2019年6月26日水曜日

【読書感想文】会計を学ぶ前に読むべき本 / ルートポート『会計が動かす世界の歴史』

会計が動かす世界の歴史

なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか

ルートポート

内容(e-honより)
“お金”とは何か?私たちの財布に入っているお金には100円、1000円、10000円などの価値がつけられています。しかし、ただの金属、紙切れにすぎないものをなぜ高価だと信じているのでしょうか。貨幣や紙幣に込められた絶大な影響力―。その謎を解く手がかりは人類と会計の歴史のなかにあります。先人たちの歩みを「損得」という視点で紐解きながら「マネーの本質を知る旅」に出かけましょう。

おもしろい本だった。

この本を読んだからといって会計の実務的な知識は身につかない。賃借対照表も勘定項目も出てこない。
ただ、会計の基本となる考え方はわかる。なぜ複式簿記が生まれたのか、なぜ複式簿記でなければならないのか、もし簿記がなければどういったことが起こるのか。

ぼくは少しだけ簿記をかじったことがあるが、すぐに投げだしてしまった。理由のひとつが、「なぜ借方貸方に分けて書くのか」がちっとも理解できなかったこと。
先にこの本を読んでいたらもう少し会計に興味を感じられていたかも。



 私たち人類が記録を残すようになったのは、歴史や詩、哲学を記すためではありません。経済的な取引を残すために、私たちは記録のシステムと、そして文字を発明したのです。
 さらに注目すべきは、これがお金――金属製の硬貨――が発明されるよりも、ずっと以前のできごとだということです。
 貨幣としての硬貨が登場したのは、紀元前7世紀ごろのリディア(現・トルコ領)というのが西洋では定説になっています。しかし、それよりもはるかに古い時代から人々は「簿記」を使って取引をしていたわけです。
 お金よりも先に文字があり、文字よりも先に簿記があったのです。

漠然と、昔の人は物語や詩を残すために文字を発明したのだとおもっていた。
でもそんなわけないよね。

なぜなら物語や詩や哲学は、正確に伝える必要がないから。人から人に語り継がれるうちに不必要なものが削られ、おもしろいものがつぎたされ、少しずつ洗練されながら伝わってゆく。

でも商取引の記録はそういうわけにはいかない。「より良いもの」になってはいけない。
文字の最大の長所は、時代を超えて正確に記録できることにある。

「文字が商取引の記録のために生まれた」のは言われてみれば当然なんだけど、おもいいたらなかったなあ。



 一般的には「農耕の開始によって人類は豊かになった」というイメージがあります。約1万年前、貧しい狩猟採集生活を憂えた私たちの先祖は、素晴らしい創造性を発揮して、豊かな農耕定住生活を手に入れたのだ、と。
 しかし最近の研究では、まったく異なる姿が明かされつつあります。
 気候変動によって狩猟採集で得られる動植物が減り、さらに人口増加によって食糧難に陥ったために、仕方なく農耕を始めたというのです。
 実際、農耕の開始により人々の生活水準は落ち、死亡率は上昇しました。
 狩猟採集生活では木の実や肉類などをバランスよく食べられるのに対し、農耕定住生活では食事が穀物ばかりになり、栄養素がデンプン質に偏ります。また、定住生活では人口密度が高くなります。身体的な接触が増え、さらに排泄物などで土壌や水源が汚染されて、疫病が簡単に蔓延します。

死亡率だけでなく、狩猟採集生活のほうが農耕生活よりも時間的余裕の面でも恵まれていたと聞いたことがある。

今も南米奥地などでは狩猟採集生活をする部族があるが、彼らはあまり働かない(特に男は)。
たまに狩りに出るが、それも一日に数時間。あとは酒を飲んだり遊んだりして暮らしている。
原始的な生活をしている彼らこそが真の高等遊民なのかも。

