2015年8月27日木曜日

閉店いたしました

 なぜだろう。
 お店のシャッターに貼られたお知らせを見ると泣きそうになるのは。

『喫茶シャンゼリゼは□□月□□日をもちまして閉店いたしました。長い間ご愛顧ありがとうございました』

 この手の貼り紙を見ると、つい足を止めて見入ってしまう。
「そっか……。閉店か……。
 ちくしょう、なんで店をたたむ前にぼくにひとこと相談してくれなかったんだよ!」
と叫ばずにはいられない。

 深夜1時。
 喫茶店シャンゼリゼの店主、山井伸彦(仮名)は部屋の灯りもつけずにじっと目を閉じていた。
 もう決めたことだ。今さらどうなるものでもない。わかってはいるが、身体が石にでもなったように動かない。
 しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。伸彦は痛む腰を押さえながら座布団から立ち上がった。
 たしかここにしまっておいたはず。階段下の物置部屋からすずりと筆を引っ張り出してきて、文机の上にならべた。
 ふうっと深い息をついた。墨を手に取りすずりに当てる。
 いつか絶対役に立つからと小学生のときに習わされていた書道。それがこんなときにやっと役に立つなんて。人生は皮肉なものだな、伸彦は苦笑した。
 なんと書こうかと墨を動かしながら考えた。
 未練がましいことは書きたくなかった。最後まで喫茶シャンゼリゼにはダンディーな店であってほしい。
 考えがまとまらないうちに自然と筆が動きだした。
「喫茶シャンゼリゼは閉店いたしました。長い間のご愛顧ありがとうございました」
 もっと気の利いたことを書きたかったが、結局ありきたりな文章になってしまった。だがそれが今の心情を過不足なく表しているように思えた。
 これをシャッターに貼ればすべてが終わる。二十数年積み上げたことも、こんな紙切れ一枚で終わってしまうんだな。
 思った瞬間、伸彦の目からは涙がとめどなく……。


 そんな光景が貼り紙の奥に透けて見える。
 伸彦(仮名)の苦悩や無念さが想像されて、途方もなく悲しくなる。
 実際、酔っ払って帰ったときには、閉店したパン屋の前で涙を流してしまったことまである。
 そのパン屋を利用したことは一度もないのに。

 これだけでもちょっとした異常者だが、だんだんエスカレートしてきて、最近では閉店のお知らせだけでなく、なんでもないお知らせを見ただけで涙腺が熱くなるようになった。
『お盆休みのため、八月十三日から十七日までは休業させていただきます』
の貼り紙を見ただけで
「そっか……。お盆休みか……。
 ちくしょう、なんでひとこと相談してくれなかったんだよ!」
と条件反射的に悲しみがこみあげてくる。

 ここまでいくとほとんどビョーキだ。自分でも気持ち悪いと思う。
 そのうち『全品2割引!』とか『アルバイト募集』の貼り紙を見ただけで涙を流すようになるかもしれない。
 
 べつにぼくは感受性豊かでも、情に厚いわけでもない。どちらかといえば冷たい人間だと思う。
 葬儀中の家にでている「忌中」の貼り紙を見てもなんとも思わない。
 ふーん、人間誰しも死ぬしねー、と思って5秒後にはもう忘れている。

 なぜお店の貼り紙だけが心に響くのだろうか。
 医者でも神でもないぼくが人の死をくい止めることはできないが、閉店や休業ならなんとかできたかもしれないと思うから、悔しいのだろうか。

 だが実際には財力も人脈もないぼくには、お店がシャッターをおろすことさえ止められない。
 なんて無力なんだろう。

 ぼくにできることはただひとつ。

 山井伸彦(仮名)のお盆休みが幸せなものになるよう、心から祈ること。
 ただそれだけだ。

2015年8月26日水曜日

【読書感想】森 晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』

「BOOK」データベースより

でたらめな地図に隠された意味、しゃべる壁に隔てられた青年、川に振りかけられた香水、現れた住職と失踪した研究者、頭蓋骨を探す 映画監督、楽器なしで奏でられる音楽…日常に潜む、幻想と現実が交差する瞬間。美学・芸術学を専門とする若き大学教授、通称「黒猫」と、彼の「付き人」を つとめる大学院生は、美学とエドガー・アラン・ポオの講義を通してその謎を解き明かしてゆく。第1回アガサ・クリスティー賞受賞作。

