスで、古い墓はたたずんでいる。

古い墓を見るのはおもしろい。
「俗名 桃太郎」なんて墓があったりする。


最近の親は子どもにひどい名前をつけるなんて云われているが、墓石に刻まれた名前を見ているかぎり、明治時代のほうがよっぽどひどい。
ステとかサルとかイシとかの明治の適当なネーミングに比べれば、“てぃあらちゃん”のセンスのほうがよっぽどマシに思えてくる。

昔の墓といえば、男尊女卑が墓にも露骨に表れている。
「○○家之墓」という立派な墓があって、その隣に「○○家之妻之墓」がある。女はべつの墓なのだ。
その墓もほんとに質素で、砂浜でやる棒倒し遊びぐらいの墓でしかない。
かわいそうになってくるが、よく考えるとこういう墓を作ろうと考える夫と同じ墓に入るよりかは、簡素でもべつの墓のほうが死後気楽かもしれない。

古い墓を見ているといろんな発見がある。
ワインと墓は古いほうがいい。

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【エッセイ】墓地散歩のすすめ その4


2016年1月10日日曜日

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その1

散歩には墓地がいい。
車も来なくて歩きやすいし、なにより人がいないのがいい。
墓地が繁盛するのは盆、お彼岸、年末年始だけなので、その時季を避ければはほとんど人と出くわさない。誰かいたとしても、墓地では誰もが寡黙になる。静かでいい。

ぼくがよく散歩するのは図書館の裏の墓地。
すぐ近くを高速道路が走っているのに、そこだけすっぽりと音が抜け落ちたように閑静。ここに比べると図書館が騒々しく感じるほどだ。

ただ近所にあるというだけで、ぼくとはまったく縁のない墓地だ。
知っている人の墓はひとつもない。それが落ち着く理由のひとつかもしれない。ここにはぼくのことを知っている人はひとりもいないし、おまけに全員死んでいる。
とても愉快だ。

墓地を散歩するというと、怖くないのとか、罰当たりな、とか云われる。
だが、すでに墓に入っているジョン・レノンも言っていたではないか。想像してごらん、と。

ぼくが死んで墓に入ったら、と考えてみる。
自分の子孫が墓参りに来るのは年に1回。
隣家の墓だって似たようなものだ。
お彼岸などの繁忙期をのぞけば墓地全体が閑散としている。
ああ。
ひまだ……。
なんせ死後の世界には試験も学校もないのだ。テレビもねえしラジオもねえ(いや「テレビはもう死んだ」とか言われているからひょっとしたら死後の世界にもテレビはあるのかもしれないけど、若いタレントはほとんどいない)。
誰か来ないかな。誰でもいいんだけどな。
赤の他人でもいい。
誰か通ったら、あいつの顔は38点、とかひまつぶしができるのに。

と思っているはずだ。まちがいなく。

という理由をつけて、死者たちのひまつぶしにつきあうためにぼくは墓地へと足を運ぶ。


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