一方農耕民族はそうはいかない。決まった時期に種子を撒き、水をやり除草をおこない、害虫を駆除し、実をつければ急いで収穫をおこなわなければならない。
天候に左右される要素も大きいし、「今日はだるいからその分明日がんばるわ」が許されない生活だ。

どっちが楽かというと圧倒的に狩猟採集民族だ。
でも狩猟採集生活は、より多くの土地を必要とする。多くの人間が狩猟採集をはじめたら、あっという間に肉も魚も木の実もなくなる。

人類は増えすぎた人口を養うために、自然の摂理に逆らう農耕をはじめた。

農業を「自然な営み」だとおもっている人がいるが、とんでもない。
農業こそがもっとも自然と対極にある人工的な営みだ。



会計の歴史をふりかえる本なので数百年前のヨーロッパの話が多いが、現代の日本に通ずる話も多い。
 ヨーロッパ諸国では近世以降、戦争の大規模化にともない戦費も増大しました。王の財産だけでは国家運営を賄いきれず、かといって借金にも限界があります。最終的には、国民から徴収した税金によって国家を運営せざるをえなくなりました。「租税国家」の誕生です。
 国民は税金を納める代わりに、議会を通じて税の使い道を監視させるように要求しました。現代では当たり前になった議会制政治や国民主権は、租税制度の発展にともない産声を上げたと言えます。
 イギリスでは17世紀の清教徒革命や名誉革命によって、この「納税者による監視」の習慣が根付いていました。一方、フランスは情報開示の面で大きく後れていました。このことが庶民の不満を制御できないレベルまで膨らませて、革命をもたらしてしまったのでしょう。
 このような歴史的経緯から言えば、納税と正確な情報開示はセットであるべきだと考えられます。
 もしも政府が積極的に情報の改竄や隠蔽を行うのなら、それは納税者の不信を招くだけでなく、徴税そのものに対する正当性を失わせます。私たちが税金を納めるのは、それが自国の繁栄という目的のために正しく使われると信じているからにほかなりません。国家に対する国民の信頼を維持するためには、公文書管理の徹底を避けては通れないでしょう。
生まれたときから「国民」として生きていると忘れそうになるけど、政府は一時的に権力を貸与されているだけで、主権は国民にある。

「徴税権」も政府が当然持っているものではなく、あくまで国民によって許されているだけの権利。「徴税してもいいよ。ただし公正にね」と、我々国民が政府に一時的な許可を与えてやっているにすぎない。

だから政府は徴税や税金を使う行為に対して、そのすべてをオープンにして正当性に関して国民の審判をあおがなければならない。
投資信託会社が運用実績を公表する責を負っているように。

だから書類を廃棄するとかデータの改竄をおこなうなんてのは正当性以前の問題だ。

投資信託会社を選べるように納税先(政府)も選べたらいいのになあ。
ぼくならぜったいに今の日本政府は選ばないな。

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2019年6月25日火曜日

もしかして好かれていたのか


夜中にのどの渇きをおぼえて目が覚めた。お茶を飲んでもう一度布団に入ったとき、気がついた。
「あっ、もしかして!?」

突然として、点と点がつながって線になった。

今にしておもう。
もしかして、好かれていたのか?



Tちゃんという女ともだちがいた。

大学生のとき、仲良くしていた友人だ。

お酒を飲んだり、いっしょにライブに行ったり。何度も遊んだ。
Tちゃんは酒癖が悪かったので、何度も介抱した。酔いつぶれたTちゃんをおぶってぼくの家まで連れてかえり、泊めてやったこともある(二人きりではない)。
逆にぼくがTちゃんの家で酒を飲んで酔いつぶれてしまったこともある。

Tちゃんは愛嬌のある子だったが決して美人ではなかった。
開けっぴろげの性格で、自分は処女だと公言していた。
少しも気取ったところがなく、話していると男ともだちといっしょにいるようでとても気安くつきあえる友人だった。