 知人が薦めるので買って読んでみた。「読んだら感想聞かせてね」と言われていたので、ぼくは今、すごく困っている。
 だってぜんぜんおもしろくないんだもの。

 ハヤカワだから一定品質は担保されてるミステリかと思ったら、ぜんぜん。謎の答えどころか謎そのものが作者の頭にあるだけで、ちっとも見えない。探偵が「真相はこうでっせ。どやすごいやろ」と言うんだけど、はあべつにそこはどうでもいいしな、それがわかったからなんなの、わからなくても誰も困らねえしな、という謎ばかりなのだ。
 レストランで飯食ってたら、呼んでもないシェフがしゃしゃりでてきて「実は材料は○○から取り寄せて、こんなに苦労して下味つけて……」と解説してくる感じというか。うっせえ聞いてねえよおまえの得意げな自慢聞いてたら飯がまずくなるから出てくんじゃねえよ、そもそもそこまでこだわってるわりにうまい飯でもねえよ、と言いたくなる。

 しかしぼくの好みに合わなかっただけで、これが駄作だというつもりはない。世の中にはシェフの自慢話を聞きたい人もいるのだ。ハーレクインとか、ちょいミステリ気取りのライトノベルとかが好きな人にはハマるんじゃないだろうか。
 実際、文章はうまいしね。思い出したかのように唐突に放りこんでくる過剰な言い回しが鼻につくだけで。

 おっと。いかんいかん。ついつい悪口になってしまう。
 今回ぼくに与えられた課題は「この本を薦めてくれた人に、嘘をつかずに、かといって相手の気を悪くさせることなく、いかに感想を伝えるか」である。

 ううむ。難しい。

「大学の教科書みたいだね。教授が書いた本で、学生たちに半分強制的に買わせるやつ」
ぐらいで、許してもらえないだろうか。

2015年8月25日火曜日

リアルインターネット

「インターネットと現実の区別がついていない若者の犯罪」
みたいな表現をニュースでよく耳にするけど、
ネットと現実との区別ってなんだよ、htmlもcssも現実にあるものなんだよ、もちろんそれを作った人間も使ってる人間も現実にいるんだよ、ネット上にあるものは全部現実なんだよ。
まさかすべて幻だと思ってるのか?

こういうこと言うやつのほうがよっぽど現実とネットの区別がついていないね。
インターネットは単なる通信手段であって、夢でも幻でもないんだよ。

「会話と現実の区別がついていない」
「手紙と現実の区別がついていない」
とかいう言い方をしてみれば、
「ネットと現実の区別」という表現がいかにばかまるだしかがわかるのにね。

2015年8月24日月曜日

洗う石油王


人と話すのが嫌いだ。

できることなら誰とも話したくない。
仕事中だって、隣の人ともチャットで話したい。
いわんや見ず知らずの人なんて。

とはいっても、仕事上、はじめて会う人と話さないといけないこともある。
イヤだけど、まだぼくの家の庭から油田が見つかって石油王になっていない以上、今のところ仕事をして稼がないといけない。

うちの会社では、お客さんが来ると受付の女性がお茶を出してくれる。
お客さんと話しおえると、ぼくはお茶の入っていたコップを持って給湯室へ向かう。コップを洗うためだ。
ほとんどの社員はコップを放置するので、ぼくのように洗いにいく人間はめずらしい。
受付の女性は「そんなことしなくていいですよ! わたしたちの仕事なんで」とか「洗ってくれるなんて優しいですね」とか言ってくれる。

ちがうんだ。
優しさから洗っているわけではない。
ましてや受付の女性によく思われたいという下心でもない(エロい目で彼女たちの尻を見つめることはあるけど)。

ただ洗いたいだけなんだ。
知らない人と話すとどっと疲れるから、食器洗いみたいに無心でできる作業をすることで、澱んだ精神を洗い流すのだ。

だからもしぼくの家の庭から石油が湧きだしたとしても、やはりぼくは仕入れに来た石油貿易会社の社員と話した後には、ひとり台所に行って黙々とコップを洗うことだろう。
油田つきの庭どころか、土地すら持ってないけど。

2015年8月23日日曜日

個性的な組織

いろんな組織に所属したことがあるけど、どこにいっても
「うちのサークルは個性派ぞろいだ」とか
「ここの業界は特別だから」とか
「この会社は変な人ばっかりだ」とか言う人がいる。

みんな自分のいる場所が特別だと思いたいのだ。

もし「うちは個性的だ」と言う人がひとりもいない組織があれば、それこそ真に個性的な組織にちがいない。