よく遊んでいたが、ぼくに彼女ができ、その後少ししてTちゃんも結婚した。
今では疎遠になっている。

そのTちゃんのことをふと思いだして
「あれ、もしかしてTちゃんはぼくのことを好きだったのか?」
と唐突におもったのだ。



バイトで忙しいはずなのに飲み会に誘うとほぼ必ず来てくれたこと。

酔っぱらうときまってぼくの腕にしがみついてきたこと。

家に遊びにきたとき、ぼくの母親と話すときに異常に緊張していたこと。

ぼくの恋愛相談に乗ってくれたあと、「どうせ犬犬は〇〇ちゃんのことが好きやもんな……」とつぶやいていたこと。

バレンタインデーにチョコレートをくれたTちゃんにふざけて「Tちゃんはオレのこと好きやもんなあ」と云ったら黙ってしまったこと。

彼女ができたと言ったら「寂しいけどしかたないことだとおもいます」と妙にかしこまったメールがきたこと。

それ以降、あまり誘いに乗ってくれなくなったこと。


当時はなんともおもわなかったことが、十数年たった今いっぺんに思いだされて、
「あっ、Tちゃんはぼくのことを好きだったのかも!」
とおもったのだ。


自慢じゃないが、ぼくは女性から好意を寄せられたことはほとんどない。
だからいろんなサインを見落としていたのかもしれない。

一度そうおもうと、あれもこれも、好かれていたという仮説を裏付ける根拠のようにおもえてくる。
逆に「なんで当時はTちゃんの好意に気づけなかったんだ?」とふしぎだ。
(Tちゃんに確認をとったわけではないのでまちがってるかもしれないけど)



漫画でよくあるシーン。

主人公のことを好きなヒロインが、おもわせぶりなことをいう。
「あたしじゃダメ……?」みたいな台詞。
それもう98%告白じゃん、みたいなこと。

なのに主人公は気づかない。
「おまえは大事な仲間のひとりだよ」
みたいなことを言ってしまう。

ヒロインは「もう、ほんとにニブいんだから!」なんていってふくれてしまう。
それでも主人公は「え? なにが?」と気づかない。


こういう展開を見るたび、ぼくはおもっていた。
嘘つけ―!
こんなかわいい子にあからさまに好意を寄せられて、気づかないわけないだろー!
なにすっとぼけてんだよ、ビンビンになってくるくせに!

と。


でも、案外ありうる話かもしれない。
自分が好意を寄せていない人からの好意は、ぜんぜん気がつかないものなのかもしれない。

好きな子に対しては、常に「もしかして自分のこと好きなんじゃ……」と考えながら生きている。
どんな些細な兆候も見逃すまいと注意を欠かさない。
こちらを見て笑った、たまたますれちがった、言葉を交わした、たったそれだけのことで「自分を好きだからにちがいない」とおもいこんでしまう。

すべてが「自分を好きにちがいない」という仮説を裏付ける傍証となる(まちがった推理なんだけど)。

でも、それ以外の人にはてんで関心を払わない。
『おしりたんてい』レベルのわかりやすすぎる手がかりですら見逃してしまう。マルチーズ署長のように。


ぼくは妻と付き合うとき、交際を申しこんだが「そういうふうに見られない」という理由でフラれた。
でも数ヶ月後に改めて申しいれたときにはオッケーをもらえた。

たぶん、一度好意を伝えたことで「恋愛対象」として見てもらえるようになったのだとおもう。

ぼく自身、高校時代に「〇〇ちゃん、おまえのこと好きみたいだよ」という不確かな情報を耳にして、それまでなんともおもっていなかった〇〇ちゃんをまんまと好きになってしまったことがある(結局うまくいかなかった)。

「好かれている」とおもうことは、恋愛の入口として大きなステップになる。



三十歳をすぎて、
「ちゃんと言語化しないとまず好意は伝わらない」
「好意を伝えてからが、好きになってもらえるかどうかの審査のはじまり」
ということにようやく気づいた。

たぶんモテる人はとっくに気づいてたことなんだろうけど。

ぼくはもう結婚して(今のところは)離婚・再婚の予定もないので今さら気づいたところでどうしようもないのだが、未来ある若者の役に立ってくれればというおもいで書き記す。


2019年6月24日月曜日

【読書感想文】時間感覚の不確かさと向き合う / ニコリ『平成クロスワード』

平成クロスワード

ニコリ

内容(e-honより)
平成元年から平成31年まで、それぞれの年にちなんだ言葉を満載したクロスワードパズルを1年につき1問ずつ収録しました。各年の出来事を詳しく解説したページもあります。遊んで、読んで、平成を改めて振り返りましょう。

ぼくはニコリのパズルが大好きだ。
ニコリといっても伝わらないかもしれない。パズルばかりつくっている出版社だ(他の事業もあったらごめんなさい)。

小学生のときに父親がニコリの数独の本を買ってきて、すっかりはまった。
それから「数独」や「ぬりかべ」「スリザーリンク」の本を買いこみ、いろんなパズルが載った雑誌(その名も『ニコリ』)があるのを知ると買い求めた。
『ニコリ』は近所では買えず、わざわざ電車に乗って大きなおもちゃ屋さんに買いにいっていた(当時『ニコリ』はふつうの書店に置いておらずおもちゃ屋で売っていたのだ)。

買いにいくのが面倒になると定期購読をした。
ぼくが買いはじめたころ『ニコリ』は季刊(年4回発行)だったのだが、やがて隔月刊になり、そして月刊ペースになり、そしてまた季刊に戻った。
いろいろ試行錯誤中の雑誌だということが伝わってきて、余計に愛着が湧いた。

ぼくは学生時代数学が得意だったが、それは『ニコリ』で論理的な考え方を身につけたからだと確信している。

受験を機に定期購読はやめてしまったが、その後も目についたときに買っている。
書店で働いていたときには、権力を私物化してニコリを入荷できるよう手回しした。



前置きが長くなったが、そんなパズル界の第一人者であるニコリ社から刊行された『平成クロスワード』。
クロスワードで平成の時代をふりかえるという、重厚なパズル本だ。

これはおもしろそうと早速購入して解いてみたのだが、期待通りのすばらしい本だった。

その年の出来事、流行ったこと、活躍した人などがパズルのカギになっている。


クロスワードも多く解いていると「またこれか」っておもうことが多いんだよね。
たとえば「小粒でもぴりりと辛い香辛料。この香りがする天然記念物もいる」とか。だいたい同じようなヒントになってくるんだよね。

でも平成クロスワードのカギは固有名詞が多い。
「事件の名前」とか「不祥事を起こした議員」とか「流行ったおもちゃ」とかがカギになるのはすごく新鮮。
ふだん使わない筋肉を使っているような心地よさがある。

それに、「あーあれなんだったけー。ここまで出てるのにー」という感覚+「だんだんヒントが増えてくるクロスワード」はすごく相性がいい。

「平成をふりかえる」系の本はたくさん出版されたけど、クロスワードでふりかえるってのはすごくいい試みだね。



クロスワードの後には年ごとに起こった事件や流行ったものなどが丁寧にまとめられていて、パズルとしてはもちろん読み物としてもおもしろかった。

いかに自分の中の時間感覚が不確かなだったかを実感した。
郵便番号が七桁になったのと『タイタニック』のヒットとプリウスの発売って同じ年だったんだ、とか。
ぼくの中ではプリウスっていまだに「新型ハイブリッドカー」の位置づけだったんだけど(車にぜんぜん興味ないので)、こうして見るとずいぶん古いなあ。


あと自分の老化、具体的には知的好奇心の衰えと記憶力の低下。
二十年前のノーベル賞受賞者はおぼえてるのに、ここ数年はぜんぜんわからない……。答えを見てもぜんぜんピンとこなかった……。



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ツイートまとめ 2017年04月


機械第一主義

必要十分条件

現像

引越支援

黒猫

誘発

電話作法

才能

自打球

異業種交流会

方舟

続編

鹿町

観光地図

2019年6月21日金曜日

次女がかわいい。


次女がかわいい。

生後八ヶ月。
よく笑う。かわいい。
ハイハイをする。かわいい。
つかまり立ちをする。かわいい。
立ち上がってしりもちをつく。かわいい。
失敗して後ろにひっくりかえる。かわいい。
手づかみで野菜を食べる。かわいい。
ぼくの髪の毛をつかむ。かわいい。
パチパチ手をたたく。かわいい。
腕も脚も太い。かわいい。
寝ている。かわいい。
起きた。かわいい。

何をしていてもかわいい。
長女のときはここまでかわいかっただろうか。いや、ここまでかわいいとはおもっていなかった。


誤解のないようにいっておくと、長女の器量が劣っているわけではない。
親としてはどちらも同じぐらいかわいい。

ただ長女が赤ちゃんのときは、こちらに「ひたすらかわいがる余裕」がなかった。

けがをしないように。
病気にならないように。
正常に発達しているか。
先天的な異常はないか。
他の子と比べてどうか。
この時期に親がやるべきことはなにか。
逆になにをしてはいけないのか。
今のうちに写真を撮っておかなければ。
どうすればかしこい子に育つのか。

いろんなことが心配で、手放しでかわいがるような心持ちではなかった。

二人目ともなるといろんなことがわかってきて、肩の力を抜いて子どもと向きあえるようになった。
ちょっとぐらいこけても平気、子どもなんて病気になるもの、たぶん正常に育ってるのだろう、まあ少々失敗してもなんとかなるさ。

そんな余裕が出てきたおかげで、かわいさをそのまま「かわいい」と受けとれる。
逆にいえば、長女のときにはいろんなかわいさを見過ごしていたんだとおもう。悪いことをした。


超一流の寿司を食っていても、「そろそろ終電が」とか「財布のお金たりてたっけ」とか「こんな食べ方してマナー違反じゃないか」とか心配していたらきっとうまくないだろう。
同じように、心配事が多いとかわいい子どももかわいいとはおもえない。


孫がかわいいのも同じ理屈だろう。
過去に子育てをした経験がある、多くの子どもを見てきた、自分が育てなくてもいい。
心配しなければいけないことが少ない分、かわいさもひとしおなのだとおもう。


次女がかわいいのは「ぼくがかわいがりかたを習得した」というのもある。

かわいがるのは誰でもできることじゃない。じつはけっこう技量がいる。

いきなり赤ちゃんにほおずりして「おーかわいいな~! おまえはなんでそんなにかわいいんだ~! このぷにぷにのほっぺ! このむちむちの腕! かわいすぎて食べちゃいたい! よし食べよう。かぷっ!」というのは、いい大人にとってはなかなかむずかしい。
はじめてだと、羞恥心がじゃまをしてうまくやれない。
周りに誰もいなくても、内なる自分が「おまえなにやってんだ」と冷や水をぶっかけてきたりする。

だが親として何年も生きていると、子どもの前でばかをやることにも慣れてくる。
恥も外聞もなく全力でほおずりして甘い声を出せるようになる(とはいえさすがに外ではやらないが)。
親ばかになるのもこれはこれでなかなか技量が必要なのだ。


ぼくが次女をかわいがるのは「長女に見せるため」でもある。
「赤ちゃんはこうやって愛情を注いでやるものなんだよ」
「おとうさんは子どものことをこんなに好きなんだよ」
と見せつけることによって、
「君も赤ちゃんのときにはこんなにかわいがられてたんだよ」
「君もおとうさんおかあさんに愛されてるんだよ」
と教えてやるのだ。

じっさいは長女のときはここまでやっていなかったんだけど。
でも「君のときも同じぐらいかわいがってた」という嘘の記憶を長女に植えつけるためにやっているのだ!

長女と次女